まだ暦の上では初夏になっていないのに、今日は日中から気温が夏を思わせるほど高かった。その名残が夜になっても続いている。
ベンチの左隅に牧が腰掛けた。自転車置き場に併設されたそれは小さなものではない。そんな隅に座らなくても……と、仙道は自分がどの程度の距離に座していいのか戸惑う。真ん中もおかしいかと、少し中心より左に腰掛けると、牧は更に端に寄った。警戒にもとれるその距離が悲しくて仙道の胸はきりと痛んだ。
置かれたままの自転車たちが月の光を冷たく反射している。濃い影と冷たい光が生ぬるい夜をやけに物寂しく感じさせる。そんな静かなだけの場所で仙道は牧が口を開くまで辛抱強く待った。
「……四年間保留とお前は言うけど、俺はそんなこと言ってない。四年後、もし同じ思いでいたなら伝えてくれたらいい。それまでに気が変わっていたなら、それはそれでいい。俺はお前を四年間縛る気で言ったんじゃない。四年間自由に過ごせという意味だ」
「なんすかそれ……。さっぱり牧さんの考えてることがわかんないすよ」
「……わからなくていい。お前は自由に四年間を」
バンッと大きな音が静かな空気を凶悪に乱す。しっかりした鉄製のベンチは凹みはしないまでもビリビリと振動で揺れる。仙道は掌でベンチの背もたれを叩きつけた格好のまま、首だけを左右に振った。
「わからなくていいじゃなくて、わからせたくないってハッキリ言ってよ……。あんたは結局、俺の気持ちなんてどうでもいいんだろ。濁した答えで時間をかせいで、一足先に大学卒業して俺の前からとんずらすればいいんだから。そうすれば時間が経ってる分、綺麗な青春の過ち的思い出の一つに紛れるもんな」
「どうしてっ」
思いがけず強い牧の声音に仙道は牧へと顔を向けた。色素の薄い琥珀色の瞳に悲しみとも苛立ちともとれる感情を乗せた視線を仙道に注いでくる。理解しがたい、けれど雄弁な瞳に仙道の怒気は削がれた。
「どうしてって……何がですか」
「どうしてお前は、そう俺が逃げるとばかり考えるんだ。同じ部活で逃げるもなにもないだろう。卒業したって、仮に俺が就職して別のとこへ移るとしても、その時はお前に連絡先は必ず教える。……お前がその頃は俺に興味がなくなってたって……教えるよ」
笑おうとしたのだろう牧の口元は少し歪んでしまっていて、ただただ痛々しい。悲しいのも苦しいのも自分の方なはずなのに。気を持たせるようなことを言いながら、これ以上訊いてくるなと壁を作られ。どうしたらいいのかと仙道は途方にくれた。
視線を先に外した牧は少し躊躇した後で、膝の上に組んだ指を数度組み換えしながら別の話しを唐突にはじめた。
「愛知県のとある小学校にバスケ好きなガキがいた。そいつは副キャプテンになった頃、転校してきた二歳年下のミニバスの後輩……Aという奴にやたらと懐かれて、個人的にバスケを教えてやるようになった。慕ってくる弟のように思っていたAを……好きになるのに時間はそうかからなかった。同性を好きになる自分に悩みもしたが、それ以上にAとつるむ楽しさに浮かれてた馬鹿ガキだった」
「それって、牧さんと俺のことを例えてるんすか?」
「違う。つまらん例え話だけど、まぁ……暇なら聞いてけ」
「……その子はAに告白したんですか?」
牧はゆるく頭を振った。
「その前にそいつは親の都合で転校。子供だから、新しい環境に気をとられているうちにAのことを思い出すことも減っていった」
これで終わりの話しではなさそうなので、仙道は曖昧に首を傾げて続きを促した。
「中学に入って最初の夏休み、そいつは親の用事に付き合わされて愛知に行った。そこで偶然会った昔のミニバスの奴と話をした。その時にふと『Aは今、キャプテンなんだろ』と聞いて……Aはバスケを辞めてたことを知ったんだ」
「別のスポーツの方が好きになったとか……」
そうじゃなさそうな話の流れに、あえて仙道はふってみた。思ったとおり牧は頭を小さく左右に振る。
「転校してた。親の都合じゃなく。……Aはいじめにあったそうだ、そいつが転校したのを機に。何かくだらないことがきっかけでミニバスの奴らから『副キャプテンにいいよって個人的に教えてもらってたずるいオカマ』的な事実無根の噂話を広められたらしい。それがあっという間にクラス中にまで広がって……無視され続けようだ」
深く溜息をついたあと、牧は背もたれに背を預けて目を閉じた。
「そいつは何とかしてAに連絡をつけようとした。でも皆、Aの行き先も知らなければ、いじめに加担していた負い目もあってか口を揃えて言うんだ。『お前が目をかけてやり過ぎてたのも悪かったんじゃねぇの? 今更お前に何か言われてもAも困るだろうし放っておけよ』って」
「いじめといて何だよその言い草」
「いや、実際ひいきと取られるほどだったんだろう。そうじゃなきゃ、いじめにまで発展しなかったはずだろうし」
「子供は残酷だからね……些細なことですぐだよ。可愛がってたせいでそうなったとは一概に言えないと思いますよ。言いたかないけど、Aにだって何か問題があったんじゃないかな」
「多少問題があろうがなかろうが、直接の原因となったのはそいつが猫可愛がりしてたことだろう。……それ以来、そいつは学生時代に恋はしないと誓ったんだ。同性にしか恋愛感情を抱けない自分をその頃にはもうわかってたから、余計にな。周囲から非難されるのが怖いのもある。それ以上に自分が好きになったせいで、好きな相手を不幸にするのだけは」
怖くて、もう嫌なんだよ……。
両手で顔を覆った隙間から漏れた最後の言葉は、くぐもって消え入りそうに小さかった。
「……その例え話はかなり無理があると思いますがね。まぁでも、頑張って俺とあんたに当てはめてみたとして。俺はそんないじめにあうような玉じゃないっすよ。あんまりしつこけりゃ返り討ちにするかもしれないけど。第一、大学生にもなってそんなバカやるようなのなんてそういないでしょ。それでも不安だったら周囲にバレないように上手くやればいいだけの話なんだし」
俺たちになぞらえて考える必要のある話しじゃないっすね、と牧の過去話であると気付いていながら、仙道はあえて『例え話』と強調し笑ってみせた。
「あ、でも。俺としてはその副キャプだった子が同性を恋愛対象にできるってとこは、すっごくオイシイと思いましたけどね」
軽く本音を混ぜてふざけてみせたが、牧からの反応はなかった。牧は膝の間に下ろした手を組んだままで深く項垂れたままだ。
「……そうやって問題にもならない話にこだわってみせるのは……本当は俺を遠ざけたいけど適当な理由もないから……だったりするの? そんな優しさなんてちっともありがたくなんてないすよ?」
軽く笑ったつもりの仙道の口元は僅かに歪んで苦しさが滲んでしまう。
「優しく断るつもりだとか、そんな器用なことを俺が出来るわけないだろ……」
牧はゆっくりと顔を上げると先ほどの仙道と同じように唇を震わせて無理に笑ってみせたが、また深く項垂れて顔を隠してしまった。
過去のことで必要以上に臆病になっていることや、社会人になるまで恋愛から遠ざかりたい気持ちは理解できた。確かに大学生といったって頭の悪い奴はとことん悪い。社会に出たってそうだろうけど、部活という枠がない分、かなり違うとは思う。
だからといって、同性というのはネックにならないと知った以上、このまま指をくわえて四年間も待ってなどいられない。俺はAとは違う人間だし、牧さんだって子供の頃と同じはずがない。言ったら傷つくと思うので言わないけれど、そんな過去のことで今のあんたと俺の時間を。それこそ両思いで過ごせるはずの時間を無駄に失うなんて無意味だ。同じ事を繰り返すようなあんたじゃないだろ。本気でそれだけが理由で俺を四年も待たすなんて、そっちの方が俺に失礼だとか思わないのかな。
しかし事を急いて勢いでもっていくと前回の告白した時のような苦い後悔だけではすまなくなりそうで、仙道は更に頭を痛める。──── 今の俺はどうすりゃベストなんだ……
悩んでいると、ぼそぼそと隣から生ぬるい風に乗って何か聞えてきた。完全に牧の頭は下を向いているため、最初仙道はぼそぼそと聞こえてくる音が牧の話し声だと気付けなかった。
「もしかして、何か喋ってます?」
一つ頷いた牧はほんの少し声を大きくしてくれた。
「例えば。……例えば、かなり人気のあるアイドルがいたとする」
「……あの、もうちょっと大きな声で話して下さい」
低音なうえに下を向いた姿勢でボソボソと話されてはどうにも聞きにくくて頼むと、恥ずかしくなったのかふて腐れたような感じで牧は体を起こして声量をあげてくれた。
「だから。例えば、もの凄く可愛い人気アイドルがだよ。突然同じ大学にやってきたとして、だ」
「はぁ……やってきたんですね」
あまりに突拍子もない例え話の始まりに、また例え話かとツッコミを入れたくなる。そこを堪えながら、仙道はまぬけな相槌を打った。
「そうだ。そしてそのアイドルを、何でもない普通の男がデビュー前に偶然知っていて、とても好きだったとしよう。その彼女がこんな身近に来て幸せでたまらない。そんな幸せ絶頂の時にだ。男は、ある日そのアイドルに告白される」
「いい話っすね」
仙道の相槌に茶化したともあきれたともとれそうな響きを感じたのか、牧が眉間に皺を寄せる。
「最後まで聞け。男がOKしたらだぞ? そうしたら彼女は周囲に、何であんな普通の男と、って惜しがられるんだ。しかもアイドルに恋愛話はイメージダウンだ。アイドルは皆のものであり、個人のものであっちゃいけないんだ。だからこそ長く輝くし、周囲に大事にもされる」
「え〜? それっていつの時代設定? 何十年前のアイドル感? 牧さん、今時そんなんないですよ。逆にそういうの売りにしたりとか、ガンガン恋愛してたり、二股とか」
「いいから最後まで聞けよ。普通の男ならまだいい。その男は実はヤクザの跡取りで強烈な変態だったらどうする?」
「牧さんってヤクザの跡取りだったんすか!?」
「違う! 例えばだ」
「じゃ、強烈な変態?」
「だから例え話だって! 俺に変換するな!」
では何のための例え話なのだと口から出かかったが、牧があまりに真面目な顔をしているために仙道は堪える。
「彼女はトップアイドルなんだぞ? なりたいと願ってもなかなかなれない職業につけているのに、そんな男のためにせっかく苦労して手に入れた職も地位も人気も何もかも失う可能性が大きいということだ」
「はぁ、まぁそっすね」
自分と彼との間に関係ない例え話と分かると親身に考えられないため、自ずと気のない相槌になってしまう。しかし牧は気にすることなく続ける。どうやら例え話を自分でして自分でのってきたようだ。そんな熱心に話す様子が可愛いいため、仙道は大人しく耳を傾けるしかなかった。
「デビュー前から、好きで好きで、あまりに大切で人に言うことも憚られる恋が実る幸せ。それは素晴らしいものだろう。だがな、それほど好きな相手が自分のために不幸になっていくのを間近で見る苦しみはどうだ? 不幸になっていく彼女も可哀相だが、守ってやりきれない、自分の力ではどうしようもできない惨めなその男も哀れで想像もしたくないだろう……」
どことなく部分的に先ほどの過去話(例え話としてはいたけれど)とかぶらなくもない。しかしどう考えても自分はトップアイドルでもなければ、ヤクザの跡取りで強烈な変態とも思えない彼には、やはり当てはめるべき部分は何もなかった。それなのにとても辛そうに、まるで自分のことのように語られてしまっては、『想像しなくていーじゃん』という返答も出来ない。
黙ってうんうんと一人頷かれてしまって困った仙道は、仕方なく口を開いた。
「それで?」
いきなり凄い勢いで顔を上げこちらに向き直ってきた牧に驚かされ、仙道は少し体を引いてしまった。
「それでじゃねぇよ! な。ちっともいい話なんかじゃないだろ?」
「う、うん。そっすね」
勢いに気圧されて頷いてみせると、牧はまた数回うんうんと頷き背もたれに体を預けた。遠くで犬の物悲しい鳴き声が聞こえる。まるで今の俺のわけのわからない心境を音にしたらこんな感じ?
「まぁ、そういうことだ」
「はぁ。どういうことっすか?」
「……お前、本当に俺の話を聞いてたか?」
「聞いてましたよ、失礼な。好きなアイドルに告白されたけど、やくざの跡取りで変態だからOKしたくても出来なくて残念だって話でしょ」
「そうだけど、そうじゃない」
「じゃあどういう話だったんすか。それよか、俺は今、あんたと俺の話がしたいんですけど」
「だからっ」
「お前らは揃って大馬鹿野郎の天然ボケで聞いてられん!」
牧の声を遮るように突然自転車置き場から怒声があがり、牧と仙道は同時にベンチから数センチ腰を浮かせて驚愕した。
自転車の間から人影が現れ、硬直している二人へと近づいてくる。
月を背にしているため顔がよく見えない。しかし怒って肩に力が入ってる、ちょっとオールバック風の古風な髪形のシルエットに見覚えが……と、先に仙道が硬直から解ける。
「もしかして……池上さん?」
「もしかしてじゃねえ! 声で気づけ!」
逆光でも顔が見える距離になったけれど、相変わらず奥目なため眉毛と目蓋の境目がよく分からない。それを今指摘すると殺される気がして仙道は口をつぐんだ。
「池上……お前、先帰ったんじゃなかったのか」
「マジで置いてくわけないだろ。全く、いつまでたっても戻ってこないと思って来てみりゃ、二人揃ってベンチでアホな会話を真剣にダラダラダラダラと。聞いてられなくて馬に蹴られに出てきたぜ全く」
フンと荒く息を吐いた池上は右の空いた側へと腰を下ろした。
「ダラダラ話しって、お前どこから聞いてたんだよ」
夜目にも顔色を失くしていそうな牧が硬い声で訊ねるのとは対照的に、池上はあっけらかんと答えた。
「お前がバカな例え話を二連発したとこから」
悲愴な表情とはまさにこの顔としか表現できそうにない牧を見て、仙道は慌てて牧を背にかばうような形で身を乗り出した。
「何もバカな話なんかじゃないです! 確かに二度目のアイドルの話はよく分からなかったけど、それだってきっと何かの伏線なんですよ!」
「「何で分からないんだよ!」」
全く同じツッコミを前と後ろの両人からくらって仙道は首を竦めた。
「牧。何でこんな激ニブバカを昔から好きだったんだよ」
「そんなの俺の勝手だ。第一、仙道は馬鹿じゃない。ちょっと鈍いだけの話だろうが」
「ちょ、何で? え? 牧さんが俺を昔から好き? いつからそういう話に? 何で池上さんが知ってて俺が知らないの? ど、どういうことっすか? 池上さんも知ってたんなら、俺が相談した時にどうして」
「お前池上に相談って! こ、この馬鹿野郎が!」
「痛っ! 何で叩くんすか〜、牧さん、痛っ痛いっすマジ」
「この老け顔のオトメ思考回路の男にはお前がアイドルなんだとよ。こんなアイドルどこの世界にいるかっての。アホか」
「仙道はアイドルどころかハリウッドスターよりも格好良いぞ失礼な! お前の奥目には仙道の良さが見えてないんだ!」
「んだと、この色ボケオヤジ……」
「こんな可愛い人をつかまえて何て酷いこと言うんすか! いくら先輩ったって聞きずてならないですっ」
「はあ? この色黒オヤジのどこが可愛いだって? お前らそろって眼科行ったらどうだ?」
「くっ……!」
仙道が池上の胸倉を掴もうと腕を伸ばすが、即座に牧がその腕を引いて止めた。
「よせ、仙道。俺は確かに可愛くなんぞない。それより池上、お前本当に何しに出てきたんだよ。仙道から相談を受けてたなら、どんな話をしてそうなものかは盗み聞きしてなくたって察しはついただろう。俺達の問題なんだから放っておいてくれよ」
「こいつから相談受けてたから聞いてたんだろが。そうじゃなけりゃ、こんな天然ボケ同士の両想い告白合戦なんて馬鹿らしくて聞いてられるかよ。まぁ、聞いてられなくて出てきたんだけど。ったく……お前らがボケなせいで俺は可愛い純ちゃんを待たせてるんだぞ」
音がするほどの勢いでぐるんと後ろへ向き直った仙道が牧の両肩をがしっと掴んだ。
「そ、そうですよ!! いつの間に俺達は両想いになれてたんですか!?」
「いっ、池上っ!! 俺はあと四年は隠してるつもりだったのにっ。バラした責任とりやがれ!」
夜の暗がりにも隠せないほど赤くなった牧が仙道から逃げるように顔を背けて怒鳴った。しかし池上は面白くなさそうな顔で冷静に腕時計を見て言った。
「あんな下手な例え話なんかでお茶濁して逃げれるわけないだろ。お前は知らないかもしんねーけど、こいつ、お前に関しちゃかなり別人でしつこいから時間の問題だったっての。いーじゃねぇ、四年も無駄にしないですんで。俺はもういい加減帰るぞ。役目もすんだしな。純が心配してるだろうし」
「ぐ……っ。さっさと帰れ! 誰も待っててくれなんて言ってないだろ! このデバガメの奥目野郎!」
悔し紛れで牧ががなったけれど、それもまた池上には全く効果はない。
「池上さん、ありがとうございましたっ!」
首だけ捻じ曲げて背後の池上へと仙道は喜色満面で礼を告げる。
「おう。今度は二名分奢れよ。……お前はどこまでがボケなのかわからんから言っとくけど、俺と純の分だぞ。牧と俺の分じゃねーからな」
「はいっ!」
遠ざかる池上の背が見えなくなって漸く、仙道と牧は深く息を吐いた。全身に知らず入っていた力が抜けていったのも同じだったようで、二人はベンチにだらしなく体を預けた。
「池上さんって彼女いたんすね。知らなかった」
「魚住を彼女と表現するのは変だぞ」
「……はえっ!?」
素っ頓狂な驚声に牧がくっと笑った。
「魚住ってあの図体に似合わん可愛い名前だよな。だからったって、あれを可愛いと捉える池上こそが俺には一番眼科が必要だと思うんだが」
暫く口をパクパクとさせていた仙道だったが、ふぅと息を吐くと苦笑いが零れた。もっと早くその事実を知っていたならば、余計な焦りもおこさずに、少なくともあれほど下手な告白にもならなければ、こんなドタバタした形で想いを伝え合う(?)形にはならなかっただろうという思いからの苦笑だった。
そんな胸中を知ってか否か、牧もまたフッと皮肉げな笑みを漏らした。
気付けばかなり高い位置にある月は薄いレモン色に色味を変えていた。少し涼しさを増した夜風が気持ちよく二人の頬を撫でていく。
確認をとるのは無粋だけれど、やはりあんな形でではなく、きちんと彼から言ってもらいたい。それを今ねだるのはとてつもなく格好悪くて情けないとは分かっている。それでもこの、今度こそ誰もいない(多分だが)タイミングを逃すのは惜しくて、とうとう聞いてしまった。
「……牧さん。俺、もう片思いじゃないんですよね?」
こちらを見ないまま、牧はこくりと一つ頷いた。
「なんか突然過ぎて俺、自信ないんだけど……牧さんも俺のこと……」
「……突然なんかじゃないさ。俺にとってはお前の方こそ予想外過ぎたよ」
「もしかして、けっこう前から……だったり?」
牧は素直に頷きはしたが、やはり仙道の方は見ない。でもその横顔は恥ずかしさの中にも安堵が混じったもののようにも見える。こんな顔を見せてくれただけで今はもう十分に思えた。
「今は俺、キャパいっぱいいっぱいだから……今度ゆっくり話すよ。それじゃ駄目か?」
「全然。あ、でも例え話で説明はやめて下さいね。池上さんじゃないけど、俺、けっこうあんたのこととなると頭の回転鈍いみたいだからさ」
「わかった」
やっと牧は仙道の顔を見て軽い笑みを見せて頷いた。とりあえず四年間待たされることなく両思いと知れたことだし、殊更に焦る必要もないのだからと仙道もまた微笑んで頷いた。
まだまだよく知らないことだらけだけれど、この人は俺を好きであったことをとても上手く隠せるくらい、俺よりも強いことを知った。それと、過去の負い目から想いを伝えることにとても臆病な人だということも。あ、あと。俺のことをハリウッドスターほどカッコイイと思ってくれてるなんていう、笑えるけど可愛いところなんかも。沢山の人に好かれて、沢山の人を大事にしている。そんなバスケだけじゃなく人間としてもちょっと出来過ぎな気がして、俺としてはかなり分が悪いと思っていたりもしたけれど。こんな人間らしい不器用さも持ってるっと知っちゃうと、ますます好きにならずにはいられないよね。大事にしたいから、急がないよ。
でも、避けられて辛かったのを耐えたご褒美をもうちょっとだけ。ちょっとだけでいいから……いいかな。
帰ろうかと腰を上げた牧に仙道は一歩近づいた。
「説明は今度でいいから……。少しだけ、逃げないでいて下さい」
「うん?」
首を傾げた牧を仙道の長い両腕がそっと包んで抱きしめた。数ヶ月前に一度だけ抱きしめた時間が再現される。こうしたくて何度夢にみたことだろう。季節が前の時より薄着にさせている分だけ、腕に伝わる彼の体温も鍛え上げられた体の心地よい弾力もしっかりと感じられる。あの時感じた清らかな幸福感も獰猛なまでの欲望も、もっと強まってしまっているけれど。
「……あと10数えたら離れるから、もうちょっと我慢して」
理性を総動員するためのカウントダウンを心の中ではじめる。
─── 10……9………8…………7……………6…!?
6まで数えた時にそっと牧の両腕が仙道を抱きしめてきた。
「今度は俺が10数える間、このままで我慢してくれ」
牧は耳まで赤くして囁くと腕に力をぎゅっとこめてきた。
あまりの嬉しさに仙道もまた腕の力を強めてしっかりと抱きしめなおす。すると更に牧が強い力で抱きしめてきたため、仙道の脇腹の骨がミシミシと締め付けられ痛みを訴えはじめる。
「牧さん」
「……まだ7までだ」
「違うっす。あの、嬉しいんだけど……かなり痛い、です」
「わ、スマン!」
慌てて離れようとした牧を仙道の腕は逃がさない。そのまま今度は牧の首筋に顔を埋めるように抱き込んだ。
「カウント途中で終わったみたいだから、今のはノーカン。最初から数えなおしましょう。ちなみに俺もね、さっきのはまだ3までしか数えてなかったから、あと13、数えなおさないと」
牧は「さっきのが3なわけないだろ……」と小さく呟いたが、それは聞こえなかったことにして、仙道は牧の滑らかな項と微かに香る柔らかな体臭を思う存分。それこそ13カウントどころかカウントするのを忘れるほどに堪能したのだった。
翌朝、牧と仙道は携帯番号を照れながら教えあっているところを池上に見つけられ、「今頃携番交換って……中坊かよ」と溜息をつかれてしまった。牧は「煩い、放っとけ世話焼きオヤジ!」と、精一杯の罵声を真っ赤になりながら発して追い払った。
苦々しく戻ってきた牧はまたそっと携帯を開く。携帯の中にある仙道の番号を見ているのだろう、寄っていた眉間の皺は消えてふわりと口元に笑みが浮かんでいる。
「毎日部活で会ってるから、話題は特にないが……」
「が?」
「部活のない日にもお前の声が聞けるなんて贅沢だ」
「贅沢って、そんな……。部活のない日はそれこそ、デートして下さいよ、俺と」
「で、でーとか。そ、そうだな、デートでもするか。ははは……。ええと、じゃ、俺そろそろ行くわ。お前も遅れないようにな。東棟の方だろ?」
「うん。じゃあ部活で、また」
「おう」
照れを押し隠す表情までが仙道の胸を切ないまでに甘く締め付ける。仙道は牧の姿が見えなくなるまで、走っていくその背をずっと見つめていた。
あんたへの恋を自覚してから、この面倒くさがりでいいかげんで、実はちょっと格好つけで事なかれ主義な今までの自分なんてゴミ箱行きにすると決めた。でもなかなか一気に捨てられないようで、相変わらず俺は決意した日からあんた以外に対してはあまり変われていない。でも、こう考えるようになっただけでも、きっと少しは変わっていけてると思う。
もっともっと俺は変わるよ。強くなって、俺より強くて臆病なあんたに、四年早くスタートさせてしまった恋愛を正解だったと後から笑えるようにさせてみせるために。
勝負に関しては貪欲なくせに、恋愛に関してはちっとも欲がないあんたがとても好きだよ。俺の声が聞けることを贅沢だなんて思ってくれるなんて嬉しいよ。けど同じくらい淋しくもあるんだ。自分は恋愛をしてはいけない、相手を不幸にするなんておかしな刷り込みを早く失くしてあげたい。トラウマから派生した悲しい考え方を俺が完全に消す。
だから、もっともっと好きになってほしい。俺を、そして自分を。そうしていつか、勝負だけじゃなく恋愛に関しても貪欲に俺を求めるように変わって下さい。変われるように俺が全面アシストするから。子供の頃と一緒でなんて、いたくたっていられるわけなんかないことなんか、牧さんだって本当は知ってるんだろうけど。
牧の姿が視界から消えて、仙道は気持ちの良い朝の日差しが降り注ぐ中、大きく伸びを一つしてのんびりと歩き出す。昨日の帰り道がてら、仙道が池上と魚住が恋人同士だと知って驚いたため、『デバガメされた腹いせに暴露してやる』どうせ口止めなんてされてなかったしな、と牧が話してくれたことが頭にふいに浮かんできた。
池上は中学の頃から魚住に秘めたる思いを抱いていた。とても純情で同性同士の恋愛など考えもしない魚住を、長い時間をかけて自然に、恋愛は性別でするものではないのだと教えていった。そして高校を卒業して進路が分かれるのを機に告白をした、と。隠し事や嘘がつけない魚住を困らせないためもあったが、何より守っていける自信を自分につけるのに、『五年もかかっちまった』そうだ。
そんな話を池上が牧にしたのは、牧が一人で買物をした後で道に迷い、入り組んだ路地裏で池上と魚住が親密にしているところに出くわした翌日。『まさに未知との遭遇で……無粋とかそういうレベルじゃなく、まじまじと見てしまったんだよ。まさか俺のようなのが同じ神奈川バスケ界にいるなんて思いもしなかったから』と牧は仙道へ言い訳する子供のように肩を竦めて見せた。
同じような境遇でありながら、何年もかけて周囲との軋轢も生まず片思いを無事成就させた池上は、牧の中で恋愛の規範となるのも無理からぬことと思えた。『……あの時はお前を守りきれる自信がないばかりにああ言ったけど。本当は凄くもったいないことをしてるってすぐ後悔したよ。後悔してるから、お前にもし揺さぶられたら即折れそうで逃げ回ってたんだ』すまない、とまたしても謝られた。素直すぎる牧を前に大慌てした仙道は、『これ以上完璧になられて周囲から好かれられちゃ俺が困るからマジやめて下さい』と願い出て、否定する牧に己の嫉妬心まで説明するはめになったのだった。
東棟の薄暗い玄関をくぐると部活仲間の飯塚がいた。
「あれ、仙道どしたん? なんか明るくね? いいことでもあったん?」
顔をあわせるなり言われるとはどれだけ顔に出てるのかと、仙道はそろりと自分の頬を撫でた。
「まぁ、そうだけど。俺、んなだらしねー顔してる?」
「んなじゃねーけど。お前、ここんとこずっと難しい顔してたからさ。なになに? だらしねー顔ってことは彼女できたとかそっち系の話か〜?」
背は低いけれど声の大きな飯塚のせいで、二人の周りに見知った顔がわらわらと近寄ってきた。皆が茶化す言葉の中に自分を気にかけてくれていたのが見え隠れしている。今まではそういうのは余計なお節介のようで鬱陶しく感じていたけれど。
「うっせーよお前ら。まぁ、今日からの俺は凄いから。お前らこれ以上俺と差をつけられないよーに必死でついてこいよ」
なんて、もちろん理由を馬鹿正直に話したり礼は言えないまでも、憎まれ口を叩けるようになっていた。昨日以前の俺だったらきっと、へらへらと笑って輪からさりげなく逃げていただろう。そうはせずに、『うわー、いきなり俺様はいってるぞこいつ』『余裕こいてんじゃねえよ』と口々に文句を言いながら笑って背中を叩いてくるこいつらと一緒に笑えてるってのは─── ちょっといいと思えた。
池上さんに無謀にもライバル意識でガチガチだったのが今頃になって分かる。何故自分がガキ扱いされるのかも。彼とはまた別に立派な人である牧さんが彼と親しくなった理由だって、恋愛対象の共通点以上のものがあることくらいも、今は理解できるしさ。……それがまた悔しいんだけど。
でも、いいんだ。こんな未熟な俺のどこを好きになってくれてたかは知らないけど、選んでくれてただけラッキーなんだから。男を磨いて、池上さんより俺の方が絶対いい男だって自分で言えるようになってみせる。立派な見本が身近に二人で、そのうちの一人は恋人でさ。そんで立派ではなくとも俺よりは周りを見れる奴等が沢山いるんだから、そうは時間はかかんねーはず。だって土台は悪かないから、牧さんは俺を見ててくれたんだろ?
守れないとか思わせた時点で、何かズレてる。守ってもらうような弱いタマじゃないってことを知ってもらわないと。そして牧さんは自分が思ってるほど強いわけではない─── あんな過去に縛られ続けるほど繊細だということを知った俺こそが、あんたを守る存在になれるんだってことも。
ゆっくり、ゆっくり。俺達は俺達のペースで恋をしよう。
これが最後の恋になるのだから、焦らずゆっくり大事に時間を重ねるんだ。
やっと重なった恋心が、ずっと先へと続く、まだ俺も知らない『愛』ってもんへと変わっていくように。
* end *