数ヵ月後
「大丈夫、丁度すぐそばに本屋あるからそこで時間潰してますんで。うん、そうヒガヤ書房。急いで来なくていいからね。……うん。うん、気をつけて」
仙道は携帯の画面を名残惜しげに眺めた後で遊歩道に設置されているベンチから腰を上げると、すぐ目の前にある小さな書店へぶらぶらと入っていった。
外観からはとても小さい店に見えていたが、中は長細く奥まで続いており、意外にもけっこう客がちらほらと立って本を選んでいる。欲しい本があるわけでもない仙道は立ち読みが出来そうな旅行雑誌コーナーへ立った。とりあえず近辺に何か美味そうな店屋なんか出来ていないかと視線を泳がす。“神奈川美味いもの特集”の見出しにつられ、一冊を手にとった。
パラパラとめくっていると『デートに最適な待ち合わせ場所』という、ありがちなページを見つけて仙道はたぐる指を止めた。
昔は人を待たせることはあっても、こうして待つことなどなかった。そんな自分が待つことを覚え、あまつさえ急いで駆けつけようと焦っている愛しい人の様子をこうして想像して待つのが楽しいだなんて。
「……変わったよなぁ、俺も」
我知らず口の中で呟けば顔が少しにやけてしまう。それが誰に見られているわけでもないのに照れくさくなり雑誌を棚へ戻した。その仙道の腕と入れ替わりに黒いパーカーの腕が戻した雑誌へ伸ばされた。隣に人がいたと気付かなかったことと、けっこう人気のある雑誌だったのかなという疑問がひっかかって仙道はちらりと視線を横に立つ中肉中背の男へ向けた。
「……あ、吾妻……さん?」
「こんにちは、センドウ君。お久しぶり。牧とのデートコース調べてたんだ。熱心だね。その格好から察するに、牧とこれからデートなのかな? でも牧は多分、あと40分は遅くなると思うよ。久しぶりに会ったんだし、牧が来るまで俺と話でもして時間潰そう」
目元は全く動かない口元だけの笑みを作る、相変わらず一方的な吾妻に、仙道は何故か回れ右をして店から出たい衝動にかられた。
先ほど仙道が手にしていた雑誌は吾妻が購入した。仙道が来る前に選んであったらしき数冊の難しそうな雑誌と一緒に。
店から出ると先ほど仙道が座っていたベンチの逆向かいにあるコーヒーショップを指差し、
「そこに入ろうか。奢るよ。あの店からなら牧が来るのも中から見えるだろ」
と有無を言わせず歩き出した。牧の親しい友(?)である男を無碍にもできず、仙道は仕方なく後についていった。
仙道は本日のコーヒーとなっているアメリカンを両手で包みながらお義理で会話を探した。
「吾妻さんはこんな遠くまで本を買いに来るんですか? あの本屋、外観に似合わずけっこう客もいたし、実はけっこうな有名店なんすかね?」
「らしいね。俺は分かってて初めて入ったけど。センドウ君もてっきり分かってて来たんだと最初は思ってたけど、デートの待ち時間潰しなだけだって分かった時は逆に驚いたよ」
吾妻はエスプレッソマキアートのカップにゆっくりと口をつけた。その落ち着いた様子に仙道は、全てが推測、なのに全て当たっている。それを当然として断定口調で話されてかすかに苛立ちを覚えた。
「あの。さっきから俺、今日牧さんと会うとか一言も言ってないんすけど」
「え? 違うの?」
あまり表情の変わらない吾妻が珍しく驚いた顔をした。つい『違います』と言いたくなったけれど、ここで牧が現れては無意味な嘘をついたのが即ばれてしまう。仕方なく仙道は苦笑い浮かべておどけるように言った。
「いえ、違わないんすけど。どうして俺が牧さんを待ってたって分かったのか不思議で。俺の格好、そんなきばってますかね?」
「格好は別に普通にいいと思うよ。俺は今センドウ君が中に着ているTシャツ。そう、それ。牧が先月、プレゼント用に買って包んでもらってたの隣で見てたやつだったから。あと、どんな本屋か知らずに入ったのが分かったのは、店の奥に興味を示さなかったから。さっと一瞥してすぐ手前の雑誌コーナーに行っただろ。窓から外が見える位置で、少し外を気にしていたようだったしね」
店にいたのは10分もなかった気がするのに、何もかも見透かされていることに驚愕し、また気持ち悪さも覚えた。薄いコーヒーなのに胃が僅かにむかついてくる。
「ちなみに、何故牧があと30分は来ないかは……今日が第二土曜日だから。大体、第二土曜日は70%の確率でバスケ部の主将が長い愚痴を零すんだ。待ち合わせには10分前に着くようにしたい牧がセンドウ君を待たしているってことは、今日はその7割に当たったということ」
推測が当たっていることを喜ぶでもなく、驕るのでもない。ただ淡々と述べる吾妻に仙道は既に白旗を上げたい気分だった。
「そんなことより。牧がセンドウ君に告白をしてOKをもらったという日からなんだけど、俺はこの数ヶ月の牧の変わりぶりには驚いているんだ」
細い一重の眼を珍しく楽しげに光らせた吾妻はズイと身をテーブルに乗り出してきた。
「……牧さん、んなことまで吾妻さんに話してるんすね」
「困った顔しないでほしいな。俺が牧にセンドウ君へ告白するように促したんだから、報告くらい受けてもいいだろう?」
仙道は心底驚いて、手にしていたコーヒーカップを荒っぽく皿へ置いた。
「そんなに驚かなくても。前も言ったけど、俺はセンドウ君のライバルじゃない。牧マニアとして、牧の幸せを望んでいる。俺は牧が望む幸せから遠回りをしすぎて時間を無駄にしていると判断したから助言をしたまでだよ。そんなことより。話を戻すけど」
吾妻はテーブルの上に両手を組み、組んだ手の上に顎を乗せた。反射的に仙道は自分の椅子の背もたれへと体をそらせるように退く。
「うーん……。今後センドウ君の俺への警戒心をどう失くすかも課題の一つだな。まぁそれはいいとして。牧がこの数ヶ月、驚くほど色っぽくなってしまっているんだ。俺としてはこれほど劇的に恋が牧を変えるとは思っていなかっただけに興味深くてたまらない。大変観察のやりがいを感じるところなんだけれども、いかんせんデートにくっついていくわけにも行かず。だからセンドウ君にどこまで進んでるのか教えてもらいたくてね」
ニヤリと吾妻の口元が笑みの形を作った。
「ちょ、待って下さいよ。何で俺に。本人に聞いて下さいよ、牧さんと吾妻さんは何でも話せるほど長い付き合いなんでしょ」
動揺を隠して突っ返したが、吾妻はそれすら見透かしているのか口元の笑みは変わらない。
「牧がそういう話を極端にするのを嫌うのは、もうセンドウ君だって分かってるよね? 嫌がることをわざわざして本気で嫌われると観察が出来なくなるだろ。からかいや冗談ですませる程度でさぐりは入れられても、そう深くは出来ない。となると、聞けるのはセンドウ君になるのも無理はないと思わない?」
「……俺には嫌われてもいいってことっすよね、それって」
「……俺は牧マニアだと言ったろう?」
答えにならない返事を楽しそうに漏らされ、仙道は腹立ちを覚えたが、ふと思いつき溜息をわざとついた。
「そうやって俺を怒らせて、感情的にさせて理性を飛ばしたいんですね。怒った俺が吾妻さんの出る幕はないって牧さんとの関係をあれこれ得意げに暴露すんのを待ってるんでしょ。違いますか?」
「へぇ……いいね、なかなかいいよセンドウ君。でも俺は君がそこまでバカじゃないと分かってるから、その手ではなかった。……ま、今日のところはこれまで」
「え?」
「ただの牧マニアには邪魔する権利もする気もあっちゃいけない。俺はもう少しここでゆっくり休んでいくから、行ったらいい。俺に会ったと報告するもしないもセンドウ君の好きにしていいよ。俺は牧に何か聞かれるまで何も言う気はないから」
「まだ牧さんの姿見えないですけど……」
確かに吾妻が投げる視線の先、とても遠くに走ってくる人らしき影がある。しかしあまりに遠くて人物までは判別できない。
「あんな遠くから全力疾走を続けてこれる体力。しかも周囲の人と比べてかなり高そうな身長は牧くらいだろ。今出れば本屋からセンドウ君が偶然出てきたと牧は思うだろう。ほら、これ。俺からセンドウ君に激励のプレゼント」
自分の目的で買った雑誌を手早く抜き出して、先ほど仙道が見ていた雑誌のみ入った状態にした紙袋を吾妻は仙道に差し出した。
「牧を色々なとこへ連れてってやってくれ。これからはセンドウ君の方が牧と一緒にいる時間が増えるんだから」
仙道が強引に渡された紙袋を手に店を出ると、本屋を目指して全力疾走している小さな姿が牧であると今度は目視できた。仙道は空いている手を大きく振った。
息を切らしてベンチへ腰かけた牧からは背面のコーヒーショップは見えない。当然、窓際に一人座っている男に気付くこともない。牧の隣に腰掛けようとした仙道の視界の端に、窓辺に座っていた男が席を立ち店の奥へと移動していくのが映った。
息を整えた牧がうっすらと浮いた額の汗をハンカチで拭いた。
「今日はハンカチ持参なんすね」
何の気なしに言ったのに、何故か牧は眉間に皺を寄せて顔を少し背けた。その仕草は怒ったというよりは照れているようで、それが不思議で訊いてしまった。
「何で照れたの? 俺、何も変なこと言ってないよね?」
すると、ぐっと詰まったような顔をした牧がこちらを向いてきた。
「お前が俺のハンカチを……」
「?」
「……いや、いい。それより、大分待っただろ。すまん、遅くなって。でも本屋があって退屈しなかったみたいで良かったよ。珍しいな、何買ったんだ?」
手にしていた本屋の紙袋を見られて、仙道は袋から雑誌を取り出した。
「今度さ、これ見て二人で行けそうなとこ、いっぱい探そうと思って」
「男同士なせいか、行く場所って自然と固まっちまってるもんな。ふーん……便利そうだ。今夜これでもゆっくり見て、次はいつもと違うとこ行ってみるか」
パラパラと雑誌をめくる牧の横顔はどこか嬉しそうに見えた。仙道は買うつもりまではなかったこの雑誌が今手元にある経緯を思って複雑な気持ちになる。
「……まだまだ勝てねぇのは当たり前だけどね」
口の中での小さな呟きに、牧が何かいったかと顔を雑誌から上げてきた。別に何もとニコリと笑えば、牧もつられて小さな笑みを浮かべた。
雑誌は家でゆっくり見ようと袋へ戻し、二人は予定していたいつものスポーツ店へ向かうことにした。空は夕暮れをつげる淡い藤色と桜色のグラデーションに変わりはじめていた。
「綺麗な色だ……。電車に乗る前はもっとどんよりしていたけど、雲が流れたんだな」
赤信号で立ち止まった時、ふと空を見上げて静かに呟いた牧こそが、仙道にはとても綺麗に思えて何故か胸が切なく痛んだ。
「……いっぱい、これからはいっぱい二人で綺麗なものも、面白いものも、何でも見たり触れたりしていこうよ。いろんなとこ、行きましょう」
驚いた顔で牧が仙道を見上げた。わずか6cmの身長差なのに、僅かに上向くその仕草が苦しいほどに愛しく感じる。
「どうしたよ突然? 泣きそうな顔して」
心配さを隠すようにおどけてみせた牧のジャケットの袖を掴んで、仙道は小さく頭を振って無理に微笑んだ。
「俺、吾妻さんや森さんと違って、まだ牧さんと出会って三年、一緒に遊ぶようになって一年半くらいだけどさ。年も一個下で頼りないかもしんないけど頑張るから。色々足りてねぇ奴だろうけど、えっと、」
「青信号点滅が始まるから、走るぞ」
「え? うわ」
話の途中でいきなり牧は仙道の言葉を遮り、仙道の手をとって走りだした。仙道は力強い手に引っ張られながら、先を走る牧のブラウンがかった髪が踊るのを見ていた。
信号を渡りきっても牧は仙道の手を握ったままで走り続けた。
「牧さん、どこまで行くんすか?」
「知らん」
「ええっ?」
目的のスポーツ店もとうに過ぎ、信号が青の道ばかりを選んで牧はぐんぐんと走り続ける。握る手は固く、しっかりと仙道を繋いでいる。
とうとう誰も歩いていない寂れた商店街の端まできてしまった。
二人して息が切れて、閉まっているシャッターへ背を預けた。
「い、一体何だったんすか……。汗かいちまったっすよ」
大きく息を吐いた仙道が額の汗を手のひらで拭おうとした時、牧がハンカチを差し出してきた。
「一回俺が使ったから、あまりさっぱりしないだろうけど」
「いえいえ、ありがたいっすよ。それどころか、俺は牧さんの香りがするハンカチ使うの大好き……あ、」
似たような会話をそういえば以前したような気がして仙道は牧を見やると、フッと軽く微笑んで流されてしまった。
冷え込んできた外気の中立っていたおかげで汗はすぐに引いた。
「……会った時期とか年齢とか、どうしようもないことで悩むな。森も吾妻もお前も、当然俺も。全部違う人間なんだ。それでいいじゃないか。違うから……特別になったりもするんだろ。少なくとも俺はそうだ」
だからそんなことであんな顔して欲しくなかったんだよ、とぶっきらぼうに呟いた牧は照れくさそうに笑った。
俺としては不安なのではなく、負けてらんねーって気を引き締めての決意表明のようなつもりでいたんだけど。俺の心のどこかが不安がる子供みたいに手を握りたいと思っていたのだろうか。守っていきたいという気持ちのどこかで、すがりたい気持ちがあったのだろうか……。
自分ですら気付かなかったそんな僅かな揺れに気づいたこの人は、その時に出来る方法で俺の望みを叶えたかった。だからどこまで走れば……いつまで握っていればいいか答えられなかったのだろう。
まだ手に残る力強い感触を消さないように仙道は拳をつくり指先に力を込めた。
「ありがとう、牧さん」
心を込めて言ったけれど、牧さんは軽く一度肩をすくめて見せただけだった。そんなさりげない軽さがとてもありがたかった。
「そろそろ引き返すか」
手を差し伸べてきてくれたけれど、俺は笑っていいですと答えた。
「もう平気か?」
「はい。あ、でも」
仙道は牧の手を掴んで引き寄せると唇を掠め取るようにキスをした。慌てたように牧は仙道を突き飛ばして自分の口元を手で覆った。
「こっこんなとこで……!」
「手をつないでもらうのも元気出るけど、やっぱこれが一番即効性あるからさ。それに人もいないし、トイレの側でもないんだし、いーじゃないすか」
「調子にのんな、このバカ野郎が!」
照れて赤いのか怒ってなのか。どちらにしろ真っ赤になった牧が殴ってきそうな気配を感じて仙道は笑って走り出した。
出会う前の相手を知らないのはお互い様。
それよりも、いつか気がついたら出会う前以上に長く一緒にいることを笑って驚きあえたらいい。
過去よりも長い未来を二人で過ごしていける俺達は、何よりも誰よりも幸せの中にいるのだから───
吾妻は会計をすませると入ってきたのとは逆側にある出入り口から店を出た。二人はまだベンチに座っているかもしれないし、移動したのかもしれない。どちらにしろ自分にはもう関係のないことだと、吾妻は無表情のまま空を仰いだ。
─── 『上を向いてたら涙は止まるって、知ってた? 今日の俺の大発見なんだけど』
小六の頃、牧がバスケットの試合に負けて泣いた日の夜に俺にこっそりと教えてくれた発見の一つが思い出された。
それに引っ張られるように古い記憶が甦る。
『兄ちゃん、ぼく、ヒロム君キライだよ…いつ帰るの、ヒロム君って』
玄関で靴を脱いでいた時、居間の方から甘ったれた雄二の声が聞こえてきて吾妻弘は動きを止めた。
『何でそんなことを言うんだ?』
雄二より四つ年上であり弘と同じ小学五年、この家の長男である紳一が聞いている。弘は内心チッと舌打ちをした。
どこへ預けられても居心地が悪かった。どこの家の大人にも子供にも疎まれてきた。それでも自分の両親よりは暴力をふるわないだけマシだったから、預けられた先ではそれなりに大人しくしてはいる。けれど相手があまりにバカだったりすると、勝手にむこうから突っかかってこられた。下手に出れば図に乗る。ちょっと強く出れば嫌われるか怖がられて嘘も交えて弘が悪いことをしたように周囲へチクられる。
しかしこの家は今までの中で一番いやすかった。優しい母親・厳しい父親にまっすぐ育てられたのが分かる紳一と雄二は弘の背中に広がる火傷について気味悪がることもバカにしてくることもなかったから。紳一に至っては同い年だからこそのやりにくさがあるはずなのに、『クラスに双子の友達がいるんだ。弘とはいつかそんな感じになれるといいな』なんて呑気に言われたことすらあって……。正直、もうちょっと長くこの家にいたいかもなんて考えたりもしはじめた、滞在三ヶ月目。
『だってヒロム君……ぼくのチョコアイス食べちゃったんだもん』
とうとう始まったかと、雄二の小さな呟きに溜息が出た。あれは雄二自身が二日前に宿題を手伝ってやったお礼に食べてといっていた物だったのに。
『それにね、ウォームマンの消しゴムも取られちゃったんだよ』
あれは、と弘が思い返すより紳一の声が先だった。
『あの消しゴムは雄二がオセロで十敗したからだろ。兄ちゃん見てたぞ。悔しかったらもう一回お願いして相手してもらって、勝って取り返せ』
『なんでお願いしなきゃなんないの? ぼく、遊んであげただけなのに。それに勝てるわけないよ、だってヒロム君、兄ちゃんにも負けたことないじゃない。だから兄ちゃん、最近ヒロム君とオセロでは勝負しないんでしょ』
紳一の顔は見えないけれど、多分図星をさされてムッとした顔をしているだろうことは沈黙から伝わってくる。弘にしてみればオセロなど負けてやったっていいのだ。そんなことくらいで優越感に浸る気もなければ、負ければ長く居させてくれるのなら何百回だって負けてやって良かった。ただ……。
『何が遊んであげただ。えらそうに。手を抜かないで相手してもらってお礼を言わなきゃいけないくらいなんだぞ。普通なんて何回やっても負けるような相手と何度もしたくなんてないんだ。雄二だって隣の庄司君に十回連続でオセロしようって言われたらどうする?』
『……やだ。ショウジ君なんてまだ幼稚園じゃん。二つも下なのに』
『弘は四つも下のお前と遊んでくれてるって、わかれよ』
精一杯厳しい声を出してる紳一がおかしかった。
『確かに兄ちゃんはオセロは弱い。けどな、バスケじゃ兄ちゃんだって弘に勝てることはあるんだぞ。いいか、雄二。オセロがダメなら別に勝てるものを作れよ。これなら負けないってものを作るんだ』
『四つも上で、しかも兄ちゃんより頭のいいヒロム君よりなんて、見つけられないよ〜。ヒロム君、なんであんなに頭いいの? 勉強してないのに。ずるいよ』
それは俺のIQが夫婦ゲンカのネタに発展するほど高いからだよと教えてやりたくなる。好きでそう生まれてきたわけでもないことも一緒に。
弘が痛いほど唇を噛んだ時、紳一が逆に聞き返した。
『じゃあきくけど、雄二はなんで足の裏にホクロがあるんだ? いいな〜。兄ちゃんも足の裏に欲しかったな。俺が眼の横のホクロが嫌いなの知ってるだろ。なぁ、とりかえようぜ?』
『そんなの知らないよ〜。とりかえられっこないじゃない、兄ちゃんのいじわる〜』
『いじわるじゃない。お前の言ってることは同じだ。それに、頭のいいあの弘が、雄二のアイスを勝手に食うわけないだろ』
『なんで?』
雄二の疑問と一緒に弘も頷いた。どうしてそう思うんだ?
『あいつはな、頭がいいから、きちんと雄二のことまで考えられるんだ。勝手に食べたら悲しむってわかるから、黙って食ったりなんてしない。今回のはきっと、お前が弘に食べていいって言ってあったんだよ』
『ちがうもん……言ってないもん……たぶん』
『ほらな。雄二、きっと忘れちゃってるんだよ、自分で言ったこと。俺もよくやるからわかるぞ。ははは!』
『何回もなんて、兄ちゃんバカだー。あはははは!』
『こら、そんなに笑ってる場合か。忘れちゃうのは仕方ないけど、忘れたという事実を認めるのが大事なんだ。一番バカなのは、覚えている相手を責めることなんだぞ。雄二はあやうく一番のバカになるとこだったんだから、反省しなきゃダメだ』
『むずかしくて言ってることわかんない……けど、忘れててごめんなさい』
『うん』
弘は思わず噴きだしそうになったのを堪えた。『多分』、と言ってしまうあたりも、『俺もよくやる』と笑ってしまうところも、この兄弟らしすぎて。
堪えすぎたせいか、目がじんと熱くなって鼻の奥がツンとして痛かった。
『なぁ、雄二。俺さぁ、思うんだ最近。なかなか忘れられないのって大変じゃないかなって』
『どうして? 覚えていればテストもいい点とれるし、しんけいすいじゃくだって勝てるよ?』
『いや、テストやトランプの問題じゃなくて……。例えばさ、武君とこのでっかいブルドッグに噛まれたとして。噛まれたのを忘れたら、平気で武君の家に遊びにいけるだろ。でも覚えていたら、もう武君の家にブルドッグがいる限りは行きたくなくなると思うんだよ』
何だその変な例え話はと思いながらも、弘は自分の体が小刻みに震え出すのを感じていた。
『楽しいことや勉強とか、確かに覚えといた方がいいことは多いけど。嫌なことや悲しいこととか……忘れられなかったら苦しいよな。そうじゃなくてもさ、自分が覚えていても相手が忘れていて、それを否定されたら悔しいだろう……』
『うーん……ブルドッグがいなくなったらいいんじゃない?』
『そう簡単にはいなくならないだろ。それにいなくなったら武君が可哀相だ』
『ブルドッグのかわりにポメラニアンを飼ってもらえば?』
『ポメラニアンが来たからってブルドッグは……。あ、でもポメラニアンに気をとられているブルドッグの横ならすりぬけたりできるのか?』
どんどんズレていく会話がおかしくてたまらない。それでも真剣に考えている紳一が面白くてたまらない。
……笑い出したいくらいなのに体の震えは止まらず、とうとう涙まで引きつれて弘を長いこと困らせた。
恋愛も結婚にも破局はある。人は忘れる動物だから、どれほど好きだと思ってくっついたって、忘れる。百年に一度の恋だと思った時を忘れて、平気で気のせいだったと言って憎しみあってしまえる。恋愛というのは相手により近づくことな分だけ、下手をすればその倍以上拒否されたり、拒否をしたりするもの。
牧に俺が近くにいることを拒否されることを仮定すれば、怖くてどうしようもない。その時自分がどうなるかなんて予測すらしたくない。
こんな話しにもならない臆病者は、牧に恋をする資格なんてない。牧を幸せになんて出来ようはずもない。
俺は上を向いて、ずっと祈り続けよう。牧が選んだセンドウ君が、牧が望む幸せを牧と一緒に築いていってくれることを。それを今までよりは遠いけれど、彼らが疎ましく感じない距離から見守りたい。
そうして、出来うるなら、俺という存在がこの世から消滅するまでの間に。どんなに形は時の流れで変わっていっても、愛というものが人間同士の間で消えない場合もあるのだということを、信じさせてもらえたら。
……その時が、俺の牧マニアを卒業できる時なのだろう。
ふっと淋しそうにも見える笑みを浮かべた吾妻は、次の瞬間にはもう普段の無表情、いや、口元のみ不敵にも見える笑みを浮かべてボソリと呟いた。
「ま、そんなの何十年も先のことだ。牧がどれほど色っぽく変化していくのかを、しっかり観察させていただくとするか」
今頃きっと青い顔でくしゃみの連発となっているであろう仙道を思い、吾妻は楽しそうに歩くスピードを少しあげた。