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土日は、ほとんどが試合だった。七週間という長期間に渡って開催される関東大学リーグ戦のためである。しかしそれも終わった今。銀杏の葉が黄色く彩りはじめて漸く、多くはないけれど自由な時間がそれぞれに戻ってきていた。丸一日は無理としても、数時間と決めてしまえば、僅かといえど、会える時間を作れなくはなかった。 どのくらい会えているかというと、時間としては最大で半日程度。酷い時は「今から電車で行ったら30分しか会えないから、牧さん車で俺ん家に来て欲しいな。そしたら一時間半は会えると思うんだけど…ダメ?」という仙道の要望に、牧は車を出すが渋滞にひっかかり、結局40分程度しか会えないで終わることもあった。それに近い状況は何度もあったが、呼んだ側も呼ばれた側も不満を漏らすことは一度もなかった。それどころか、「次はもう20分くらい多く会えるようにするには」と二人はまるでゲームの攻略をする感覚で楽しんでいた。 ではそうまでして会って何をしているかといえば。特に何もしていないのだから、自分達でも驚いてしまう。会うようになった理由は、もっと寺澤兄妹についての対策を固めるためだった。しかし会う回数やメールの回数が増えるに反比例してそれには触れなくなっていった。 顔を見て、電話でもすませられるようなたわいのない会話をする。時間がけっこうとれれば、本を並んで座って読んでみたり、食事をしたりもする。後から振り返っても、特別記憶に残るものもない、淡く穏やかな時間。 そんな特別どうというわけでもない時間を得たいがため、忙しい日々の中で、今までよりも意識して時間を効率よく使えるよう、二人は誰に言うでもなく努めていた。 『明日午後6時から8時くらいはどっすかね? 夜10時からならもう俺は予定ないすよ』 「あ〜…俺が駄目だ。あ、でも7時からは2時間程度空くんだが」 『俺、ちょっと笠原に連絡入れてみる。時間ずらせっかもだし、ちょお待ってて下さい』 「無理すんなよ、別にいいって、あ?…………切りやがった」 空が一段と高くなり紅葉も色づきはじめそうになると、短い逢瀬の時間を殊更に楽しみにするようになった。どちらも自分をマメなタイプではないと思っていただけに最初はそんな己にすら戸惑い、照れがつきまとっていたが、この頃にはもう思い出せもしなくなっていた。全くの音信不通な日は数えるほどしかないのが日常になってしまっていた。 TVやDVDを観る。音楽を聴く。軽い仮眠をとる。本を読む。そんな一人で出来る事、一人でやってきたことを、ただ二人でしたかった。他の誰でも代わりになれるようなことなのに、他の誰であっても満足しない自分達を、互いに口にしないまでも肌で感じていた。 こんなたわいのない穏やか過ぎる時間を強く欲する自分達が信じられない。けれど、たった五日間会えない時にふと感じる淋しさや辛さは、僅かな逢瀬がどれほど自分にとって特別なことであるのかを強く意識させた。 そこまで近しい距離になっていながらも、平日と日曜の夜は朝練に遅れるのが心配だからと、仙道が本当は泊まりたそうな顔をしてはいても牧は終電に間に合うように帰した。終電が無理そうな時は車で送ってやりもする。土曜日に牧が仙道の家に行けばいつも、『泊まっていけばいーのに』と淋しげに引き止められるけれど、翌日の朝練を考えて帰っていた。 今夜も同じように、後ろ髪を引かれる思いで牧は仙道の家を後にしていた。 車で来れば良かったと早足で駅を目指しながら思いつつ、黙々と歩く。駅へ行くまでに途中で少し賑やかな通りを過ぎる。コンビニやカラオケやゲーセンの明かりに群がるように若者がたむろしている。女性が一人で歩くには危ないけれど、体格も背も人並み以上の男である牧に必要もなく近づき声をかけてくる輩はいない。むしろ早足で難しい表情で歩く牧を避けるように歩く者もいた。 一緒に暮らしたら無理に帰す必要も、こうして帰る必要もないのか……。 一人厳しい顔で歩きながら悶々と考え続けている自分に気付いて、らしくない自分に驚く。黄色信号を渡ろうとしていた足を止めてゆるく頭を振った。 恵理と付き合って三年になるけれど、一緒に暮らすことなど露ほども考えなかった。部活で多勢と接する時間が多いせいか、少ない一人の時間を大切にしたい自分が、他人と。ましてや男の仙道と同棲したいとまで思うなんて……と、そこでまた自分の思考に驚く。『同居』ではなく、今自分はごく自然に『同棲』という言葉で考えた。 「どうかしている……」 口の中で呟いても動揺は拭えない。立っているだけなのに鼓動が早まる。このまま踵を返してしまいたいような、青信号になったらそのまま駆け出してしまいたいような。本当にどうかしてしまっている自分をもてあまして深い溜息が漏れた。 青信号になり、結局引き返しも駆け出しもせずに牧はゆっくりとその長い足を横断歩道へ踏み出した。その時、背の中ほどに何かがぶつかってきて牧をよろめかせた。振り向くと同時に華奢な女性が「ごめんなさい、 前、見ないで飛び出してしまって」と頭を下げてきた。 「俺は大丈夫ですが。そちらこそ大丈夫ですか?」 牧にぶつかった拍子に手にしていたバッグを一度落としたようだったので訊ねた。その声に弾かれたように女性が顔を上げて牧を凝視してくる。 どこかで見た顔というより、知っている顔。しかし記憶と即時イコールとならなかったのは、記憶とあまりにもかけ離れた化粧に服装─── そして、夜を纏った雰囲気のせいで。 「……紳一、君……」 呟かれた声は自分が聞きなれている恵理の声よりも少し低く震えていた。 「おい、恵理、何やってんだよ! 早く来いや!」 恵理を呼ぶ聞いたことのない声の主。牧は奇妙な呪縛から解かれたように我に返った。時間が止まったようにお互いを凝視していたのは数秒だったが、牧にはとても長い奇妙なものに感じられていた。 緩慢に声のする方へと牧は顔を向けた。初めて見る別人のような恵理と似た雰囲気をした、芸能人崩れのように派手な髪の、ひょろりとした見知らぬ男がまた恵理を呼んだ。 牧はまたゆっくりと首を動かして恵理へ視線を戻した。牧と視線があうと恵理は明らかに怯えたような表情を浮かべ、キョロキョロと視線をさまよわせ始めた。細い指はせわしなくバッグの手を何度も擦るように動いている。見たこともない色の濃い唇は不自然に歪み、油物でも食べた後のように不自然にぬらぬらと光っている。多分、以前恵理が喋っていた『グロス』とかいう名の化粧だろうとは分かるけれど、たっぷりなそれはネオンを反射して、まるでそこだけ別の生物のようで少しだけ気味が悪く感じられた。 また恵理を、先ほどより苛立ちを含んだ声が呼んだ。 「……恵理。誰か、呼んでる」 「…………うん。ごめん、なさい」 牧が何故謝るのかと訊く前に、自分より背が低く目つきが悪い、先ほどの男がドカドカと憤慨した足音をたてて戻ってくると恵理の隣に立った。 「オッサン、何? 人の彼女ガン見してんじゃねーよ」 だらしなく下がったパンツにガボガボな上着を数枚重ね着している男は、呆気にとられている牧を細い目で睨みつけると恵理の腕を取り走り出した。 車のクラクションで牧は赤信号に変わっているのにやっと気付き、慌てて三歩下がって歩道に身を置いた。 それから何度か信号が変わったが、牧はその場に凍りついたように立ち尽くしていた。 終電に乗りそびれてタクシーで帰宅した。突然の予定外の出費に財布がダメージを食らう。次の小遣い日まで多目に残せていたら、仙道を誘ってたまには街で美味いものでも食おうと思っていたのに……と計画が消えて小さなダメージも食らう。 ふらふらと顔を洗うため洗面所へ向かい鏡を覗けば、 「うっわ、何だこの目の下のクマは……。これじゃ、」 そこまで自分で呟いて、『オッサン』呼ばわりされたことを再び思い出してダメージを食らう。確かにこんな顔ではオッサンと言われても仕方がない。しかしこんな疲れた顔なのは、あの変な男の台詞の後のはずだから、その時はまだマシだったに違いない。……マシな状態で言われた方が余計悪いと気付きそうになったが、そこは暗がりだったからと自己弁護する。 冷水で何度も顔を洗った。歯を磨きながらようやく、思考が逃げをうっているのを牧は渋々と認めた。本当のダメージは財布でも計画でも老け顔のことでもない─── 曲がりなりにも三年間付き合ってきた恵理が、全く知らない人のようであったこと。いつからかは知らないが二股をかけられていたということ。そして……それらを知って、驚きはしても激しい怒りや悔しさが込み上げていない自分が、一番のダメージだった。 翌日は最後まで調子の上がらないまま部活を終えた。部活の仲間には風邪を引いたと嘘をついた。皆勘ぐることもなく納得してくれたため、自主練をしないで帰り支度をしていると、「早く治して下さいね」「大事にして、来週までに治せよ」などと口々に気遣ってきた。牧は少々のバツの悪さをポーカーフェイスに押し込んで早々に帰路についた。 自室に上がるべく階段を昇っていた時に携帯が鳴った。来るだろうなと思っていたから驚かなかったが、よく考えてみればこの着メロが流れたのはいつ以来だろうと思う。ノロノロとポケットから携帯を取り出す。 「…いや、今は家……。…………怒ってないよ。……うん…………まぁ、俺が鈍かったってのは分かったよ。…………もう、だからいいって」 部屋に入るとベッドへ上着も脱がずに横になった。恵理の話を聞けば聞くほど、みぞおちの辺りがどんどん冷たくなっていく。涙声を聞きながら牧は『早く熱い風呂に入らないと……』とどこか頭の冷え切った部分で思いながら、空いている片腕で自分の体を抱いていた。 長い電話が終わると、電話の最中はあれほど風呂に入らなければと思っていたのに、疲れてしまって動くのが億劫になり、牧はそのまま少し眠った。 夢の中で牧は携帯を耳にあてたまま黒い壁に向かって立ち尽くしていた。恵理が電話でつきつけた言葉達が携帯から零れて黒い壁に反響してハウリングを起こしながら重なり合う。 『試合の応援に行かなかったのは、ききわけがいい女じゃないと嫌われると思ったから、我慢してただけなんだよ』『いつも誘うのは私で、しかもその半分以上は断られて』『智也と遊ぶようになって分かったの。私は愛されたいタイプだったんだって』『紳一君が私を本気で好きになってくれることはないって、私から連絡なくても紳一君からは何も連絡くれないことで、よく分かったの』『もしあの時、紳一君が私を怒ったり叱ったりして連れ帰ろうとしてくれてたら……智也があの時あんな風に言ったのを、勝手なこと言わないでって。私の彼氏は紳一君よって言ってた』『昨日まで私は紳一君の彼女のつもりだった。でも明日、智也に返事する。もう私はフリーだから、付き合ってもいいよって』 電話だから見えないはずの彼女がいつの間にか牧の隣に立っていた。あの夜と同じぬらぬら光る唇の両端を微笑むように上向かせて、電話を切る直前に言った言葉を壊れたMDのように繰り返した。『紳一君もフリーだよ。思う存分……バスケと恋愛したらいいわ』と、何度も、何度も─── 耳元にあった携帯のメール着信音で牧は目が覚めた。ベッドヘッドに置いてあるティッシュで額に浮いていた不快な汗をぬぐう。 この時間帯のメールは仙道からが多い。そうであって欲しいと無意識で願いながら携帯を手にした。 『今夜はやたら星が綺麗だよ。けどそっちの方に雲が流れてるみたいだから、牧さんのとこからは見えないかな。一緒に星見ながら、だらだら夜明けまでビール飲めたら最高なんだけど。なんて言ったら怒られるかな(^-^;)』 いつもより少し長い文面が、冷えて麻痺していた胸のあたりに優しい灯火を与える。 「……仙道は、あったかい……な」 呟いて初めて、涙が目尻を濡らした。歪んだ視界で何とか返信を打つ。 『いつか天気の良い土曜の夜、ビール買って行く。飲酒運転になるから、その晩は泊めてくれ』 送信した後、牧は携帯をみぞおちにあてると弱い笑みを浮かべた。 今まで部活の奴等や友達などは朝練などそれほど気にせず気軽に泊めてきた。日曜に自分が泊まったこともある。 仙道の家に泊まらなかったのも、自宅へ泊めさせなかったのも、だから本当はおかしな話だった。 でも仙道だけは……無意識に恵理に悪いような気がしたのだ。恵理の彼氏である自分が守ってきた、自分の中での小さなけじめ。 ─── けれどもう、いいのだ。 みぞおちで鳴った着信音に牧は照れくさくなり、濡れた目元を拭うとぶっきらぼうに呟いた。 「もうかよ。返信、早ぇなぁ」
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牧、こっぴどくふられてます。可哀相〜!←書いたの誰だ(笑) そういえばミンチョコシリーズもスタートは
ふられ話からですね。どうも牧がふるより、ふられる方が好きなようです。梅園、けっこうイヂワル? |