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励ましの時に肩を抱くのはよくあること。そう理性で取り繕うように、後から自分に言い聞かせて仙道の肩へ数秒ほど置いたままでいた右手。その上に仙道の左手がそっと重ねられたのは、牧が手を離そうとする一瞬前だった。 吐息さえ絡み合うような距離から仙道が紅潮した頬のまま見つめてくる。牧はそっと頷いて見つめ返すと、優しく諭すようにつげた。 「俺は平気だ。別に吹聴されようが気にしない。恵理だって説明しても納得しないようなら、それまでの関係だったと割り切れる。それより俺は……お前は今日、色々と話しをするようになったばかりなのにと笑うかもしれんが。俺は、お前がこんなくだらないことで長々と煩わされて疲れていく様子を見る方が辛くなっちまったんだ」 これが泣き笑いの見本だ、とでも形容できそうな表情を仙道は浮かべた。 「……笑うわけ、ないじゃん。牧さんは……牧さんは本当に優し過ぎるよ……」 ぎゅっと痛いほど握ってくる手に力がこめられた。 「……誰にでも優しいわけじゃない」 仙道が「牧さん……」と、至極真面目でひたむきなまでの熱い瞳で見つめてくる。仙道の指が微かに震えているように感じる。 気付けば互いの高い鼻梁が触れ合いそうになるほどに距離が近くなっていた。 ─── この不自然な距離はどちらが作ったものだ? 牧の脳裏にチラリと疑問がよぎった矢先。薄く仙道の唇が開かれた。僅かな隙間の奥で言葉が形成されたようだったが、音を伴っていなかったため、牧の耳へは届かない。この距離で密やかに作られた言葉は、牧にはとても重要な─── 何か二人の関係が変わるようなものだったように思えて、もう一度言ってくれと訊ねるのを戸惑わせる。 口の中で消えた言葉は通じていないことなど仙道はもちろん分かっているはず。必要ならばもう一度言うはずだと、牧は黙って仙道の出方を待った。心臓のあたりがやけに騒がしいのは、緊張しているからだろうか。 仙道の閉ざされた唇がまた薄く開かれる。肩に置いた指につい力が入ったのを気付かれたのか、仙道は軽く頷いてから、言った。 「俺、今日からゲイになる」 「………は?」 「牧さんが恋人になってくれんだもん、俺、本物のゲイになります」 あまりにきっぱりと言い切られ、牧は固まった。今の仙道の台詞は笑うところなのだろうかと。しかし牧に長く逡巡する間を与えず仙道は畳み掛けるように続けた。 「牧さん言ってたよね。本気でやるから面白いって。ゲームも恋愛も何事も楽しくやるためには本気じゃなきゃね! せっかく牧さんが恋人になってくれるんだもん、もったいない。俺、腹くくりましたよ」 今のこの異様なほど至近距離に互いの顔があるという状況に、先ほどの意味深な仕種。それらに思い切り不釣合いな、叩き込むように明るくきっぱりとした仙道のこの台詞。牧はまんまと奇妙な渦に呑みこまれ、その距離を作ったのはどちらか、仙道の口の中で消えた最初の短そうな言葉は何であったのかということなど頭からすっ飛んでいた。 確かにゲイになれとは言ったが、本物のゲイになれなんて言ってないはず。恋人役は俺がすると言ったが、あくまでそれは『役』である。そもそも俺は恋愛を本気でやれといつ言った? 話が微妙に誤って伝わったまま決定してないか? 俺が恋人になるから本物のゲイに仙道はなると決めたというのはどういうことだ? 乱れまくる思考。それをなんとかまとめて、訂正すべく牧は口を開きかけたが、すぐ唇を引き結んだ。もしも本物のゲイとなった仙道の相手役を別の男がするとなれば、自分は計画自体辞めようとするだろう。それくらいなら俺だって本物のバイになって……と、わけの分からない対抗意識が浮かんできたため慌てたからだ。 牧は瞬間、ぐらりと視界が回った気がした。待て待て、俺。それこそそういう話じゃない。おかしいんだって。こいつのことをおかしいと言えた義理じゃない。今の俺こそがかなりおかしい……何にこれほど心が乱されて、どうしてこんなに動揺しているのかすら分からないなんて。 時間にすればたった二分程度の間に牧の脳内はのっぴきならないパニックに陥っていた。しかしそんなことは知らない仙道は、硬直している牧の手をそっと離して牧の膝へ戻すと改めて向き直ってきた。そして頭を一度下げてから晴れやかに破顔した。 「フツツカ者な俺ですけど、宜しくお願いします」 ゲーム前のような爽やかさで手を差し出され握手を求められる。 「お、おう。宜しく」 牧は条件反射で返事をすると、その手を握り返してしまっていた……。 「じゃぁ、牧さんは今日から二股かけてるバイになるんすね。女も男も虜にしちゃって手玉にとってる悪い男ってやつですか〜」 急に先ほどまでのしおらしさや切なげな様子から一転し、悪戯っぽい顔でニヤリとされて、放心気味だった牧は我に返り眉間に皺を寄せた。 「お前だってまだ奈美さんと別れられたわけじゃないんだから、同類だろ」 「まぁそうだけど。早く奈美と別れて牧さんだけの恋人になりたいな。奈美と別れても暫くは、牧さん俺の恋人でいてくれるんでしょ?」 「……まぁ、別れてすぐ俺と関係がなくなれば嘘だとばれるだろうしな」 牧の顔を仙道が覗きこんできた。 「ね。何で今日からなの? まだカードそろえてもいないのに」 「ん? あぁ。シナリオの詳細はこうだ。ずっと想い合ってはきたが他校で男同士なため、お互い想いあってはいたが我慢していた。しかし初めて同じ部屋で一夜を共にした時。それが今な。で、その今夜、俺がお前に襲いかかって一線を越えてしまった、と。だから今日から。それなら今まで特別親しげな様子がなかったのも頷けるだろう。明日は明らかに俺達が今日よりも親密そうにしてるのを奈美さんに見せ付けて不審に思わせよう。奈美さん・お前・俺の三人がそろう時はさらに俺達が仲良くしてみせればいいんだが……まぁ三人で会うことももうないだろうけど」 保険としてはあと三回くらい、奈美さんに見せ付ける機会を持てればいいんだがなと呟く牧に仙道は心底感心したように何度も頷いてから真顔を向けた。 「なんかすっげぇシナリオ完璧な気がするんだけど、それってさっき考え付いたものなんすよね? 咄嗟に牧さんが思いつくようなアイデアじゃないっつか、あまりに牧さんらしくもないアイデアだから最初すっげービックリしちゃいましたよ、俺」 「俺も自分で言ってて驚いた。俺、もしかしたら小説家になる才能あんじゃねぇのか?」 真顔で返す牧をしげしげと見ていた仙道が突然腹を抱えて爆笑しはじめる。 「あるあるある! しかも恋愛もの!! すっげー似合わないけど、でも俺が保証しますよ!」 「小説家ってのは冗談だ、バカ。保証すんな、嬉しくもない」 牧も苦笑を漏らしたが、あまりに笑う仙道につられて本気で笑い出し、二人はしばらくバカみたいに笑い続けていた。 ようやく笑いやんだ仙道は笑いすぎて目の端ににじんだ涙を指ですくいとると、首を傾げてみせた。 「それにしてもさ。俺が牧さんを襲うなら分かるけど、牧さんが俺を襲うのって変じゃない?」 「俺が元々バイだったというのを前提としなきゃならんだろ。俺は恵理以前は彼女はいなかったが、お前は今まで望んでいないとはいえ、ずっと彼女が途切れてないんだろ。突然男を襲うのは俺より不自然じゃないか。それと俺の性的嗜好や恋愛嗜好とかは寺澤には情報不足だから、与えられた情報には素直に納得するだろう。それに、何でお前が襲う方が自然なんだよ? 俺の方が年上だぞ」 「恋愛に年齢は関係ないっすよ。だって俺の方が身長高いし……俺の方は本当に牧さんを好きなんだから」 牧はいつの間にか収まっていた鼓動が、仙道のたわいない一言でまた一気に高まり息を呑んだ。耳が熱くなった気がして、片手で己の右耳を隠すように擦る。 「し、身長だって関係ないだろ。それにだなぁ、何でお前が俺を好きなんだよ」 今度は仙道が牧と同じように自分の耳へ手をあてた。 「……そりゃ、こんな自己犠牲してまで助けようとしてくれる人を、好きにならずにいられないでしょ」 そういわれればそうかと気が抜ければ、牧の鼓動は平静に戻った。どうもこいつの発言に踊らされているようで腹立たしい。 しかしどうにも胸中が完全には落ち着けずにいる牧を他所に、仙道は自分のベッドへ潜り込むと、とてもご機嫌な様子でハミングするように言った。 「あ〜、本当にあんたといるとあったかいよ。もうダメ。ヤミツキになっちまう」 「……お前、さっきから何回も同じような事言ってるよな。それって俺が暑苦しい奴だから周囲の温度が上昇して感じるとか言うんじゃねぇよな?」 少々ムッとした面持ちの牧を仙道は心底驚いたという顔で見つめたが、突如ふにゃりと眉尻を下げた。 「好きな人が傍にいると心があったかくなるでしょ。俺、暑苦しいなんて一言も言ってないよ〜。面白い被害妄想しますねぇ牧さんって」 「……」 「さ。明日も牧さん運転しなきゃなんないし、もう寝ましょうか。それとも」 「ん?」 仙道は布団をめくりあげると、ニコリと両方の口角を上げて器用にウィンクを一つしてみせてから、一言。 「俺を襲いにきてくれます?」 「なっ! 何いってんだこのバカ! あれはあくまでシナリオの話だろうがっ」 牧は慌てて仙道のめくられた布団を乱暴に戻してから、仙道の頭をペシンと平手で叩いた。 「はっはっは! なーんだ、残念だなぁ。ま、いいや。おやすみなさい、牧さん。気が変わったらいつでも襲って下さいね〜」 「バカ野郎が! 無駄口叩いてないでさっさと寝ろ!」 「はーい」 またもやいいふうに振り回されてしまい、くだらない冗談に本気で反応した自分が恥ずかしい。 恥ずかしさを舌打ちで打ち消して牧は布団にもぐった。 突然訪れた静寂に、ここは森の中であることを思い出す。来たくなかった気の重い小旅行で、まさか寝る間際まで笑って話をしている自分なんてカケラも予想しなかった。……仙道とこれほど近しい自分になるなんて、それこそ。 予想外なことばかりで冷や冷やすることも多々あった慌しい一日だった。けれどベッドに横たわって目を閉じれば、静かな美しさが満ちていた空間が仙道の柔らかい微笑みと重なって思い出されて、穏やかな心地よさに包まれている。 来て良かったと、まだあと半日あるというのに決断を下すのは……早過ぎるかな。 もう眠ったのだろうと思っていた仙道が、ひっそりと遠慮がちに。それでいて真摯な声をかけてきた。 「……仮にでもあんたの恋人になれたなんて、夢のようだよ。……でもね、面倒になったり嫌になったらいつでも言って。牧さんが不利になることだけは避けるように、俺、もう少しそのシナリオ使わないで別れられるようにやってみるから。牧さんは無理しないで。あんなに真剣に考えてくれたことが……俺には過ぎた幸せなんですから」 「……いいから、もう寝ろ。大丈夫、上手くいくさ。おやすみ」 「うん……おやすみなさい」 眠りにつくまでの間。本当に欲のない仙道が言った、『好きな人が傍にいると心があったかくなる』という言葉とその意味を、牧は穏やかでどこかほんのりと切ない気持ちで考えていた。
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しっかりバカ路線が決定(笑) 牧が描いたシナリオは、前日に母親が食事の時に語っていた
昼ドラが頭の隅に残っていて、それを脚色しただけなの。でも牧はそのことは忘れているという裏設定有。 |