Better half
作者:cyさん



この手には、余ってしまう人だから。



昨日と今日が交差する宵闇を抜け、うっすらと其々の輪郭が明らかになる頃、じんわりと開けた視界の先には切ないほどの純白の荒野があった。
呆れるほど重ねた余韻が残る気だるい体を起こしても、たった独りのわびしい空間が広がるだけ。確かめるように、二度三度と瞬きをしながら、何時もどおりの渇いた笑みをもらす。

(・・・居ねぇんだよなぁ・・・)

振り切るように、ぐっと伸びをする。緊張が解けた瞬間、自分でも驚いてしまうほど大きな溜息がでた。早朝特有の冷たい空気を吸い込んで、腕を頭の後ろで組み、ぼんやりと薄暗い天井を見上げる。時間は5時を回ったところのようだ。蛍光色の愛想の無いデジタル表示が、視界の端で点滅している。
恋だの愛だの、そんなモンはわからない。己にわかるのは、居て欲しい人が手の届くところに存在しているか、居ないか。それだけだ。そして彼の人は何時だって、居ないのだ。記憶の中の姿が、夢だったんじゃないかと思わず疑ってしまうほどの潔さで、彼はその気配の残像すら残さない。それが少しだけ、口惜しい。

互いが互いを思いあっていることに疑問も後悔もない。ただ、・・・これは極めて女々しい妄想なのであるが・・・、少しは昨夜の甘い余韻に浸るといった微妙な間があってもよいものではないか。目が覚めたときに、彼の輪郭が視界にあれば、どれほど素敵なことだろう。などと手前勝手なことを思ってしまう。
望みすぎは、重々承知。一緒に暮らし始めて一年が経つが、実際此処までこぎけるだけでも、結構な道のりだったのだ。

『お前はお前。俺は俺、だろ?』

いつだったか、つまらない会話の端に投げられた、彼の言葉を思いだす。意外に深い、その一言を改めてかみ締める。
そう、彼は、彼。俺は、俺。
確か、続いた言葉は、結局他人だから、という呟きと何処か照れくさそうな微妙な笑みと、それを隠すかのように泳ぐ視線。傍で見ているこちらが恐ろしいくなってしまうほどストレートに、そして自然体で生きている彼には、同時に相手の胸中を言語を介さず瞬時に察してしまう、そしてこちらには悟らせずに完璧な距離を測ってしまうという特技があるのだ。これがなかなかに手強い。故に、彼の行動の意図を測るのは、相当に難しい。

手に届かない、と思っていた人が、自分の人生の中に居て。
毎日顔を会わせて、それなりにそれなりな会話して、生活して。
触れて、愛して。
愛されて。
昔からは考えられなかった現実が目の前にあるのに、それでも満足できない自分が居る。もっともっとと求めてしまう。それが、時折彼と己に起こる、唐突なディスタンスの原因なのだろうか。

(俺のわがままは、墓まで持っていくしかないのかねぇ・・・。)

あわわ、ともう一度大きく伸びをし、シーツの海と決別する。苦い現実に向き合うのは得意ではないが、堂々巡りの思いに浸るのはもっと苦手だ。カーテンに手をかけ、海岸線に向かった大きな窓を小気味良く開け放つ。
彼は、此処にはいない。でも、何処に居るかは知っている。





昇ってくる朝日の陽光が、初夏の海を柔らかく染めている。穿いてきたキャンバスシューズを脱いでざくり、ざくりと白い砂を踏みしめながらぶらぶらと歩いていけば、見覚えのある輪郭を見つけるのは容易い事だ。海から上がったばかりなのだろう、濡れた髪から落ちる雫が、昇りつつある朝日に照らされて鈍く反射している。目指す人物は、砂浜に半身を起こして、蒼と緋に染まる水面をぼんやり眺めていた。

「おはよ。」

そう声をかければ、す、とこちらに視線をずらして優しく笑って、軽く頷いた。
出会った頃、強豪チームの主将だった彼は、何時も沢山の人間に囲まれてその中心であった。如才なく立ち回り、信頼も厚く、自校他校に関わらず一目置かれる存在。それは、競技を離れた今でも変わらない。
ただ、そういった環境を離れたところの彼と向き合う時間が増えるにつれ解ったのは、恐ろしく言葉数の少ない人物だということだ。打てば響く。的確に、少しのウィットを添えて。だから、印象としてはそれほど寡黙ということはないのだが、よくよく観察すると、自ずから言葉を発することは極端に少ない。それに気付くほど、彼の中に入りうる人間が少ないということかもしれない。

「牧さんさぁ・・・」
「ん?」
「・・・此処、好きだよね。」

本当は他に言いたいことがあったはずなのに、言葉に成らない。
ただ、彼の顔を見ただけで、気持ちの奥の方でざわめいたものが、すうっと何処かへ行ってしまったように思う。加えて其処に至るまでに悶々と考えをめぐらしていたことが至極どうでも良いことのような気がしてくるから不思議だ。情けないことだが、こればかりは訓練するわけにもいかないから切ないことこの上ない。

「好き・・・というより、馴染むとか落ち着くという感じかな。結局此処が、一番だな。」

へえ、とポケットに手をつっこみつつ相槌を打ち、彼の眺める海を見る。
波間にぽつぽつと人影が見える。横に座る彼も、つい先ほどまではその影の一つだったのだろう。

「俺も、やってみようかな・・・サーフィン。」

そう、何の気もなしに呟けば、座ったままの彼は一瞬の沈黙の後、少し笑った。

「やめとけ。」
「なんで?あんたと過ごす時間、増えていいじゃん。共通の趣味、っての?」
「そりゃバスケで十分だ。それに、お前、朝弱いじゃないか。」
「牧さんが起こしてくれればいいさ。」

そうすれば、たった一人で夜明けを迎えなくてもすむ。一石二鳥じゃないか。
我ながら名案だとそうこっそり思いつつ彼の人を盗み見れば、軽く目を伏せてなにやら思案顔で小さく呟いた。

「・・・それはまずい。」
「何で?」

真面目に問い返えしてみる。思いがけず非難がましい声音だったのかもしれない。意外なことに彼は視線を彷徨わせ、半ば罰の悪そうな顔をした。初夏の朝日がその顔にくっきりとした陰影を落とす。
先を促さずその横顔を見つめ続ければ、やああって軽く唇を舐め、笑うなよ、と前置きして彼は訥々と声を紡いだ。

「怖いんだ。」

らしくないといえばこれ以上らしくない言葉はない。
何が起こっても早々揺れない彼に、恐れるものなど無いだろうと思っていた。己等の関係性に限って言えば、自分のほうがよほど喪失への漠然とした不安を抱えているのだと感じている。現に、何時だって彼は己の前を歩いており、彼を追いかけたり探したりするのは、何時もこちらのほうだから。
だから、驚いたというより、訳がわからず、問い返した。

「何が?」

彼は、無駄な言葉を無駄に発する人間ではないから、的確な言葉に辿り着くには時間がかかる。潮騒を聞きながら、ゆっくりと横に腰を下ろせば、視界を右から左に、鴎が横切っていった。彼は、方膝を抱えて座り、それに軽く顎を添えた。

「朝起きて、お前が居て、安らかで満たされていて・・・それに慣れてしまう自分が正直怖い。」

そっと見遣れば伏せ目がちな瞳が、微妙に揺れている。それが、スローモーションのように像を結び、今聞いたその言葉が、脳の中でリフレインする。

ヤスラカデ ミタサレテ
コワイ

コワイ

文字通り、心臓が跳ねた気がした。
恐らく、その意味は己が思うものだろう。本人が自覚しているかは微妙だが、余りの衝撃にそれを信じることができない。まさか、彼が。だから、あえて再度問う。
興奮で掠れる声は、まるで自分のものではないようだ。
潮騒の音すら、何処かへ吹き飛んでしまった。

「・・・何が?」
「お前の居ない時間を、過ごせなくなる。」

・・・決定打だ。まいった。
俺は、眩暈がして、空がぐらりと揺れた気がした。目を閉じ、溜息を付きつつ揺れる空を仰ぐ。
彼は再度考えるように黙った。そして、小さな溜息と供に、後を続けた。

「サーフィンは、独りでやりたい。」
「俺の、わがままだ。すまん。」

もう、いいって。
そう胸中で思う。口元が緩んでいくのが自分でも解って、どうにも始末に悪いが、嬉しいのだから仕様がない。
勘弁して欲しい。これ以上は真面目に心臓に悪い。

「牧さんさあ・・・。」
「?」
「今、自分が何言ったか、解ってる?」
「?」
「怖くなるほど、好きだって。俺のこと。」

ば、っと音がしそうなほど勢い良くこちらを見た顔に、ついに我慢が尽きた。たまらなくなって噴出し、笑った。

「だから、独りになって熱冷ましてんだってさ、あんた。」
「そ、そんなことは、」
「そんなことは、あるだろ?」

嘘のつけない性質だから、否定はできないはずだ。それは、知っている。
案の定、見開いていた瞳を決まり悪げにそらしながら、彼は言った。

「・・・そう、なのか?」
「そうさ。」

長い沈黙が続いた。

「いいじゃん、そういうの。」

互いが見つめる海は、空の青さを映したように深く、朝の風は体の隅々まで広がるように心地よい。
このまま風に吹かれて飛んでいけそうだ。そんな清々しい気分になった。此処は、俺にとっても特別な場所になるだろう。

「カッコいいことばっかりじゃ、ないでしょ?」
「・・・。」
「そういうあんたのほうが、いいよ。俺も安心。」

一瞬、吟味するように彼は与えられた言葉をかみ締める。その小さな間も、愛おしい。

「安心?」
「うん、まあね。」

一方通行の気持ちじゃないってわかるからさ。
ダメ押しでそう付け加えると、流石の彼にもこちらの意図は伝わったらしい。いきなり立ち上がった。

「・・・泳いでくる。」
「いってらっしゃい。」

離れていく背中を見ながら、今日もきっと暑くなるなとそう思う。
もう直ぐ始発列車が止まるから、今は静かなこの浜辺も多少は込み合ってくるに違いない。
そうなる前に、戻るかな。あの部屋に。

独りだけど、独りじゃない。
彼の不在は、彼なりの照れ隠しなのだ。
そう、この瞬間も。

立ち上がって手を振れば、波間の影の一つが了解、というように片手を上げた。
満たされた一日が今日も始まる。

                                        






end



『完全なリバを目指しました』と仰って誕生日に贈って下さったこの小説。全てにお互いを
想い合う「好き」の気持ちがいっぱい溢れていて涙腺が痺れました。ありがとうございましたv

 


[ back ]