S A X
作者:夢金さん



 本当なら、日本学生バスケットボール連盟の仕事など入ってくるはずはなかった。今日から試験週間が始まったからだ。
 だが、日本学連の顧問は問答無用に俺に仕事を持ってきた。まったく、顧問は俺を買い被っている。俺は試験週間を利用して今までの総復習をし、万全の体制で臨んでいるからこそあの成績を残しているというのに。
 …ん?
 聞き慣れた微かな音が鼓膜を震わせ、俺の手を止めた。散々罵っていた思考が、音に引き寄せられる。音の方向からして、音楽室からだろう。何時も聴かされているだけだが間違いない…仙道の音だ。
 だが、音の正体が解かると同時に疑問に思う。今日は仙道のほうが一時限少ないから、先に帰ると言っていたはずだ。俺が急に仕事が入ったことを知らない筈だから、俺を持っているわけでは無いだろう。だとすると、仙道のことだから誘惑に負けて音楽の世界に引き込まれたのに違いない。
 試験勉強など頭の片隅にも置いていないのか。
 嫌みな男だな。
 だんだん腹が立つのに任せて書類に判を押し、さっさとファイルに纏めて戸棚に入れた。
 任務完了。
 一息ついて仕事に使ったものを片付け、帰る準備をしはじめた。


 仙道は両親が音楽家である為、本人もそれに違わず音楽の使徒だ。実家は防音完備の3階建てで、地下に専用の音楽室まである。音楽室は、クラシックやジャズの名曲名盤が壁一面に並び、奥のブースには巨大スピーカーとPA機器、ドラム、エレキギター、ウッドベース、グランドピアノなどの大型楽器が置いてあり、その威圧感に俺は毎回息が詰まる。頻繁に行き来する仲になった現在は、俺たちの逢引の場にもなっているが、行くと必ず自作だという音楽データをBGMに聴かせ、最後には感想を求め嬉しそうにその曲についての薀蓄を垂れ流されるのだ。
 そんな仙道に…悔しいが、俺はどんどん魅かれた。
 音楽のことを話す仙道の瞳は中高生のガキのように無防備で、俺と音楽の素晴らしさを共有しようとする漆黒の目は…とても魅力的だ。仙道の家に行くと、俺が知らない仙道を、たくさん見られる。バスケをしている時とは違いいっさいの仮面を取り払った仙道との時間。初めのうちこそ迷惑がっていたが俺だが、仙道を知る度に、この男の底知れない魅力に取り付かれている自分に気がついた。
 もう、後戻りが出来なくなっていた。

 そんなことを考えながら片づけを終え部室を出ようとしたとき、俺は急に不安になって立ち止まった。
 あまり考えないようにしていたことだが、考え出すと止まらない。
 蠱惑的でセクシィな曲が片隅に聞こえ、更に不安が煽られる。


 実は、音楽や楽器の話しは耳が腐るほどするし、実際に仙道の演奏だと本人が言うのも聴いたことが有るが、彼が俺の前で一度も演奏したことない。そんなに好きなら俺の前で演奏しろ、と何度も迫ったが、たいてい変なことを言われてはぐらかされてしまう。
 とてつもなく妖しい。
 わざわざ録音して聞かせる理由が解からない。
 しかも今、図ったように俺が先に帰った(と仙道は思っている)時を見計らって演奏しているとはどういうことだ? それとも、今聞こえているのも、生ではなく録音したやつだろうか? まさか、自分が演奏したと偽って、俺に隠れて誰かに演奏させていたのか。
 俺に隠れて…
 そこで俺の思考がピタリと止まる。仙道が管弦楽部らしきどこぞの女Aと密会して、その女に演奏させている場面が浮かんだ。
 仙道は偶に頼まれて気まぐれに管弦楽部の指導に行くことが有る。その場面がリアルに想像できてしまい、それに加え、仙道が以前俺をはぐらかした言葉が脳をかすめ、腹の底から吐き気がした。
 不快指数、最高潮。

 俺は微かに聞こえるだけの音色にさえ不快になり、渦巻く感情のままに乱暴に部室の扉を締め施錠した。勢い良く踵を返し、自分でも解かるほど眉を怒らせながら音源へと向かう。全身の血液が沸騰しているのを怒りのせいと誤魔化し、俺は走っているのと違わぬ速さで突き進んだ。既に太陽が可視光線の色を分単位で変える角度まで差しかかっている今の時刻に、俺の疾走を止める者はいない。

 音楽室に付くと、俺は一息吐く。
 ドアの向こうからは、相変わらず甘い音色が聴こえる。
 これは、素人が聴いても生音だ。
 この中に仙道と誰かがいるのかも知れない…。
 急に俺は、足下が覚束なくなった。
 ここまで来て怯むな、俺!
 持前の負けず嫌いを無理矢理引っ張り出し、俺は歩いてきたのと正反対に静かにドアを開いた。
 其処には、予想していたのと全く違う現実が有った。

 金縛りにあったように動けない。
 産毛が総毛立つ。
 目頭が熱くなる。
 濃厚な空気。
 目眩。

 言いようのない憤りを感じ、心臓は試合中にように五月蠅く走り出していた。


 ――畜生。
 ――初めて見た。
 ――嫌みなくらい、絵になっていやがる。
 ――夕日を背に、黄金のボディを煌めかせるテナーサックスを吹く。
 ――こんな仙道、俺は知らない。

 いつも俺を遠慮なしに撫で回す大きな節くれだった奇麗な手は、サックスのボディを愛しそうに愛撫して甘い声を上げさせている。
 いつも俺を翻弄する唇は、マウスピースにいやらしくしゃぶりついている。
 いつも俺を熱くする双眸は、外の世界を拒絶し硬く閉じられている。
 いつも俺を溺れさせる腰は、サックスをより高みへ導かんと揺れている。

『えっ!吹くの? 
 ――ごめん。牧さんの前では吹けない。
 だって、吹いてる間は浮気してるんだよ』

 ――こういうことか。

 本能的に、足が出た。

 ドカッッ!
 がたがたがたがた…
 

「なんだ!?――っま、牧さん!?」
 目の前に並んでいた机が突然雪崩を起こしたのに驚愕した勢いで瞬時にマウスピースが唇から離れ、首を辺りに巡らせて俺を見止めた仙道は再度驚愕したように双眸を見開いた。
 容赦なく、仙道を睨めつける。
 だが、そんな俺に臆する仙道ではない。
「これ、もしかしなくても牧さんがやったんすよね…まいったなぁ…」
 俺の手癖足癖が悪いのを知っている仙道は、驚愕の色を笑顔の裏に隠して、全然まいってない何処までも俺を甘やかす微笑で言ってのけた。
 俺の、仙道の顔だ。

 畜生。
 仙道の意識が俺に向かったことに安堵している自分が腹立たしい。
 俺は内心の嫉妬を押し隠して必要以上の鉄仮面で仙道のそばに寄った。
 音楽室の前面三分の一が一段上がった作りになっているそこには、仙道とグランドピアノと彼に抱えられた。
 ――浮気相手。

「浮気者」
 思った瞬間に口から飛び出ていた。
 酷くかすれて上擦った情けない声が。
 サックスを弄んでいる仙道の手を払う。
 乾いた音が響き、すぐに辺りに拡散した。
 支えを失った楽器は、仙道の首に吊り下げられ、左右に揺れ動く。
 払った後に自分の行動に気がつき、醜く歪んでいるだろう顔を見られたく無くて俺は視線を反らして俯いた。
 夕日が長い影を作っている。
 目の前で、サックスが輝いている。
 まるで、仙道に愛されていることを俺に主張するかのように美しく…

 ――ああ…最悪だ。
 無機物に本気で嫉妬するなんて正気の沙汰じゃ無い。
 仙道が女と密会していないことに安堵しなければいけないのに、女と密会していると思ったとき以上に嫉妬している自分が居る。頭の片隅では解かっていても、俺の脆い理性では、たとえ楽器であっても仙道に愛されるものが憎たらしくて仕方がなかった。仙道が音楽を心の底から愛しているのを知っているから、何時もは愛しいはずの音楽を愛する彼の心が、今はとても憎い。
 今すぐにでも仙道からサックスを引き剥がして、叩き壊してやりたかった。
 ずたずたに壊して、二度と仙道に触れさせないようにしてやりたかった。
 啼かされていいのは、俺だけだ!
 彼に関することに対して、俺の心は幼児のように我侭なって暴走する。
 独占欲の塊の俺がこういう行動に出るだろう事を予想していたのだろう。だから、俺にサックスを吹く姿を見せまいとしたのか。あんな、冗談にしか聞こえないことで、俺をはぐらかして。言葉通りの浮気現場を見せまいと。
 何時の間にか強く噛み締めていた唇に鉄の味が広がり益々不快になる。
 見計らったように、暫く黙っていた仙道が俺の唇をゆっくりと撫ぜた。
「すみません、牧さん」
 仙道が何時もする、俺を宥めるときの行動。
 幼稚なくせにプライドだけは高い俺を不快にさせないために、こういう時は決して抱きしめたりはしない仙道の優しさが、今は痛い。
 俺の視界で未だ仙道の懐はサックスが占領している。
「こっち向いてよ、牧さん」
 何時までも答えない俺にしびれを切らしたらしい仙道の、少し低めた強請るような声に俺は身震いした。
 唇を辿っていた指が顎を捕え、上に持ち上げられる。
 文句を言おうとして、漆黒に出会って、俺の心臓が跳ねる。
 少し垂れ気味の男くさい双眸は、俺の言語能力を強奪する。
 視界の端で、サックスがグランドピアノの上に置かれるのが見えた。
 木と真鍮がぶつかる音に期待する。
 そして、降らされた優しいキス。
 ただ触れあっただけで仙道の少し湿った唇はすぐ離れた。
 不満が顔に出たのだろう、仙道がくすくすと笑う。
「これじゃあ、許してもらえないか」
「…当たり前だ、浮気者」
 先程のキスで些か憤怒が落ち着いた自分をゲンキンに思いつつ、悔し紛れに不快さを滲ませながら仙道を詰る。
 しかしそれでもニュアンスは何時もの俺の調子で、それに気づかないはずない仙道の眸が笑った。
 そこに雄の匂いを感じてドキリとした。
 欲情した事をはぐらかそうと、隣に置かれた浮気相手に視線を移すと、今度は声を出して笑いながら仙道が俺を強く抱きしめ耳元で囁いた。
「やっぱり、牧さんって可愛い」
「…なにっ!」
 吐息交じりに耳を愛撫した台詞が聞き捨てならない。
「俺の言葉にここまで反応してくれるなんてね。冗談だったのになぁ」
 あまりに低くかすれた声だったため言葉の意味が瞬時に理解できず、仙道に問うように視線を遣りながら数度瞬きして頭を整理して…ようやく台詞の意味にたどり着いた俺は仙道の鳩尾に一発。
「痛いよ、牧さん」
 耳元で痛がる声に、少し怒りが納まる。利き手で殴ったおかげで、仙道の目尻には涙が浮かんでいた。
「…もう、あんたって本当に乱暴者だよなぁ」
「うるさい。冗談とはどういうことだ!」
「いや…牧さんがあんまり音楽好きじゃないことを知ってたからさ、つい…ね」
「ついとはなんだ、ついとは…俺は本気で仙道が誰かと浮気してるんじゃないかと…」
 ここに来るまでに感じた焦燥感とサックスを吹いている仙道の姿を見たときの切なさが胸を圧迫し言語能力を再び奪った。俺は口下手なぶん手足が先に出るほうで、その理由は嫉妬深い性格からもたらされているようだ。
 俺が失語している間に、仙道は真顔に戻ってサックスを引き寄せた。
「牧さんを不安にさせて悪かったです。俺もちょっと悪戯が過ぎたかな」
 愛しそうにサックスを撫でる仙道の顔は…俺に向けるものと同等――いや、それ以上で。
 解っていたけれど、仙道の心には、俺だけではない事を思い知らされた。
「セックス…」
「え?」
「お前はそれとセックスしているようだった」
 俺の台詞に、さらに仙道の双眸が見開かれる。
 そして、口元に苦笑。
「牧さんって、ほんと嫉妬深い」
「……………ふん」
 お見通しらしい仙道は、サックスを放して俺の元へ寄ってきたかと思うと、頬にキスをして素早く通り過ぎた。
 咄嗟に何が起きたのか分からず俺は動けなかったが、暫くして後ろからガタガタという金属音が響いたので振り返ると、机と椅子を元通り戻している仙道がいた。
 今は浮気を咎めている最中なのに、なぜ机を片づけているのかと血が昇る。
 さらに机を薙ぎ倒してやりたくなった。
 しかし俺のメンタル面まで熟知しているらしい仙道は、手を動かしながらこういった。
「さっさとこれ片付けて帰りましょう。――俺の家でいいですよね。今日は両親ともフランスに出張に出てますから、泊まっていってくださいよ。今まで焦らした分、飽きるほど生で味わわせてあげますから。覚悟して下さい」
 それが音楽なのか――セックスを意味しているのか、わからない。
 でも、どちらでも、この男を独占できるならかまわないと思った。
「望むところだ」
 そう受けて立つと、自分が苛めた机を戻すのに参加する。
 仙道は、片付けながらも先ほど吹いていた曲を口笛で奏でた。かなり崩して吹いているが、それが何の音楽であるか、詳しくない俺でもようやくわかった。
 ――セクシー・ユー
 郷ひろみが『モンロー・ウォーク』をカバーした曲だ。仙道が勝手に俺のテーマソングにしている曲をジャジーにアレンジしていたのだ。
 血が昇る。
 先ほどの演奏中――俺の事を考えていたのか。
 俺の事を考えながらあんな演奏を。
 くそっ。
「早くかえるぞ仙道!」
「ええっ」
 俺は机を適当に立て直すと、仙道を急き立てる。
 あわてて楽器を仕舞った仙道の腕をつかみ、大急ぎでキャンパスを駆け抜けた。
 試験勉強?
 知るか。
 一刻も早く、この男が欲しかった。



―了―






夢金さんが『サックスって牧さんみたいにセクシーです。』とのこと♪ ホントそうですよね!
この続きで襲い帝王受をみたい18歳以上で鍵をお持ちの方は今すぐGOだ!
夢金さん、JAZZが似合う男らしくも色っぽい二人をありがとうございましたvv
※こちらのページの素材は「音楽fanドットコム」様からお借りし、明度加工しました。

 


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