tight smile gangsta,
reborn elegy, closer to fine

written by 織る子
I.-III. 2004.11.09.update / IV. 11.11.update / V. 11.12.update / VI. VII. 11.13.update / VIII. 11.14.update / IX. 11.16.update
X. 11.18.update / XI. 11.19.update / XII. 11.19.update / XIII. 11.20.update / XIV. 11.21.update / XV.-XVI. 11.24.ipdate
XVII. 11.27.update






I.

横浜の、繁華街からちょっと外れたとある場所に〈 Bar.ROB ROY 〉はあった。
カウンター席がたった6つの、小さな小さな店。
60はとうに越えているだろう偏屈で頑固そうな親爺が一人で切り盛りしているそのバーは、雑居ビルの地下2階にあって、こんな場所じゃあそうそう客も入らないだろうに、親爺が風邪で寝込んだりしない限りは年中無休で早朝5時半まで開いている。

女の処から朝帰りの途中、ふと目について細い階段を下りてみたのがきっかけだった。
オーダー以外ではこちらが話しかけない限りむっつりと黙り込んでいる親爺や、CDでも有線でもなく、溝が随分削れていそうなジャズの名盤レコードがBGMなところが気に入った。
料金も、懐に寒風が吹いている身には非常に有難いものだった。

そんなこんなで時々通うようになった、古ぼけたバーでの、ひとつの出逢い。
それが自分自身と自分の今後とを大きく変えてしまうなんて、当時のオレには思いも寄らなかった───。


II.

中学・高校とヤサグレていた仙道は、気がついたら、横浜でも一二を争う暴力団の”枝”の若い衆になっていた。枝というのは、分家とか末端の構成員とかを指して使う言葉だ。仙道の場合は後者である。
運もコミで実力本位の極道社会に入って、5年。
風貌は優男だが体格に恵まれており、肝も据わっていれば腕っ節も強い。けれど体力馬鹿ではなく、頭もキレる。そんな仙道はイケイケ(武闘派)の若い者として兄貴分たちから頼りにされ、若頭からも目を掛けられていたのだが・・・兄弟盃を交わした兄貴分が組内の揉め事で下手を打ってからというもの、冷や飯食いもいいところだった。シノギといえばケツ持ち代(用心棒代)の回収くらいなもので、それにしたってカジノやゲーム屋のように額の大きな回収先は回ってこない。キリトリ(借金の取り立て)なんて、もう半年以上もさせてもらっていない。兄弟たちは羽振りの良い兄さんたちのところへ一人去り二人去りして、落ち目の兄貴についているのは今では仙道一人きり。女たちから貢がせた金で、二人分の、組への毎月の上納金と生活費を賄っている。

そんな生活が、一年近く続いていた。

男意気に惚れて舎弟に、なんていうのは、ヤクザ映画の中だけのこと。成り行きだったり、勢いだったり・・・大抵は、いつの間にか兄弟やら親子やらになっていた、というのが本当のところだろう。仙道の場合も、路頭に迷っていたところを助けられただとかいうのでもなし、恩というほどの恩があるわけでもないけれど、少しは情があるものだから、本心を言うならもう何もかもやる気がなくなっているのだが、それでも逆縁を切ることなく今に至っているのだった。
もしかしたら、わざわざ波風を立てて盃を水にするのが面倒臭いだけかもしれない。
生来野心らしい野心がないため、血反吐吐いてもこの反目をひっくり返してやる、なんて気にもならない。
(このままじゃ腐ってくだけだな)
自分でも時折そう思うほど、仙道は無気力なまま日々を送っていた。

そんな、ただ一日一日を食い潰していくだけにも思える毎日のなか、〈 Bar.ROB ROY 〉で過ごす早朝のひとときは、
秘め事めいて、不思議と心が躍って、
ともすれば自暴自棄になりそうな仙道の心を危ういところで支えていた。


III.

「来てたのか」
ほんの少しだけ掠れたような、耳に心地良い低い声。
焦がれるくらいに聞きたかった声が、一週間ぶりに仙道の鼓膜と心を震わせた。
「・・・あんたは、やっと来たね」
氷が溶けて薄くなった水割りのグラスを片手に顔を向けると、待ち人は唇の端だけで笑み、仙道の隣に腰を下ろす。
週も半ばの、午前4時。二人のほかに客はない。

男を待つ間に薄まりきった酒は、ひとまず横に置いて。
それもひとつの習慣になっているから、親爺はやっぱり無言のままで、いつもの酒を二人分作る。
そうして互いに名前も知らない男二人、何にともなく乾杯して、一時間だか一時間半だかの時間を一緒に過ごすのだ。

二人で飲むのは、これで6度目か、7度目か。
思えば酔狂なことである。
黒いスーツに開襟シャツ、どう見てもチンピラな身なりの仙道に対し、同じスーツ姿でも相手の男の方は品の良さそうなネクタイも締めて、こんな時間だというのにパリっとした印象だ。年齢も、多分、幾つも違うのだろう。
そんな二人が月に何度か、約束するでもなくカウンターに並んで座り、自分自身について語らない代わりに相手のことも詮索もしないで、多くは沈黙のうちに流れていく時間を共有する。
取り留めない言葉の遣り取りが気持ち良かった。
ぽつりぽつりと交わす言葉が途切れても、自分がいて、隣にこの男がいて、おんぼろなジャズが流れるなかグラスを傾けていられれば、何故とはなしに心地良かった。

(あんたといると、ナンでこんなに落ち着くんだろうな)
頬杖を突き、グラスの縁を唇に当てたまま、仙道は男の横顔を眺めてそんなことを考えていた。
視線に気付いた男が横目で、何だ、と問い掛けてくる。
別に・・・と答えかけて、ふと湧き上がってきた悪戯心に、ニヤリと顔が勝手に笑った。
「あんたさ、女たちから”泣きボクロがセクシー”とか言われない?」
脈絡なく言われて目を瞬かせた男は、次の瞬間には短く笑って、グラスを持ったままの右手で仙道の胸あたりを指差した。
「取り敢えず、男から言われたのは初めてだ」



どんな好い女といるより気持ちが潤う、得難い時間。
そんな時間は流れていくのも速くて・・・
また訪れる、今度はいつ会えるとも知れない別れの時刻。

あんた、名前は何てーの?
次はいつぐらいに会えるかな。

聞きたいような、聞かないでおきたいような。
(なんかオレって、悪い男に惚れちまった女みてぇ)
スラックスのポケットに両手を突っ込み、笑いを堪えながら、先に立って階段を上っていく男の背中を追いかける。
笑い声なんか出さなかったのに、男は肩越しに振り返ると、何だ、と言いたげに片眉を上げた。
名前も知らない、次の約束だってしない仲なのに、二人の間ではこういうちょっとした遣り取りが自然に成立する。
これって何か、ツーカーっぽくって嬉しくねぇ?

「じゃあな」
「うん、じゃあネ」

今日もやっぱり名前を聞かないまま、次の約束もしないまま、「また今度」なんて言葉も言わないまま、
店の前で別れた二人は、別々の道を帰っていく。

IV.

「おい仙道! ちィとこっち来いや!」
いつものように回収したケツ持ち代を事務所に納めに行くと、待ち構えていたらしい補佐(若頭補佐)から大声で呼びつけられた。何か不手際があっただろうかと思い返してみても目星はつかない。わかるのは、事務所の空気も周囲の連中の雰囲気も、どこかいつもと違うことだけ。何だか嫌な予感がした。
補佐の部屋に通された瞬間、嫌な予感は確信に変わった。
「・・兄貴・・・?」
黒革の大きなソファに、補佐の舎弟と若い者の間に挟まれるようにして仙道の兄貴分が座っていたのだ。イケイケだった当時よりもウェイトの落ちた体は一回り小さくなってはいるのだが、覇気のなさが、その存在を実際よりも矮小に感じさせる。
余程の手柄でも上げない限り、こんな立派な応接セットに再び座ることなどできない男。
その彼が、目の前で肩をすぼめ、俯いて小さくなっている。何かあったのは一目瞭然だ。
(もう・・・あんたの極道人生も終わりなんだな)
ということは、オレも一蓮托生か。

仙道の心の内は、案外、淡々としたものだった。
勧められるまま向かいのソファに座り、上座の補佐の言葉を待つ。
「コイツが博打で作った借金、元利あわせて一千万にもなっとるらしい。何せ身内のことだからナ、こいつらも言いにくかったそうで、俺も今日聞いたところでなあ」
そう言って自分の舎弟を顎で示す。
嘘だな、と、仙道は直感した。ハメられたのだ。組ぐるみではないだろうが、少なくとも絵図を書いたのは補佐だろうし、残りの二人もグルに違いない。ろくに返済の催促もしないまま借金を肥え太らせて、頃合いになったところで掌を返した、というあたりだろう。
でも何故今さら、もう二度と日の目なんて見ないだろう男をハメなきゃならないのか。
(この話、タダでは終わらないな)
ローテーブルの向こうでは、とうとう泣きの入った兄貴が「すまん、本当にすまん」と何度も何度も繰り返す。その姿ができるだけ視界に入らないようにしながら、仙道は緊張に冷たくなる指先を握り締め、じっと補佐を見据えた。
「今のシノギでは、一千万なんて大金、とてもじゃないですが返済できません」
「だろうな」
「では・・・・どうしろ、と」
虚勢なのか、開き直りなのか、自分でもわからなかったけれど。挑むように尋ねると、向かいの若い者がダン!とローテーブルを叩いた。
「てめぇ仙道! それが借りた金返せないっつってるモンの口のきき方かッ」
そう捲くし立てられても仙道は微動だにせず、補佐の返事だけを待っている。
数秒間の、睨み合い。
「・・・・・錆びついちゃァいねぇようだな」
先に視線を緩めたのは補佐の方だった。
ドサリとソファの背に体を沈め、微苦笑にも似た表情で唇を歪めると、先程声を上げた若い者へと顎をしゃくる。
「お前はそいつを別室に連れて行け。馬鹿なことしねぇように見張っとけよ」
わかりました、と立上がった若い者は、泣きの入ったままの男を引きずるように連れて出て行った。

仙道の胸中には惨めさや引きずられていく男への同情こそあれ、どこをどう探しても、もう、悔しさなんていう激しい感情は見つからなかった。

V.

それからの3日間、仙道は金と時間を与えられた。
その間にしておくよう言いつけられたのは、「そこそこの規模な企業の人間に見えるスーツその他」の準備だけ。
4日後には、鉄砲玉として使命を果たした後に自首してアカ落ち(懲役)か、あるいは失敗して命を落とすか。それはきっと、その時の運次第なのだろう。誰のタマ(命)を取ったら良いのか、どういう段取りなのか、詳しいことはまだ知らされていなかったが、不安というより、その方が気が楽なように思った。

シノギのための女たちはいても、別れを惜しみたいと思える女はいなくて。
それは見事に坂を転げ落ちてくれた兄貴分の顔は、思い出す気にもなれなかった。
そうやってひとつずつ自分の周囲にいた人間たちを消していくと、残ったのは、名前も知らないあの男ひとり。
(そういえば、あんたはいつもちゃんとした格好してたな)
なら俺も、ビシっと格好キメてコトに臨んでやるか。
そんなことを考えながら目許にかかる髪をかき上げ、ああそう言えば、と思いついて、適当に摘んだ前髪を見る。
ヘアスタイルに手を掛けなくなって久しい髪だって、ロンゲというほどではないにしても「そこそこの規模な企業の人間」には見えない長さになっているから、これも「それっぽく」しておく必要があるだろう。

ひとまず今日は、買い物だ。
短くなったセブンスターを灰皿に押し付け、仙道は出掛ける用意をし始めた。



スーツからシャツから一揃え、それなりに見栄えのするものを見繕っていく。
黒にも見えるネイビーの上下に、白地に控え目なオルタネイトストライプのシャツ。ネクタイは、チェストナットブラウンをメインカラーにスカイブルーと白が斜め縞を描くレジメンタルタイ。シルバーとマット加工されたゴールドがコンビになったスクエアタイプのカフリンクスもご購入。それから、革靴。靴ずれするかな、とは思ったが、そんなことをチラとでも考えた自分が可笑しくて、スーツに合うよう黒革の、少し洒落たデザインのものを選んだ。
この上こざっぱりと髪をセットして眼鏡でも掛ければ、どこから見ても外資系企業のビジネスマンだ。

慣れない真昼の人混みに疲れ、夕方には大きな荷物を抱えながらヤサに戻って、少し休む。
そして午前3時半。
会えるだろうか、会えないだろうかと思う気持ちを胸の内で持て余しながら、仙道は〈 Bar.ROB ROY 〉のドアを押し開けた。

でも、そうそうタイミング良くは会えなくて。

一人で見上げた夜明けの空は、深いような透明なような藍色とジンジャーエール色のグラデーション。
朝の光がまだ届かない場所に、ぽつんと金星が浮かんでいる。
(・・・・・きれいだな)
(あんたもコレ見たらきれいだと思うかな)
少し歩いた先のコンビニで使い捨てカメラを買い、ちゃちなファインダー越しに、ついさっき見上げたときよりも藍色が薄くなった空を見た。
シャッターを切ると、カチ、と安っぽい音がした。

あと23枚も残っているフィルム。
きっと良い天気になる、今日という一日。

ふと思い立って。
カメラをジャケットのポケットに仕舞うと、仙道はいつもの帰り道ではなく、横浜駅の方へと歩き出した。

VI.

JR横浜駅の、始発電車を待つプラットホームでカチリ。
藤沢駅で降り、連絡通路を渡って江ノ電へ。
ガラじゃあないけど、でもやっぱり懐かしいと感じてしまう。
プラットホームに立ち、ドーム型の屋根を見上げながらカチリ。
壁面に並ぶ丸窓から朝の景色を覗いてカチリ。
残り20枚。
石上、柳小路、鵠沼、湘南海岸公園、江ノ島。
腰越駅も過ぎると、目に映るのは、国道一本挟んだ向こうに広がる海、海、海。
優しい波が朝の光を反射して、きらきら、さらさら、と輝いている。
その穏やかな海を、車窓からカチリ。
そして母校の名前がついた無人駅で電車を降りる。

学ランを着ていた頃は遅刻ばかりしていたというのに、あれから5年が経って23歳になった自分が、朝練に出るのだろうジャージ姿のコーコーセーたちと同じ時間に改札をくぐっているなんて。
くすぐったいような気分に小さく笑むと、仙道は小さな駅舎を振り仰ぎ、シャッターボタンを押した。



気の向くまま、足の向くまま、きれいだったり懐かしかったり、何かしら気持ちを刺激される場所を写真に納めながら歩いたら、気がつけば半日が過ぎていた。
少し休憩しようと思って入ったのは、昔よくヤサグレ仲間とダベリながら時間を潰していた喫茶店。
仙道の顔を覚えていたようで、マスターは両の眉尻を微妙に上げた。
店の内装や雰囲気はちっとも変わっていなかったが、バイトの女の子は馴染みのあの娘ではなくなっていたし、マスターも、キッチリ5年分老けている。そしてあの頃自分たちの指定席だった奥まったテーブル席には、外見はイキがりながらもやる気のなさそうな”後輩”たちの姿。
思い出の席は諦めて、仙道はカウンター席に腰を下ろした。

「里帰りか?」
「まぁ、そんなトコ」
「コーラで良いのか?」
「覚えててくれて嬉しいけど、アイスコーヒーの方が良い」
「フン・・・ちったァ大人になったってか」
「煙草吸っても怒られない歳にはなってるよ」
言いながらセブンスターとジッポーをポケットから出せば、黙って灰皿を出してくれた。
背中に視線を感じながら、素知らぬ顔で煙草に火を点け、深く吸い込んだ煙を吐き出す。
マスターも、アイスコーヒーのグラスを仙道の前に置くと、ショートピースを銜えてマッチを擦った。
そうして銜え煙草の煙に目を眇めながら、思い出したように口を開く。
「・・・お前の連れに、坊ちゃんぽい顔してるくせに気の強いのがいただろう」
「越野?」
「ああ、そんな名前だったな」
「どうかした?」
「半年くらい前だったか、お前の連絡先がわからねぇってボヤいてたぞ」
「へえ・・・・」
「結婚式の招待状も出せやしねぇってな」
「ウソ、あいつ結婚したんだ?」
同じ灰皿に煙草の灰を落としながら、そんな話もしてみたり。
雑誌を取りに来たフリしてガンたれてきやがるガキのことは、取り敢えず無視。
「相手にすんなよ」
「しないって」
仙道は微苦笑しながら肩を竦めて見せた。



話に花を咲かせて、マスターの奢りのカツカレーを食ったりもしていたら、そろそろ日が傾きだす時刻になっていた。
バイトの女の子が2人になって、客の入りも多くなってきている。
(あと一本吸ったら出るか・・・)
仙道は何本目かのセブンスターを唇に挟み、ジッポーの火を近づけた。
煙草を唇の端で燻らせたままカウンターに斜めに片肘をつき、そう広くもない店内とはいえ座っているスツールからは遠い窓の方を見ながら、確かフィルムの残りは6枚だったな、と思い出す。
夕日が沈んでいく海を撮るのも良いだろうが、それにはまだ時間がかかるだろう。

───それにしても、18枚もよく撮ったものだ。
夜明けの一枚から始まって、どれもこれも、自分にとって思い出深い場所や景色ばかりである。
それらの景色のなかに自分は、仙道彰という一人の人間は、5年前までの日々と今日、確かに存在していた。
まるで、その証のような写真。
(こういう考えは縁起でもないのかもしれないけどさ)
でも、無事に役目を果たしてアカ落ちする自分も、何年かして娑婆に戻ってくる自分も想像できなくて。



長くなりすぎた灰がついに崩れ落ち、仙道の物思いを途切れさせた。
その拍子に、不意にひとつのことに思い当たる。
「ひとつ」と言うより、それは「ひと繋がりの幾つかの事柄」と言うべきか。
事実と、可能性と、それを踏まえた上での自分自身の欲求───あるいは、願い。
そうだそうだ、そうだよ、と、口の中で言いながら煙草を消し、いつになく真剣に考えを巡らせる。
やがて何かを思いついたように目尻に笑みを滲ませた仙道は、オーダーをさばく合間に怪訝そうに横目を向けてくるマスターの視線をニィっと捕まえ、カウンターに身を乗り出した。

「マスター、忙しいトコ悪いんだけど・・・」

VII.

日付も変わって午前3時半、仙道は〈 Bar.ROB ROY 〉のカウンターに座った。
出来れば今日あたり会いたいと思いながら水割りのグラスを重ねたが、4時半になっても5時になっても、男は姿を現さない。
結局また閉店まで一人で飲み、店を出た。
明日こそ会えるだろうかと天気でも占うように靴を放ったみたら、ローファーのくせして器用に裏目を出してくれて、がっかりきて、腹が立って、舌打ちしたい気分になった。

そして、翌早朝。
ローファーのお告げは正しかったらしく、仙道はこの日も一人で閉店時間を迎えていた。
「あーあ・・・もう一度会っておきたかったのにな」
それさえ叶っていたならば、未練なんて、この胸にひとつも残らなかっただろうから。

「ねぇ、親爺さん。いっこだけ頼まれてくれないかな」
飲み代は、5千円札を出せば半分以上は釣りで戻ってくる。それがわかっていながら万札を3枚カウンターに置けば、親爺は仙道の目をじっと見て、「頼みって何だ」と無愛想に言った。
「俺が時々一緒に飲んでたヒト、わかるよね?」
こちらも真っ直ぐに見返しながら、フィルムが5枚残ったままの使い捨てカメラを金の上に置く。
親爺はわかるともわからないとも答えずに、じろりとカメラに目を向けた。
「これを渡して欲しいんだ。・・・渡すだけで、良いから」
カメラに向けられれていた視線がまたじろりと動き、仙道へと戻ってくる。
しばらく黙ったまま仙道の顔を見据えていた親爺はカメラと一緒に1万円だけ受け取ると、
「それっぽっちのことで手間賃なんぞいらんのだがな。・・・ボトル、1本入れとくぞ」
やはり愛想の欠片もない声と表情で言った。

だからまた飲みに来い。
そう言われているような気がして、仙道は「へへ・・・」と鼻を擦った。

VIII.

平日の朝一番。適当に、知り合いも顔見知りもいない店にぶらりと入って、髪を切った。
鋏をリズミカルに動かす彼女が「大学生ですか?」と聞いてくるから、「うん。そろそろホント真面目にリクルートしなきゃヤバくてさぁ」なんて、適当なことを言ってみたり。
そのまま世間話をするうちカットが終わって、ワックスでスタイリングされて。「どうですか」と合わせ鏡で見せられた新しい髪型は、耳が隠れる程度にサイドの長さを残し、トップの方はイレギュラーカットで遊びも入れながら全体としてはすっきりとした、なかなか好感度の高そうな出来上がりだ。
そのつもりで凄めば別だが、よほど鼻の利く人間でもない限り、誰も相手がヤクザ者だとは思いも寄らないだろう。

「就職活動、がんばってくださいねーっ」
笑顔に見送られながら、仙道は店を後にした。



そして、それから───・・・



携帯が鳴って、指示がきて。
夕方、言われたとおりにスーツ姿で指定されたビジネスホテルの一室を訪れる。
ツインルームのその部屋で、補佐の舎弟の一人が仙道を待っていた。

手渡されたアルミ製アタッシュケースは二重底になっていて、45口径のセミ・オートマチック拳銃が1丁と、小分け用ポリ袋に詰められたレミントンの11.43mmパラ8発、それから装弾済みの予備マガジンが固定されている。
別に、チャカに触るのはこれが初めてではない。躊躇いなく手を伸ばし、ブルー・フィニッシュ(拳銃に用いられる鋼の酸化防止加工方法のひとつ)によって暗い青みを帯びた黒色に沈む銃を取り出す。掌に、鋼の塊の冷たさと1kg強のズシリとした重さが伝わってきた。
金属臭混じりの、湿ったような油のにおいが嗅覚を刺激する。
スライドには《 COLT MK IV −SERIES 80− 》の刻印。
仙道は淡々とした気分で手の中のコルトを眺めつつ、空のマガジンを一旦外し、各パーツの具合を確認し始めた。
その様子を横目に、男が、開いたままになっているアタッシュケースに一通の白い封筒を投げ落とす。

「的(マト)は高頭組の若い者で、牧という男だ。今日19時、ロイヤルパークホテルで開催される、ある企業の関東進出記念パーティーに出席することになっている。取引先の人間として出席する都合上、同伴者は多くて2人。これがそのパーティーの招待状だ。堂々と会場に入れば良い。招待状の宛先になっている会社の名前、一応記憶しとけよ」

ウチに招待状が来るわけない。どこからどうやって入手したんだか。
仙道は手許に視線を向けたまま話を聞き、これはもう完璧に使い捨てだな、と再認識して、表情に出すことなく苦笑した。
オヤジが「やれ」と言った喧嘩(抗争)なら相手の組長なり幹部が的になるだろうし、それでタマを取れたなら立派な手柄だが───。確かに高頭の連中とはしばしば衝突するものの、正面きって喧嘩するまでにはまだ至っていない現状で、わざわざ事務所以外の場所でエモノの受け渡しや具体的な話がなされ、しかもこの場に補佐が顔を出さないとくれば、この命令の出所は補佐個人であり、その理由も大義名分が立たない部類のものだということになる。オヤジに対して申し開きできないし、先方と手打ちするにも非常に不利だ。
だったらどうするか。
簡単なことだ。落ち目の跳ねっ返りが手柄欲しさに勝手にやったことにして、破門した上でガラ(身柄)を引き渡せば格好がつく。

(まぁ・・・イイけどさ)
マガジンに装弾していく指の動きはそのままに心の中で呟いて、8発とも詰め終えると慣れた手つきでマガジンをグリップエンドからスライドさせ、挿入する。
静かな室内にカシャリと金属音が響いた。
「それはわかりましたけど、オレ、その”マキ”って男の面(ツラ)知らないんで。写真、あるんでしょ?」
アタッシュケースの内側に銃を留め直し、予備マガジンも不具合がないかを確認する。
相手の顔は、敢えて見ない。
「ああ、・・・ホラよ。これが牧だ。牧 紳一。企業相手のシノギでのし上がってきた男なんだが、最近何かと目障りでなァ」
気にする風でもなくそう言って、男は一枚の写真をコルトの横に置いた。

写っているのは、車に乗り込もうとしているスーツ姿の男。
望遠レンズで撮ったらしく鮮明に見て取れるその容貌は───・・・

(・・・ウソ、だろ・・・・・)

左の目許に、泣きぼくろ。
見間違えるはずがない。
会いたくて、でも会えなくて、きっともう会うこともないだろうと思っていた《彼》だった。

IX.

男が出て行き、部屋には自分一人になって。
ベッドに腰掛けた仙道は、時間が経つのも忘れて写真の中の《彼》を見ていた。

マキ シンイチ。

名前くらい知っておきたかったと思っていた。
だけどどうして、他人の口から、こんなかたちであんたの名前を聞かなきゃならない?

「・・・どう・・するかなぁ・・・・・」
声に出して、呟いてみる。
自分にはもう後がない。
自分自身で作った借金では、ないけれど。いま一千万の金が自由になれば《自分》は《彼》をマトにかけなくて済んだろう。でもそれだって、このトラブルを軽くはしてくれても根本的に解決してはくれないのだ。
補佐にとって《マキ シンイチ》が邪魔な存在である限り、《仙道 彰》がお役御免になったとしても、別の誰かが差し向けられる。

(ねぇ・・・どうしよっか、”マキ”サン。)
写真を見詰めて問い掛けながら、自分の心を覗き込む。
思い出されてならないのは、隣で飲んでいた《彼》と、親爺に預けてきたカメラ。
息苦しさに吐息して、結局はそこへと戻っていく想いに無言のまま呻いた。

オレ、あんたが殺されるのはイヤだよ───・・・・・。



ベッドヘッドに埋め込まれたデジタル時計が予めセットしておいた時刻を示し、アラームが鳴る。
ただ物思うだけで時間は過ぎ去り、とうに出来ていたはずの覚悟を際の際で喪失した男に決断と行動を迫る。
億劫な気分で電子音を止めて、仙道は写真を胸ポケットに納め、立上がった。
泣きたいかもしれない、と、ぼんやりと感じた。
でも、目頭はジンとしているのに涙は出なかった。

仙道はアタッシュケースを手に取り、部屋をざっと見渡して不用意に置き忘れた物がないかを確かめると、鏡に向ってネクタイの歪みを直し────、そこに映る自分とほんの一瞬だけ目を合わせてからドアへと歩き出した。

X.

パーティーの始まる時刻にエントランスへ足を踏み入れ、フロントに向う。
シングルを一部屋確保して、キィを受け取り、エレベーターで60階へ。



ドアを開ければ勝手に点く照明を邪魔に感じて、スイッチを、あまり丁寧とは言えない仕草でオフにした。
ルームライトが消えた窓で、横浜の夜景が鮮やかさを増した。

窓際は、空気が少し、ひんやりとしていて。
ここで地上何メートルなのだろうか、と、ちらりと考える。
この高さのせいか、クリアなくせに分厚く強靱なガラスのせいか。目に映る夜景は、ともすれば現実感を失いそうだ。
そんな遠い、音もなく瞬く無数の光を一人で眺め下ろしていると、肌寒さが、景色と同じに無音で忍び寄ってくる。
傍らに人肌の温もりが欲しいような、そんな気分にさせられる。
(こういうのは、一人で見るものじゃないんだな、きっと)
そういうことにして、書き損じのメモか何かのように、下らないセンチメンタリズムをクシャリと丸め、夜の横浜の街へと放り投げた。───ついでに迷いも、しがらみも。

写真はスーツの胸ポケットに入れたまま。
招待状だけ手に持って、アタッシュケースはベッドに投げ出し、仙道は部屋を出た。





1階へ戻って、別棟のようにせり出した「宴会棟」とやらへ。
19時20分。
主催者の挨拶は終わったか、そろそろ終わるか。
笑顔の受付嬢に軟派な笑みを返しておいて、仙道は、誰に見咎められることなく悠々と会場に潜り込んだ。

立食形式となっているのは都合が良い。
白ワインのグラスを片手に壁に凭れ、世間話とビジネストークでざわめく人の群れを眺めていく。
よくもまぁ、これだけ人が集まるものだ。
そうそうすぐには《彼》の姿を見つけられそうになかったが、焦る必要はないと思った。

しばらくそうやっていると、「上司に連れられて来たは良いが手持ち無沙汰になっている部下」にでも見えたのだろう。
気付けば、右にシャープな黒いスーツの彼女、左にパステルブルーのツーピースの彼女。
「オレ、まだまだ新人で」「急遽ピンチヒッターで来たんですよ」「係長はお得意様と話し込んでるし、知り合いもいないしで心細かったんですよね」 とか、なんとか。あとは聞き手に回りつつ、時々冗談で笑わせて、側にいる彼女たちにも気付かれないほど自然に視線を巡らせる。



そうしていくらかの時間が過ぎた頃。



離れた場所で談笑している”マキ シンイチ”が、視界に入る。
途端、彼女たちの声も耳に届かなくなる。

午前4時には見せたことのない、ビジネスマン然とした横顔をしている《彼》。
目的と手筈からすれば、自分が彼に近づいて行って、声を掛ければ良いだけなのだが・・・
気付いて、欲しかった。
60階の窓に捨ててきたのは何だったのかと自嘲してみても、気付いて欲しいと思う気持ちは止められない。

だから。
息を潜めてじっと、じっと。
「オレはここだよ」と囁きかけるように見詰めて───。

遠く隔たった仙道と牧の間を、ワイングラスを載せたトレイ片手のウェイターが横切っていく。
一瞬だけ視線が遮られ、すぐに、先程までと同じ光景が目の前に広がって・・・
そのなかで、
この距離では見えないけれど確かに左目の下に泣きぼくろのある横顔が、何かをそっと探すような表情で、
ゆっくりと、さり気なく、こちらを向いた。

そして、

《彼》の瞳が初めて、馴染みのバー以外の場所で仙道を映す。


ほんの少し瞠られた目が、次の瞬間には細められて。
ク・・・と微かに、笑うように唇の端が動いた。


こんなに離れていても微妙な表情の変化を感じ取ることができる。
『お前だったのか』
そんな声まで聞こえたような気がした。

また目の縁が熱くなってきて。
タマラナイな、と心の中で呟き、仙道はひっそりと笑み返した。

XI.

ワイングラスを空にして、会場内は禁煙とわかっていながら煙草を取り出す。
「煙草、外でしか吸えないわよ」
横から声がして、そういえばいたんだよな、と、彼女たちのことを思い出した。
そんなことはおくびにも出さず、ニコリと笑みかける。
「ああ・・・そうなんだ? 最近は分煙ってのが進んでますもんねぇ」
「あたしも我慢してるの。お酒を飲むと、吸いたくなるわよね」
「社内ではまだ別だけど、こういうトコでは、女の子は煙草吸いにくいよね。でもオレは男なんで、気にしないで吸っちゃうけどー」
ズルイ!と可愛く睨む彼女に笑顔で「じゃあネ」と手を振って、仙道はドアへと歩き出した。



会場を一歩出たところで銜えたセブンスターに火を点し、すぐ横にいる受付嬢たちに愛想笑いを向けてから灰皿の置かれたソファーへと歩く。
皆、顔繋ぎや取引先との会話に忙しいらしく、会場の賑やかさから一転、ロビーは閑散としていた。
仙道は手近なソファセットの傍に立つと、壁面に飾られたありきたりな静物画を眺めながら煙草を吸う。

(あんたのことだ、オレが煙草を吸いに出たの、見てただろ?)

チャコールグレイのスーツにマットな黒のシャツ。それからスーツと同色の、ツヤのあるシルクのタイ。
さっきまで見詰めていた”マキ シンイチ”の姿を脳裏に描き、その彼へと、声に出さないまま言葉を投げ掛ける。



2本まで、と、特に理由もなく決めた。
その間に彼がここへ来てくれれば良し、来てくれなければ・・・もう少しあからさまにアプローチするだけ。

XII.

(あーあ、2本吸い終わっちゃったよ)
残念に思いながら灰皿に煙草を押し付け、踵を返す。
さんざん女を転がしてきた自分だが、”マキ シンイチ”という男が相手となると事を思惑通りに進めることができないらしかった。それが悔しくもあり、だからイイのだろうとも思う。
こんなときに余裕も何もないだろうに、まるでいつも焦らされているような自分を思い、この自分を焦らす彼を想うと、疼きにも似た密やかな痺れを感じないではいられない。
感じているのが頭の奥か、ココロか、はたまたカラダなのか・・・仙道自身にもわからなかった。

さて、どうするか。
そんなことを心の中で呟きながら、絨毯から会場の入り口へと視線を上げたとき、

「よう」

仙道はそこに待ち人の姿を見つけ、半ば茫然と足を止める。
自分が知っているままの、午前4時の彼の声。
「なんだ、もう戻るのか?」
背後の会場を示すように顎をしゃくられ、「いや・・・」と答えた仙道は、牧の背後に一人の青年が立っていることに気付いた。身長は仙道と同じくらいだろうか。色白で、髪はベリーショート。コムサ・デ・モードあたりを思わせるテクスチャー感とツヤのあるブルーグレイの細身のスーツを身につけており、整った容貌と相まって、ぱっと見にはモデルか何かに見えなくもない。
「そちら、同じ会社の人?」
問い掛けというより、確認だ。
ドーモ、と笑顔を見せれば、相手も微笑みを浮かべた目礼で応える。そんな遣り取りに、「部下だ」と答える牧の声が重なった。

「こんな場所でお前に会うとは思わなかったな」
「うん、オレも」
───ほんの数時間前までは。
「えらく今日はめかし込んでるじゃないか」
「たまにはね。あんただって、今日はちょっと雰囲気が違う」
「そうか?」
意外そうに、牧は自身の服装をチラと見た。
そんな彼の仕草に込み上げてきた微笑みを数秒、噛みしめる。
「うん。ちょっとだけ、違うよ」
自分ではわからんのだが、と、牧が軽く肩を竦める。
───服装じゃなく、遠くで談笑していたあんたの表情が。
そう呟く内心は、いつもと同じに浮かべた笑みで、きれいに隠して。
「・・・ところで、パーティーは最後までいるつもりなのか?」
「うーん・・・考え中?」
「考え中、か」
語尾を上げた言い方が可笑しかったのか、眉を下げた誤魔化すような微苦笑が可笑しかったのか。
低く笑う牧に、仙道もくつくつと喉で笑った。

それにしても。
場所柄を考えれば、同じ企業と取り引きなり関係がある者同士ということになるのだから、名刺のひとつも交換するのが自然だろうに。互いにそんな素振りも見せず、牧は連れの青年を「部下」としか紹介しない。
今この瞬間も、二人はやっぱり、互いに踏み込まない。
こちらの身元がバレているわけではないだろう。もしそうだったら、こんな風に近づいてきたりしないはずだから。
(これって、あんたも、オレたちの間にある空気を壊したくないからなんじゃないだろうかって、そう思うのは自惚れなのかな・・・)
今朝〈 Bar.ROB ROY 〉の親爺に預けてきたカメラが彼の手許に渡るのはいつのことだろう、と、ふと思って、仙道はまた少し微笑んだ。



「ね・・・ちょっとだけ抜け出すって、アリ?」
そっちの彼も一緒でイイんだけど、と付け加えて、青年へともう一度にこりと笑みかける。
今度は、微笑みは返されなかった。すっと逸らされた視線は”上司”へと流れていく。
「何処へ?」
「オレの部屋」
そう言ってポケットからカードキィを、部屋番号が見える程度にチラと覗かせる。
横浜からこのホテルまで電車でたった2駅。なのにわざわざ部屋を取ってあると言う仙道に、牧の双眸が僅かに細められた。
「ちょっと、ナイショ話がしたいんだ」
「・・・内緒話なのに、コイツが一緒で良いのか?」
牧が背後の青年を肩越しに指差す。
「構わないよ。オレが気にしてるのは、もっと別の目と耳だから」
「・・・・・」
探るような、じわりと鋭さの増した視線が注がれる。
初めて向けられるそんな表情に、仙道は眉を下げながら苦笑いした。

「ねぇ・・・そういう瞳(め)はさ、仕事のときだけにしなよ」
仙道の言葉に彼が何を思ったかは定かでなかったけれど。
ふっと目許を和らげて、牧も微苦笑を浮かべた。
「オレは今、仕事中なんだがな」
「ああ、そーいやオレもそうだったっけ?」
視線を見交わし、互いに堪えそびれた笑いを短く零して歩き出す。



「武藤に”10分だけ外す”と」
斜めに振り返った牧の言葉に「はい」と答え、一歩後ろに従う青年は携帯電話を取り出した。
事務的な口調で手短に、必要な事項をすべて伝える───きっちりと、部屋番号まで。
表情は飄々とした笑顔のまま、仙道は心の中だけで肩を竦めた。

XIII.

エレベーターの中だけでなく廊下にも、意識しなければ気付かないだけで監視カメラは設置されている。───少なくとも、一定以上の規模のホテルでは。
「失礼とは存じますが、ボディーチェックをさせていただいて構いませんか」
ベリーショートの青年がそう口を開いたのは、ドアを開けた仙道がルームライトを点けたのとほぼ同時だった。口調は相手の了承を伺うそれではない。部屋で何者かに待ち伏せられている場合に備えるためだろう、いつの間にやら”上司”の前に立ち(もっとも青年は、廊下でもエレベーターの中でも、いつでも弾避けになれるよう、仙道の一挙手一投足に神経を尖らせていたが)、仙道越しにざっと室内を見回してから、その視線をひたと合わせてくる。
青年の視線を受け流して、仙道は牧へと目を向けた。
───そんなことが、必要なの?
言葉にしないまま問い掛ける。
「神、無用だ」
「社長・・・」
牧は物言いたげな部下の背中を軽く押し、自らも、まったく頓着していなさそうな躊躇いなさで部屋に足を踏み入れる。

いっそ無防備なほどの牧に、泣き笑いじみた表情を抑えられそうになくて。
仙道は顔を逸らせると、
「招いておいてそちらの彼には悪いんだけど、シングルなんで椅子がひとつしかないんだよね」
と、部屋にたった一脚の椅子を牧に勧め、自分はベッドに腰掛けた。
いま、仙道の右手に触れるほど近くに、アルミ製のアタッシュケースが横たわっている。

「で、話というのは?」
椅子に腰を下ろしながら尋ねる牧の、半歩後ろに「ジン」と呼ばれた青年が立つ。
「話じゃなくて、ナイショバナシ」
冗談にしか聞こえないよう、いつもの軽い口調で混ぜっ返す。
牧が低い笑い混じりに「どっちでも構わんが」と言うのを聞きながら、アタッシュケースを引き寄せて、

「あんたにプレゼントが3つあるんだ」
淀みない動作で、けれどアタッシュケースを開いたときに出来るだけ手許が死角になるよう計算してロックを外し、

「ひとつは今あげるよ。あとの2つは・・・・」

表情は変えないまま、素早く二重底の細工を外して手にしたコルトを牧へと向ける。

牧は微かに眉をひそめただけで、じっと仙道を見返していた。
仙道も、哀しいままに笑みを浮かべて牧を見詰め続けた───トリガーに指も掛けずに。





・・・・・その、瞬間。

手首に激痛が走り、視界が反転した。
多分、合気道か何かだろう。
床に体が打ちつけられる。衝撃に息が詰まった。
俯せに、背中に乗り上げた”ジン”に押さえつけられ、刑事どもがやるのと同じ要領で、掴まれたままの利き腕をギリギリと捻り上げられる。
容赦なく捻り上げられた肩の関節が軋み、仙道を呻かせた。

「・・・馬鹿野郎」
呟いた牧の声も、どこか呻くようだった。



仙道の落とした拳銃を牧が拾い上げる。
マガジンを外し、装弾されていた弾薬をぱらぱらと絨毯の上に落としていけば、足許に散らばった弾薬は8発。
───撃鉄が下りてもいない銃は、チャンバーへの弾薬装填すらされていなかった。

XIV.

ただの鐵の塊となった銃を手にした牧が、俯せにさせられたままの仙道の眼前に軽くしゃがむ。
強引な手に顎を掴まれ、仙道は顔を牧の方へと向けさせられた。
「チャカの弾き方も知らないで鉄砲玉か?」
左肩胛骨の下あたりに思い切り体重をかけてくる膝のせいで胸郭が圧迫されているし、緩められることなく捻り上げられている右腕は肩の関節が外れそうだし、身動きなんてできないし、不自然な形で上を向かされて余計に息が苦しいし。
それでも、仙道は笑みを返した。
「知らないと思う?」
いつものように飄々と、とは、いかなかったが。
「それで失敗してりゃあ世話ないな」
「良いんだ、これで。オレがしたいようにして、それでもあっちもコッチもそれなりに納めようと思ったら、ね」
減らず口の仙道を、牧は無言で睨みつけた。

その、牧の目。

静かなのに苛烈な灼熱を感じさせる、少し色素の薄い瞳。
鋭い眼光はまるで、言葉にされない感情や事情のすべてを仙道の両目の奥から引きずり出そうとするかのようで。
───あんたなら、大丈夫だな。
自分がこうして残していくものは無駄にはならないに違いない。
そう思うとほっとして、仙道はまた小さく微笑んだ。



仙道が描いた絵図はこうだった。
《彼》の今後のシノギを邪魔することないよう、事は人目のないない場所で済ます。
「誰かが鉄砲玉を差し向けた」という事実を残す。
高頭のところには仙道を知る者が幾人もいるから、ここで黙(だんま)りを通しても明日の朝を迎えるより早く身元は割れるはずで、そうすればこれが誰の差し金なのか、大筋のところは見えてくるだろう。
自分がいちいちベラベラと喋る必要はない。また、喋らないことが、補佐に対する表立っての義理を通すことにもなる。
・・・そんなものあくまで表向きのことで、面従腹背も良いところだが。
だが何よりも「建て前」と表向きの「筋」を重んじるのが極道社会だ。
それで補佐が《人質》を処分するなら、ぶっちゃけ、それでも良い。その頃にはもう自分はこの世にいないのだし、それにもう十分に義理は果たしたはずだ。───盃を割るなり水にするなりしない限り「義理は果たした」なんて口が裂けても言えないのも、極道の世界ではあるけれど。

(・・・あんたが無事なら良い)

もっと望むなら、この一件を上手く利用して、降りかかる火の粉の「元」を潰してくれれば良い・・・・・。





「その”あっち”と”こっち”のこと、唄って(喋って)もらおうか」

無意識に彷徨った仙道の思考を、牧の声が今この時へと立ち戻らせた。
「・・・唄えって言われてすんなり唄うと思う?」
命じるように言う声は低く威圧感に満ちていたが、想いの余韻も相まって、数秒、仙道の表情に笑みが残る。
しかし───、
「すんなり唄わねぇのを唄わせるのがオレらの十八番(オハコ)だろうが」
当たり前ながら、牧にしても「ハイ、そうですか」と引くはずがない。
仙道は、このときばかりは本気の在処を教えるように、両目に醒めた気迫だけを映して見返した。
「言ったろ、あっちこっちそれなりに納めなきゃなんないんだって。格好だけはつけなきゃなんねぇんだよ」
そんな仙道の目と表情をしばらくじっと見て、牧が苛立たしそうに目を細める。
仙道の耳に、ほんの微かな舌打ちの音が聞こえた。

「・・・プレゼントは3つだって言ったな。あとの2つは?」
背後関係はひとまず保留ということか、話しそうなところから話させるつもりなのか。
どちらでも大差ないが、例のカメラは確実に受け取ってもらいたい。鉄砲玉も極道も関係なしに、一人の人間、仙道彰として、彼に。
「ロブ・ロイの親爺に預けてある。ひとつはいつもの酒。もうひとつは写真。・・現像できてないけど」
牧の目が、ますます眇められた。
「オレをマトにかけろと言われたのはいつだ」
何故そんなことを?
視線で問い掛ければ、やはり視線で答えを促される。
「・・・・・今日の、夕方」
そこまで聞いて、牧は仙道の顎から手を放した。
大きく息を吐き出しながら、立上がる。

そして───、



仙道を見下ろして、牧は信じがたい言葉を口にした。





「神、もう良い。放してやれ」

XV.

────もう良い。放してやれ。

仙道ですら耳を疑った。
この状況で、何をどう考えたらそんな言葉が言えるのか。



「社長・・・?」
「良いんだ!!」
躊躇する神に牧が声を荒げる。
神が無言のまま背中から退いても、仙道はすぐには立ち上がれなかった。牧の思惑はわからないし、事の成り行きも自分の予想を裏切るしで、何が何やら、頭の中は混乱よりも茫然自失の方が強い。
そんな仙道を余所に、牧はもう一度深い溜息を吐き、せっかくきれいにセットしてある前髪に指を差し込んでクシャリと崩すと銃をベッドに放り投げてしまう。
「・・・・あんた、何考えてんの・・・?」
挫いたらしい右手首をさすりながらのろのろと立上がった仙道は、暫し黙り込んでしまった牧を見詰めた。

「オレを・・・生かしとくつもり?」
「・・・・・だったら何だ」
「何だじゃないだろ、あんた自分で自分の面子に泥塗る気かよ!?」
命狙われて泣き寝入りなんて、イモ引き(臆病者)のすることだ。そんなレッテルが貼られようものなら、身内からも世間様(極道社会)からも笑い者になる。
「ゴチャゴチャうるせぇよ!」
「ふざけんなよ! キッチリ筋通して取るモン取れよ!!」
「うるせぇっつってんだろうがッ!! テメエは腹括ったかナンだか知らねぇが好き勝手やりやがって、そういうテメエのコトは棚に上げてオレに説教か!? えぇ、仙道ッ」


─── セ ン ド ウ 。


「・・・ぇ・・・・・?」
仙道、と、彼は今、確かにそう口にしなかったか。
(ウソ・・・何で・・・・)
聞き間違いではなかったはずだ。しかしどうして・・・・・まさか。

またも茫然と立ち尽くす仙道と、不機嫌も露わに仙道を見据える牧。その二人の沈黙に、どこかでマナーモード設定された携帯電話が震える音が短く混じり、
「・・・社長」
短い応対の後、先程から黙って横に控えていた神が躊躇いがちに言葉を差し挟む。
「武藤常務からお電話です」
「何かあったか」
「いえ・・・社長が時間を過ぎてもお戻りになられないので・・・・」
「・・・そういやそうだったな」
胸郭に溜まった怒声の残滓を吐き出すように、牧は深く静かに息を吐き出した。
その呼吸ひとつで普段の顔を取り戻す。
「『急な用事』でオレはこのまま退席するが、心配は要らんし、あとは任せるからあちこちしっかり顔を繋いでおけ、と」
「・・・わかりました」
「それから、清田にオレの書類入れを持って上がらせろ」
「お車が空くことになりますが」
「構わん」
「はい」

仙道を蚊帳の外にしたまま神への指示を済ませて、やっと、牧が視線を戻してくる。
突っ立ったままの仙道の様子に片方の眉を少し上げ、じっと見て、呆れたように唇を曲げた。
「・・・いつまでそんな格好してやがる。とっととナリを整えろ」
神に制圧されていたせいで乱れた仙道の服装を指差して言うと、牧自身も、先程自ら崩した前髪を整えるように、髪にざっと手櫛を入れた。

XVI.

待つというほどの時間も経たずにドアがノックされて。
応対に出た神が黒革のブリーフケースを受け取り、二言,三言、低い声で何かを指示すると「キヨタ」を戻らせる。

「お前、親爺に感謝するんだな」
そのブリーフケースから牧が取り出し仙道へと投げたのは、一目でそれが何かわかる、写真屋の大判封筒だった。


まさか。
だとしても、どうしてこんなに早く・・・?
銃を握っても震えなかった指が震えた。

ネガと一緒に納められている写真をもどかしい思いで取り出せば、
一枚目にはあの、深いような透明なような藍色とジンジャーエール色のグラデーションをした夜明けの空───・・・よりも粒子が粗く、夜明けなんだか何なんだかさっぱりわからない、たぶん空を写したのだろう、くらいにしか見えない写真。

「・・・・・ちぇ。ぜんぜ・・きれいに撮れてないじゃん・・・」

残念なのに、残念さよりも強く迫ってくる何かが呟きを掠れさせた。





「カメラ寄越してきやがるなんて、最初は何かヤバいネタでも抱え込みやがったのかと思ったんだが・・・」
一枚、また一枚と写真をめくる仙道を見ながら、牧が言う。
写真サイズに納った懐かしい景色はどれもこれも小さくて、その小ささが、仙道に、一昨日を遠い日のように感じさせた。

「どれも何てことない風景写真ばかりで首を捻ったさ。・・・最後の一枚を見るまではな」
牧は仙道の手から写真の束を取り、何枚かめくって《最後の一枚》を抜き出した。
その一枚へと視線を落とし、じっと見詰める。
「・・・お前がどういう絵図を描いてたかは、もう大体のとこわかった。お前がどうしようもなく不器用で馬鹿だってこともな」
静かな声で言った牧は、おもむろにその写真を仙道の方へと向けた。


それは喫茶店で撮られた一枚。
カウンターに座った仙道が、胸のあたりに画用紙を掲げ、戯けた笑みを浮かべている。
小学生が写生に使うような大きな画用紙には、黒い太書きマジックで書かれた、あまりきれいとは言えない大きな文字。





『 仙道 彰 (センドー アキラ) 24歳。 』





それから画用紙の右下に、小さめの字で日付。


「この写真の意味と、上からの命令に背いた理由───聞いてやるから言ってみろ」

ほんの少しだけ掠れたような、耳に心地良い低い声。
その声が今、深みを増して仙道の心を揺さぶる。
(ああ・・・もうダメだ・・)
こんな自分でも最後くらいは意地を張ってやろうと思っていたのに。
仙道は堪らない気分になり、左の掌で目許を覆った。

「・・・・・もう会えないかもしれないと思ったら、あんたに・・オレの名前くらい・・知って・・・」
抑えきれない熱さが込み上げてきて、躯が震えだす。
「あんたに、覚えてて・・欲しくて・・・っ」
目がジンジンとして、途切れ途切れになる声が掠れた。
隠すことに慣れた本心をこんな風に曝け出す自分が、ひどく弱々しい人間に思えて、唇を噛む。
「・・・仙道彰、だろ。・・・・・ちゃんと覚えたぞ」
声を出したら嗚咽になりそうで、頷くことしかできなくて。
そんな仙道の、目許を隠す手を牧が掴んできた。
不意の行動に手首を取られ、挫いた右手で抗いながら顔を背けようとしてみたが、気持ちが既に、牧に抵抗しきれなくなっている。

「仙道。・・・オレの目を見て話さねぇか」

「っ・・・」
逡巡して、奥歯を噛んで、ぎこちなく顔を牧へと向け、視線を交わらせる。
真っ直ぐに見返してくる視線の力強さが、もう目を逸らすことを許してくれない。

「───何故、背いた」
声が、追い打ちをかけてくる。





「・・・あんたが殺されるなんて嫌だった」

喘ぐように声を絞り出した途端、火が点いたかと思うほどの熱が心と躯に走った。





「・・・・・まったくお前ってヤツは」
仕方のねぇ野郎だな。
微かな笑みに、牧の目許がふっと和らいだ。

頬を、何かが一筋流れ落ちていく。
自分が泣いているのだと気付いても、仙道は牧から目を逸らすことができなかった。


「お前に生きる場所をくれてやる。
生易しいモンじゃねぇし、過去の一切合切を捨ててもらわにゃならんが。・・・いいな?」


牧のその言葉だけで、自分が何もかもから解き放たれ、生まれ変わることができた心地がした。

XVII.

その後の事態の推移と顛末を、仙道は伝聞でしか知らない。
表向きには「牧を襲撃したものの返り討ちにあって始末された」ことになっており、誰に顔を見られるわけにもいかないため、あの夜ホテルを引き払った足で連れて来られて以来、牧の自宅であるマンションの一室から一歩も外に出ていないからだ。

高頭の了承を得て、牧はすぐに動きだした。
補佐のやりようは仙道が予測していたより辛辣で、仙道たち二人は組の金に手をつけた後に逃亡したことにさせられていて、仙道が牧に銃を向けた頃にはとうに破門されていたそうだ。
『破門された男が何しようが、ウチの知ったことじゃァありませんよ』
そんな補佐の科白を牧の口から聞いても、やっぱりな、と思うだけで、仙道には特に感慨などなかった。
破門状まで見せてきた相手に不承不承───と見せかけて、実は当初の予定通りに一旦引いた牧が、補佐に対する追い込みを開始したのはそれから3日後のことである。さらに5日後、大井競馬場で開催された重賞レースで大番狂わせの万馬券が出た夜、深夜に帰宅した牧はニヤリと笑って言った。
「ヤツのところのノミ屋から一千万。・・・まァこれは手付け程度だが」
タネ明かしを聞きたがった仙道に、牧は「騎手に ”知り合い” がいてな」とだけ言って、また笑った。
それを皮切りに、手形だ、次は不動産だと牧は手を変え品を変えて追い込みをかけ、ひと月半ほどのうちに、ついには五千万を超える金を補佐の身辺から引き出したのだった。当然、補佐の面子は丸潰れとなり、予定外の金策に走らされた挙句、裏で進んでいた「上納金三千万で本家の直若に」という話も見送りとなったらしい。

そして仙道はといえば、理由はでっち上げだったにしろ必要な手続きを踏んで正式に破門された身であり、それを他の組が身内に加えるなどというのは極道社会では認められないことであるため、表立って高頭組が抱えるわけにいかず、その待遇は「表に出さないことを条件に、牧が個人的に手駒とすることを黙認する」というところに落ち着いた。つまりは、牧のため、ひいては高頭組のために働いても、ひとたび何かマズいことになれば組は知らぬ存ぜぬを通すということだったが、それは同時に、高頭に恩はあっても仙道の上に立つのは牧ただ一人、ということで、仙道にとってはこれ以上何を望む必要もない立場を与えられたも同然だった。



「お前は死んだはずの人間だからな。もう一度言っとくが、これから先は親も兄弟もないし、スジやシガラミでオレら(組)が動けないときに動くのがお前の役目だ。・・・半端なこっちゃねぇぞ」
先方からの申し出で仲裁が立ち、牧襲撃に端を発した一連の出来事についての手打ちが行われた日の夜、二人でいつもの酒を飲み始めて暫くした頃、表情を改めた牧が静かに言った。

それはまるで、思い留まるなら今しかないぞ、と、言っているようで。
牧の傍でしか生きる道のない男が思い留まったなら、そこには「死」しかないというのに。
(───そのときはあんたがオレを殺してくれるのか?)
それはそれで幸せかもしれなかったが。

牧を真っ直ぐに見返し、見詰めて、そして仙道は柔らかく笑みかけた。
いま、仙道の内に迷いや躊躇いは微塵もなく、悩みも不安も鬱屈も消え去って、あるのはただ、真っ白な命と牧紳一だけだったから。

「あんたがやれと言うこと全部、あんたが望むようにやり遂げて見せるよ。・・・オレの命はあんたのものだから、」

親も兄弟も、何も要らない。
あんたがいればそれで良い───。


微かに目を細めた牧は、
「・・・それで良い、か・・」
やがて自らも何かを吹っ切った様子で低く笑った。
どちらからともなくグラスが掲げられ、深夜の静けさのなかに、この夜二度目の乾杯の音がひっそりと響いた。








横浜の、繁華街からちょっと外れたとある場所に〈 Bar.ROB ROY 〉はあった。
カウンター席がたった6つの、小さな小さな店。
60はとうに越えているだろう偏屈で頑固そうな親爺が一人で切り盛りしているそのバーは、雑居ビルの地下2階にあって、こんな場所じゃあそうそう客も入らないだろうに、親爺が風邪で寝込んだりしない限りは年中無休で早朝5時半まで開いている。

女の処から朝帰りの途中、ふと目について細い階段を下りてみたのがきっかけだった。
オーダー以外ではこちらが話しかけない限りむっつりと黙り込んでいる親爺や、CDでも有線でもなく、溝が随分削れていそうなジャズの名盤レコードがBGMなところが気に入った。
料金も、懐に寒風が吹いている身には非常に有難いものだった。

そんなこんなで時々通うようになった、古ぼけたバーでの、ひとつの出逢い。
それが自分自身と自分の今後とを大きく変えてしまうなんて、当時のオレには思いも寄らなかった。





顔を隠し、名前を隠して、「裏社会」と呼ばれる極道社会でも最も深い闇のなかであんたに生かされているオレは、
いま、あの日までの24年間など比べものにならないくらい、生きている─────。








[ The end. ]






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『機械仕掛けの神の庭』様は閉鎖されました。感想などお伝えされたい場合は梅園まで。
作者の一条織る子さんへ責任をもって転送します。