ウァレンティヌスは、禁じられた兵士と娘の愛を神の名の下に祝福した咎により、絞首台へと送られた。
『愛は禁じられるべき物ではなく、人の法によって止められるものではない。
求め合う者たちへ、等しく父の祝福を。神の加護のあらんことを。
愛し愛される者たちよ。互いを慈しみ、見詰め合う刹那に感謝せよ。』
たった一つの、小さな愛の為に。その崇高な、神の成す奇跡の為に。
ウァレンティヌスは、恋人達の聖人となった。
プレゼントを用意する醍醐味は、何にしようかと考える時間と、それを渡したときの相手の顔を想像することにこそ楽しみがある。だからこそ、手渡すその一瞬が訪れるまで、可能な限り秘密にしておくものだ。クリスマスは何を贈った?誕生日は?今欲しい物は?何が相手の心に響く?何を嬉しいと思う人?
どうすれば、あの笑顔を引き出せる?そして、どうすれば、貴方を独り占めできるだろう。
紆余曲折の末、万全の備えで用意したプレゼント。渡すシチュエーションや言葉も考え抜いて。
迎えたバレンタインデー。足早に急ぐ、二人の部屋へ。
「嘘だろ…。」
「…嘘でしょ…。」
7時頃には戻るということだった。だから、準備を整えるために、2時間も早く戻ってきたのに。
海の見えるマンションの、暮れなずむ見慣れた廊下とチカチカと点滅する電灯の下で、絶妙なタイミングで鉢合わせた二人は、しばし無言では見つめあう。そして、同じようなことを考える。奇妙な沈黙が落ちたドアの前で、途方にくれる二人の男はどうしようもなく不器用で、救いようも無く滑稽だ。
「…く…」
はたり、と軽く傾いで脱力した身を預けるように壁にもたれながら、片方の男が顔を伏せてその肩を小刻みに揺らし始めた。その手に抱えられた、大きな花束が殺風景な空間に甘い芳香を放つ。
「牧さん、笑いすぎですって…。」
「わ、悪…い、でもな…。」
年下の男は軽く溜息を付く。その手に抱えたカサブランカが空しい。
悔しい、という思いはどうしても消せない。どんな風に喜んでくれるか、想像力が逞しいだけに、期待が外れたときの落ち込みも激しい。その、隠さない落ち込みぶりもまた、年上の彼を笑わせる一因となっていることを、きっと本人は知らない。
とにかく、と呟いて扉を開ける。今朝と変わらぬ室内が何時もの様に、二人を黙って受け入れた。
「花束か…考えることまで似てきましたね、俺たち。」
「何で事前に言わないんだよ。知ってたら別の物にしたのに。」
「でもそうしたら、全然驚きがなくなっちゃうでしょ?」
「だよなぁ。」
同じようなことを考えていた牧は、苦笑いして手渡されたビールのプルを引く。
折角だから、と仙道はシャンパンを用意していた。牧は、二人で初めて空けたワインを苦労して探してきていた。
でも二人は、抱えてきた大振りの花束2つと、同じく満杯の紙袋をそっとテーブルの上に置くと、示し合わせたように冷蔵庫からよく冷えたビールを取り出して、リビングのフォローリングにだらしなく腰を下ろす。先ほどまでの意気込みが、どこかあっけなく不完全燃焼のままで、気が抜けたように二人は缶を開けて、無言で乾杯をした。
「俺は、牧さん驚かすの好きだし。」
「…そうだな。」
「牧さん、あんまり顔にだしてくんないからさ。」
「そうか?」
「そうだよ。俺ばっかり驚かされてるよ。」
そうかなあ、とぼやくあんたのその声とか。時々唇を軽く撫でる仕草とか。もう、どうしようもなく好きなんだけど。あんた俺をどうする気?
そう問えば、一体、この落ち着き過ぎるほど落ち着いた男はどんな反応を見せてくれるだろうか。
考えていたテーブルのセッティングも、準備してきた食材も、きっと半分は無駄になる。
でもそれは、互いが思いやった結果であると思えば、現実は…目の前に横たわる、少し間抜けな現実は、正直言って想像のどのシーンより自分達らしく、そして酔うほどに美味だ。
結局は、何をするかと言うことが大事なのではない。誰と成すか、ということが肝心なのだ。腕を伸ばせば触れられるその距離に、互いがあるということがどれだけ価値のあることだろうか。
そんなことを、仙道は考える。あおったビールが、冷たく喉を通り過ぎた。
「ところで、仙道。ここで衝撃の新事実だ。」
「…なんすか…?」
向かい合って座った牧が、やけに改まって身を乗り出しつつ小さく言う。内緒話をするようで、仙道は期待半分、不安半分といった感じで同じように身を乗り出すと、鼻先が触れ合うほど二人の距離が近づいた。
こんな他愛の無い出来事に、未だに反応する鼓動が、まるで自分の物ではないようで可笑しい。俺も、可愛いところあるんだなあ、などとぼんやり考えつつ牧の言葉を待つ。
微妙に弧を描いてあがった唇は、静かに事実を告げた。
「花瓶が無い。」
は、と息を飲んで見詰め合う。そして、はじけたように二人は笑った。
俺たちは、救いようのない馬鹿だ。でも幸せだ。
あれだけ想いを廻らせて花を買って、肝心の花瓶が無いことを今の今まで気付かないなんて。
大きく溜息をつき、ごろり、と横になった牧は天井を見上げる。昔は、もっと用意周到だった。失敗の少ない、完璧なリーダーである自分に自負もあった。だからこんな単純なミスはしなかった。
隣に座って、平和に笑う男。初めて、彼が自分のところへ来た日を思い出す。『あんたのことを、もっと知りたいんだよ』、そう言って、どこか寂しい目をしていた彼奴を微笑ますにはどうすればいいのか。柄に無い、そんなことばかりに気をとられて、事後のことなど考え付かなくなってしまった。
でも、それでも、俺は、こんな自分も悪くないと思ってしまう。そう言えば、年下のこの男は、有頂天になって喜びを体一杯表現するだろうから、告げてはやらないのだが。そんなことを考えつつ、それでも対応策に頭をめぐらす。
「駅前のインテリアショップ、何時までだったかなぁ。」
「8時くらいまでやってると思いますよ。」
「じゃ、行ってみるか。まだ時間あるだろ?」
「そうすね。せっかくだからでっかいの買いましょう。また花買いたくなっちゃうくらい、存在感のあるやつ。」
「クリアーなのがいいな。」
「うん、シンプルなのにしましょう。」
滅多に無い"二人で買い物"というコンセプトに、仙道が嬉しそうに牧を見下ろす。まあ、この顔が見れたんだから良かったのかな。そんな結論をはじき出す俺の脳はつくづく病気だと牧は内心苦笑した。
日が完全に落ちてしまった室内は、外からくる常夜灯の微光のみで、互いの輪郭しか見えないのに。それでも、きっと笑顔だと確信できるから不思議だ。
仙道が嬉々として続けた。
「でかくて、クリアで、シンプル。俺たちっぽいですね。」
「そうか?まあ、でかいは当たってると思うが。」
「純粋で、単純ですよ俺たち。プレゼントに花、なんて王道。王道すぎて恥ずかしいですもん。」
「…その恥ずかしいこと、恥ずかしげもなくやったくせに。」
「牧さんだって。」
俺は、それなりに緊張したぞ、とおそらく視線を此方に遣らずに言った人に、仙道は軽く微笑んで手を差し伸べる。
少しの躊躇の後、珍しくその手を握って、牧はゆっくりと立ち上がった。
聖なるウァレンティヌスは恋人達に、沢山の試練と罠を仕掛ける。
想いの長けを試すため。二人の歴史を築くため。そしてより深く、互いを愛に捕らえるため。
二人の部屋は、ウァレンティヌスとの記憶で一杯だ。
ベットサイドで柔らかく発光する時計は、待ち合わせの時間に現れたことの無い彼に、郵送された物。添付されたカードには"俺の為に起きてみせろ"と書かれていた。大人びた彼の、初めての本音。
二人で暮らし始めた日の夜、乾杯しようと買い求めた、今となっては五つしかないワイングラスは、もとは6つで1セットだった。芳醇なワインで満たされたそれを手渡そうとした瞬間、触れた指先に驚いて、一つめのグラスを取り落としてしまったといういわく付き。どちらが先にグラスを手放したのか、話題に上れば未だにもめる。素直じゃないのはお互い様だ。
初めての喧嘩は、毛足の長い印象的なアイボリーの絨毯に、珈琲色の模様を作った。熱が去った後、慌てて染み抜きを始めた二人に「裏返したらどうか」という奇天烈な発想が突然振って湧いた。一瞬考えた後、真面目な顔で靴下じゃないんだから無理でしょうとコメントした途端、お前は靴下を裏返しにして穿くのかよ、と冷たく言わた若年の彼は、猛烈に拗ねた。そのあまりの子供じみた反応に、笑い転げながら力任せに染み抜きをしていたら、下の階の住人から苦情が来たのも、今では懐かしいエピソード。
この部屋にテレビがないのは、
スクリーンを見るくらいならお前の顔を見てたい、と年上の彼がさりげなく言ったから。
留守番電話がONになっていないのは、
録音されたあんたの声は悲しいと、何時もは強気な年下の彼が小さく笑って呟いたから。
他愛のない、優しい時間と記憶の蓄積。視界に映る、そのそれぞれが愛おしい。
二人だけの世界に、また新たな記憶の一片が刻まれる。それは花が無くてもこの部屋に、今日の芳香を運ぶだろう。
『求め合う者たちへ、等しく父の祝福を。神の加護のあらんことを。』
ウァレンティヌスは、二人に微笑む。
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* end *
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