サラリーマン・牧紳一の受難
作者:べるべるさん



「牧、今日はもう上がりかー?」
同僚の武藤に声を掛けられた牧はつとめて自分の感情が表に出ないように応えた。
「今夜は彩佳商事と約束がある」
「あー、あそこの担当、桐島さんだろ、いいなぁ、美人とサシで食事…」
美人と食事をすれば料理の味も美味になる、とでも言いたげな武藤の反応に牧は密かに嘆息した。


今夜の接待の相手は武藤の言うとおり、美人ではある。
しかし、牧にとってはそんなことが何の慰めにもならない事情があった。
牧はことあるごとに彼女に呼び出され、食事中延々と言葉によるセクハラを受けているのだから…
向こうからすれば単なる新人への洗礼変わりのジョークかもしれないが何せ立場はあちらの方が格段に上だ。
牧にはどうしようもない。彼女が止めてくれない限りは。
「俺ンときはすっげーブスだったんだよ、お前ツイてるよ、マジ羨ましい」
そういう武藤に「なら換わってくれ」と言いたい気持ちを必死に抑えて牧は会社を出た。


ふぅーーー。
往生際の悪いため息が白く目の前に広がって消えていく。
『セクハラされてます』なんて恥ずかしくてとてもじゃないが言えない。
だからといってこのままは嫌だ。
会う予定が決まるたびに憂鬱になるし、約束の前の休日は少しも休んだ気にならない。
せめて今夜、取引が成立すれば…
実を言えば彼女の『乾杯しましょ』という電話口での言葉に期待を抱いていた。
取引が成立すればあとは直接会う機会は格段に減るから会わなくても済む。
よし!と覚悟を決めて牧は待ち合わせのレストランに向かった。



「特別なお店なのよ」
そう彼女が言ったとおり、普通に入れる店ではなかった。
安月給の牧には尚のこと、客を選ぶ類の店だ。牧は最初から落ち着けないでいる。
これでは桐島のツバメにしか見えない。
ソムリエが誇らしげに用意したワインの味も牧には効果をもたらさない。
しかし視界の邪魔にならない程度に、けれどいつでも奉仕できるような位置に控えているウェイターのおかげで牧はいつものような言葉によるセクハラから逃れることが出来た。
これで時折彼女の脚が牧の脚に当たらなければもっとよかったのだが。


メインディッシュまで終わったところでやっと緊張がほぐれた牧は窺うように桐島を見た。
よく夢に出てくるときの悪魔のような彼女の顔は今はすっかり上機嫌で、純粋に(美人だなぁ…)と思えた。
そんな風に思ったのは初めて会ったとき以来である。
牧の視線に気が付いた桐島がニコッと微笑んだとき、牧は不覚にもドキっとしてしまった。
そんな牧の反応に気を良くした桐島が牧の手に触れようと手を伸ばそうとしたとき。


「あれ、桐島さんじゃない」と、牧の背後から声がかかった。





「あら、藤真さん。お久し振りね」
桐島は優雅に微笑んで応えた。
「藤真さん…」
牧は呆然と上司の名を呟くことしか出来なかった。
藤真は牧をチラと見てから、桐島に少しからかうように言った。
「何、デートの相手は牧なわけ?」
「いやぁね、お仕事の話をしてただけよ」
2人とも顔は笑っているのに、ちっとも和やかではない空気が流れる。


「仕事って今度のウチの新商品のこと?」
「えぇ、牧くんが頑張って売り込んでくれたトコロなの」
「桐島さんのその様子じゃもう本決まりってとこだよね、俺、牧と替わるよ」
「どういうこと?」
桐島が思わず口にした疑問を、牧は心の中で思った。
(どうなってるんだ―――)
「いや、だからさ…取引成立後は担当俺なのよ、だからここで引き継ぐよ」
「「え、でも…」」
牧と桐島は同時に呟いた。もちろんその意図するところは正反対だったが。
「牧、明日一番に俺ンとこに報告書出しといてくれな」
「は、はぁ…」


どうしていいかわからず困っている牧の背後からまた1人の男が登場した。
「藤真さん、遅くなりました」
「お、仙道。丁度いいとこに来た」
「あれ、牧さんじゃないですか。桐島さんも」
仙道と呼ばれた男が牧を見て声をかけてきた。桐島への会釈も忘れない。
「せ、仙道…」
「悪い、仙道。俺これから桐島さんと仕事の話するから。今夜は牧におごってもらえ」
「あ、あの…おごりって何で…」
「何でって、俺と仙道はこれから飯食うとこだったんだぞ。悪いけど仙道の相手してやってくれ」
「はーーい。じゃあ牧さん、行きましょ!じゃあ、桐島さん、失礼します」
桐島に挨拶すると仙道は牧の手を取って歩き出した。
「お、おい!仙道、引っ張るな!あ、桐島さん…し、失礼します。藤真さんも」
「おぅ、じゃあなー♪」
慌てて後ろ向きになりながらも声をかけた牧に藤真はにこやかに手を振り、
「………」
桐島はあっけにとられたように牧と仙道を見ていた…



レストランの出口をくぐり、ようやく解放された牧は思わず仙道に問いただした。
「…一体どういうことなんだよ…」
「牧さん」
「な、何だ」
ひどく真剣な面持ちの仙道に牧はとまどう。
「桐島さん、今夜上に部屋取ってある、って知ってました?」
「………?」
「だからー、あの食事が終わったら牧さんはめでたく桐島さんのデザートになっちゃってた、ってことです!」
少し苛立たしげに仙道は言葉を変えて牧に説明しなおす。
「…はぁ?デザートって俺がか?」
「そうですよ!藤真さんと俺が来なかったらぱくっと食べられちゃってたんですよ!」
食べられる…その意味にようやく合点がいき、牧は思わず赤面する。
牧は『乾杯しましょ』という言葉の意味と、何故今夜のレストランがホテルレストランであったのか。
その真相に気付いて思わずその場にへたり込んだ。

「―――マジかよ…」






偶然を装った藤真と仙道の救出劇のお陰で牧は難を逃れた。
とはいえ、ショックでとても仙道に晩飯をご馳走する気力は残っていなかった。
呆然としながらただ仙道に付いて行くだけで精一杯。
仙道もそれを承知しているのか何も言わない。


自分の少し斜め前を歩く男。
牧は一つ年下のこの男が苦手だった。
入社当時から鳴り物入りだったようで周りの同期たちは注目していた。
何度か同期の人間たちとの話題に上ったこともある。
牧は元々あまり他人に感心を示さないし、自分の直属の上司である藤真と個人的に仲が良いらしいとはいえ、仙道本人とは仕事の内容的にも接点はなかった。
具体的な出来事があったわけでもない、むしろなさすぎるほどだった。
外国語に堪能な点、ソツなく上司らと打ち解けられる性格、抜群の営業センス、確かに優れた長所が彼にはある。
けれどそれが気になるほど彼は嫌味な存在ではなかった。
疎ましく思っている人間もいるにはいるらしいが。
特に仙道と同期で入ってきた社員たちは何かにつけて比べられてしまうから仕方ない。
偶然目が合ったとき自然にニコッと笑う彼に湧き出る自分の感情がもしコンプレックスだとしても―――それはそれで構わなかった。
けれど、牧は仙道の姿に名前の付けられない思いを抱くことがある。
それは不安や脆さといった心のざわめくような、微かだけれど無視のできない類の…
その感情の正体がわからないから、牧は仙道を極力避けてきた。
関わらなければそんな思いをすることもない。
誰かのせいで自分のことさえ分からなくなることが恐くて。
分かってしまえば実はあっけない、なんてこともあるかもしれないとは思いつつ。
どこか開けて見てはいけない箱のようで―――。




「さ、入って下さい」
マンションの一室に案内される。
自然な話の流れから考えればおそらく仙道の部屋。
何故?という疑問が牧の口から出るよりも早く、仙道は牧を浴室に引っ張っていく。
「着替えは適当に見繕っておきますから、とにかくゆっくり温まって下さい」
有無を言わせない仙道の態度は少なくとも牧にとっては初めて見るものだった。
(ただ笑ってるだけの奴じゃなかったんだな…)
そんなことを考えながら牧は言われるがまま服を脱いで浴室の扉を開けた。




いつもとは違う香りのボディシャンプーを洗い流して牧は浴槽に身を沈めた。
ようやくスッキリし始めた頭。
助けてもらった礼も、こうして気を使ってくれたことへの礼もまだしていなかった。
予想外の出来事に対する自分の弱さに嫌気がさす。
敏い仙道はきっと自分の仙道に対する苦手意識に気付いてるだろう。
それなのにパニックに陥っている自分をこうもスマートにフォローする。
これではますます彼が苦手になってしまいそうだった―――


けれど礼だけは言わなければならない。
覚悟を決めた牧は心地いい湯への未練を振り切って浴室を出た。




ウーロン茶でいいですか?ビールもありますけど」
「いや、いい…アルコールなんてとてもじゃないが飲む気になれん」
少し大きめの、仙道が用意してくれた服を着て牧がリビングへ入ると仙道が声を掛けてきた。
仙道は牧の答えに納得したように頷くと冷蔵庫からボトルを取り出しグラスに注ぐ。
自分で思っていたよりも喉が渇いていたらしい。
義理程度に口を付けるだけのつもりだったのに気が付けばグラスが空になっていた。
もう1杯飲みます?と訊かれて牧は首を振る。
「美味かった、ありがとう」
ありがとう、という単語が自然に出せた牧はそのまま間髪あけずに話し続けた。
「仙道…その、さっきは本当に助かった、ありがとう」
仙道も藤真も桐島のことを知っていた、おそらく武藤との会話か何かから牧の陥る状況を察してくれたのだろう。
だからあのような絶妙なタイミングで助けてくれたのに違いない。
直属の上司とはいえなかなか接する機会のない、というかあまり性格が合わないと思っていた藤真。
そして普段苦手意識から接触を避けていた仙道。
その2人が自分を気にしてくれていたのだ。
後悔と自戒の念をこめて、ゆっくりと感謝の言葉を告げる。
仙道は牧から渡されたグラスを持ったまま静かに、最後まで牧の話を聞いていた。
牧の言葉が途切れると仙道はグラスを近くのテーブルに置いて、「間に合ってよかったです」
そう言って牧の首にかかっていたタオルに手を掛け牧の髪をゴシゴシと拭き始めた。
抵抗して止めるのも、そのまま大人しく拭かれてるのもどうかと思ったのだが引け目があるせいか文句も言えず大人しくされるがままになっていた。
ほっとして、シャワーも浴びて、喉も潤して、サービス尽くしの状態に今度は眠気が湧いてくる。
(勝手に嫌な印象持ったりして悪かったなぁ…)
そう思いながらもウトウト気分になってきていた牧は突然の感覚に覚醒した。

牧は自分の髪を拭いていたはずの仙道に後ろから抱すくめられていた―――。
「仙道…?」
「何もなくてよかった…」
(いや、今その何かが起こってるような気がするんだけど…)
「離せ、仙道。髪はもういいから。それに俺は女の子じゃないんだから、な?」
己の身の危険を察知した牧は必死に仙道の腕から逃れようとする。
「驚きはしたけど傷付いたわけでもないしお前がそんなに気にすることじゃ…」
「あなたが好きです」
「あぁ、そう………って、お前、今何て…」
「俺、あなたが好きなんです」


その時、牧の思考はフリーズした。








(―――夢?)
ひどく長い、重い夢を見た時の寝起きは最悪で。
頭も身体も奇妙に重い。
なのに外では太陽がいつものように優しく微笑んでいる。
こんな時、自分がちっぽけな人間にすぎないことに悔しくなってしまうのだ。
ついさっきまで自分を振り回していた夢の内容を何とか思い出そうとする。
そして。
一瞬頭を過った映像に、無意識に自分の唇に手を触れる。
その映像がクリアになってくるにつれ、自分にキスをしていた人物が、ある男を象っていく。
(いくら意識してるからってそりゃねぇだろ…)
牧は思いっきり苦笑した。
苦手意識ながら普段意識しているからといえ、こんな形で夢に現れるなんて。
自分の脳ミソの思考整理回路はどうなってるのかと落ち込んでしまう。
(何か俺変だ、仕事のしすぎか?)
自分の見た夢のあまりの突飛さに何かしら理由を作らないと落ち着かない。
一度冷たい水で顔でも洗おうと洗面所に向かった牧はふと目をやった鏡に
自分のものではない服を着た自分の姿を見た。
自分のものではないけれど見覚えはある。
たった一度。夢の中で。いや、夢だと思っていたはずの現実で…
一度落ち着けたはずの頭が再び混乱し始めるのを牧は感じていた―――。



夢だと思っていたのに、現実に“彼の服”が自分の手にある。
しかし自分の家に帰ってきた記憶がない。
一体どこまでが現実でどこからが夢なのか。


本当は自分1人で考えていても答が出てこないことくらい分かっているのだ。
かといって“彼”に聞くなんてことも出来ない。
もしあの告白が、あのキスが現実だったとしたら―――。
(現実だったら…どうする気なんだ俺は…)
“っていうかどうもしねぇだろ!!何悩んでんだ俺!!”
普通ならそれで終わらせてしまえるだろうに。
イマイチ自分の気持ちが把握出来ていない牧には結論は出せない。
「なんか情けねーなぁ、俺…」

ため息を吐いてぼやいた瞬間。
『そんなことないですよ』
ふと“彼”の声が耳の奥に聞こえたような気がした。


「やっぱ逃げるわけにはいかないよな…」





商談兼接待で桐島と食事に行った。
そして藤真と仙道が自分を助けてくれた。
仙道の用意した服が現実に自分の手元にある以上、仙道の家に行ったのも間違いない。
しかし。
後ろから抱きすくめられて“好きだ”と言われたことやキスをしたことは夢か現実か判断できない。
こんな時、身体や唇が記憶する感触はあまり当てにならないのだ。


もう何時間も牧は堂々巡りに悩んでいる。
仙道に服を返す際の会話はどうしたって免れられない。
話をせずに返せたら助かるが一社会人として、牧の性格がそれを許さない。
とはいえ、自分の中で曖昧なその記憶が事実かそうでないかで状況はまったく違ってくる。
事実だったのなら、たとえそれが自分の意思を介さない、一方的なものであったとしても。
実際に起こった以上自分は何かしらの答えを仙道に出さなければならないだろうし、事実でなかったのならあくまで普通に対応しなければならない。
が、元々苦手意識があった相手だ。
今回のことで多少印象が覆ったとはいえ気持ちが顔や態度に出易い自分に何事もなかったかのように振舞えるかどうか牧には自信がない。

どちらにせよまた1つ新たな窮地に立ってしまったのだ。


(俺はどっちを望んでるんだろうな…)






「北京に1週間?!」
「あぁ、昨日の午後の飛行機でな」
「…そうですか――」
何だ、急ぎか?と藤真に訊かれ牧はいいえ、と否定してデスクに戻ったがため息が零れる。
意を決して出社した牧を待っていたのは“仙道が昨日から出張していて1週間戻らない”という状況。
俺、日頃の行い悪いのかな…?などと思わず考え込まずにはいられない。


「おーい、牧!報告書持って来い」
「あ、はい、今持って行きます」


「ん、オッケー。悪かったな、お前1人に桐島さんの担当任せちゃって」
「いえ、別に」
「無理すんな、って俺のフォローが遅れた所為でもあるんだけどさ。仙道が教えてくれて助かったよ」
「仙道が?」
「あのさ――お前、アイツの気持ちに気付いてなかったろ?お前アイツのことかなりマイナスに意識してるみたいだったから俺も心配してたんだけど…でも“嫌い”っていうのとはまた違うみたいだし…好かれたら好きにならなきゃいけない、ってこともないけどさ。今回のこともあるしアイツのこと、前向きに考えてやれないか?」




「前向きに、か―――」

自販機で購入した缶コーヒーを握ったまま、ラウンジで呟く。
藤真の言うとおり、“嫌い”、という気持ちとは違う気がする。
“苦手”意識だと自分では思っていたけれど、よくよく考えてみれば苦手なのは仙道本人ではなく、仙道による自分への影響、つまるところ自分、であって。
水面に突然何かが触れてざわめくような感覚は一体どう説明すればいいのか?


(“嫌い”じゃないなら“好き”、なのかな…)

仙道に抱く自分の思いに理由を必要とすること自体がすでにその答えを持っているとも言える。
けれど本人相手にそれを認められるかどうかはまた別問題だ、と思う。
藤真のお陰で選択肢の1つが消えた。
少なくとも仙道の告白は夢ではなかった―――。
ならば自分に出せる答えは…






牧は出張先から直帰の仙道を彼の家の前で待つことにした。
付いて行っただけとはいえ一度行って、しかもそこから自分の家まで帰ってきているはずなのだがなにしろ記憶がない。
社員名簿から仙道の住所をメモし、最寄りの駅を降りてからは電柱や地図板を頼りにやっと辿り着く。
外から見る限り中に人のいる気配はしなかったが一応インターホンを鳴らしてみた。
やはりまだ帰ってきてはいないようだった。
何とも落ち着かない、手に持っていた紙袋の中身を何度も確認してみたりする。

自分の気持ちに気付いてしまったせいか、自分の行動の些細な点までもが過剰なほど気になってしまう。
ここまでなら変に思われないだろう、とか。
これはちょっと職場の同僚の域を越えてるんじゃないか、とか。
自分でも頑ななほど臆病になっていることは充分わかっているつもりだ。
けれど。
牧はあくまでも自分は彼に応える気がないのだ、と示すつもりでいた。
だから、彼を好きだという素振り一つ、見せる訳にはいかない。
もし自分の気持ちを仙道に知られてしまったら。
仙道の気持ちを受け入れない、という自分の答えに彼は絶対納得しないだろう。



幾度か他人の靴音に緊張させられた後、ようやく仙道が帰ってきた。
もちろん仙道は牧が待っていることなど予想すらしていなかったはずで。
一瞬仙道の足音が止んだ。
そしてドアの前に立っているのが牧だと気付くとまた歩き出した。



「牧さん、もしかして俺のこと待っててくれてたの?」
いつもの様に、いや、いつも以上に彼の笑顔は明るい。
彼の気持ちを知らなかったら、この笑顔の意味するものも牧には解ってはいなかっただろう。
牧はゴメンな、と心の中で一度謝った。
「借りた服、返そうと思ってさ…これ」
牧が紙袋をちょっとだけ掲げて見せると当の仙道はチラと一瞥しただけで、受け取る素振りは見せなかった。
「目ぇ覚めたら自分の部屋なのに着てるのはコレでビックリでさ、返そうと思ったらオマエ出張だろ?」
仙道が自分に部屋に入るよう促さないうちに、さっさと服を返して、一刻も早く帰りたくて。
不自然なほど捲くし立てる、これは嘘をついている人間の典型的な態度だ。
そしてそれはやはり仙道にも見破られた。


「牧さんは、なかったことにするつもりなんですね…」
その言葉と仙道の表情に、勝手だと知りながら。
牧はひどく悲しいと感じた。



「なかったも何も俺はそもそもよく覚えてないから…」
嘘ではない。
仙道の告白だって藤真の言葉がなければきっと今でも夢か現実か判断が出来ていなかっただろう。
「気付いたら自分の部屋のベッドで寝てたけどどうやって自分の家に帰ったかも覚えてない」
「嘘でしょ?!だってアンタ、鞄も自分の服もしっかり持って飛び出してったじゃないですか!」


(記憶も残さないほどパニくっていたくせに荷物だけはしっかり持って出たのか、俺は…)

人間の本能は意外に図太い。


「とにかく俺はお前の気持ちに答える気はない、忘れろ。俺も忘れる」
それだけ言って牧はきびすを返した。
「ちょっと、牧さん!牧さん!」


仙道は追っては来なかった。





「で?アレはどーいうことなんだ?」
藤真に呼び出された牧は早くも冷や汗を流していた。
美形が怒ると怖いとはよく聞く言葉ではあったが実際に目の当たりにするとかなり怖い。
状況としては訊かれているのだがもちろん牧に答える余裕なんてない。
自分の後ろにデスクがなかったらきっとどこまででもあとずさっていたに違いない。
それほど藤真の怒る姿は凄まじかったのだ。
「何であんなことになってんだよ?!」

あんなこと、とは―――藤真の指差す先には仙道の姿。
軽口を叩くこともなく、歓談することもなく。
ただただ真面目に黙々と、まるでロボットのごとく仕事をこなしている。
無論表情も能面の様にまったく動いていない。
“必要最小限しか話しかけてこないでくれ”というオーラも漂っているらしい。

「あれはどう見てもハッピールンルンじゃないよなぁ…お前、何したんだ?」
「何と言われても…俺が原因とは限らないじゃないですか」
“ハッピールンルン”って死語だろ!という突っ込みをする余裕は当然のことながら、ない。
仙道があんなあからさまに傷付くとは牧だって思っていなかった。
何もなかったように飄々と笑うだろうと心のどこかで思い込んでいた。

「アイツはな、そう簡単にあんな姿晒すタマじゃねぇんだよ!」
それは牧も思う。
むしろ気にさせるためにあんな態度を取っているんじゃないか、と疑いたくなるほどだ。
「こんなこと俺が言うべきことじゃないけどさ、アイツ本気でお前のこと好きだぜ?前も言ったけどお前だってアイツのこと嫌いじゃないだろ?それなのに何でこんな結果なんだ?」
「お前の気持ちには応えられない、って言いました」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
(この沈黙が怖い…)
気のせいでなければ藤真の目もかなり怒っている。いや、気のせいなんかではない。
牧にしてみれば藤真がいくら仙道と懇意にしていても口を挟む筋合いはないと思う。
けれど藤真の姿はもう一人の、牧の心の中で今も牧の出した答えを責め、本当にこれでいいのか、と問う自分自身の姿のようで。

「・・・・・牧。正直に答えろ。お前はアイツをどう思ってる?」
きっ、と睨まれる。大きなミスを犯したときですらここまで怖くはないだろう。
「だから、俺はアイツには応えられません、ってもう何度も言ってるじゃないですか」
自分を責める相手を振り払いたい、その一心で答える。
けれど。
「応える云々じゃなくて!好きか嫌いか、って俺は聞いてるんだ!」
「・・・・・・・」
沈黙が答え。
藤真はきっと知っている、牧の答えを。
応えられないけれど、好きなのだ。好きだから、応えられない。それが牧の出した答えだ。
自信がない。
仙道の気持ち云々以前に、自分なんかでいいのだろうか、と。
失うことを恐れ、そうなるくらいなら最初から得ることを諦める。
失いたくない、と思えた相手なのに。
本当はそんなマイナス思考を自分でも嫌だと思うのだ。


「アイツにそっくりだ!ムカツクぐらい同じだ、アイツと!」
突然藤真が叫んだ。





「あぁ、そういうことね…」
牧よりも幾分か長身でメガネをかけた男がコーヒーを淹れてくれた。
どうも、と礼を言いながら受け取った牧は藤真とその男を交互に見やった。
就業後、訳のわからないまま藤真に連れて来られたのはどこかの事務所だった。
そして藤真はその事務所にいた件の男に滾々と愚痴り始めたのだ。
その際、まるで蚊帳の外(愚痴の対象にも関わらず)の呈のあった牧を男は気の毒そうに見つめていた。

「アイツがお前を好きで!お前もアイツを好きで!それでめでたしにならなくて納得いくか!言っとくけどな、俺は納得いかない!このバカも昔そんなアホさらしやがったけどな!あぁ、思い出したら腹が立ってきた!」

このバカ…?
牧がその言葉に首をかしげると男が苦笑しながら自分を指差した。

「好きなヤツに“お前のこと好きだ、でも…”とか言われて“はい、そうですか”なんて諦めるヤツがいたらお目にかかりたいね。そんな大馬鹿野郎がいたら俺が殴ってやるけどな!」
そう言いきると藤真はようやく手にしたコーヒーカップを呷った。

「で、少しはスッキリした?」
それまでまるで“触らぬ神に祟りなし”とばかりに合の手さえ入れずに黙っていた男が飲み干したカップを藤真の手から引き抜きながら訊ねる。
だがまだ収まりがついていないのか、
「何傍観者決め込んでんだよ、俺はお前に対しても怒ってんだぞ、花形」
怒りを含んだ、しかし牧の目には意外に拗ねたような感じが見て取れる。
「藤真、許してくれる、って言ったじゃん」
花形がカップを持ったままの右手の甲を藤真の額にコツン、と当てると藤真は「そうだけどさ…」とやや不満気に返した。
「今は牧くんと仙道の話だろ、ほら」




「2年くらい前なんだけどね、君みたいに好きなのに一緒になることを選ばなかった…藤真にバレて散々怒られたよ、殴られたし…泣かせちゃったし、あれが一番辛かったなぁ」

その時の藤真の怒りようはさっきのとは比べ物にならなかったよ、藤真の血管切れちゃうんじゃないか、って心配しちゃったくらい、と牧があまり深刻にならないように花形は少し笑いを含めて話した。

「そういえば…花形さん、仙道のこと知ってるんですか?俺の名前も知ってたみたいですけど…」
「あぁ、仙道は結構ここに来るしね。君の話もよく聞いてるよ…」
「どんな話なんだか…」
タメイキを吐きながら牧は苦笑する。
「そりゃもう初めて会ったときはどうだった、初めて話したときはこうだった…ってね。あまりにも延々と語るもんだから藤真も“そんな暇あるならさっさと告白しろ!”ってのが口癖になってたし」
実際に告白されて藤真が思うような結末を見せなかった牧にしてみれば返事に困る内容だ。
そんな牧の心情をかなり正確に汲み取ることの出来る花形がフォローする。
「まぁ、俺たちの場合はそれまでの付き合いが長かったし、一応自覚はあったからさ、お互い。俺は一度は諦めたけど今は何とかうまくやっていけてるしね。でもどの選択が正しいかなんて誰にも解らないし、人によっても違うだろうしね。君自身がきちんと考えた上で答えを出せば俺はそれでいいと思うんだけど…」
藤真と仙道が違うように、花形と牧も違う。出す答えが違くても不思議ではないのだ。
「藤真はちょっと仙道に感情移入っていうか、自分と重ねてるとこあるから…それで君に対して強引にいっちゃってるんだと思う」
「……でも、藤真さんと同じことを言ってる自分も自分の中にいるんですよね、それでいいのか、って…何度聞かれてもやっぱり答えは出せなくて…自分に自信がないんです、全然。だからどんな答えを出しても別の自分がそれを否定して…」


「それなら仙道ともう一度、ちゃんと話し合ってみたら?きっと雑念が消えて、今まで見えなかったものが見えてくるよ」


花形の穏やかな瞳が牧の背中を押しているようだった―――。



『頑張ってね』

事務所の2階は自宅になっていたようで、藤真は文句を言い終えた後さっさと戻ってしまったようだ。花形が1人で牧を見送ってくれた。

『納得いくまで話し合えばいいよ、とにかく少なくとも自分に対してだけでも正直に、ね』

不思議な男だった。あの藤真が怒って泣いて、そうまでして手に入れようとしたという想像もつかない話に少し現実味を覚える。優しくて穏やかで、何より牧の目には強く映った。
藤真の自信も仙道の勇気も、おそらく彼に引き出されたものだろう。いるのだ、特別なことをする訳でもないのにその雰囲気で人をその気にさせてしまう人間が。




コンコン。
ノックする音が響いた後、ノブが回される。
振り返らなくても藤真には解る。
入ってきた花形が自分にどんな言葉をかけるのか。

「藤真、ココア入れた」
よっ、とベッドに上がり藤真を後ろから抱えるような体勢に落ち着くと花形は手に持っていたカップのうち緑色の方を藤真に差し出した。
2人の約束事。
どんなに怒っていても、顔を見たくないほどであっても。互いに選び合って買ったこのカップで飲み物を差し出されたら話し合いに応じなくてはいけない。そして黙秘権はあるかわり、嘘はつかない。
花形にとっては藤真の機嫌を直すチャンスであり、そうそう素直になれない藤真にとっても表面上渋々ながら話し合いに応じる理由をくれる大事な決まりごとだ。

「もう少し見守ろうよ、藤真の気持ちもわかるけど最後は2人の問題なんだからさ」
「・・・・・・・・・お前にはやっぱり牧の気持ちが解ったりするのか?」
どこか抑揚のない声で藤真が問う。その目はカップの中のココアをじっと見つめている。
「俺には全然解んないよ…アイツの考え方も、昔のお前の気持ちも」
花形を“許していない”訳ではない。藤真自身自分が相当ワガママだという自覚も、それで花形が苦労しているのも知っている。自分の考えが何よりも正しい、と思っている訳でもない。
それでも。
自分が好きで、相手も自分を好きだという。そんな相手を失ってまで守りたいものがあるなんて思えない。牧が仙道を拒んでまで何を守ろうとしているのか藤真には解らないのだ。
―――昔、花形が自分を手放してまで守ろうとしたものはやはりあるのだろうか。
あれば花形には牧の気持ちが解っているのかもしれない、そう思った。


「…もし藤真が俺の隣にいなかったら、今でもそう思うことはあるよ。でも正直言って選ばなかった選択肢のことなんていくら考えても」
「――考える…ことあるんだ」
「あるよ」
カップの中身が零れないように気を付けながら藤真を抱く腕の力を強める。
「自分に自信が持てないんだよ、牧くんも、――俺も」
「お前は今も自信が持てないでいるのか?」
「…昔ほどじゃないけど、ね」
「自己評価低すぎだぞ、お前」
少し拗ねたような藤真の表情に藤真は苦笑で返す。
「そればっかりは性格だから仕方ないよ。藤真が俺を求めてくれたから…だから自分の価値を信じてみようかな、って気になった」
聞きようによってはとんでもない言葉なのかもしれない。人任せも甚だしいし語義矛盾の感もある。
「…だったら後は仙道の頑張り次第、ってことか」
1度溜め息を吐いた後に少し逡巡した藤真が呟く。
「・・・・・・・・・大丈夫かなアイツ・・・」









「うわっ!!」

―――およそ朝の目覚めには相応しくない叫び声が響いた。
光の加減からするともう昼近い時間になっているのかもしれない、昨夜ベッドに入った時はすでに日付が変わっていたし久しぶりに熟睡できたような気がした。
そんな少し気だるい気分までもが心地よく感じていた牧だったが、ふと胸の辺りが肌寒く感じて目を開けると誰かの腕が自分の身体から掛け布団を剥いでいるところだった。

「・・・・・・仙道?」
何だかひどく慌てた様子の仙道は布団を持つ手も恐る恐るで、かなり腰の引けた格好だ。


「あの、お、・・・俺!もしかして、む、無理やり牧さんに・・・その、えっと・・・」
「何だ、お前全然昨夜のこと覚えてないのか?」
牧のその台詞にしばらく目を泳がせた後、項垂れた仙道は普段より一回り小さく見えた。


***


昨夜。
藤真と花形の家から帰る途中、牧はある居酒屋の前で足を止めた。
別に酒を飲む気分になったからではない。
ちょうど牧が店の前を通りかかろうとした時に店の戸が開いたために少し驚いてしまったのだ。

「ほら、もうすぐタクシー来るから少し外の空気を吸え!ったく、いつまでも手のかかる…」
2mはあろうかという大きな男が肩を貸して、1人の人間を店の外に連れ出していた。
それが知らない男であれば牧もそのまま通り過ぎていたはずなのだが・・・・・

『居酒屋・魚心』

結局見過ごすことが出来ずに仙道の介抱役をかって出た牧はタクシーが来るまで店の前で店主の魚住と話していた。

「こいつは高校ン時の後輩なんだけどもさ…どうも放っておけなくて気付いたらいつも面倒みる羽目になっちまってるんだなぁ…」
魚住は高校卒業と同時に父親が切り盛りしていた店で修行を始めたのだが、腕も人柄も良く、すぐに自分の店を持てるまでになった。それが『居酒屋・魚心』という店だ。
開店に際して仙道はまるで自分のことのように喜んでくれて、今でもちょくちょく知り合いを連れて来たりするらしい。どうやら藤真や花形もすでにこの店の常連らしかった。

「いつもはこんな飲み方しねぇんだけどなぁ…牧さんコイツと同じ会社なんでしょ、最近何かあったんですかねぇ、仕事上手くいってないとか」
「いや…俺はあんまり直に接することはないんで…」
どうやら魚住は牧を仙道と仲のいい人間だと誤解しているらしかった。
(ある意味他の誰よりも仙道とは近しい状況なのかもしれない)
あまり深く聞いてはいけない話題が魚住の口から出てきそうで牧は恐かった。
「こんな潰れるまで飲むなんて初めてかもしれねぇな…まぁ、やっとと言えばやっと、なのかな…コイツ何だかんだで上手くいかない、って経験がなかったから」
「はぁ…」
「何でもソツなくこなしちゃうでしょ、そのくせ敵も作らない、っていうか…なんて言うかね、一見器用に見えるんだけどその実すごく不器用なんじゃないかな、って近頃思うんすよ」
いっつもニコニコしてて、俺はあんまりコイツのこと分かってやれる良い先輩じゃなかったのかもなぁ、と少し寂しそうに呟く魚住の横顔を見て牧は少し羨ましいと思った。

もっと仙道のことを知っていたら、自分は、ここまで魚住を羨ましく感じないかもしれない。
仙道をまだ分かっていないことに寂しさを感じる魚住でさえ、牧に比べれば沢山の思い出や感情を持っているのだから。
嫉妬というには少し未熟な自分のその感情を、この時の牧は素直に受け入れていた。


***


「たまたま通った魚住さんのとこで牧さんが俺を引き受けてくれた、と…あぁ、そういえばその辺りから記憶が…」
魚住の店の前でタクシーを待っていた時に仙道は酔いつぶれていたのだ。無理もない。
「…だろうな」
その時の様子を思い出して牧は少し可笑しそうに言う。
「あれ?でも牧さん、何で魚住さんの店に…?近くに取引先ありましたっけ?」
「・・・・・・いや、藤真さん家に拉致られた」
お前のことで説教されたんだ、と言ったら仙道は不思議そうな顔をした。
「で、花形さんに慰められて、家に帰る途中だったんだよ」
「あぁ、花形さんにも会ったんですか…っていうかそもそも藤真さんに何を説教されたんですか?」
仙道が疑問に思うのも無理はない。仙道は牧に拒まれた後、そのことを藤真には一切話していないのだ。藤真が知っていることすら知らない―――ましてや牧の本当の気持ちも。



「あの2人みたいな結果になるかは分からないけど…俺さ、お前とのこと今度は逃げないでちゃんと考えようと思った。それは藤真さんに説教されたっていうのもあるけど…花形さんの話とか、魚住さんの話を聞いて決心したんだ」
牧が勇気を振り絞って紡いだその言葉にも、仙道の頭は巨大なクエスチョンマークを浮かべている。
俺を好きなら俺の気持ちくらい察してくれてもいいのに、と少し八つ当たりじみた思いを抱きつつ、牧はゆっくりと、仙道が理解出来るように、得意でない言葉を続ける。
「俺はお前のことがどうだとかいう前に、自分に自信が持てなかった。お前を好きかと訊かれれば好きだ、それを藤真さんには気付かれてたみたいで…それで怒られて。花形さんは何となく俺の気持ちを察してくれて、自分たちのことを話してくれて…」
「―――じゃあ魚住さんは?」
「魚住さんは…お前の先輩だろ?お前のこと少し話してくれて…もっとちゃんとお前のこと知りたい、って思って…だって俺、全然お前のこと知らないんだ、彼を羨ましく思ったんだよ」

「それって―――」

「本当は俺、お前を酔いつぶれるほど落ち込ませるような大した人間じゃないと思うんだけどさ…」
「いや、それは俺が勝手にしてることなんで…」
「うん、でも…お前が俺で良い、って言うなら…この際自信がないのはなるべく気にしないことにして頑張ってみようかと…」

花形のように自分を信じてみよう、という気にまではなれないが。
それでも仙道なら、自分を見ていてくれた仙道が相手なら、自分も変われるかもしれない。
そう思えた。







―――キスされるっ…
近付いてきた仙道の顔に牧は思わず目を堅く瞑ってしまった。

それなのに一向にその気配がないことに牧が訝しく思って目を開けると、そこには仙道の困ったような顔。

「牧さんが嫌ならしません。…だからそんな覚悟決めた様な態度は取らないでください」
何もしないから、と両手を上にあげる仕種で示してみせる。

「あ、いや…嫌とかそういうんじゃなくて…えっと・・・・・・スマン」
言うべき言葉を見つけられず、そんな自分をとりあえず牧は謝るが、その謝罪の意味を仙道は自分なりの解釈で捉えてしまう。
「牧さんが謝ることじゃないです。俺、牧さんに嫌われてたから…正直牧さんがこうして目の前にいるだけで嬉しくて、つい…」

「嫌ってた、なんて」
違う。
苦手だと感じていたのは事実だけれど、それも仙道が悪かったわけではない。
ただ自分の心の中に生じる正体不明の気持ちを押し隠していただけなのだ。
それを伝えたい。
それなのにどう伝えたらいいのか牧には解らない。
自分の情けなさに涙を滲ませながらも首を振るしか出来ないでいた。

そんな牧を宥めるかのように仙道は静かに話し始めた。
「・・・・俺、牧さんに一目惚れだったんです。それも入社する前から」
仙道は大学を卒業してから本当は就職する気がなかったこと、そんな時に昔馴染みだった藤真が仙道の語学力に目をつけて今の会社を受けるように誘ってきたこと、その話をするために会社のロビーで待ち合わせをしていて、その時偶然見かけた牧に一目惚れして入社を決めたことなどを順を追って話した。
本当は牧と同じ仕事をしたかったのだが、やはり語学力を武器に入社したこともあって必然的にその方面の仕事をまわされ、唯一共通する上司が藤真だったことは良かったけれどそれでもなかなか直接話せる機会もなくて。
「だから社内ストーカー一歩手前、ってカンジで。牧さんも多分、無意識にそういうの感じ取ってるんだろうなぁ、って…」
あの女がいなければきっとスゲー嫌われるハメになってたんだろうなぁ…
仙道のその呟きに思わず牧は聞き返した。
「あの女?」
「・・・・・・・牧さんあんな恐い思いしたくせにもう忘れちゃってるんですか?」
「―――あ、桐島さんのことか…」
何だ、とばかりに応える牧に仙道は何とも言えず可笑しくて、つい声を立てて笑ってしまった。
「くっ、牧さんってほんと、最高。…たまんないよ」
まだ完全には納まらない笑いを必死にかみ殺して仙道がそう言うと牧は少し不満そうに『褒められてる気がしない…』とぼやいた。
それがまた可笑しくて、改めて仙道は牧を好きな気持ちが大きくなっていくことに気付く。



***



「で、結局は納まるべきところに納まった、ってコトか…」

週末に起きた事の顛末を藤真に報告した後の第一声がそれだった。
報告、というよりも。
先週とは打って変わった様子で会社にやってきた仙道を見て、藤真は牧を朝一番に呼び出し報告を迫ったのだ。
どうせなら俺じゃなくて仙道本人に聞いてくれればいいのに、と思わないでもなかったが、仙道は取引先からの電話に応対しているところだった。

こういう場合はやはり『ご迷惑をおかけしました、おかげさまで…』とでも言わなければいけないんだろうか、などと考えながら牧は藤真の顔を窺った。
(まぁ、花形さんにはお礼というか…挨拶はしとこうかな。色々聞きたいこともあるし)
そんな風に牧が考えたことを藤真は見透かしたわけではないだろうが、タイミングよく「…花形の言う通りだな。というかむしろ早すぎだな…まるで昨日の今日だぞ」などと呟いたものだから牧は何となく気恥ずかしくなってしまう。


「まぁ、本当に大変なのはこれからなんだけどな。…どうせまた俺たちも巻き込まれるんだろうからな。花形には俺から言っとくから。お前はお前で頑張れ」

藤真のその台詞には多少の反論をしたい気もしたが、休憩時間でもないのにしばらく席を外す社員がいると神経質な程気にする課長の視線がそろそろ牧にも痛く刺さってきたので牧は大人しく席に戻ることにした。




課長に軽くスミマセン、の意味を込めて会釈しつつ椅子に座ると机の上にさっきまではなかった書類の入ったクリアケースと、その右上にクリップで留められたメモが目に入った。

ケースをめくって内側に向けられたメモの表面を確認した牧の顔が嬉しさでほころんだことに誰も気付かなかった―――




『今日の昼飯、ご一緒しませんか?  仙道』








*end*



長編仙牧リーマンもの!!リーマンもの好きな梅園にはたまりません♪密かに好きな形藤もからんで楽しさ倍増。
店名『魚心』は梅園の小説とリンクしてます。こういうのも楽しいですね。
賑やかで楽しい作品をありがとうございましたv

 


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