Forget about it.


漸く夕暮れ色に染まりかけてきた空をベランダからぼんやりとつまらなそうに見ていた仙道は、ふと視線を下界へと向けた。11階から見る景色はいつもと変わらず、人や車がせわしなく行き来している。
そんな中で仙道は信じられない人物を見つけた。半年前から単身赴任(?)中の我が愛しの伴侶、牧紳一その人である。
見間違いかと夕陽が沈みきった直後の薄暗がりの中、何度も目を凝らしてみるが、徐々にこのマンション─── 二人の愛の巣に早足で近づいてくる姿はもう見間違いようがない。
彼から今日戻ってくるとかそういった連絡は全くもらっていなかったが、きっと急遽時間ができて足を運んでくれたのだろう。そして突然の帰宅に驚きながら狂喜乱舞する自分を楽しみにしてくれているに違いない。
仙道は急いで玄関に戻ると自分の外靴を引っつかんでベランダへと急ぎ戻った。
「俺だけを驚かそうなんて甘いぜ、牧さん♪」
もう先ほど自分は一人で思い切り驚いたし、こんなに嬉しい気分へと一気に浮上させてもらった。それを牧にも感じさせたくなったのだ。


律儀にインターホンが鳴らされた。ほどなくして居間へと牧が現れた。
「仙道? 仙道〜? いないのか本当に? …隠れてるんじゃないよな?」
以前、仙道が外出中に牧はシャワーを浴びていたことがあった。風呂から出てきた牧が帰宅して洗面所で手を洗っている仙道に盛大に驚き、その拍子に足が滑って洗面台に体の左側面から激突したということがあったのだ。それ以来、牧には小さなトラウマになっているのかもしれない。
牧はスーツのジャケットを脱ぎながらウロウロと家中を歩き回っているようだった。
「おーい、仙道?」
レースのカーテン越しに牧がソファをどけているのが見えた。思わず仙道は吹き出しそうになるのを両手で口を覆って寸でで止めた。
(いくら俺でもソファの裏に膝を抱えて横たわって隠れたりしねぇよ〜。つか、そんな狭いトコどうやったって無理だろ〜)
どこにも仙道がいないと分かると、牧はソファを元の位置へ戻してから淋しそうに呟いた。
「…なんだよ。せっかく来たのに」
大きな溜息と共にどっかりとソファに身を沈めた姿を見て仙道は十分に満足した。そろそろ出て行って、そんな淋しそうな顔を一気に驚きと喜びに変えてあげなければ。仙道はベランダのガラス戸へと手をかけた。
が。慌ててその手を引っ込める。
(ま、ま、牧さん、何やってんだよ〜!)
ソファに投げ出しっぱなしにしてあった仙道のTシャツを手にした牧が、頬を寄せているのが目に入ったのだ。牧はさらに顔を擦り付けると、くんくんと臭いを嗅いでいるようで、恥ずかしいやら嬉しいやらで仙道の額には汗が伝った。
(あのTシャツは何時脱いだんだ? つか、五日くらいパジャマがわりにあれを来て寝てたから…相当臭いんじゃ……)
焦る仙道を他所に、牧はうっとりと瞳を閉じてそっと呟いた。
「……仙道…」
(おああああ! な、なんつぅ色っぽい声でそんな汚ねぇTシャツに囁きくれちゃってんすか! うわぁ……)
あまりの居たたまれなさに仙道はしゃがんで頭を抱え込んだ。あんなことをしている姿を自分が見ていたと知ったら、彼は恥ずかしさのあまり速攻で名古屋へ帰ってしまうだろう。少なくとも、突発で時間が出来たからと家に戻ってくれることは二度となくなることは決定だ。下手すれば恥ずかしさを通り越して怒りのあまり、単身赴任が終わるまで二度と帰宅してくれなくなる……かもしれない。失敗した。こんなことになるなら、素直に大喜びで出迎えれば良かった。そうすればもっと早くにあの可愛い人を抱きしめられていたというのに。
(うーん……どうしたらいいのかなぁ。…あ、電話かけてる)
携帯で仙道に連絡を入れようとしているのだろう。しかしFAX台の横で充電中の携帯が鳴っているのを見てがっくりと項垂れている。
「携帯も持たないでどこほっつき歩いてんだよ。今日は仕事休みだって言ってたくせに。……淋しいじゃないかよ」
牧はつまらなそうに口元を尖らせつつ、ソファにある仙道のTシャツを掴んだまま寝室へと入っていった。
仙道はその言葉にすっかり悦に入りつつも、一人で握った拳の親指を天に向けた。
(携帯持ってなくて良かった〜。ベランダで鳴ったら速攻バレちまうとこだったぜ。グッジョブ、俺)

とりあえず仙道も寝室の窓がある方へと急ぎ移動した。初秋の日差しの強さにカーテンは引いたものの窓を少し開けていたため、窓辺へ近づけば牧が着替えているのであろう衣擦れの音が聞こえてくる。窓が開いていると気付けば、いくらなんでも不審に思うだろう。ここはそっと閉じるべきか、閉じないでいるべきか……。
ぐるぐると迷っている仙道の耳へ窓際に近いベッドがきしむ音が聞こえてきた。
(こっ!! これは!?)
仙道の咽がゴクリと鳴った。仙道のTシャツを持ちこみ仙道のベッドへと牧は横たわったのだ。これはもう決まりだろう。
今までも単身赴任中の彼は自分を思ってしてくれたりするのだろうかと考えたことがあった。実際以前、尋ねてしまってこっぴどく叱られもした。赤くなって叱る彼からはそれが照れからくるものか、それとも『お前には恥じらいってもんが欠如している!』と叱る言葉通りの怒りからだったのか。
曖昧なまま明かされなかった答えが今。それが今!! 自分の目の前で繰り広げられようとしている…!!!
高鳴る胸の鼓動を抑えるように自分のパーカーの胸元をギュッと握った。微かに漏れ聞こえた牧の切ない吐息が心臓以外の場所まで脈打ちはじめさせる。
(見たい! 見た過ぎる!! けどこの遮光カーテンのせいで全く見えねぇ!)
人間、一つの願望が満たされると次を欲してしまうもので。仙道は網戸越しに閉められているカーテンを覗ける程度の隙間を作りたくてイライラし始めた。もちろん先ほどの“窓を閉めるか否か”なんて迷いなどこの頃には興奮でしっかりすっとんでしまっている。
網戸はこちらから開けようと思えば開けられる。しかし下手に動かして音が出てしまっては気付かれてしまう。
焦れる仙道を更に惹きつけるようにベッドのきしむ音とシーツと着衣が擦れあうような音が小さく漏れ聞こえてきた。
(どっちなんだ、どっちなんだよー!? 牧さんは前だけですましてんの?  それとも俺を思って後ろも弄ってくれてんの?? 見えねぇから分かんねえ!! せめてもっとヒントになりそうな声や音を出してくれよ牧さん〜)

以前に率直に訊きすぎて牧の鉄拳をモロに腹へくらってしまい、仙道は三日間ほど真っ直ぐに立つのが辛かった経験がある。そんなことなど忘れきったように仙道は疼く自分の股間を押さえながら顔を網戸へと押し付けた。
頬に網戸の網目が痛いと感じるほどに押し付けると、室内の細かな音が更によく聞こえてきた。彼が身動きをしたのが小さなシーツの音から伝わる。
「……はぁ……」
牧の深い吐息一つが仙道の神経を集中させた鼓膜を怪しく震わせる。仙道は直接耳に吐息を吹きかけられたわけでもないのにぞくぞくとした感覚を確かに感じて、さらに網戸へ全身を寄せる。
ここまで鮮明に聞こえてくると昔誰かからきいた『覗き部屋』という風俗、隣の部屋で女性が痴態を繰り広げるのを小さな穴から覗くだけで高額な料金を払う、物好きな変態根性を満足させるだけの馬鹿げた風俗営業が成立するのも頷ける気がした。今の自分は覗くことも出来ず、耳だけが頼りだというのに、制限された範囲で得る情報の甘美な怪しさにこれほど煽られるとは。
(俺……今なら覗き部屋に通う変態どもの気持ちが分かる気がするぜ。今更だけど罪な人だ、あんたは……。どこまで俺を変態にさせんだよ……)
バサ……と何かが落ちる音が聞こえた。上着を脱いだのだろう。それだけで脳裏にはTシャツに染まった頬を擦り付けながら片手で肌より少し色濃い胸の飾りを、もう片方の手では昂りはじめたものをズボンの上から弄りだした姿が映し出される。

(やっぱちょっとだけでも拝みてぇよぅ〜、想像だけなら一人でだって出来るけど、今目の前にせっかく本物がいるのに……!)
もどかしさに窓枠を掴む手に力が入ったその時。バリバリバリと音をたてて枠から網戸が切れた。仙道はその音に驚き即座に窓から離れた。
切れたのは右側面部分10cmと下部5cm程度ではあるが、不信な音は絶対に牧へ届いたはず。デバガメがばれたかと真っ青になり硬直する。
逃げ場などないため、せめて叱られる比率を軽くしようと言い訳を必死で考えて……考えて……考えてもなかなか咄嗟になど良い案など浮かびはしない。
(……あれ? 牧さん、ひょっとしてこっちの音に気付かなかった?)
なかなか様子を見に来ないのは、遮光カーテンのおかげかはたまたベッドが少し窓から離れているせいか、それとも──
(それとも、もうかなり一人で盛り上がっちゃっててそれどこじゃないと……か?)
青くなって言い訳を考えていた自分はどこへやら。そう思い至ってしまうと一気に心拍数と共に先ほどの想像を上回る悩ましげで妖艶な痴態を演じる彼が窓の向こうにいるとしか思えず、またも窓へと走り寄った。それでも一応は網戸に体を寄せるのはやめて、顔だけを網戸にはりつける。
ギシッと短くベッドがきしんだ音に、やはり続行中だったのだと途中経過を聞き逃した悔しさに唇を噛んだけれど──……

スーッ……スーッ……スーッ……スーッ……

聞こえて来たのは期待の自慰に耽る色っぽい息づかいではなく……ただの規則正しい深い寝息だった。
ぐらりと頭を逸らせると仙道はその場に跪いた。
(こ…こんなに人をその気にさせておいて。何で何もしないで寝てんだよ〜。恋人のTシャツと枕を使ってたらその気になるんがお約束じゃねぇ?)
期待を裏切られた悔しさのあまりに、あれほど期待に膨らんだ胸……ならぬ、自分の息子は一気に意気消沈してしまっていた。


ため息混じりに仙道はベランダから居間へと戻った。少々躊躇しつつも寝室のドアをそっと開けてみたが、牧の寝息は先ほど同様に規則的に静かに続くばかり。
起こされるより自発的に起きた方が目覚めがいいかと思い、扉を閉めソファに荒々しく座ってみた。TVもつけてみたが寝室から牧が出てくる様子はなかった。
疲れて熟睡してしまっているのかと思うと起こすのも可哀相になる。しかしこうして会いに来てくれたことを考えれば、せっかく近くにいる恋人を起こして話をして抱きしめたりしたいと思う我が侭も許してくれるような気もした。
(耳で声や吐息をきくことは電話でだってできることだ。それで足りないから牧さんも疲れをおして来てくれたんだ──)
仙道はTVを消すと今度はためらいなく寝室に入り牧の横たわるベッドへ腰かけた。牧の手にはしっかりとTシャツが握られている。穏やかな寝顔に自然と胸が甘く優しくなっていく。サラサラとしたブラウンの髪を指にすくっては優しく頭を撫でた。
床には寝返りで蹴ったのか、薄手のブランケットが落ちていた。先ほど牧の上着が床に落とされた音と自分が勘違いしたものの正体だろう。あんなに先ほどは一人乱れる彼の様子を聞きたかったのに、今こうして静かに眠る姿を見て触れていると、それだけで胸はこれほどに満たされている……。

そっと頬に指を滑らせ滑らかな皮膚の感触を愛しく感じていると、牧の睫毛の先が震えてゆっくりと閉ざされていた目蓋が開く。
「……せんどう?」
「お帰りなさい、牧さん」
「ん……。おまえ……いつ帰ってきた?」
「5分前くらいかな。驚いたよ、玄関にあんたの靴があって。今夜はこっちに泊まれるの?」
「深夜バスで帰る……。いま、何時だ?」
寝惚け眼のまま起き上がった牧へそっとキスをすると、ゆっくりと牧の両腕が仙道を抱きしめてきた。どうやらまだしっかり目が覚めたわけではないらしい。
「7時くらいかな。泊まれもしないのに寄ってくれたなんて、俺は嬉しいけど……牧さん明日の仕事が辛いんじゃないの?」
抱きしめ返しながら尋ねれば肩先にひっそりとした吐息を漏らされる。先ほど網戸越しに聞いた吐息など問題にならないほど艶っぽい。
「……嬉しいんなら、いいだろ」
艶めいた吐息とは裏腹なつっけんどんな返答に彼がやっとしっかり目が覚めてきたことがわかる。沢山の彼の魅力の中の一つでもある、この照れ屋なところは時にたまらなく可愛くて、時にイジワルをしてみたくもさせる。先ほど一人で喜劇を演じさせられた身としては、今は後者の気持ちが少々上回った。
「嬉しいのは、俺だけじゃないでしょ。俺の臭いや体温感じたくて我慢できなくなっちゃって短時間でもいいから会いにきたくせに」
仙道の腕の中、甘えるようにかけられていた重みが急に軽くなる。体を僅かに離されたのが気に食わなくて牧の表情を覗き込もうとすると腕からするりと逃げられてしまった。つい不満が口から出てしまう。
「たまにはクリスマス以外にも素直に言ってくれてもいいんじゃないっすかね」
ピクリと牧の片眉が嫌そうに上がったのを見て余計な一言(クリスマスには素直というのが癇に障ったはず)を言った自分を後悔するが、時すでに遅し。
「俺は別に。仕事で近くに寄ったついでなだけだ。お前と一緒にすんな」
今度は仙道がカチンとくる番だった。照れ隠しなことは分かっているけれど、それにしても最後の言葉はあまりじゃないかと思ってしまう。
「ふーん、そう。すんませんね、俺のくっせーTシャツ握ったまま俺のベッドで横になってるから、てっきり誤解しちまいました」
流石に隠しきれなかったのか、牧の頬が赤く染まる。暫し二人は嫌な雰囲気の漂う中でお互いを睨むように見つめていたが、意外にも今回は牧が先に無言のままベッドから立ち上がった。寝室の電気をつけると部屋を出ようと踵を返したため慌てて仙道が呼び止めた。
「や! ウソ、ウソっす。ごめん、そんな怒らないで下さいよ」
返事をよこさない牧の腕を掴むと無理やり隣へ座るよう引き寄せた。
「だって時間ねーのに会いに来てくれてすっげー嬉しかったとこに、ちょっとがっくりさせられちゃって……。欲張って悪かったっす」
顔を背けたまま返事をしない牧へ仙道は全面降伏とばかりに続ける。こんなくだらないことで久々の短い逢瀬が台無しだなんて最悪だ。少々情けないかもしれないけど、そんなことかまっちゃいられない。この際、どちらがどうとかなどどうだっていい。
「怒らないで、謝るから帰らないで、ね。こっち向いて下さいよ〜」
必死の仙道に牧はやっと背けていた顔を動かした。とはいえ、自分の膝を見つめるように俯いただけなので表情は窺えないのだが。
「……ウソじゃねぇだろ」
小さな低い呟きに、やっと返事をしてくれたことで怒りが収まりかけたかと少々安堵する。ここで一気に機嫌回復を計ろうと仙道は掴んでいた腕を離してそっと牧の拳を掌でゆるく包むように握った。
「ホント冗談っすから。ごめんね、つい調子に乗っちまって」
すると、牧の拳が仙道の手の中で一回転をしてから指が解かれて仙道の手を下から握り返してきた。
「そうじゃない。……俺が、お前のTシャツを抱いてお前のベッドで寝てたのは、紛れもない事実だって言ってんだよ」
驚いて繋がれた手を見ていた視線をあげれば、牧の頬や耳は驚くほど赤い。見てしまったこちらまで赤くなるほどに。
「ま……牧さん……」
「大概の人間はなぁ、図星をさされると怒る生き物なんだよ。悪いか? 時間もないのに会いに来くるのは」
とうとう首まで真っ赤にしながらも開き直って牧は照れを通り越した苦々しい顔を上げた。そしてすぐにその表情は訝しげなものに変わる。
「悪くなんかあるわけないじゃん。俺、だから本当に嬉しくてたまんなくって……って、何? 俺の顔に何かついてますか?」
凝視されて仙道が首をかしげると、牧は仙道の頬に指を滑らせてきた。
「ついてる。なんの痕だよこれ? ……これ、泥か?」
牧は自分の指についたざらざらした埃交じりの砂のようなものをしげしげと見ている。仙道は慌てて牧の指を掴んで手で清めるように払うと、急ぎ立ち上がり寝室を出て行ってしまった。「俺、さっき外から帰って来たもんで、顔洗ってきますね」と一言残して……。


唐突に一人寝室に置き去りにされ、呆気に取られていた牧ではあったが、茶化される原因となった仙道のTシャツを畳んで枕の横においた。床に落ちているブランケットを拾おうと窓側へ寄った時、ふいに頬を夜気が撫でた。
「窓、空いてたのか……? 窓を開けっ放しで外出してんのかあいつは。無用心だなぁ」
いくら11階でオートロックとはいえ、窓を開けて出かけるのは短時間とはいえ良くはないだろう。あとで言っておくかと思いつつ、風で揺れるカーテンを何気なく開ければ妙な音がする。音のする方向へ視線をやると、強くなってきた夜風に破れた網戸部分がペチペチと締め切っていない窓ガラスの枠を叩いていた。網戸は痛むと側面から割れるように自然に磨耗して切れてしまうことがあるというが、それほど古くはないはず。何か押し付けでもしないと簡単には……押し付け…………。
どうも先ほど見た何かが頭にひっかかりながらもその正体はつかめぬまま居間へ入り電気をつけた。顔を洗うだけなはずなのに、仙道はなかなか洗面所から戻ってこない。
手持ち無沙汰でソファに座ろうとして、ふと居間のカーテンをし忘れているのに気付きベランダの大きな窓ガラスへ近寄る。
「何でここにスニーカー……?」
仙道が普段気に入って履いている、少しくたびれたスニーカーがベランダに出されている。洗って干したようには全く見えない。何気なく狭いベランダを覗き込めば、スニーカーのすぐ傍にベランダ用のサンダルがひっくり返っている。
どうにもスッキリしないため、不足したピースを拾い集めるような気持ちで玄関へ行ってみれば、来た時見たのと同じように自分と仙道の革靴しか置かれてはいない。外出していたと仙道は言っていた。ジーパンと革靴で出かけたなんてわけがない。仙道が別のサンダルなどを履いて出かけたのであれば、絶対にここに出されているはず。仙道は今でこそ脱いだ靴をそろえはするが、脱いだ靴を靴箱へ毎度仕舞うような奴ではない。
どんどんと脳内にあるパズルは完成に近づいていく。しかし完成されるだろう絵柄──その事実を牧は認めたくはなかった。
認めてしまえば、先ほどの件ですら顔から火が出るほど恥ずかしかったというのに、更なる恥ずかしい自分──あんな……あいつのTシャツ嗅ぎながら名前を呼んでたり淋しいとかほざいていたのを知られていたとしたら……!!

ベランダの前で立ちすくんでいると、パタパタと急ぎ足で寄ってきた仙道に背後から突然抱きしめられた。
「すんません、なかなか汚れ落ちなくて。腹減りました? 晩飯ありあわせのもんでよけりゃ作りますよ?」
「あぁ……頼むよ」
「? どうしたの牧さん。まだ怒ってるの?」
顔を覗きこんできた仙道の頬が間近にあり、そこに汚れはないものの……小さな格子柄のような痕があるのを確かに見てしまった。
ぶるぶると我知らず拳が震えてしまい、それが仙道にも伝わったのか不安げな眼差しに変わる。
握った拳が震えるのは何故か。自分の醜態を見られたからか。醜態を知られてないと思っていたから、ついいつも通りそっけなくしてしまった自分が恥ずかしいからなのか。いや。その恥ずかしさは先ほど半分くらいは仙道に既に指摘されて味わったから、震えるほどではない。
となればこの震えは、実はけっこう驚き屋な自分をまたしても驚かそうとした可愛い悪戯心への大人気ない怒り? それとも気付かれなければ覗きという卑劣なことをしたのを隠し通そうとしている根性の悪さへの怒り…? 百歩譲って醜態を演じると思わなかったから言い出せなくなったとしても、だ。可愛さ余って憎さ百倍という言葉がある。ならば恥ずかしさ余って憎さ百倍という言葉を俺が今作ったとして、誰が責めよう……?
牧は顔を上げてギラリと仙道を睨み付けた。震える指でベランダに残されているスニーカーを指差す。指された物を見て察しのいい仙道の顔色が瞬時に失われた。
仙道が牧の体に回していた腕を解いた瞬間、見事な軌跡を描いた牧の平手が仙道の頬に残る格子柄を消すべく放たれた──


その後、仙道が作った肉味噌とサラダと冷麦で二人はにこやかに食事をしている。
叩いた牧がすぐに「頬に蚊がとまっていたから。すまん、強く叩きすぎたな」と言ったからだ。
叩いた理由はスニーカーを指された時点で仙道には当然理解出来ていたが、牧が蚊のせいにしたのは理由を明確にしない=言及しあわないのがお互いにとって利だと結論付けたのだろうと判断できた。言及はしないまでも、覗きなど二度とするなという戒めの思いが彼の平手を出させたといえる。そして強く叩きすぎたことを詫びたのは、短い逢瀬をこれ以上もめて潰すのは嫌だから加えてくれたようにも思える。
だから仙道も素直に言えたのだ。「こっちこそ、手、汚させてごめんね。ありがとう」と。

二人がベッドで会話を交わす前の出来事は、お互い夢でみたことやったこと。あやふやですましてしまえること。
離れて過ごしている俺たちに大事なのは、こうして会えること。楽しく食事をしたり笑いあえること。

食事が済んで食器を流しへ下げて居間へ戻ってくると牧が読んでいた新聞をテーブルに置いて立ち上がった。
「あと一時間半したら出なきゃいけないから。……その前に、次に会うまで忘れないようにお前の香りも体温も沢山もらって帰るよ」
「うん。あまったらお土産にして」
「お土産って……誰にだよ?」
困ったように笑う褐色の頬へキスを一つ落とすと、仙道は潤んでしまった瞳をみられまいと背後へ回り、牧の背を押しながら寝室へ入った。
「またあっちで一人になっちゃう牧さんへに決まってるでしょ。俺も沢山もらっておかなきゃ。今日は牧さんのベッドでしようよ。牧さんの香りが薄まってきて困ってたんだから、お土産に沢山残してってね」
「まだ帰る前からそんな泣きそうな声だすなよ。俺まで……うつるだろ」
「今度は寄れそうな時は電話して下さい」
「……あぁ。時間、惜しいもんな」
「うん」



限られた僅かな時間の中、電話で得られないものを必死でかきあつめるように、二人は重なりあい、与え、奪いあった。

次の約束、二人の仕事休みが重なる日がとても遠いように感じて、淋しくて、結局は言い出せないままに








*end*




少々手直しして再度UP。諸事情で単身赴任先をいきなり変更しました。こんな場ですがLさんに感謝!
牧も仙道も格好悪くてすいません☆ 恥ずかしいと感じるところって人それぞれですよね。わはは。

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