dynamite angel


重い体を引きずって、「先、寝ます」といって寝室へと消えた自分の背中に、「おう。おやすみ」という優しい声がかけられる。

ここ二週間、俺は牧さんより先にベッドに入っている。一?二時間くらい経つと、俺を起こさないように、そっと足音を忍ばせて牧さんは自分のベッドへと潜り込む。疲れているのか、牧さんは十分もしないうちに静かな寝息をたて始める。そんな規則正しい寝息を二時間くらい聞くともなしに聞いている──── なかなか眠れない、俺。
正確に言えば、先に寝室に入るようにしたのが二週間前というだけで、寝付きが悪い状態は軽く一ヶ月は越していた。体力は鍛えているだけあってかなりある俺だが、流石に先週ぐらいから確実に調子が崩れてきているように感じる。このままじゃ、倒れないまでも仕事に支障が出るのは必至という危機感から、せめてもと早く横になっているのに。

ズキンッ。
痛みで眉間に皺が寄った。寝不足のせいなのか頭痛の頻度が増していた。無意識でこめかみにやっていた手が、今度はまたキリキリと締め付け感のある胃の辺りへと移動して、自動的にさする。自分はこんなにデリケートな奴だったのだろうか…と、らしくなさがあまりに続くため、悔しくもなる。
昔、長期スランプでかなり凹んだことがあった。その時、牧さんと小旅行して泣き言を吐いた。かなり見苦しく。その時は牧さんのおかげと丁度上手い具合にまた波のようなものが戻ってきて、治ったんだ。結果的にはスランプに入る前よりも後は調子が良いというか、上手く言えないが『掴んだ』感があって飛躍的に進歩できた。結果オーライってやつだった。でも、今回のは……。

寝返りをうった牧さんの横顔が暗がりに慣れた自分の目にぼんやり映る。
高い鼻梁、少し厚めな下唇。彫りの深い目元、濃く綺麗に生え揃った睫毛。全部、俺のもの。上掛けが規則正しい呼吸でかすかに上下している。その下にあるのは厚い胸板、鍛えられた腕。引き締まった長い脚。全部、俺のもの。
なのに、触れない。触りたくないわけじゃない。ただ、ちょっと怖い。この隅々まで敏感な─── 俺が、そうなるように丹念に作り変えた ──褐色の身体は、きっと俺の手で触れ、抱けば…すぐに俺の望む反応を返してくれるだろう。

だから。今の俺は、触れちゃいけない気がするんだ。
俺に応えてくれる牧さんに反して、俺の体は今…多分、役に立たないだろうから。

目頭が熱くなってしまったから、仕方がなく今夜も目をそらして寝返りをうつ。
何でも言えって。何のために口があるんだって、昔言ってくれたけど。今の俺は本当に駄目だ。どこにいっちまったんだろう。昔は無尽蔵にあった、気にも留めたこともなかった『自信』ってもんは。どんどん剥がれ落ちていくようで…せめて剥がれ落ちたのを慌ててかき集めようとしゃがみこむけれど、結局なにも残ってなくて。
怖い。怖いんだ。今の俺は童話に出てくる、金ピカの王子の銅像がツバメに体に貼ってある金を剥がさせて鉛の体になっていく状態そのものだ。童話では王子が自ら望んでだけど、俺は違う。皮膚をはがされるような恐怖で悲鳴を上げるのを堪えている。
むしらないでくれ。俺の努力を。俺の望みを。俺の平穏を。俺の自尊心を。俺の、俺の、俺の、俺の……。

ズキンと、また大きな痛みで眉をしかめる。少しでも寝ないといけない。明日だって仕事に行くんだから。明日だって俺は牧さんと一緒に、寝室に逃げる前の数時間を表面だけでも普通に過ごしたいんだから。
このままじゃ、いつか牧さんに当り散らしちまう。弱音を吐けるたった一人が最愛の人であり、傷つけたくない人であるっていうのが、こんなに危なっかしいものだと知っちまった。知りたくなかった…けど。

寝なきゃいけない。
今夜も俺は牧さんを起こさないように、少し水でも飲んだら眠れるかもと、静かにベッドを抜け出して台所へ向かった。




インターホンがなった。スーツを脱いでワイシャツとネクタイ、パンツと靴下だけの格好だった仙道は、とりあえず玄関へ向かう。
「はーい。どちらさまですか?」
「俺だ。すまんが開けてくれ」
「今日は随分遅かっ…、うわ、すっげ荷物だね!!何事っすか? どうやって運んできたのさ!?」
扉を開けると、牧は両手に買い物袋、腕と体で鞄を挟んでいた。足の下にはチキンとケーキの箱らしきものと、日本酒の瓶。
「話は後だ。とりあえず運んでくれ。アイスが溶ける」
「アイスぅ?」

テーブルの上には、ケンタッキーのボックス、大きなケーキの箱、蛸の燻製、ミックスナッツ、寿司折り、たこ焼き。日本酒の瓶。冷蔵庫にはゼリーにプリン、大きなサラダ。冷凍庫にはアイスの箱。
「牧さん、ホント、何事なの? これは。尋常な量じゃないっすよ。人呼んでパーティーでもするの?」
先に着替え終わった仙道が、あきれ半分、驚き半分でケーキの箱を開けた。
「うわっ。何個買ってきたのさ。…3…6……10個ぉ?」
驚いている仙道の横に立った牧が、チキンの箱を開けてみせる。
「こっちは6ピースにしておいた。流石にチキンまでそれほど食えないだろうし。残ったら明日食おう。明日は休みだし」
「そ、そういう問題の量じゃないよ〜。ねぇ、大丈夫?牧さん、なんか変だよ?」
「俺は酔ってない」
そう言って振り向いた牧の瞳を見て仙道は硬直した。…目が、すわっていた…。

「乾杯!」
食卓テーブルを挟んで、牧は熱燗がなみなみと注がれたお猪口を掲げた。仙道もそれにならって少し掲げてみせた。
「か、乾杯…。何にか知らないけど」
「そうか、知らないのか」
「うん。牧さん、昇進でもしたの? 教えて下さいよ。牧さんだけ知ってるの、ズルイよ」
「俺だって知らん。昇進なんて今時期あるわけなかろう。馬鹿だなぁ、はははは!」
グイーッと勢いよく牧はお猪口をあおった。仙道は困り果てながら一口飲んで溜息をついた。弱っている胃にそれはとてもよく染み渡っていった…。

夕食がまだだったため、二人は寿司やたこ焼き、チキンを食べた。会話は牧が野球や政治などとりとめもないことを思いついたように語るのを、仙道が相槌をうちながら聞いている。そんな一方的なものだった。
(牧さん、鬱憤たまってたのかな。普段こんなに喋る人じゃないし、これほど酔って帰ってきたのも久々だし)
まだ牧が酒に弱かった頃を思い出しながら、仙道は箱にぎっしりと並ぶ色とりどりのケーキと牧を交互に見ていた。今夜の牧は帰宅した時点で既に泥酔していた。滅多に最近では出なかった、笑い上戸の癖まで出るほどに。

明るい牧の笑顔と沢山の食べ物を見ながら、「魚住に教えてもらったんだ」と牧が自慢げに見せた一升瓶をちびちび口に運んでいると、仙道も日頃の寝不足がたたってすぐに酔いが回り始める。
牧の呂律が回らなくなって来た頃、仙道もまた軽く船を漕ぎ出していた。
「おい。寝るな。寝るんらら、その前にケーキを一個でも食え」
「…無茶言わんで下さいよ〜…チキンで胸焼けしてんすから〜」
「そうか。しかしな、俺はお前がそーいうの、お見通しらったんだ。はっはっはっは」
ガタンと荒々しい音を立てて椅子を引くと、牧はふらついた足取りで台所へと消え、またヨロヨロと戻ってきた。得意げに箱を開けて仙道に差し出す。
「サーティーワンだ。スモール、18個入り。これららお前だってどれか1個は気に入ったのが見つかるだろう!」
「あの大きい箱、これだったの? うへぇ〜。そりゃ俺、アイスなら二個は食わないと食った気しないけど…こりゃ多すぎだよ」
「仕方ないだろ…。だって…」
牧はよろけるように座った。向けてきたのは酔っているのに、どこか淋しそうな瞳だった。
「お前が、何が今一番食べたいか分からなかったんだから。というかさ、俺、お前が一番好きな食べ物ってなんだか思いつかなかったんだ…。こんだけありゃあ、どれか一つくらいは…食欲が落ちているお前にだって…。食えないと、いつまでたっても元気にならんだろうが」
どんどん牧の声は小さくなっていった。それに比例して項垂れていき、牧の表情は窺えなくなってしまっていた。

心配を、かけてしまっていた。それも、かなり。
凹んでいる自分を上手く隠していたつもりだったのに全然駄目だったことに気づいて、顔が赤くなる。幸い牧の表情をこちらも窺えない分、自分の表情も彼には見えていない。困りきった顔には冷や汗ばかりが伝った。
「ご、ごめん。でも別に俺、そんなに食欲落ちてないから。心配しないで。別に痩せてないし」
「…食い物のことは、いいんだ。ちょっと情けなかっただけだから」
ボソボソとした呟きは、呂律があまり回っていないだけに聞き取りづらかった。
「な、なんも情けなくなんかないよ。俺、もともとあんまりコレが好きってもん、ないし。嫌いもないけど」
オロオロと仙道がフォローを入れると、牧はやっと面を上げてアイスを一匙すくって口へと運んだ。仙道もとりあえず派手なブルーのアイスを口に入れる。歯磨き粉とチョコレートの味がした。思わず驚いた顔をしてしまう。
牧がどうした?と首を傾げてみせた。もう一口食べて、仙道は笑った。
「ね。牧さんも食ってみて、これ」
「…変な色だな。 ……あ」
先ほどの仙道と同じ表情をして牧は仙道を見て、頬を更に赤く染めた。


甘いものが好きな牧は、疲れるとすぐに『糖分とカフェイン補充』と言ってチョコレートを口にした。
ミントが好きな仙道は、疲れるとすぐに『気分転換』と言ってフリスクやミントキャンディーを口にした。
その後で、疲れを癒すために二人はキスを交わす。
深く絡めあい、お互いを労わり支えるように交し合うキスの味は───


「牧さん、分かっててこのフレーバー選んだんでしょ?」
「ん、んなわけあるか! 大体、この味の名称なんて知らん」
「そのまんま“ミントチョコ味”じゃない?」
「…そう…だったかもしれん」
二人は同時に苦笑いを交わした。アイスの商品として出ているほどこの組み合わせはポピュラーなものだったのかと。蛍光色のような水色にこげ茶色が混ざった、パッと見は全く食べ物と思えないような妙な色合い。
仙道がまた、今度はしっかり味わうように含んだ。ミントの爽やかさがチョコの甘さを緩和する。同じようにチョコの優しさがミントの冷たさを解いていく。不思議なミスマッチ。
牧も黙って口に運んで、暫くしてから照れくさそうに呟いた。
「後味がさっぱりしていて、慣れれば美味い。見かけのわりに、な」
「“慣れれば”って…。牧さんも俺も、これ以上ないほど慣れてるじゃん」
「それとこれとは…。だってこれはアイスなんだから。…な、なんだよその目は」
仙道のいたずらっぽく細めてきた瞳から牧は目をそらす。
「いいえぇ〜別にぃ〜?」
楽しそうな揶揄を含んだ声音に、牧は拗ねたように椅子の背もたれへどかっと体をもたせかけた。
「言われる前に言ってやる。どうせ綺麗な水色のお前に茶色いシミみたいな俺が混ざってて、見かけまで一緒だっていいたいんだろ。煩いよ。地黒でもったりしてて悪かったなーだ!」
椅子にふんぞり返って開き直ったように腕を組んだ牧を仙道は一瞬きょとんとして見つめた。その次の瞬間には体を二つ折りにして笑い出した。牧から「そんなに笑うかよ」と非難がましい言葉をいただいてしまう。
「それは全く思いませんでしたよ!ああでも、見かけも確かに同じだね俺たちと。俺が牧さんをまるごとくるんで離さないっつか、あんたを取り込んじゃってるってのがさ」

笑い止んだ仙道が立ち上がり、座っている牧を背後から包む。長い指が牧の頬に触れる。ひやりとした指先には頬の熱が心地よい。同じように熱い頬には滑るように撫でる冷たい感触は気持ちが良かった。
「取り込んでんのに…こんなに好きなのに……完全には混ざり合えないで苦しんでるとことかも、似てるかもね」
上から見下ろしている漆黒の瞳が微かに揺れた気がした。その瞳はもう先ほどのふざけたものなどはなにも残ってはおらず、牧はふいに不安にかられて秘めていた寂しさを吐露してしまう。
「お前の全てを分かりたいとまでは言わない。自分のことだって分からないことだらけなんだから。でもせめて俺は、お前の好きだと思うものくらい知っていたい。──── 贅沢だと思うか?」
「思わないよ…。俺なんてあんた以上にあんたを知りたいっていつも思ってんだから」
擦り寄せてきた仙道の頬を牧の長い指がそっと撫でる。
「お前はもう俺以上に俺を知ってるさ。面積が違うだろ。水色が完全に多い」
視線の先には残っている、溶けかけてきたミントチョコアイス。「あんなの、」と仙道は笑ったが、牧は小さく頭を振ってみせた。
「俺の好き嫌いとか趣味嗜好、お前は全部知ってるのに。俺は駄目だな。お前の好きなものさえしっかり分かってない俺には、今お前が何をそんなに苦しんでいるのかも…推し量れてやしないんだ。…情けない話だ」
「そ…んな。だって俺、隠してんだから牧さんが分からないのは当然なんだよ。みっともないから知られたくないんだもん」
「そこを黙って見抜いて助力したいんだよ。で、それが出来ない自分が腹立たしいんだ。なぁ。贅沢じゃないって言うなら、教えてくれ。お前の…今欲しているものは何だ?みっともないと隠していることは何だよ?嫌なんだ、淋しいんだよ。なんだかお前がここ一ヶ月くらい、どこか遠い気がするのは俺の気のせいじゃないだろ?」

滅多に聞くことの無い、切羽詰ったような牧の声音に仙道は返事を返すことも忘れて驚いていた。
食欲が落ちたことがばれているのは分かっていたが、まさか一ヶ月前からの自分の不調──要するに最初から、牧さんは気付いていたのだと心底驚いた。
牧さんは自分を鈍いと思い込んでいる節がある。確かに恋愛沙汰には恐ろしいほど鈍いが、こと体調や仕事の関係などでは驚くほど敏い。それを本人に何度教えても『お前に言われるほど敏かったら苦労してない』などと本気にしないのだ。それでつい俺も知らずその気になっていて牧さんの敏感さを失念してしまってもいた。

おずおずと牧さんが俺を伺うように首を捻って見上げてきた。不安げな様子が全く隠されていないのは、先ほどの会話からも分かるけど酔いが残っているからこその素直さなのだろう。ここまで酔わないと言えないなんて、可愛いやら可哀相やらで、俺は重い口を開かざるを得なくなってしまった。
「笑わないって……約束してくれます?」
「もちろんだ。誰にも言わないぞ、当然だが」
「…三ヶ月前、上で異動いっぱいあったって言ったよね。それの皺寄せがガーッと何故か俺んとこきちゃって。自分のことだったらいいんだけどね、俺がどうにも出来ないことだっつーのに周囲がさ…その、不平不満で目を吊り上げてあーだこーだって煩せーの。俺だって仕事がっぱり増えて文句言いてぇけど言う暇もないっつか、なんつーか。貧乏くじひいちまったってか」
真剣に牧さんは相槌を打って聞いてくれている。真剣になられればなられるほど……だんだん細かな経緯を説明すればするほど、俺は本当に凹んでいる事柄を言い出せなくなりそうで口がうまく動かなくなってきていた。
「やぁ。もうね、そういうゴジャゴジャが積もり積もって、どうしてやろうかコンチクショー!ってな感じでやってたんですよ」
やけっぱちのように無理やり明るく終わらせようとした俺に、牧さんは律儀に真面目な顔で頷いた。
「うん。大変だって零していたのは聞いてきたから、そこら辺は分かる。よくやっていたよお前は。成長したなって思ったもんだ。昔、陵南のキャプテンになったときのお前なんて」
触れられなくない話に持っていかれるのを恐れて仙道は手をかざして止めた。牧も昔話をする気はなかったらしく、続きをどうぞといった感じで小さく苦笑を向けただけで聞き役モードになってしまった。
(馬鹿だ俺…。昔話をさせていればもうこの話はしなくて濁せたかもしれねぇのに…)
そんな泣き言も言える雰囲気ではなく、仙道は自分のかゆくもない頬をポリポリとかいた。
「あー…っと。えーっと。まぁ、そういうので忙しかったのとピリピリしてたのがなんとか少し収まってですねぇ。少し一息ついたら、一気に疲れが出たのが、まぁ、一ヶ月前だったってことで。それだけっすよ」

心配かけてごめんねとまた擦り寄ると、今度は牧さんは盛大に眉間に皺を寄せて俺の手を払った。
「……おい。ここまで俺が無様な自分を暴露してまでお前から聞き出そうとしたことを、それで濁せたと思うのか?」
剣呑に牧さんの瞳が光っている。俺は冷や汗が背中を伝っていくのを感じた。
「そうじゃないだろ?お前、絶対何か俺に隠している。言え。こうなったら全部吐かせてやる」
ゆらりと立ち上がった牧さんはテーブルにコップを置いた。俺が気付かないうちに牧さんは空いている手でお猪口ではなくコップ酒を飲んでいたらしい。
(おおお!目が完璧に据わっている!!怖いけどなんか潤んでいるから、やけに妖艶っつか、綺麗に見えますよ?)
などと、人間、焦るほどやけに冷静な感想なんぞが浮かんできたりもするもので。とりあえず仙道は強引に話題を打ち切ろうとした。
「ま、牧さぁん…。いつから一人で飲み再開してたんすか?酒くさいっすよ〜?ほら、もう今日は寝ましょう。ね?」
「馬鹿にするのも大概にしろ。言え。言わねぇと…」
「言わないと?」
「ひんむいてヒーヒー言わせるぞコラ。そのあと荒縄で縛られて海にポイされてぇか?」
「牧さんったら、いくら酔ってるからってなんつーこと言ってんですか〜。あ、何するんすか!やめて〜エッチぃ〜! SMなら俺はS役がいいですよぅ〜」
牧が仙道のトレーナーを面白くなさそうにたくしあげて脱がせようとしてきたのだ。慌てて仙道がそれを防ぐと今度はジーンズのボタンを開けにかかられて、ジタバタと仙道がふざけた口調ながらも必死にもがく。
「煩せぇ。頭きた。人の心配を無にするような冷たい奴はなぁ……あ?」
仙道のファスナーを半分降ろしていた牧の手を止めさせたのは、仙道の本当に青い顔と、牧の腕を掴む指先が震えていたことだった。

途端、牧は慌てて降ろしかけていた仙道のファスナーをぐっと一気に上げると数歩後ずさりをした。今度は牧の顔から血の気が引いている。
「じょ、冗談だろが、こんなの…。なにマジで泣き入ってんだよ…。お前なんてしょっちゅう冗談で俺をパンツ一丁になるまでひんむいてんじゃねぇか」
しどろもどろで文句を言っているが、その言葉に力は全くない。仙道はのろのろと着衣を整えた。
「俺のは冗談じゃないもん。パンツも脱がそうとするけど逃げ切られるだけだもん…。俺はいつだって襲うときは本気っす」
「余計に悪い。と、そんな話じゃなくて。どうしたんだよ、こんなことくらいでお前らしくもない。いつもなら勝手に脱ぎだすくせに」
「……いつもと違うから凹んでるんすよ。もうそっとしといて下さいよ」
ぷいっと顔を背けた仙道を困ったように見つめていた牧が、合点がいったとでも言うように大きく頷いた。
「分かったぞ、仙道。お前、一ヶ月前から」
仙道がとうとう気付かれてしまったかと、嫌そうに唇を尖らせたが、それにかまいもせず牧は続けた。
「“ぢ”になったんだろ!そうか、それでか。そりゃ言いにくいよな…。デリカシー不足ですまなかった」
「な、何を勝手に納得して謝ってるんすかー!!違うってば!!俺はね、チ○コが立たなくなっただけ!俺がぢになるわけないじゃん!!」
「え…!?」
「あっ…!!」



「いいから、もう寝ましょうよ〜」
仙道の情けない声がバスルームに響く。牧は濡れた髪をかきあげながら口角をにやりと吊り上げた。
「こんな面白いこと知ったからには放ってはおけん」
バスタブに湯が溜まっていくのに比例して、バスルーム内に湯気が濃くなっていく。シャワーで濡れた牧の姿態が黄色味がかったライトで浮かび上がり、濃く淫らな陰影を伴ってしっとりと怪しく光っている。ごくりと仙道の咽は自然に鳴りはしたが、見下ろしたタオルを巻いた自分の中心部には何も変化がなかった。
牧の長い指がいきなり仙道の双丘を腰に巻いていたタオルの上から鷲掴んできた。見上げてきた牧の瞳が細められ、黄色い照明を反射して金色に光る。
「久々だから、楽しませてもらう。お前のモノなど金輪際使い物にならなくとも俺は気にしないから安心しろ。これからは俺がお前をたーっぷり可愛がってやるからな…」
「牧さん…なんでそんなに嬉しそうなんですかぁ…。同じ男として可哀相だとか思わないの?夫婦の危機とかさぁ」
「普通の男女の夫婦なら問題もあろうが、幸い、俺達は男同士だ。どちらかが駄目でも問題はないだろ。俺が満足させてやるから安心しろ」
場違いなほど優しい微笑を浮かべられたが、仙道としては全く嬉しくもなんともない言葉に泣きたい気分だった。

湯が溜まったのを見計らって牧は蛇口を閉めた。仙道が気を抜いたその時、牧は素早く仙道の背後をとるとそのまま仙道を壁に押し付けた。
文句をいいかけた仙道より先に牧が仙道の耳元へ低い声で囁く。
「今夜は俺に任せろよ。…いいところに連れてってやる」
仙道の耳の裏側から背筋にゾクゾクとした電流のような感覚が走る。こんなに攻め気な彼(実際攻められるのだろうが)は久々だという歓喜にも似た期待で、また咽がゴクリと鳴った。
返事をしないことを肯定ととったのか、牧は左手で仙道の顎を掴み首を捻らせて唇を背後から奪った。空いた右手は仙道の厚く滑らかな筋肉で覆われた胸や腹を淫らな動きで撫で回してくる。
不自然な姿勢で交わす口付けは、やがて牧の肉厚な舌の荒々しい蠢きにより口淫されているような淫猥さを感じさせる。浴室という湿度の高い空気が、いつもよりも早く二人の呼吸を早めていく。

口内の疼きと体を撫でられた刺激だけで眩暈がしそうだと、空気を欲したくて仙道は軽く抗った。すると意外にも牧はすぐに唇を離した。透明な細い糸を真っ赤な舌で断ち切るように自らの唇を舐めた様子がまた扇情的で、捻ったままの首が辛いのに仙道は目が離せない。
「せっかく湯をはったんだ。浴槽に入ろう」
牧が先に足を入れた。仙道もそれに習いバスタブへ足を入れて身を沈めようとした。
「湯に肩までつかるのは、もう少し後でもいいだろ」
自分からバスタブへと誘ったのではないかと、訝しげな視線で仙道は問うたが、牧は悠然と微笑みながらまた仙道を壁側へと向きなおさせた。
「今日はバックにこだわるんすね。挿れる気満々ってやつ?」
揶揄を含めた声音に返答はなかった。言外に『黙って従え』という余裕の笑みを浮かべた牧の顔が視界の隅にちらりと見えた。

また背後から覆いかぶさってきた牧は、今度は項や肩に丹念に舌を這わせながら体を密着させてきた。片手で仙道の胸の飾りを弄びながら、別の手で仙道のタオルを器用に外し、仙道自身以外の場所をゆっくりと撫で回してくる。
じんわりとした快感が触れられている部分全てから立ち上って来た頃、仙道の臀部に熱く硬い感触が触れた。
「…牧さん、当たってるよ。俺のケツに」
「そうか?」
とぼけた返事の後に牧はグイと仙道の片脚を割るように自分の脚をさし入れると、既に半ば形を変えはじめている己の中心部を強く押し付けてきた。牧の腰に巻かれたタオル越しにとはいえ、はっきりと欲望の形態は仙道の双丘に確かな質感として伝わってくる。
開かれた白い内腿を褐色の両手が撫で上げていく。その動きと同調するように押し付けられた牧の雄が硬度と質量を増していくのが分かる。
「ん……。挿れられてもいねぇのに…妙な気分になっちまうよ」
「まだ始まったばかりだってのに、そんな色っぽい声で言われても、なぁ?」
いたずらっぽく語尾を上げて返され、その余裕が仙道の癪に障る。もちろんそんなことは計算済みだとばかりに、しかめられた眉間へ牧は軽く小さなキスを贈ると、自らの腰に巻いてあったタオルを取り、仙道の長い両脚の間に更に密着するよう深く体を進めてきた。
自分の両内腿の間に熱く太い塊がある。男の象徴ともいえるその猛々しい強固な欲望。
それをどうしてやれば、この精悍な顔が歓喜に歪み、淫らに蕩けるかを俺は知っている。そのきつく綺麗な瞳が悦楽の涙を湛えて俺を誘うのかを知っている。雫を浮かべる欲望を握り締めたまま内奥にある場所を暴いた時に、どれほど美しい薔薇色がその頬を染めるのかを。そして、俺のこの醜いまでに膨れ上がった情欲の権化で貫いた時の、狂気と紙一重の快感にその身を悩ましげに捩る様を───…

「…おい」
自分の思考に没頭していた仙道は牧の冷静な呼びかけに我に返った。
「あ、はい。すんません、ちょっと集中してませんでした」
「その話じゃなくて。お前、気付いてないのか?」
「え?何がっすか? うっ!」
いきなり強く握りこまれて仙道は息が詰まった。慌てて自分の股間へと目をやる。牧の手に握りこまれている自身は、牧の大きな掌でも隠れきるわけもないほどに立派に天を仰いでいた。
「…お前。もしかして俺を担いだとか言わねぇよな…。俺、まだ触ってもいなかったんだぞ?」
疑惑をたっぷりこめた牧の様子に、仙道は慌てて両手を振った。
「違っ!違うってマジで!んなカッコ悪い嘘ついて何のメリットがあるってんですか!実際俺がここんとこ落ち込んでたのを気にしてくれてたじゃないっすか。あぁ〜、ヤッター、すんげー安心した〜!!ありがとう牧さん!!牧さんが超絶エロいおかげですよっ」
「そんな馬鹿げたことを思うお前の脳ミソの方がこっちより心配だ」
握った手の中の硬度とサイズの立派さに牧は深い溜息を吐いた。
自身から牧の手が離れるなり、仙道はいきなりぐるりと体を半回転させると長い両腕で牧をがっちりとホールドした。密着した互いの腹筋の間で熱く脈打つ分身がたまらなく嬉しい。速攻で男としての自信が回復して、それ以外にも思い悩んでいた様々なことまで吹っ飛んでしまった。
喜びのキスを牧に嫌がられるほど降らせて、とうとう「いつまでやってんだ」と脚で湯をかけられてしまった。


体が冷えた二人はとりあえずバスタブに深く身を沈めた。熱い乳白色の濁り湯が体の芯へと染み渡るようだ。
「なんか馬鹿馬鹿しくなってきた。もっと色々してやったら治るかもと思ってはいたが、まさか触ってやる前に勝手に治るなんて」
「そんなぁ〜。本当に大変だったんだよ〜?なんかね、仕事に不満と自信喪失がつもりにつもってたところにこれだもん。自分に自信がなくなるなんて俺、滅多にないから本当に参ってたんすよ〜」
「お前にもたまにはあるのか。自分に自信が持てないってのが。ほお〜。一応人間だったんだ」
腕組みをして感心したとばかりにうんうんと頷かれる。こういう時の彼は可愛さ余ってなんとやらだ。
「っかー!腹立つ!そんなこと言う人にはお仕置きしますよ!」
仙道はザバーッと勢い良く膝立ちになった。天を仰ぐ立派な一物が白い湯を滴らせながら牧の眼前に現れる。
げんなりとした顔で牧は片手をひらひらと振った。
「よせよ。もうそんな気は失せたぞ俺は。酔いも抜けたし、もう寝よう。久々に無茶喰いと飲みすぎで疲れた」
「何言ってんすか。こんなに絶好調に戻してくれたお礼も兼ねて、今夜は寝かせませんよ!」
両手を腰に当てて得意げな顔で見下ろしてくる。牧はデコピンの要領で眼前で猛っている仙道の分身を中指で弾いた。
「イダーーー!!何するんすかーー!!」
「いい気になりすぎると人間何事も失敗しやすいからな。愛の鞭。いや、天誅か?」
股間を押さえて涙目の仙道をよそに、牧は笑いながらさっさとあがってしまうと手早く体を拭いて出て行ってしまった。

一人浴室に戻され、すっかり萎えた自身を見ながら仙道はボソリと呟いた。
「…ちっくしょー。こうなったらさっさとガッチリ仕事片付けて、今度休みが重なった時は俺が牧さんをヒーヒー言わせて桃源郷へ連れてっちまうから覚悟してやがれ。…なんて言いたいけど、マジお前は完璧に戻ってくれたんか?え?」
自分の股間に問いかけてみる。もちろん答えなどあるはずもなく。
仙道は久々にふざけた笑いが込み上げてきて、天井を見上げて「アホか俺は」と一人笑った。


大丈夫。仕事が出来たって出来なくたって。
大丈夫。俺の体に何かあったってなくったって。
牧さんは、俺を見捨てない。牧さんは、俺が好き。牧さんは、俺を守ってくれる。たとえ世界中が俺のこと嫌いになっても、見捨てても、排除しようとしたとしても。
俺にとっての牧さんがそうであるように。
シリアスぶって一人思い悩む日々。そんな似合わないことする必要なんてないんだよな、俺にはさ。
だって俺には世界中の人が束になっても叶わない、褐色の俺専属セクシーダイナマイトな天使様がいるんだから。その逞しい腕で俺を抱いて、悩みなんてぶっ飛ばすパワーとスピードで“いいところ”へ導いてくれちゃうんだぜ?


(今夜はきっと俺のほうが寝付きが早いんじゃないかな)
そんなことをふと思ったが、また仙道は楽しそうに苦笑を漏らした。

「やっぱさっきの牧さん思い出して、興奮しすぎて寝付けねぇかも。今日も寝不足決定かな」








*end*




くだらないですが、ミンチョコというシリーズタイトルはこんな二人のキスの味を意味しておりました。
ミントチョコレートって男の人は苦手らしいです。実は私も(苦笑) だからこそ、なんかいいでしょ♪

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