To the Light. [3]




仙道は耳だけで牧の動向を追った。壁にかけたスーツをハンガーからはずす音。スーツに袖を通す音。そして、静かな溜息。

「…じゃあ、俺、帰るから」
「はい。気をつけて…」

顔もあげずに消え入るような返事だけをよこした仙道を牧は暫く黙って見つめていたが、もう一度溜息を零すと玄関へ続く扉を開いた。
パタン…と静かに扉が閉まった音を聞いてから漸く、仙道は手足をだらりと解くと顔を天井へと向けた。続く、重い鉄の扉が閉まる音。


両手をゆっくりと天井へと伸ばし、仙道はそのまま指を組んで額へと乗せて深く息を吐いた。
誰もいない扉を睨むように見ているうちに目頭が熱くなって鼻の奥がツンと痛みはじめる。
(俺って奴はいつもこうだ。今、逃がさねぇで言えば良かったじゃんよ…。こんな、泣きそうになるくらいなら、よ)
鼻をすすってから荒々しく仙道は床を拳でドンと叩いた。テーブルの上に残されていたナッツが数粒、床に落ちて転がっていく。
「本当に帰っちまわなくたっていいじゃん…ちっくしょー…」
空しい独り言が室内に零れた。自分の泣き出しそうなその声にうんざりして頭を振る。
「帰ってねぇよ」
返されるはずもない返事が玄関に続く扉の奥から聞こえ、仙道は驚愕して首を速攻で捻じ曲げた。
扉がカチャリと音をたてて開く。そこには腕組みをして難しい顔をした牧が立っていた。
仙道の驚きと不審さがない交ぜとなったまま固まっている様子に牧はフンと鼻で笑った。
「お前がバスケ以外じゃ意気地なしな奴だってのは長い付き合いでもう知ってる。何が逃がしてやるだ。格好つけんな」
かけてきた言葉はキツイのに牧の瞳は困ってしまうほど優しい色で。

ゆっくりと床板のきしむ音とともに牧が近づいてくる。
牧の足元で見上げてくる仙道の顔は今にも泣きそうに歪んでいる。
「言えよ。さっきの俺の質問に答えろよ」
「…なんで…帰ったんじゃ…」
弱々しく首をふっている仙道に牧は苛立たしげに眉間を寄せた。
「普通はこういう場合、帰る俺をお前が止めるもんだろ。なのに止めないから、俺が止まるしかないだろうが。何で俺がこんな格好悪いことしなきゃならんのだ。俺が聞きたいぜ。わざわざ玄関のドアを開閉して、暗い玄関の敲きの上でじっとお前の様子を伺ってただなんて」
ブッと仙道が噴き出した。
「お前が笑うな。それにだぞ、もしお前が『帰ってくれて良かった』とか言ってみろ?俺はそれを聞いたあとでお前に気付かれないように、また玄関のドアを今度は音をたてないように出なきゃいけないんだぞ?これが笑えるか、全く」
「や。すんません。でも…でも…あははははは!!」
腹を抱えて笑う仙道を足蹴にしてから牧は面白くなさそうにどっかりとソファに腰を下ろした。

仙道は漸く笑い終えてから、ソファに座っている牧の足元の床に座りなおした。
「言えないっすよ…。だって俺…あんたが帰っちまっただけで泣くとこだったんだよ?ここで言って、全否定されたら、それこそ立ち直れねぇもん…。あんたの言う通り、俺はバスケ以外…つか、あんたのことになると意気地なしなヤロウなんす、昔から」
「…なら、俺が言ってやる」
「えっ?」
慌てて振り仰いだ仙道に牧はキッパリと言った。
「お前が長年ずっと想ってきた、他校の一つ上の先輩の男の名前はな、“赤木剛憲”だ」
「そっす。俺がずっと想ってきたのは赤…、えええ〜!?ちょ、待って下さいよ!!何でそこで赤木さんの名前が出てくるんすか!やめて下さいよ〜、つられちまったじゃないっすか。第一、赤木さんなんてまだ新婚ホヤホヤ…って、もしかしてもう離婚したんすか?」
「してない。先日仕事先で偶然会ったが、新妻の美人っぷりをあのゴツイ顔を赤らめて語るもんだから、こっちが具合悪くなった」
「うわー…キッツー。そりゃ災難でしたね」
「おう。まぁ、幸せそうで何よりだがな」
「そっかー、赤木さん幸せなんだ〜。魚住さん、そりゃ大変だろうなー。牧さんにノロケるくらいだから、魚住さんなんて会うたびにいっぱい語られてそっすね。魚住さんも早く彼女出来たらいいんだけど。独り身にゃあ新婚のノロケはこたえるからなぁ〜」

仙道は苦笑しながら床に落ちていたナッツを拾ってポリポリと食べている。牧は頭を抱えた。
「ど、どしたんすか牧さん?あ、まさか赤木さんの頬染め顔思い出して具合悪くなったとか?水でも持ってきましょうか?」
「…お前さぁ。俺のこと、しょっちゅう天然ボケだって言ってるがな、お前も相当だと思うぞ?」
「? 何で?牧さんほど鈍い天然ボケの人なんて、俺の周囲にゃいませっ、痛ぇー!!」
最後まで言い切らせずに牧の鉄拳が仙道の頭上に炸裂した。今度は仙道が頭を抱える。
「分かってないのか?お前、俺が言おうとした時、自分がどんな顔してたのか。俺に言わせていいのかよ。腹くくったってのは、あれは嘘か?」
バッと真剣な顔を上げてきた仙道を牧が厳しい瞳で見つめ返してくる。
「…嘘であんたにカミングアウト出来るくらいなら、こんな十年以上も苦しみ続けたりしませんよ」
仙道のキツイ視線の内に潜む熱情。黒い瞳に浮かぶ、初めて意識した己に向けられる欲望の色に胸が熱く強く脈打ちはじめる。
息苦しいまでの沈黙の数秒間。
仙道の大きな掌が牧の膝頭を掴む。そこから牧の全身にゾクゾクとした緊張と歓喜─── まるで試合の前のような興奮が駆け巡る。
それでも視線を逸らさない牧の強さに押されるように、仙道は告げる。
「ずっと、あんただけ見て来ました。俺、牧さんが好きです」

ギリギリと締め付け食い込む仙道の指の上にそっと牧の手が重ねられる。
「…痛い。指、離してくれないか」
「嫌です。言っちまったらもう逃がせないって言いましたよね。もう帰さない。たった今からあんたは俺のものだ」
白くなるほど力の篭められている指先に視線を落とすと、フッと口の端で牧が笑った。
「本当に口先ばかりだなお前は。今にも泣き出しそうな真っ赤な目をしてるくせに…。俺は今からお前のものなんだろ?なら手を離したって逃げないだろうが。仮に逃げたって、今度は黙っていてもお前の元に戻ってくるさ…」
本当に痛いんだと、静かに続けられて漸く仙道は指の力を抜いた。そのまま今度は牧の脚を抱きしめて頭を摺り寄せてきた。

「牧さんは俺のものなの?」
「そうらしいな」
「何で?」
「お前がそう言ったんだろ」
「俺が言ったら、それは全部叶うの?」
「それはどうだろう」
おどけた口調で返されて、仙道は鼻をすすりながら唇を尖らせた。
「全部叶うって言って下さいよ」
ふて腐れたような甘ったれた声に牧はただ苦笑を漏らした。


恐る恐る仙道は牧の脚から腕を解いた。不安げに見上げれば淡い微笑みを浮かべた視線が返される。
仙道は嬉しさを満面に湛えて牧の隣に腰掛けてくるとギュッと強く抱きしめてきた。抗わない牧に安心して仙道が甘く囁く。
「俺の、牧さん」
確かめるように口にした言葉に牧は黙って小さく頷いた。
「俺だけの、牧さん」
また小さく頷き返される。
「俺が大好きな、俺だけの牧さん」
照れているのか心持ち口元を歪めて、ただ首を小さく縦に一度振って返す。
「俺が世界一大好きな牧さん。世界一格好良くって、世界一可愛い、俺だけの牧紳一さん…」
うっとりと囁かれた言葉にとうとうピキピキと牧の額に青筋が浮かんだ。
「…面白がってんな?人が黙って水注さずに我慢してりゃ、天井知らずでいい気になりやがって」
「これがいい気にならないでいられますか?俺の腕の中に牧さんがいるんだよ?俺のものだって言ってくれたんだよ?俺、今ならあんた抱いたまま成層圏突き抜けて飛んでけるよきっと」
「成層圏かよ…」
「はい♪」
「お前と宇宙の塵になるのは嫌だ」
「大丈夫!俺の愛でがっちりカバーしてあげますから!」
ますます腕の力をきつくされて、牧はげんなりした溜息を漏らした。
「…塵になる前に酸欠で死にそうだよ俺は」


カーテンの隙間から日曜の穏やかな朝が覗いている。その穏やかさは今の二人の心を表しているようにも思えた。
本当はこのままもう少しこうして幸せの余韻に浸っていたかったが、後になって聞くよりはと仙道は尋ねることにした。
「牧さんさぁ、やっぱ俺が今日暴露するまで、俺の気持ちに気付かなかったんすか?それとも実は気付いてたとか?」
「気付いてなかった」
「あ。やっぱり。なら驚いたよね?なのにさ、何でこんなすんなり堕ちてくれたの?まさか…牧さんも俺のこと好きだったとか」
「んなわけ…あ、すまん」
焦って勢い良く首をねじ上げた時、至近距離にあった仙道の顎に牧の頭がぶつかり鈍い音をたてた。仙道は予期せぬ痛みに涙目で顎を押さえている。牧は「悪い」と手刀をきってみせた。

顎をさすりながら涙目で『続きは?』と問うてくる。本当は答えたくなかったのだが、事故とはいえ頭突きをかましてしまった手前、仕方なく牧は話し始めた。
「…お前の暴露話を聞いてから、洗面所に行っただろ。そこで顔洗って…冷静になって考えてみたんだ。どうしてショックじゃないのか…男に好かれてたってのに気持ち悪いと思えないのかとか。諸々考えて、まぁ、お前流に言えば腹くくったってとこかな」
「『諸々』?」
「全部言わなくたっていいだろ」
「ダメ。全部言って下さい。今日は暴露大会なんですから」
「いつそんなこと決まったんだよ」
「今っす。いいから、言って下さい。きっと後になるほど言いづらくなりますよ」
茶化されているのかと訝しんで覗いた仙道の瞳は、意外にも真剣で、どこか不安げに揺れている。相手の本音を知るまでは不安なのも無理はない。まして、同情で流されてくれているのだと思っているなら尚更に。
「…お前がずっと好きな奴がいたって知った時の方がショックだった…というか、面白くなかった。話を聞いてる途中も、何度もそいつの鈍さと贅沢さに腹が立ったりもした。お前を自暴自棄な行動に走らせたそいつを殴りたくなるほど…嫉妬した。…俺は自分を殴る趣味はないんだから、認めるしかないだろ。これ以上はもう勘弁してくれ」
恥ずかしさを堪えきれず、結局最後は逃げてしまった。真っ赤な顔で唇をきつく噛んで牧が顔をそむける。その横顔に負けじと赤くなっている仙道が震える声で呟いた。
「い…いいの?俺、勝手に思い込んじまうよ?牧さんが俺を大事に思ってくれてるって…」
胸の奥から込み上げてくる幸せで咽が塞がれる。喜びで声が震えるなんて知らなかった仙道は自分の首元を我知らず押さえていた。
「ついでに、男同士なんてとずっと思ってきた石頭があっさり堕ちたことも、自分の努力の結果だと浮かれておけ」
牧のぶっきらぼうな返事と赤く染まった耳までが愛しくて。愛しすぎて。溢れる幸せを瞳から零すことを仙道は自分に許した。

出会ってから十数年。初めて愛しい人の前で零された涙は、愛しい人の指によって優しく拭われていく…。
泣くなとも泣けとも言わず、ただ静かにたどたどしい動きでぬぐってくれるのは、この涙が悲しみでつくられたものではないと知っているからなのだろう。

しかし優しすぎる行為をただ惜しみなく与えられるというのに慣れていない者にとっては、後ろめたさにも似た想いまでも口に出させてしまうもので。
仙道は少し躊躇しながらも話し出した。まるで懺悔でもする敬虔な信者のように。
「俺、牧さんを好きでい続けるための努力なんてしてない。つか、嫌いとまでいかなくても恋愛感情だけでも捨ててしまえたらって努力はした。でもそれだって結局はあんたの隣にいるための方法の一つに過ぎないし。もちろんそんな努力は自分がすぐ辛くなってやめちまったけど。俺があんたを好きになったことであんたを苦しめるかもしれないってことからも目を背けて、ただ自分勝手に想い続けただけなんだよ。…あんたのための努力なんてちっともしてねぇ俺には、そんなんで浮かれらんないよ…」
弱々しく顔を俯けた仙道の後頭部を牧の手が優しく撫でた。仙道がゆるゆると頭を振る。
「やめてよ…。いっぺんに優しくされちゃったら、また泣いちまう」
「別にかまわんが?」
「もう…。日和子さんの言うこと、分かるよ。牧さん優しすぎんだよ。どうして何でも許しちまうのさ。俺のことも、日和子さんのことも」
涙目で睨みつけられ、今度は牧がゆっくりと頭を振ってみせる。
「俺にはお前の言うことも日和子の言うことも分からん。俺にはお前らの方が不思議だよ。俺なんて優しくもなんともないんだぞ?お前らだろ、優しいのは」
「はあ?何でそうなんのさ?」
思い切り訝しい顔を向けられてしまい、牧もまた眉間に皺を寄せてきた。
「そうだろうが。不甲斐ない俺を日和子は長いこと耐えてくれていたんだ。でも俺が根を上げてしまったから手放してくれた。ずっとお前の気持ちに気付きもしないでお前の厚意に甘えていた鈍い奴なのに、お前はずっと想ってくれていた。独りになって疲れ切った俺を救ってくれただけじゃない…。自分でも知らないうちに胸の中にあったお前への想いに気付かせてくれもした。─── お前らの優しさには礼をいくら言っても足りないと俺は思っている」

きっぱりと言い切った言葉には嘘の欠片も繕う色もなかった。
仙道は口をポカンと開けたまま牧を見ていた。すると牧は自分の言葉に今更照れくさくなったのか、口元を嫌そうに歪めた。
「〜〜お前、さっきのはまさか誘導尋問じゃねぇよな? っあー、畜生!思ってること結局全部言わされちまった!ぐあー!」
首まで赤くしながら牧はガリガリと頭をかいて立ち上がると、「もう寝るぞ!」と言い残してベッドのある部屋へ行ってしまった。
隣の部屋から着替えをしている物音を聞きながら、 取り残された仙道もまた耳まで赤くしながらボソリと呟いた。
「人それぞれ捉え方ってあるけど…。牧さん、優しいの通り越して超絶天然なんだ…知ってたつもりだったけど再確認してもっと惚れちまったぜ…」

自分の発言に仙道は改めて嬉しさと楽しさ、そして限りない愛しさが込み上げてきてたまらなくなってしまった。
ガバリと立ち上がると仙道はダッシュし、床に自分の寝床を作ろうと散らかっている床の物を移動している牧の背中へ飛びついた。
「うわっ!危ねぇ!重たいってこのバカ!布団敷く場所作れないだろうが、よけろ」
「牧さん牧さん牧さん、大好き大好き大好きだよー!!布団なんて敷かなくていーよ!今日から俺ら恋人同士なんだから、俺のベッドで二人で寝ましょう!」
「バカ言うな!こんな小さいボロシングルベッドにこんなデカイ男二人が寝たら底抜けるの目に見えてるだろ」
「そんなら手っ取り早く床に一緒に寝ましょう!えーい!」
仙道はいきなりベッドの布団一式を鷲掴むと床にドサッと全部落とした。
「わっ。テメ、散らかった床の上に布団落とすバカがあるか! …あっ」
布団がはがれたことによって現れたベッドマットレスの上には三枚の写真。…その三枚全てが牧の写真(内二枚は海パン姿)だった。加えて、牧の肩越しから見える、写真の横にある、何かに使われた形跡が悲しいほど分かってしまう…丸く潰れてガチガチに乾いたティッシュの屑達。
「…………」
「…………」
水を打ったような嫌な静けさの中、仙道の咽がゴクリと小さく鳴った音が悲しく響いてしまった…。
ゆっくりと振り向いた牧の顔はかなり本気で嫌そうで、じっとりと仙道を睨みつけている。仙道の額に冷や汗がまた一筋。
「…ま、牧さん…あの、その…えーっと…」
しどろもどろな仙道に牧は床にある分厚い雑誌を投げつけた。
「こんなもん俺に見せんじゃねぇ!!申し訳ないと思うんだったら、今から部屋掃除一人でガッチリやれ!!でなきゃ俺は本当に帰るからなっ」
「そ、そんなぁ〜。だって俺、牧さんみたいに掃除が上手いわけでも淡白なわけでもないんだから仕方ないじゃん〜」
「なっ!? 俺が淡白なのは関係ないだろうが!今ので完璧ムカついた。もう許さん。こうなったら寝かせん」
「え?それって今からたっぷり…。はいはい。そんなに睨まなくても分かりました。もう冗談言いませんから、そんなに怒らないで下さいよ〜」
ベッドの上の写真をポケットにいそいそと入れつつゴミを拾う仙道の背中に牧の容赦ない蹴りが入る。
「俺の恋人を気取るんならな、せめてもう少し片付けが出来る大人になってからにしろ!」


ブーたれながらいいかげんな掃除をする仙道。ベッドに腰かけて腕組みしながら厳しく目を光らせる牧。
「そこにもあるだろ。あれは燃えないゴミだ。そっちは畳んで資源ゴミ。さっさと拾え」
「はいはいはい〜。…チェッ。ベッド以外掃除なんてしなくたっていーじゃん」
「何か言ったか?」
「手伝ってくれたら早く終わるのになーって言ったんです」
「ふざけんな。あ。そこを片付け終わったら、今度はこっち来い」
牧は自分が座っているベッドを指差して言った。急ぎ振り向いた仙道が目を輝かせて隣の部屋から両手を広げてダッシュしてくる。
「いよいよベッドっすか!?」
期待に満ちたキラキラとした眼差しに牧は真面目な眼差しで頷く。
「そうだ。次はベッドのシーツ類一式取り替えだ。お前、半年以上取り替えてねぇだろ。しかもあんなゴミの上に布団敷いて寝てたなんて。毒キノコ生える前に取り替えろ」
辿り着いた愛しい人の足元で仙道はガックリと膝まづいた。
「……ひ、酷い。キノコだけならまだしも、毒キノコだなんて」
「キノコならいいと言う時点で間違ってるんだよ。それが終わったら客用布団も全部シーツ類取り替えろ。じゃないと俺は帰る。電車ももう走ってるしな」
ゲシゲシと仙道の腕を牧の長い足が揺さぶるように蹴るのにまかせてフラフラと仙道は上体を泳がせながら深い溜息を零した。


本当は仙道は牧の今の気持ちを分かっていた。
突然の告白を受け入れたのが今の牧の精一杯なのだということを。
体を繋ぐことにはまだ心が追いつけないのも当然なのに、それを口にしては傷つけてしまうという優しさが、掃除や片付けという別のことでそちらへ流れそうになる雰囲気を回避しているのだろうと。男として相手を求めた時に拒否される辛さや居た堪れなさを知っているからこそ、味わわせたくないという配慮を仙道は汲みたいと思ったのだ。
そして何より、仙道自身も今は心が満ち足りていてそれ以上を性急には望んではいなかった。
繋げたいと焦がれ続けてきたのは、体ももちろんではあるが心だったから。やっと牧の心に自分の居場所を得た今、急ぐ事はもうないから。



窓から差し込む朝の眩しい日差しが降り注ぐ、今までになく綺麗に片付いた部屋を見渡した二人は苦笑を交わした。
「お疲れさま俺たち〜。流石に眠いっすね〜疲れました〜」
「あぁ。俺、腹減った。飯作ってくれよ。豪語してただろ、フワフワ卵のオムライス食わしてくれるって」
「い、今からっすか?」
「おう。楽しみにしてたんだから、宜しくな。出来上がったら起こしてくれ」
「…確かに言いましたけど〜。腹も減りましたけどぉ〜」
ブチブチと呟いている仙道の肩を牧はいきなり掴んで引き寄せると、仙道の頬に微かに唇で触れた。
驚いて目を丸くしている仙道へ牧が照れくささを押し隠した微妙な面持ちで口角の片側を少し上げてみせる。
「…今のは、片付けの褒美だ。オムライスが美味かったら、別の場所にしてやる」
仙道は初めての牧からのご褒美が夢ではないことを確かめたくて、あえて音に出して確認する。
「今のは、片付けのご褒美のキスで、……美味いオムライス作ったら、唇に今度はご褒美がもらえる…んですよね?」
「復唱すんな、バカ」
牧は赤く染まった頬を見られまいと急いでベッドへと潜り込んで背を向けてしまった。
「…へ、へ、へへへへ、へへへへへへ」
「気色悪い笑いしてないで、さっさと作れよ」
「うん!はい!!早く牧さんからホントのチューしてもらわなきゃだもんね!!気が変わっちまう前に!」
あまりの仙道の弾んだ声に『何がチューだ』と文句を言いたいのに言えなくなる。
お叱りの返答がこない事に更に気を良くした仙道は自作の鼻歌を歌いながら台所へと急いだ。



流れてくる陽気な鼻歌。新しいシーツのシャリッとした肌触り。枕から香る仙道の整髪料の香り。
全部がとても心地よい。
何よりも、自分が仙道をずっと……とても好きだったのだと分かったことが、こんなにも心地よいから。
少しくらいオムライスが不味くても、あいつが笑うなら…俺なんかのキスが褒美になるならの話だが、キスをしてやってもいい。今はちょっとまだ何もかもが突然過ぎて、それ以上は勘弁してもらうつもりだが。
でも、あいつが俺をずっと見てきてくれた時間よりは早く、あいつが本当に望む褒美(?)をくれてやれる俺になれると思うんだ。
スロースターターな俺だということは、学生時代から知ってるだろうから。
だから。もう少し。あと少しだけ待っていてくれな。



ホカホカと湯気のたつオムライス。ちぎったレタスと切っただけのトマトのサラダ。なみなみと注がれた牛乳。
小さなテーブルは二人分の朝食を置くのがやっとのギリギリサイズ。
二人で遊んだ次の日はいつも決まって起きるのは昼だから、こうして二食分の朝食が並んだのは初めてで。
それだけでも胸は躍るのに、朝食を二人で食べて、彼に美味しいと言わせられたら……。

仙道は大きく一つ深呼吸をしてから、ベッドのある部屋に足を踏み入れた。そっと優しく声をかける。

「牧さん、起きて下さい。俺らの朝食が出来ましたよ───





* end *




一応endとつけてますが、もちろんこれでは終われない。だってお楽しみの初エッチを書いていないじゃあないですか♪
あと、ちょっとしたエピソードも。エッチは生々しい〜のを書いてみたい(笑)ので、20禁のオフ本でも出そうかにゃ〜。

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