凍てつく金曜の夜。仙道が二週間ぶりに牧を飲みに誘ってきた。丁度牧もそろそろ誘われるのではと思っていため、仕事を早く終われるよう、密かに日中頑張っていたのだ。牧の快い承諾に対する喜び丸出しな仙道の返事に、牧も口にはしなかったが嬉しく感じていた。
そんな調子で早めにそれぞれの会社を出ることが出来た二人。アフターはのんびりと二軒ほど居酒屋を回って過ごした。
高校時代、学校も学年も違いはしたが、部活が同じバスケットであり、県内の強豪校同士だったため幾度も試合などを通じて対峙してきた。大学時代もまた同じようなものであったが、性格はかなり違うというのに不思議と馬が合うことに気付いてからは、人懐っこい仙道のペースに巻き込まれて、気付けば個人的に連れ立って遊ぶような仲にまでなっていた。
社会人となってからは職場が近かったことや、仕事でも関連のある会社で顔を合わせることも数回。
物理的な距離が縮まったことにより、合う頻度は更に増えた。二年ほど週一のペースで飲んだり泊まりあったりと遊んでいたが、お互い仕事が忙しくなり、会える回数も減りもした。それでも時間をつくっては会って、何というわけではない時間を過ごすのが二人のストレス解消になっていた。
しかし牧が結婚をしてからは、二ヶ月に一度会えるか否かとまで一緒に過ごす時間は減っていた。理由は牧が妻との生活を優先させたというものではなく、仙道から誘ってくることが極端に少なくなったからだった。いくら牧が『気にしないで誘って来いよ』と言っても、笑ってその場は頷くが、結局は牧から連絡を入れるまで仙道から連絡が入ることはなくなってしまった。
妻がいることで気を遣ってくれていることや、独身の仙道が誘いづらくなっていることを思えば、『誘ってくれなくて淋しい』という気持ちを伝えることも出来ず、いつしか三ヶ月に一度会うというペースに落ち着いてしまっている状態だった。
それがまたこうして頻繁に、(今回は出張がずれて重なったため別として)それこそ週に二度という頻度で会うように戻った理由は簡単だった。牧が結婚四年目にして破局を迎えたからだった。
─── 「俺、離婚の淋しさなんて牧さんが感じないくらい通っちゃいますから。また昔みたいに楽しくやりましょう!へへへ。嬉しいなあ〜」
牧の職場の同僚などは職場結婚(結婚と同時に妻は退職し専業主婦となった)だっただけに、牧の離婚に対して裏で少々囁いたりはしたが、表立っては傷に触れまいという、こちらが疲れるほどの気遣いを向けていた。
それだけに、仙道にはなぐさめられるどころか、あっけらかんと離婚を喜ばれてしまい、牧は仙道の喜びようにもう笑うしかなかった。
笑った時に牧はこっそり、労わりの目で見られることへ自分がいかに疲れていたか……無理をして笑っていたかを知った。
たった二週間会っていなかっただけだというのに、顔を見れた嬉しさで二人はいつもよりもハメを外して食べて飲んで、話した。疲れていたことなど忘れてしまうほどに笑いあった。
楽しい時間は飛ぶ様に過ぎていったせいで家へ帰るのも面倒になり、店からいくらかは近い距離にある仙道のところへ泊まることになった。
「ふぃ〜、ご・到・着〜と!ささ、牧さんも遠慮せずあがって下さい」
タクシーを降りてから、手荒に自宅の鍵を開け少々ふらついた足取りで玄関の敲きへあがった仙道が牧の手を引っ張って強引にあがらせた。
2DKの独身者用マンションの中は、来るたびに牧に同じ台詞を口にさせる。
「…また派手に散らかしてんなぁ。お前、俺が来るまで片付けしねぇのかよ」
言いながら牧はテーブルや床に散乱する新聞や雑誌、缶ジュースやゴミを拾っては、勝手知ったる何とやらで、TV台の下の引き出しからゴミ袋を引っ張り出しては分別して片付けだしている。仙道が台所から両手にビールを持って現れた。
「うん。だって俺より牧さんの方が片付け上手いもん。それに、他に人なんて呼ばねぇし」
「お前より片付け下手な奴なんて……いなくはないか。けど、それとこれとは…うーん…」
「いっすよそんな、綺麗にしなくって。牧さんの寝床になる場所だけは確保してあるから。ほら、早く座って。ね」
「一宿一飯の礼になるし、何より夜中起きてトイレに行く時にゴミ踏むのは嫌だ」
「俺は平気っすよ?」
「俺が嫌なんだ!このバカが。まったく…この脱いだ形のままの服がまた邪魔なんだっての。お前は蛇か。脱皮するな」
「まぁまぁ。片付けのお礼に、昼は美味いオムライス食わしてあげますよ。ふわふわ卵の作り方、こないだ魚住さんに習ったんだ〜」
ニコニコと笑顔でソファをパンパンと叩いて『座れ』と誘う、その悪気のない顔に牧は仕方がなさそうに笑い返す。
どちらかが眠気に負けるまで飲むか話すかといった時間が始まる前の、一連のお約束な会話が終わり、二人は今日何度目かの乾杯を缶ビールで交わした。
酔いだけではなく、眠気が牧の目蓋を重たくさせ始めた頃。うっすらと頬に浮かんでいる笑みに仙道が気付いて尋ねた。
「どしたの?思い出し笑いっすか?」
「え?俺、笑ってたか?」
「うん。なんか幸せそうな顔…俺の好きな顔してた。や、どれも牧さんの表情は好きだけど」
「お前は〜。そういう変な冗談は家の中だけにしとけよ」
牧の伏せ目がちな瞳から柔らかな視線が向けられて、仙道は嬉しそうに口角を上げた。
「家の中なら言っていいってことになったんだ。それって、自分の魅力に自覚出てきたってこと?」
「バカがほざいてんな。いくら言っても…それこそ俺が離婚してからずっと注意してんのに治らないからあきらめたんだ。離婚して…ええと…。あぁ、もう一年半くらいになるか」
「……離婚してからの一年半って長かったと思う?」
仙道の静かな問いに牧は目蓋を閉じるとゆっくりと頭を振った。
「一番長いと感じたのは…離婚するまでの一年間だったような気がする。いや、もっと前かな…」
「あのさ。もう、聞いていいかな。別れた原因って色々あるだろうけど…。離婚するって色々大変なんじゃないかって思うんだけど、それをするほどの直接的なデカイ理由って、何だったんすか?」
パチリと目を開いて牧は驚いた表情で仙道を見返してきた。慌てて仙道が両手を左右に振る。
「いや、別にいいんす。すんません、変なこと聞いちまって」
今度は牧が同じように片手を左右に振った。
「違うって。俺、お前にとっくに言ってたと思ってた。言ってなかったのか…。あれ?でも俺の部屋で飲んだ時…?」
「かなり前…。えっと、一年前くらいかな。牧さんの部屋に泊まった時、言いかけてくれてたのは覚えてます。でも牧さん、話しの途中で眠ってしまったんすよ。俺もなんかそれ以来タイミング逃して訊けなくて。…中途半端に知っちゃったから、やっぱちょっと…気になって」
「なんだそうだったか。すまん、じゃあ俺、夢の中で全部話し終えた気になってたんだな」
小さく笑うと牧はソファの背もたれに深く身を沈めて再び瞳を閉じた。
「楽しい話でもないけど、リクエストにお応えしようか」
仙道の困ったような顔で頷いたのを見てから牧はゆっくりと語り始めた。
同期入社で席も近かった日和子─── 牧の元妻は、黒い髪の美しい小柄な美人だった。少しきつい瞳をした明るく行動的な性格で、男性社員に人気があった。加えてハキハキとした口調、物怖じしない性格だった。
学生時代は部活にあけくれ、遊ぶといえば仙道や仲間とばかりだった牧は、どこか女性に対して無意識に緊張をしてしまうところがあった。
そんな牧ですら、周囲にいる他の女性社員達と違う日和子のさっぱりとした性格が、女性独特の、牧の苦手と感じる雰囲気を感じさせず好感を抱かせた。話や仕事を一緒にする機会が増えていくにつれ、気軽に話せる関係にもなっていった。
初めてできた女友達だと勝手に思っていた牧に日和子が告白をしてきた。それは一種、悲しいのか嬉しいのか分からない、牧自身にも判別の付かない思いで混乱もした。その気持ちを正直に伝えると彼女は「付き合っていけば悲しさより嬉しさが増えると思うの。もっと一緒にいたら楽しさは二倍になるよ。一人より絶対!」と笑った。その笑顔に頷き返したことで二人の関係ははじまったのだった。
ここまでは仙道も牧が結婚するまでは二人で飲んだ時にポツポツと聞いていた。かなり前から遡って話してくれているのは、サービスなのかと軽くふざけてやれば、牧は目を閉じたままで「どこから話せばいいか分からんから、全部話す。長くなって眠くなったら寝とけ。そこで今日はお仕舞いにしとく」と口の端を軽く上向けた。
付き合っていくことで確かに楽しさも喜びも二倍になるような気がした。徐々に気を遣わない気楽さも加わっていき、恋愛というには穏やか過ぎる感じもしたが、ゆっくりとそれらしい関係になっていった。
適齢期という言葉に当てはまる年になった頃、彼女に「女から言うのもなんですけど〜」と、ふざけた口調にこっそりと本気を潜ませて結婚を持ちかけられた。牧としても特別断る理由もなく、「不束者ですが、宜しく」などとふざけて返したものだった。
意外だったのは結婚と同時に彼女が会社を辞めたことだった。キャリア志向があるように思えていただけに、牧は勝手に暫くは共働きになるものだと思っていたのだ。しかし特別働いて欲しいという気持ちがあったわけでもないので好きにさせていた。
お世辞にも上手くはない料理の腕を頑張ってふるう彼女を愛しいと思った。疲れて帰れば明るい笑顔で迎えてくれるのが素直に嬉しかった。
だから、もっと自分の稼ぎを早く増やして喜ばせたいと仕事に更に精を出した。実際、ボーナスが上がったり昇進すれば日和子はとても嬉しそうに喜んでくれた。
「…ここまで話したんだったか?」
突然尋ねられて仙道は驚いて大きく頷いた。が、目を閉じたままな牧の横顔に、仙道は口頭で「そっす」と返した。
「えーと…。そう。彼女は喜んでたし、俺はバカだからさ、夫が妻に喜ばれつつ尊敬されることってさ、出世なんだって…勝手に思い込んでいたんだ…」
仕事が忙しくなればなるほど、帰宅時間も比例して遅くなった。午前様なんてしょっちゅうだった。体を壊すと心配されても、その頃には仕事自体が面白くなってきた時期でもあり、体力にも自信があった牧は「心配いらないから、日和子は先に寝てていいよ」と返していた。そんな会話しか今は記憶に残っていない程度の仕事漬けな日々を送っていた。
そんな中、月・水・金の昼間、日和子は水中エクササイズを習いに行くようになった。帰宅すれば楽しそうに授業の話をしてくれるのは嬉しかったが、最後までしっかり聞いてやれることはまれで、いつも先に寝てしまうのは牧だった。
万事がそんな調子で、あれほど明るく沢山喋る彼女が、いつしか口数が極端に減っていることに牧は気付かずにいた。いや、正確には気付いていたのかもしれないが、元来自分から色々と話題を振ることが得意ではないため、『夫婦も三年たてばこんなもんだよな…』という程度にしか考えなかったのだろう。
そして結婚四年目にあと数ヶ月という頃。とある日曜の夜。風呂に入って明日のために早く寝ようとベッドへ入った時に日和子が電気を消した寝室の入り口で黙って立っていた。どうしたと声をかけても、湯冷めするぞと言っても彼女は動こうとしなかった。
ベッドから出て彼女の傍へ立つと、日和子は小さな震える声で呟いた。「…もう、寝ちゃうの?また、一人で先に寝ちゃうの?」と。
牧は夜は寝るものだろうと、何が言いたいのか分からずに首を傾げてみせた。その瞬間、日和子の瞳からは一気に涙が零れだし、口からはヒステリックな弾丸のような言葉が噴き出した。
内容は支離滅裂なものだった。仕事を頑張りすぎる牧への心配や、自分を放っておくことへの不満から始まり、溜めに溜めた不安が堰を切ったように溢れ出されていた。
そう。彼女は不安だったのだ。泣きながら小さな体を牧へとぶつけるように押し付けしがみついて叫んだ。
「私、紳ちゃんから求められたことってここ半年、一度もないんだよ!ううん、もっと前から!」
言われて初めて牧は自分の心臓が一瞬ひやりと冷たい何かに撫でられたような気がした。
「確かに私、あんまり女らしくないよ?でもそこが好きだって紳ちゃん言ってたよね。だから私、気をつけてた。紳ちゃんが好きなさっぱりした女でいようって。けどね、違うでしょ。私は女で、妻なんだよ?抱かれたいって、思っていい立場だよね?」
震える彼女の唇が奇妙に赤く歪んでいた。まるで口元だけ笑っているように見えた。
自分はその時、どんな返事をしたのだろうか。もちろんだとか、言ってくれたらとか?それとも何も言えなかったのだろうか。記憶は抜け落ちていた。
ただ、悲痛な彼女の声が痛いほど冷えた胸に刺さって、やけに体が震えるのを止めようと必死だったことだけ覚えている。
「紳ちゃんが仕事頑張ってるの分かってるし、疲れてるから平日や土曜は仕方ないって思ってた。でも日曜くらいは…って思うのは、私が好色だからなの?確かに私、子供はもう少しあとでもいいって思ってるって二年位前、言ったけど。一緒に暮らしてるだけって夫婦って言うの?それなら下宿のおばさんと私、どう違うの?同じだと思わない?触れてもらうだけで満足できるほど、私は子供じゃないのよ。私は紳ちゃんの逞しい胸や腕、その褐色の肌に包まれたい。女のわ…わ…私に、セッ……したい…って……い…せた…」
最後は涙が咽を詰まらせて、日和子は苦しそうに喘ぎながら牧の腕の中から崩れ落ちるように床へ座り込んでまるまってしまった…。
その週の土曜日、牧は日和子を抱いた。ことが済んだあと、彼女は淋しい笑顔で言った。「お疲れ様。ありがとう…」と。
夫としての義務感で抱いたというのを見透かされた気がした。
牧は彼女が眠ったあとベッドを抜け出た。パジャマでベランダに出るには秋の夜風は冷たく、頬を伝うものまで一緒に冷やされて身震いが止まらなかった。それでも寝室に戻る気にはなれずに欠けた月を長いこと眺めていた。
牧が少し身を起こしてテーブルの上の缶ビールに手を伸ばした。その表情は不思議に穏やかで、自分の過去を話しているというよりは、人から聞いた昔話を語っているような雰囲気があった。
「…牧さんさ、もう完璧ふっきれてんだね。俺の勝手な思い込みかもしんねぇけど」
「あぁ…。俺もさ、なんか話していて思ったほど苦しくもなければ、恥ずかしくもないんだ…。変だよな。酔ってるせいかな」
「ううん。変じゃないよ。でもさ、もういいよ?無理しないで」
うーんと、小さく唸ってから牧は小首を傾げた。そして意外にもフッと軽く微笑んだ。
「いや。ついでだから全部このさい言ってしまう。お前には世話になってるからな。あとちょっとだから、聞いてくれないか?」
「長くたって俺は平気っすよ。眠くもないし、それに……話してくれて、嬉しいから」
「そうか」
「うん」
日曜日が来るのが憂鬱になった。それでも月に一度くらいはベッドを共にした。けれど頭の片隅では妻を抱きながら、純粋に抱きたいという気持ちからではない自分に気付かれているという後ろめたさや、義務感でするこの行為で彼女も自分も何がどう満たされるのか─── 意味はあるのだろうかという冷めた疑問が抜け切らなかった。
また二ヶ月に一度が三ヶ月に…と徐々に減っていきだした頃には、日曜日になると彼女は早く布団に入って寝てしまった。本当は寝ていなかったのかもしれないが、それに騙されるふりをさせたもらう自分がいた。
そうして半年が過ぎた頃。彼女は今までの習い事をやめて別のスクールに通うようになった。月謝は跳ね上がったが、夫として満足させていない負い目があるため、少しでも妻が楽しいのならばと二つ返事で承諾した。
生活レベルを落とさず、高い月謝やブランドの服を彼女に提供する。家を購入したばかりだったこともあり、更に残業も休日出勤も増やさざるを得なくなった。が、その頃には真新しい家にいるよりも、慣れた会社のデスクで仕事をしている方が気が楽であったから苦痛ではなかった。寧ろ仕事に逃げ場のようなものを感じていた。
暫くはそんな状態で表面上は何事もなく月日は流れた。日曜は二人で買い出しと外食をする。それだけが二人で一番長く穏やかに向き合って過ごせている時間…。
とある平日、出張前に大事な書類を家に忘れたことを思い出した牧は車で自宅へと急ぎ戻った。妻はまだスクールから帰って来ていない時間だからと、ドアベルも鳴らさずに鍵を開けて牧は自宅へ足を踏み入れた───
突然仙道が牧の顔前に手をかざし話を遮った。
「…ちょ、待って。なんかドラマみたいになってますよ?俺…ホントにそこまで詳しく聞いちゃっていいんすかね?」
「本当によくある話というか、三文ドラマみたいだよなぁ。話していて俺も思ったよ。けどまぁ事実だし。別にいいんだ。終わったことだ」
牧は少し自暴自棄のような笑い顔を仙道から隠すように伏せた。
「間男と殴り合いとかしたの?牧さんのパンチ、くらったことねぇけど、凄そうだよな〜。腕っ節強いしね」
少し困ったように仙道は眉尻を下げ、ふざけた口調で軽く拳で空を切ってみせた。牧もつられて軽い口調で返して来る。
「まさか。玄関で知らない男物の靴と、居間から楽しそうな妻と男の笑い声が聞こえたからさ。足音忍ばせて自分の部屋に行って書類引っつかんでさっさと出たさ。JRの時間も迫ってたしな」
「あー…。牧さんの家、広かったらしいもんね。自室もあるって言ってたねぇ、そういえば」
「そうだぞ。だから何度も来いって言ったのに、お前一度も来なかったんだよな。俺だって一時は立派な家持ちだったってとこ、見せたかったのに……って、まぁ、それももういいか。売っ払っちまったから過去の栄光ってやつだもんな。ええと、それで──」
出張で自宅へ戻るまでのホテルで過ごした三日間。牧は自分がショックを受けてはおらず、寧ろ淋しいほど冷静であることが悲しかった。悲しさや腹立たしさよりも、日和子の胸の空洞を自分が埋めてやるために、もう無理に頑張らなくていいのだという、安堵感のようなものすら感じていたからだ。
終わっていたのだ、とっくに。彼女の浮気をこうして冷めた気持ちで捉えている冷たい自分は、きっと自分でも気付かぬうちに彼女へ接する言動等に現れていたのだろう。
女性は敏いから…。いや、自分が極端に気持ちの機微に鈍いから、SOSを必死で発していた彼女に気付けず、気付いても逆に追い詰められたような気になって自滅していったのだ。それを直視出来ない自分は、物や金、家というものを提供することでまだ、『いつか年をとれば笑い話になるかもしれない』なんて、甘い夢を…甘すぎるちゃちな希望を……抱くことで何とか日々をやり過ごしていたに過ぎない。
頬を伝い落ちた涙が誰のためのものなのかも分からず、その日も自分はホテルのカーテンを開けて電気を消した室内で夜空を見ていた。月も星もない、やけにスモークで濁った灰色の夜空を。
出張から帰宅しても日和子はいつもと変わらなかった。牧もまた何も言わなかったため、不思議なほどに変わらない日常が過ぎていった。
あの出張から二ヶ月ほど過ぎた頃だろうか。仙道と二ヶ月ぶりに会える時間を作れそうだと、手帳を開いて確認していた木曜の夜。
彼女が膝に座ってきた。相変わらずの軽い体重の小さい体をきつく寄せて、「今、抱いて」と言ってきた。まだ風呂に入っていなかった牧は、せめてシャワーを浴びてくるからと、先に寝室へ行ってもらった。本当は風呂などはただの口実で、急に甦ってきた記憶が生々しくて、どうしても居間では出来ないと思ったからだった。
熱めのシャワーをざっと浴びて急ぎベッドへ戻り彼女を抱いた。抱きながら、最後にしたのは何ヶ月前だったかとか知らない男の笑い声など、抱くことに集中しようとすればするほど余計な考えが駆け巡って脳を冷やしていった。
それでも息が上がってきていた彼女の中へ入ろうと押し当てたそれは。先ほどの堅さが嘘だったかのように、手の中で力を失っていた……。
「もともと自分でも昔から、俺って淡白かもな〜なんて、周りの奴等のY談とかそういう話を聞いていて感じてはたんだが…。実際問題そんなことは初めてだったから、正直、男として相当…その、なんというか、やっぱりというか…ショックでさ」
ひらひらと片手を振って牧は天井を向いて大きく息を吐いた。仙道もつられて小さな吐息を漏らしてしまう。
同じ男として、過去に自分がそういうことになったとして。それを例え親しい友人相手だとしても、言える度量など俺には少なくとも、ない。それだけに俺に心を許してくれているというのが暗に伝わってくる。器の大きさと向けてくれる信頼、全てがどれほど特別なのかと思えば思うほど、隣でぬるいビールを不味そうに飲む横顔に手を伸ばしてしまいたくなる…。
そんな想いをなんとか胸の奥深くへ押しやって、仙道は努めて自然で軽い口調を装った。
「牧さん、見かけだけじゃなく仕事とかでもタフだからね〜。そっちが淡白だとは誰も思わないよ〜。でもさ、その状況じゃ誰だってなりますよ。つか、よく抱こうと頑張ったなーって俺なんて尊敬しちゃいますね。俺なら無理。ムリムリ。断ってますよ絶対」
「うー…。そうなんだよなぁ。でもあの時の俺はもう、考えることに疲れ切っていて、断ることすら思い浮かばなかったんだよ」
「まぁまぁ。そんな自分ばっか責めたら駄目っすよ。萎えさせる原因を先に作ったのは相手じゃんすか。牧さんの選んだ女性を悪く言いたかないけど、何か女ってさ、勘違いしてると思うんだよね。男は脳と体は別個だから、体に快楽与えてやれば勃つってさぁ。確かにそういう奴多いけど、全部がそうじゃねーんだって。色々な奴がいるって何で考えないんかなぁ。男って案外女よりデリケートだと俺なんかは思うんだけど。つか、女ってさ、すぐ自分の幸せばっか口にしないっすか?強欲ってか相手より先にまず自分のような。そりゃ元々人間なんて自分が一番大事だけど、男ってさ、相手が笑ってくれれば自分も幸せでそれでO.Kって多いよね?」
ふと興奮して話している自分に我に返り、仙道は色素の薄い綺麗な瞳が静かに自分を見つめていることに気付いて声のトーンを押さえた。仙道は気まずげにテーブルの上のアーモンドを口に入れて咀嚼する。それでもまだ牧が黙って自分を見ているため、渋々その視線を受け止めるべく顔を向けた。
「…な、なんすか?あ、もしかして日和子さんのことを良く知らない俺が勝手なことを言って腹立ったとか?別に彼女のことじゃなくって、勝手な俺の一般論っつか、女性認識なんですけど…あの…。お、怒った?」
「いや…。俺さ、昔、日和子に聞かれたことがあるんだよ。どんな時が幸せと感じるかって。俺はその時、思いつく限りって言われたから頑張って答えたんだ。…幸せなんてそう意識して考えないだろ?女ってそういうこと、聞きたがるよなーって…思い出して」
「牧さん、そん時、なんて答えたの?」
「…美味い物食ってる時と、適温の湯に浸かっている時と、日和子が笑ってる時。あ、お前今、俺のことキザだと思ったろ」
言いながら少し頬を恥ずかしさにひきつらせた顔が可愛くて、仙道は胸が甘く疼いてしまっている自分に今は気づかないふりをした。
「いや、俺も似たようなもんすから。でもさ、そーでしょ?やっぱ相手っつか周りがって思うよね。女ってほら、すぐつるみたがっては、人数増えればすぐ内部分裂やらなんやらしてません?それくらいならつるむなっての」
また同じように牧に見つめられていて、仙道はまた声が少し大きくなっていた自分に気付いて口をつぐんだ。
そのバツの悪そうな表情に牧は真剣な表情で訊いてきた。
「……お前って、ひょっとして……女嫌いなのか?それとも、過去に酷い女に痛い目にあわされてきたとか…」
「……まぁ、確かに過去、痛い目は何度も見ましたけど…。でもそれはまぁ、俺も最低な野郎だったから自業自得だけど…って、牧さん。俺の話じゃなくてさ、さっきの話に戻して下さいよ。なんかここで終わられると俺、寝つき悪いまんまなような…」
「おお、そうだったな。うん。あとは本当、離婚へのカウントダウンなだけだ」
映画の粗筋を話し出すように、また牧は咽をビールで潤してからのんびり再開しだした。
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