夢の中までも


眩しすぎる夏の日差しから逃れるように牧と仙道は大きなデパートに入っていった。今度は店内のきつい冷房に一気に体を冷やされてしまい、牧は苦笑いを零した。
「真夏は外を歩くのも中を歩くのもあまり体に良くはないよな。両極端すぎる」
「牧さんは季節ではいつが一番好きなんすか?」
「春…夏…秋冬。どれも好きだ。それぞれ良さがあるな。お前は?」
「それ、答えになってないよ〜。ま、いいけど。俺はね〜…」
にやりと仙道は笑うと人込みから抜け、あまり人気のない男性服飾売り場へ向かってから牧をちょいちょいと手で呼んできた。牧も大人しく仙道の傍へと立った。仙道が長身をかがめて一枚の服をつまむ。牧もそれを覗き込むように身をかがめる。
と。牧の耳元にそっと仙道の少し甘い響きの声が小さな吐息と一緒に吹き込まれた。
「…俺の好きな季節はね。昔は暑くも寒くもない秋だったんす。でもあんたが隣にいるようになってから、一年中、俺も同じく好きになったよ」
怪訝そうな顔で牧は興味もない服を掴んだままボソリと呟く。
「…いつもながらお前の言う事は気障だ。しかも今、『同じく』を強調したろ」
くすくすと仙道が笑う。そのまま至近距離にある牧の耳をペロリと舐めた。
「なっ!!何すんだいきなりっ!!」
バランスを崩して膝を床につけ、慌てて自分の耳を片手で覆った牧へ仙道は楽しそうな笑顔を浮かべて立ち上がった。
「だーって。先に牧さんが春夏秋冬好きだって言ったんじゃない。なのに俺だけ気障呼ばわりするからですよーだ」
立ち上がられて人目につくとなれば牧もいつものように拳で黙らせるわけにはいかなくなる。膝を軽くはらって立ち上がると、ジロリと仙道を睨めつけるしかできなかった。お互い身長はかなり高いので、デパート内では陳列棚やハンガースタンドは自分達を隠してはくれない。そこまで計算に入れてのとっさの悪戯に牧は内心、少々感心したりもしていた。

滅多に足を向けない休日のデパート。用事がなければ極力避けたい苦手な場所。それが隣に友達や恋人がいるだけで、まぁまぁ悪くない場所へと変化するのは一応昔にも経験済みな二人。しかしお互い同性同士でこうした関係になると、無理をしてこんなところで一緒にいなくてもと、ますます足は遠のいていた。そんな二人が本当に久々にこんな昼日中の休日のデパートに来なくてはならなくなったのは、贈答品を数件分急ぎ購入しなくてはならないといった止むを得ない用事が出来てしまったからだった。
日曜の電車は煩い学生達や妙な格好をした人達に騒ぐ子供…。デパートへ来るまでにはすっかり疲れてしまった二人ではあったが、それでも休日ならではの賑わいや活気に包まれるとそれなりに、不思議と来るまでの疲れた気分は消えていた。
二件ほどデパートを歩き、その場で発送もすんだ。予定よりも大幅に用事が早く済んだため、せっかくだから少しぶらついていくことにした。

大掛かりなディスプレイや催し物をやっている広場。普段なら興味も湧かないブランド店等も、苦手な賑々しい人込みの中だというのに二人で見ると面白いものにも思える。目に留まったものをお互いが「これ、なんだ?」「あ、けっこういいじゃん、あれなんて」と交わしては、「ここが使いにくそうだ」「う〜ん、買うほどじゃないっすねえ」とショップを出る。
まさにひやかし客となってあちこち覗く二人。男同士、興味を引くショップは同じなため、二人は口にこそ出さなかったが、昔付き合っていた女の子達と歩くより格段に楽しいと感じていた。一緒に歩いても友人同士にしか見えない気軽さもまた良かった。

「おい。ここ、寄ろうぜ。流石に疲れた。何か飲もう」
牧が顎で軽く指した先には小洒落たカフェがあった。ウィンドウには上手く出来ているメニュー見本がお洒落に並んでいる。普段の牧であればもう少し歩いてもいいから、よく言えば落ち着いた、悪く言えば地味な飲食店を選んでいるだろう。よっぽど疲れたのか、はたまた自分と同じく少々浮かれた気分だから入る気になったのか。深く突っ込みをいれたい気持ちもあったが、正直仙道も咽がカラカラだったので、素直に頷いて店内へと入っていった。

中へ入るとカップルか女性同士の客しかおらず、やはり選択を誤ったかと、牧は白いデザイン的な椅子に腰かけるなり早くも後悔していた。同じく真っ白な円形テーブルの上にあるメニューに仙道は手を伸ばした。片側をリングで留めてある、小さなアルバムのようなメニューには綺麗な写真が沢山使われていて、まるでお菓子作りかなにかの本のようだった。
「牧さん、何にします?なんかやたらに甘味、充実してますよ」
メニューを二人で見れる位置へと戻して仙道は牧の視線をメニューへと誘った。
「…俺が知っているパフェと大分形状が違う…これがクレープぅ?クレープってクリームとか中に巻いてるもんだろ?具が全部上に積んであるじゃないか」
写真を見ながら小声でブツブツと言っている牧が可愛くて、仙道は牧の肩越しに見えたオーダーをとりにきたウェイトレスへ片手と口の動きだけで『後で』と伝えて下がらせた。
「お昼まだ食ってねぇし、たまにゃあ甘味だけで腹膨らましてもいいんじゃないっすかね。珍しいの多いしさ。いっぱい頼みましょうよ」

仙道が牧と付き合って最初に驚いたのが、牧がかなりの甘党だということだった。恋人という関係になるまでは喫茶店などでもお互いブラックコーヒーのみを飲んでいたから全く気づかなかったのだ。たまたまコーヒーには砂糖を入れない主義という部分が一致していたことを後になって知った。それからもっと経ってから牧が甘味を頼むのを我慢していたことを知ったのだった。

牧は真剣になってメニューの写真と説明に魅入りながらも、「…飯と甘味は別だろ。甘味だけでは体に悪い」と唸っている。
仙道はメニューの一つを指差しながら、もう一歩と押してみた。
「俺はまず、これにしよーっと。このトッピングのキャラメルクリームが美味しそうだし。それとー…。あっ。こっちのこれも」
「…お前がそれなら、俺はこれにする。…いや、でもこっちのチョコチップ入りの…う〜ん」
「牧さん、せっかくこんなにメニューあるとこ来たんだし、いつものとあんま変わんないこれよか、こっちのパフェにしたら?それと、このクレープも迷うくらいなら頼んじゃいなよ。俺、もう三つ決めたよ」
「三つか…。ん?お前が三つは多過ぎなんじゃないのか?甘いもの、それほど食えないだろが」
「残したら牧さん食ってくれんでしょ?色々試したくなるよね〜なんか変わってるし」
「いくら昼を食わんといっても、そんなには無理…。けどまぁ、こんなとこもう二度は来ないよなぁ…。よし、俺も三つ決めた」
牧が顔をメニューから上げたと同時に、後方で控えていた店員がニッコリ笑顔で近づいてきた。今度は仙道も止めはしなかった。


結局牧は自分の注文した甘味のみならず、仙道が注文した甘味の半分を完食した。確かにどれも小振りなサイズであったけれど二個は驚くほど濃厚だったのにと、仙道は平然と食べている牧に内心驚きつつ楽しくなってしまっていた。
カフェを出て仙道は全くいつもと変わらない様子の牧が不思議で尋ねた。
「あんなに甘いもん沢山食って、胃もたれとかないの?苦しくない?」
「腹減ってたし平気。やっぱりああいった小洒落たとこの甘味は小さいし甘さ控え目なんだな。三個くらいまともなのがあったが、他は物足りないくらいだったよ。小さくしたり砂糖ケチるのがお洒落なのかと問いたい気分だった。あ。お前はあれだけじゃ腹の足しにならんだろ。地下で何か買って帰ろうか」
ケロリと言い放たれ、とうとう仙道は笑いを堪えきれずにエスカレーター前の少し広い空間にあったベンチへ腰かけて腹を抱えてしまった。牧は声もなく肩を震わせて笑っている仙道を憮然とした顔で見下ろしていた。

「おい、牧。久しぶりだな! お。仙道もいたのか。元気だったか?」
背後からかけられた声に牧は振り向き、仙道は面を上げ立ち上がった。少し禿げ上がった額がまぶしい背が高い太った男…。
「…お前ら…ひょっとして先輩を忘れたとか言うんじゃないよな?少々太ったけど」
慌てて二人は同時に礼をした。大学時代の厳しい(仙道に言わせれば嫌味でねちっこい)先輩とすぐには重ならなかったのだ。おまけに二人とも人の名前を覚えるのも苦手であれば忘れるのも早かったため、名前が浮かばず焦ってもいた。もちろん表情にはどちらも出てはいないけれど。
「お久しぶりです。先輩、お元気そうですね。今日は…お子さんと買い物ですか?」
牧が当たり障りの無い挨拶を述べる。男の足元には父親そっくりの立派なオデコの男の子と女の子がいた。
「家族サービスさ。お前らも突っ立ってないで座れや。いや〜疲れたよ。今日は隣のデパートの創業何周年だかで特に人出が多いよな。こっちまで流れ込んできてるんだろ。女房は上の階のバーゲンに参戦してんだ。俺は子守り番みたいなもんだよ全く」
「そうなんですか。俺はデパートなんて滅多に来ないんで、日曜だから多いのかと思ってました」
仙道は腰かけなおしながら愛想笑いを浮かべた。牧も「俺もです」と頷いている。

「そういやお前ら、まだ結婚してないんだろ?してたらこの大河原先輩に知らせが来ていて当然だもんなあ?そうだろ?いい年こいた男が二人でお買い物なんて侘びしいなぁ。お前らなんてそこそこもててただろうが。最近はさっぱりなのか?」
自ら名のってくれたことで内心牧も仙道も安堵した。言われなかったら会話がますます苦しいことになると冷や冷やしていたからだ。
それにしてもこの言い草。昔からこういう喋り方なため部内では密かに煙たがられていた。当時と変わったのは体型のみか。しかし体育会系では先輩は絶対である。一応仙道も牧も当たらず触らずで表面を合わせていた。それは卒業してもこうして会えば変わらない、暗黙のルールみたいなものだった。
「ははは…。結婚してたら連絡入れてますよ。それよりあの…お子さん、危ないんじゃないですか?」
大河原の息子がエスカレーターの昇り口でしゃがんで動く手すりにミニカーを叩きつけていた。仙道が立ち上がろうとすると大河原がとめた。
「大丈夫。子供ってのは案外頑丈なもんでな。転んでも骨が柔いからか何事もなかったりする。そっかあ、まだお前ら独身貴族やってんのか。だからかなぁ、お前ら昔と全然変わってないよな。まぁ、牧は昔から老け顔だったけど。俺なんて女房の趣味が料理だから食わされちまってこのざまだ。おーい、みきちゃん、あんまり遠くへ行くんじゃないぞー。あ、すまんすまん。女の子ってのは男の子よりも元気がいいもんで可愛いんだぞ。そうそう、来年小学生になるんだけどな…」
娘が走り回っているのを止めるどころか、大河原は鼻の下を伸ばして今度は娘と息子の自慢話をはじめた。

キンキンの甲高い声の奥さんが大河原を迎えに来るまで、牧と仙道は有難くもない先輩の話に相槌を辛抱強く打ち続けさせられた。途中何度か牧が子供をエスカレーターから離そうと立ち上がったが、「親が見てるんだから平気なんだよ。全く、牧は昔から神経質だな。いつもそんなんじゃ疲れるだろう」などと言われて止められてもいた。
時間にすれば30分程度だったのだろうが、大河原一家が去っていってから二人は顔を見合わせると、心底疲れた顔でぐったりと項垂れた。
「…地下でついでに晩飯の惣菜買っちまうか」
「賛成〜。帰って作るパワーも奪われちまいましたもんねぇ」
盛大な溜息を吐いたあと、「お疲れさま」と仙道が苦く笑った。牧も「お互いにな」と片眉を上げてみせた。


帰りの電車は思ったほど混んではおらず余裕で座る事ができた。ぼんやりと揺られていると、斜め向かいの小さな女の子とお父さんらしき男の会話が細々と聞こえてきた。
──「三つ目の駅で降りるんでしょ。お父さんは寝てもいいよ。ゆいは眠くないから起こしてあげる」
──「お父さんは平気だよ。ゆいこそ今日はいっぱい歩いて疲れたろ?偉かったね、病院でもずっと静かにしていたね。お父さん助かったよ」
──「そんなの当たり前。バカにしないで。お父さんこそおばさんに苛められて可哀相だったのに、笑ってるんだもん。偉かったね」
会話の続きは電車の音と大きな声で喋り始めたおばさん達の会話にさえぎられて聞こえなくなった。
「大河原先輩んとこの子よりずっと小さそうなのに。違うもんっすねぇ…」
こっそりとしみじみ呟いた仙道に牧は口の端で小さく笑って頷いた。


出来合いだらけの晩御飯をすませてシャワーを浴びた。二人が長い脚をフローリングに投げ出しながら冷えた缶ビールを飲んでいると犬の鳴き声が間近でした。振り向けばつけっぱなしだったTVから犬の躾け方を懇切丁寧にレクチャーしている番組が流れていた。
遊ぼうと誘う・怯えての威嚇・喜びの興奮等々。様々な意味があるようだが鳴き声の真意は犬にしか分からない。そこを飼い主が状況などで判断し、その場に応じた躾をすることによって吠えないよう導いていく。根気よく条件反射にも似た形になるべく教えていく。すると犬は吠えなくても意志が通じる、または怯えなくとも飼い主が自分を守るはずといった安心感や信頼を寄せるようになる。結果的に飼い主と犬の両方が更に気持ちが通じつつ、むやみに吠えるといった周囲への迷惑も減る…。

犬を飼う予定もなければ、別にそれほど吠え声で迷惑を被った覚えも無い二人ではあったが、犬が可愛かったせいもあるがつい真剣に見てしまっていた。
仙道はきょろりと視線を牧へと向けた。
「…お前の言いたいことは大体予想できる。俺と同じようなことだろ」
「…この番組再放送しないのかなぁ。今度は録画して大河原先輩にプレゼントしたいんだけど」
ブッと牧が吹き出した。「そこまでは考えなかったな〜」と笑っている。カシューナッツを食べる手を止めて仙道は牧の脚を枕に横たわった。
「牧さんはさぁ、あんまり腹立ててないよね。俺なんてすっげー腹立たしかったよ。牧さんが神経質なんじゃなくてテメーがマナーも知らなけりゃ子供の躾もマトモにできねぇ駄目野郎じゃねぇかとかさ。ガキもガキでさ、走り回って騒いだり、人が自分を避けて乗るのが当然みてーな感じだし。可哀相だよガキが。ガキなんて何回も良い事や悪い事を一々教えてもらえる特権があんのに、それを親がしてくんないんだもん。あれじゃ我慢もマナーも何にも学べないまま駄目親父と同じ人種になっちまう」
まだ乾ききらない黒髪を牧は指で弄びながらアーモンドを食べている。珍しくマシンガントークを始めた仙道を止めるどころか面白そうに先を促した。
「悪気があるとかないとかじゃなくてさ。迷惑なもんは迷惑なんだよ。失礼なもんは失礼なの。誰だって最初は知らないのは当然。大人であれ子供であれ家を出ればそこは社会なんだ。社会で恥ずかしくなくやっていけるように、面倒だって教えてやんのが大人の義務じゃないのかなぁ。自分の子供だろーが人の子だろーが関係なくさ…」
黙って聞いていた牧に仙道が『どう思う?』と目で問うてきた。
「…そうだな。俺はお前ほど優しくないから腹なんてそれほど立たない。ただこれも今の社会の悪循環を形作る要素の一つだなと憂いはするが、その程度だ。…お前が傷ついたのは本当はそっちじゃないだろ。分かってるよ…俺もだから」
見下ろしてきた牧の瞳は優しい。悲しみとあきらめを覆う深い慈愛の色があった。
仙道の瞳にじわじわと涙が滲んでいく。泣いていいとも泣くなとも言わず、ただ牧は無言で仙道の目蓋を閉じるためにそっと掌をかぶせた。

結婚をしろとか、家庭…子供を持てとか、何故言われなければならないのか。俺達の人生は俺達のものなのに。
本人達が後悔していないことを、何故周囲にとやかく言われなければならないのだろう。仮に俺達がそれぞれに妻を娶り子供を持ったら何だというのだ。それによって何事かあったらお前らはそれを少しでも援助なりなんなりするとでもいうのか?しないだろう?もちろんそんなことこちらも望んでなどいないが。
法の下に暮らしている以上は法から外れている事については非難されることや法による恩恵もないことは覚悟している。でも時折ふと思うのだ。何故、仕事もして税金も払い、特別人様に迷惑をかけるでもなくルールを逸脱もせず慎ましやかに日々を暮らしているのに──と。

「…怒ってよ、牧さんももっと」
「うん」
「放っといてくれよって。結婚したからってどんだけ偉いのかよって。子供いないってそんな淋しいことかよって」
「そうだな」

「…俺、牧さんが子供欲しいってんなら、いつか養子もらったっていいよ?」
急に今までの勢いはどこへやらで、言うことまで180度変えてきた仙道に牧は静かに頭を降った。仙道の額をポンポンと軽く叩く。
「こんなにデカイ子供と暮らしてるから、いいよ。お前は欲しいか?」
「いらない。俺、ガキだからガキ嫌いだし」
フッと牧が口の端で笑った気配が伝わり仙道は唇を尖らせて牧を見上げた。
「可哀相に感じたんだろ。電車での女の子を周囲は優しい目で見ていたが、先輩の子供達はルールを教えてもらえないばかりに周囲から非難の眼差しを受けているというのが。優しいよな、お前は。優しくて自信がないんだろ。子供がもし俺達にいたらきちんと自分が愛情を注ぎ躾をしていけるかさ。俺達はほとんど家にいないもんな。本当は犬だって欲しいのを我慢してるんだもんな」
今度はニヤリと笑われて仙道がフンと鼻を鳴らした。
「ヤダなぁもう。大体予想できるとか言ってさ、本当は全部お見通しなんじゃん…。しかもいい風に解釈してるし。俺なんてねえ、牧さん以外には優しくなんてないの。ガキも大河原の野郎も嫌いなの。奴等が牧さんを困らせるのはもっと嫌いなの!犬だって老後の楽しみにとっといてあるだけ!」
「はいはい」
「返事は短く一回でしょ!」
「はい。ありがとう仙道君」
「…そこ、お礼言うのは間違ってますよ」
「いいんだ。俺の分までお前が怒ってくれたから、俺は心安らかでビールが美味いんだから。さ。もう一本飲もうかな〜」
膝から仙道の頭部をそっと下ろして牧が立ち上がった。
「あ!ズルイよ!それ最後の一本じゃなかった?牧さんもう二本飲んだじゃん〜、それは俺の分でしょ〜」
「お前のまだ半分残ってるじゃないか。やっぱ夏はビールとナッツだな。枝豆の方がもっといいが」


以前、俺は女友達(俺と仙道との関係を唯一知る異性であり、少なくとも俺は友だと信じていた)から告白されたことがあった。自分の父からも『認めたいわけじゃないが仕方が無いのか…』と、孫の顔が見れないことを嘆かれもした。あのぼんやりした母が泣いていたというのも父から聞いた。
どれも仙道には言っていない。言うつもりもない。けれどそんなことがあったからか、俺は今日のことも仙道ほど辛くはないのだろう。
もしかしたら仙道も俺みたいな…。いや、俺以上にこういったことで言葉の暴力や世間の風に痛めつけられてきたのかもしれないから、関係ないのかもしれないけれど。少なくとも今の俺は今の仙道ほど悔しくないのは事実だ。

ソファに座ってから牧はまだフローリングでふて腐れた顔で大の字になっている仙道を見て目を細めた。
「そんなに怒ってばかりいると眠れなくなるぞ。言われて腹が立つのはな、心のどこかで自分も図星、もしくは後ろめたいような気持ちがあるからなんだ。悔しかったらそれに負けないほど自慢できること増やして、心中で優越感に浸ってやれよ」
「んん〜…そうでもないようなそうなような。確かに言う側は優越感があるから言いたい放題なような気もする…。じゃ、俺達だけの特権、優越感をあげてみましょう! はいっ、言い出しっぺの牧さんから」
マイクを掲げるようなポーズで拳を差し出された。急に妙な展開となり、今度は牧が唸りだす番だった。仙道から『俺達の素晴らしい特権は愛だ』等といった甘い台詞を語ってくれと言わんばかりの期待感に満ちたオーラが感じられる。
溜息をついてから仕方なく牧は口を開いた。
「俺達の特権は。惣菜だらけの晩飯でも大変ご機嫌でいられることと、風呂上りにだらしない格好でビールを飲んでも威厳を損なわれることも叱咤されることもないことかな」
「……そんなもんしかないんすか。つまんねぇ…」
「そんなもんだろ。…あ。あと、洒落た喫茶で甘味三個食った上に相手の分まで二個食えるとか。子供の前じゃやっぱりやりにくい。俺だったらだが」
「そんなもんくらいじゃあ、これからだって言い負かされちまいますよぅ。甘いもんは一個食うのがやっとだから俺には当てはまらないしさぁ」
「別に勝負じゃないんだから。これはまぁ、ほんの一例としとけばいいじゃないか。さて、寝るか」

本当は俺達は知っている。本当にこの関係を不安に感じさせるよう追い詰めていくのは、心無い他人の言葉や自分の身内からの心配や悲しみを含んだ言葉ではないということを。
婚姻届という紙切れの約束すらも出来ない、子供が不安定になった二人の心をつなげてくれるということもない、ただ自分が相手を想い想われることしかこの形を保つ術はないということを自分達が一番知っているから。縋れる有形のものがないことに怯える、自信のない自分が心の奥底に、いる。そいつらがささいなことで目を覚ましては一番自分を追い詰めてくるんだ。
『人に軽い愚痴を零す事も出来ず、相談だってすることは憚られる。全てを二人で悩み、二人で解決していくしかない狭く小さい世界。そんなんじゃいつか息苦しくなって、傷つけ合って駄目になっちゃうんじゃないの?』と、訳知り顔でさもさも心配したふりで寄ってくるんだ。『俺が一番お前を知ってるんだ。なんたって俺はお前だし。ほらほら、そんなに小さい世界じゃ逃げ道なんてないんだぜ?』なんてしたり顔で言ってくる自分に肩を叩かれるんだ。

牧は立ち上がると仙道へ手を差し伸べた。その手をとって仙道は立ち上がり牧をぎゅっと抱きしめてきたので、その頬へ軽いキスを贈る。
「…こういうことも、子供がいたらそう気軽には出来ないんじゃないか? 不本意ながらデパート内で不意打ちで耳舐められるとかも」
「そうかも…。じゃあ、もっと特権を感じさせて下さい…」
仙道は泣きたいのか笑いたいのか判別の付き難い表情で見下ろしてきた。
「調子にのるな…と言いたいとこだが。たまにはいいか。特権を有効的に行使してやろう」

優しい小さな口付けを牧は沢山降らせる。
両手で仙道の頬を包み、鼻と鼻を掏り合わせる。
くすぐったがる仙道の耳を優しく食んでその黒髪を柔らかく撫でかき混ぜる。その強靭でしなやかな身体を腕に抱きしめる。
大人だって傷ついた時は癒してもらいたいと思うのは不自然なことじゃない。より傷ついた者を慈しんでやることによって深まる想いを俺は否定しない。偽善なんかで俺はこいつを慈しんでるわけじゃないから。
甘えていい。甘えさせたい。そんな時間だってあっていい。


「ごめん、甘ったれで。でも今晩だけだから。明日からはまた俺、もう元気で頼りになるクールガイに戻るから。だから…」
「クールガイと自分で言うか」
笑いながらペチリと仙道の頬を手の甲で軽く一度触れてやると、仙道はその手を握って離そうとしなかった。
握ってきた力の強さは今、仙道が内なる沢山の厄介な自分に対し孤軍奮闘している表れ。俺の助けを借りたいと伝えてきているように思えた。俺もそういう時がある。そんな時はお前が俺を援護してくれているから、今夜は俺が目一杯援護射撃してやる。安心しろ。夢の中でまで負けないように、寝付くまで握っていてやるさ。
牧は手をつないだまま寝室へ入っていった。

電気を消して牧のベッドへ二人で横たわる。流石に夏なので手をつないだままで寄り添っていると暑くてかなわない。二人分の汗で手も体もじっとりと濡れてきた。
「…牧さん、暑くて眠れないんじゃない? やっぱ俺、自分のベッドに戻るよ…」
「今、文明の利器も増援させる」
長い腕を伸ばして牧はベッドサイドテーブルの上のクーラーのリモコンを取って室内温度を下げる設定にした。
「たまには体に悪い事をしたっていいだろ。タオルケットしっかりかけて寝よう」
暗がりで微笑んでやっても届かないからと、牧は空いている手で仙道の頬を静かに撫でおろした。少し痛いくらい握り締められていた力が弱まってきたのが感じられる。
あとは優しい眠りに助けてもらえるよう、暗がりだからこそ言える呪文を贈るとしよう。少々恥ずかしいが言葉が必要な夜もある。

───『離れないから、離れるな。…大丈夫だ』

仙道の耳にそっと音の無い囁きが吹き込まれる。仙道は黙って頷き目蓋を閉じた。
再度こめられた指の力は、最初のような痛みではなく包んでくるような優しさがあった。


これからも何度も、それこそ数え切れないほど大なり小なりこんなことはあるだろう。その回数だけ俺達は互いが何故一緒にいたいのかを忘れないように、周りや内なるやっかいな自分が教えてくれていると思えるようになろう。

朝になったら笑いあえる。『やられてばかりの俺達じゃないぜ』って笑いながら言い返せる日もくるかもしれないじゃないか。それに、そんな日が来なくたって俺達だけの特権を沢山増やしていけば、こんな夜だって平気になるさ。

悠然といこう。二人で作り上げる道を。
急ぐ必要は無い。離れずにいる意味は確実に重なっていく。
いつか振り向いた時に重ねてきた日々の長さは必ず、自分の中にいるやっかいな自分を追い出す力になる。
まだ振り返るには早過ぎる。
こんな日だって重ねれば十分意味がある。明日を迎えるため、眠ろう。今夜は夢の中までも傍にいるから。








*end*




UPするか否か迷って三ヶ月放置したけど結局UP。せっかく書いたんだしボツもなにかなと…(苦笑)
ぐじぐじしてる仙道と甘やかしまくりの牧でした。軽く流してやって下さいまし〜☆

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