Show me.


閉じている目蓋を白く明るい光が透かしている。ゆっくり目蓋を開けると白い天井とクリーム色のカーテン。
自宅ではないのはすぐに気づいたが、見慣れているようなそうでもないようなと、スモークがかかったような思考をめぐらす。

「病室…か」

掠れた小さな呟きは天井へと吸い込まれるように霧散した。自分の声とは到底思えない弱々しい声に、何故自分が病室のベッドに横たわっているのかを理解した。花形と食堂で偶然会い食事を終えて廊下を歩いていた時、窓から見える中庭の緑にふと目を奪われた。季節がいつのまに変わっていたのかと驚いて隣の花形を振りかぶった時から記憶がない。そこで、倒れたのだろう。

自分でもいつかこのままでは体調を崩すかもしれないとは思ってはいた。でも仕事は待ってはくれないというのもあるが、どうしても自分でやりたかったことが多すぎたのだ。無理を承知で突っ走った。それでもあと三日は持つと自分を信じていたのに、
「このざまかよ…」
今度は先ほどよりはハッキリとした声になった。頭にかかったもやみたいなものが薄れたせいだろう。

起き上がろうとした時に、クリーム色の天井から下がっているカーテンが引かれ、花形が長身をかがめるように入ってきた。
「起きたか。どうだ、気分は。まだ寝ていたらいい。午後は里塚先生が入ってくれているから」
「そうか、すまん。花形は?」
「俺は今日はシフト代わってて、夕方5時から入りだ。水、持って来てやるから、横になってな」
「…運ばせて、すまなかった。俺はどのくらい寝ていたんだ?」
カーテンをまた閉じるように引く音とドアを静かに開ける音に溶け込むような穏やかな声が返ってくる。
「40分くらいだ。サイドボードに牧の白衣、置いといた」


自宅のものより少し堅いベッドに寝返りをうつ。いつも立っているか座っているかの状態で患者とはほぼ毎日接しているけれど、こうして横たわるのはあまりに久々で、天井がとても高く感じた。腕を伸ばしてカーテンを引くと、隣にあるベッドは空いていた。二人部屋の空き室に運んでくれたようだ。誰もいないことに安堵し、思わずホッと小さく吐息した。
目を閉じて耳を澄ますと遠くでヘリコプターが飛んでいる音が聞こえる。廊下をパタパタと急ぎ足で歩く音も、微かに。
時間が急にゆっくりと流れを変えてしまったように感じた。
目覚ましより細かい設定ができる、見かけはゴツくていかさないが、アラーム機能の設定がしやすい時計を最近は身につけていた。10分の仮眠、20分の打ち合わせ時間、30分の……。
分刻みで動いていたのが嘘のようだ。体が持つあと三日にしなければいけないことは山ほどあるのに。
腕時計を見る。
─── 40分も無意味にロスしたのか、俺は。
自分の計算違いにより生じた狂い。今日のあれを里塚先生が引き継いでいるということは、二日後に予定していた、実業団へ出向いて直接チームの状態を見てからの会議も、自分ではなく里塚先生になる可能性が出てくる。それもあるが、日体協の資格試験の最後の追い込みだってもっとかけなければ。どうしても今期、受かりたいのだ。知らず、ぐっと手首の時計をきつく握ってしまって、手首にかすかな痛みが走った。
この二ヵ月半の俺の積み上げてきた努力は最後の最後、あと少しのところで俺の手から形になる前に滑り落ちていくような不安が、じわじわと横たわっている背中に這い上がる。身震いがしそうになる嫌な感覚。同時に奥歯がギシギシと鳴っている音が脳内に響き渡る。
ゆっくりとした時間の中で響くそれは、体をがんじがらめに縛り付ける鎖がぶつかり合ってたてる金切り音のようにも聞こえた。叫びだしそうだ。こうして横になっているだけで時間が過ぎていくのが、怖くて。

3分休んだ。もういいだろう。今からでも準備を急げば3時のJRに間に合う。降りてタクシーを拾えばギリギリ会場に着けるだろう。
叫んでる暇があったら、動けと脳が指令を下す。それに伴って体が動く。
掌を数回握ったり開いたりを繰り返して感覚が正常に戻っていることを確認し、牧は起き上がった。

白衣を身につけようと手を伸ばすと同時に扉が開き、花形がコップと体温計を手に戻って来た。
「まだ起きるには早い。寝てろよ。今、仙道呼んだから。30分で来るって。ついでに今日の牧の残りの仕事は全部俺が振り分けてきておいたから」
ガッと素早い動きで花形の胸倉を牧が掴んだ。
牧よりも長身な花形が静かに見下ろしてくる。その静かな瞳は底知れぬ深い思慮と冷静さを湛えて牧を捉える。
ゆっくりと牧は手をほどき、零れかけていた花形の手元のコップを受け取ると背を向けた。
「…気遣いはありがたいが、俺はもう平気だ。世話になった」
飲み干したコップをサイドボードに置くと、牧は白衣に再び袖を通そうとした。
「5時からの実業団の上との会議には藤真が行った。牧の出る幕は、今日はない。帰るんだ。そしてこれを飲んでから明日、来い」
手渡された薬に牧ははっきりと不快を露に浮かべて花形を睨みつけた。ユーロジン。帰って寝ろということか。
「…俺が用意したんじゃない。藤真が牧にこれを渡せと言ったんだ」
「藤真が、か。そうだったな、お前は藤真の言うことは何でもきくもんな」
苦々しい棘を含めた言葉にも、花形の静かな瞳は動かなかった。
「そうだ。そして藤真は俺の言う事をきく。けどな、自分の都合で命じてるわけじゃない冷静な判断と分かる言葉に限定して、俺達は互いの言葉に従うんだ。それが最善だと知っているからな。…さっき、仙道に電話を入れて…俺は初めてあいつを可哀相だと思ったよ。牧は冷たい。傲慢だな」
「長話をしている暇は」
歩き出そうとした牧の背へ、長い花形の腕がふわりとまわされ、そのままターンをするようにくるりと体を反転させて牧の体をベッドへと座らせた。
「暇はある。時間は作るものでもあるんだ。仙道が来るまで横になりな」
柔らかい笑顔と有無を言わせぬ静かな言葉の強さ。普段は優しく寡黙な男ではあるが、こういう時の花形には器の違いを肌で感じさせる何かがある。
牧は何もいえずにベッドへ横たわって、苛立たしげにただ瞳を伏せ眉間に皺を寄せた。

ギシリと小さな音ときしみ。花形が牧の足元の空いている部分に腰を下ろした音。それに続く静かで深い声。
「いつか倒れると思っていた。それは俺だけじゃない、牧を見ている周囲の者皆がだろう。…自力で全てこなしたいのも分かるよ。俺だって一応、そういう意地にも似た譲れない仕事も場所もあるからな…」
そう言って、牧の相槌もなにも必要ない、ただ風に溶けて流れ行く雲のような穏やかさで花形は言葉を紡ぎだした。

頑張れること。頑張れないこと。頑張っていいこと。頑張りすぎてはいけないこと。
そんなことを判別することもできなくなるほど、自分しか見えなくなっているのは、とても冷たいことだと思わないか?
頼れること。頼れないこと。頼っていいこと。頼りすぎてはいけないこと。
それらに全く気づこうとしないで、全て自分の力で処理できると周りを排除しているのは、傲慢なことだと思わないか?
一人で生きていけるなら、それでもいいだろう。山奥や孤島に引っ込んで暮らせばいい。
一人では生きていけないと頭のどこかで分かっているから、社会に出ているし、人と関わったり暮らしたりしているんだ。関わっている以上は、周囲…相手も尊重しなくてはいけないんだ。
それは義務じゃない。自分を尊重…大事にするためにも必要なこと。水や空気を体内に取り込むように、自然に必要とされねばならないこと。

自分を大事にできないのは、自分に悪いというだけでなく、相手にも悪いことなんだ。
大事な人が辛くなるのを黙って見ている辛さを知らないわけじゃないだろう?
悪くなっていくのを止められなくて苦しむ痛みを感じたことがあるだろう?
無力な自分が、それならせめて相手と一緒に落ちようとまで…

「そこまで、思うことはまぁ、なかったかもしれないけどさ」
くすりと自分の言葉に笑った花形の背に、牧は「…俺にもあるさ」とぶっきらぼうに呟いた。花形が笑ったのが微かなベッドの揺れで伝わる。
「周囲を全て無視できる、己の力のみ信じて突進できる猪にも、あるんだ」
「猪突猛進で悪かったな。分かったよ。帰る。薬飲んで寝て、明日は寝坊して、全部ぽしゃったってがなってやる」
本当は花形がいいたい事はしっかり牧にも伝わっていた。あまりに当たっているから痛いくらいだ。それでも素直になれず、わざと偉そうな言葉を選んでしまう自分は愚かだと、内心では羞恥でいっぱいであったが顔には当然出さない。そんなとこまで意地っ張りだと見透かされていると知っているけれど。
花形はごく普通に軽く頷いて、それから少し首を傾げて見せた。
「寝坊はね…。まぁ、今日の会議の報告を明日、笹川さんじゃなく藤真から直接受けたいなら、俺は止めないよ」
「なんでそこで笹川副会長の話になるんだ。おい…もしかして…お前…」
スッと立ち上がって花形は腕時計を見た。
「…あと5分くらいでお迎え、来るんじゃないかな。── 牧、」
花形は首だけ振り向いて微苦笑を浮かべた。
「お前は本当に沢山の人に支えられている。お前が支えたいと思う人の数よりもずっとずっと多いかもしれないよ。明日は仮に休んだって、もう何も揺るがないさ。お前が築いたものは、お前が気づこうとしていないうちに分散して皆が支えていたんだよ。三日後、楽しみにしていたらいい。お前が望む体制にまた一歩、近づいた形に変わるのが見れるさ」
「ま、さか…」
「奇跡はそうそう降ってくるもんじゃない。でも降ってくるための土台は、いつだって用意しておくのは当然のこと。だろ? お前が作りたがっていた専属プログラマー達やメンタルトレーニングの強化に関する土台…受け皿は、俺達だって望んでたものなんだ。大丈夫。お前が付いてこさせた奴等を信用しろ。例え牧がアスレティック・トレーナーの資格試験に落ちたって問題ない。─── あぁ、仙道が来たみたいだな。あいつがくると看護師たちが騒ぐから分かりやすい」
「な…んで、俺が試験受けようと思ってたことまでお前に筒抜けなんだよ」
牧は自分の顔が泣きそうに歪んでしまっているのを隠すように、両手を顔に被せてしまった。
「俺は猪じゃないからね。周囲をよく見て、聞いてるから。ちなみに牧が次に取ろうと思ってる資格がNATAだってことも知ってるけど?」
楽しそうな花形の声に、両手の隙間から、牧のくぐもった笑い声もれた。
「…お前らには勝てない。柔よく剛を制すとはよくぞいったもんだよ」



「じゃあ、俺は猪の残した、とっておきの仕事、やっつけて美味しいとこさらってくるから。虚勢張りつつへばってる猪の心を、今走ってきてる猪に癒してもらうといい」
花形の言葉が終わるのを見計らったかのようなタイミングで部屋の扉がスターンと勢いよく開かれた。仙道が長身を少しかがめるように飛び込んでくる。
「牧さん!!大丈夫ですかっ!!あっ、花形さんっ」
「院内は走るなよ。牧は別に大丈夫。寝てる間に注射打ったし。連れて帰って一晩寝かせれば平気だ。元がタフだしな」
牧はゆっくりと起き上がると己のシャツの左袖をめくった。パッチが貼ってあった。
花形がくすくすと笑う。仙道がベッドに近づき、心配そうに牧の顔を覗き込んでくる。いつもの三倍は眉が心配そうに下がってみえた。
「注射打たれたことにも気づかないほど熟睡しててね、起きるなり俺の胸倉掴んだくらいだから心配いらない」
かなり複雑な表情ではあるが、牧は深々と花形に頭を下げた。慌てて仙道もつられて下げる。
「…この礼は、改めてさせてもらう。すまなかった」
「いいよ。どうせ牧のお礼はA定食かB定食だろ。俺は単品に最近こってるんだ。…あ」
ニコーッと眼鏡の奥の花形の瞳が楽しそうに細められた。その瞳に牧も仙道もビクリと体を固くする。
「ボタン鍋なんていいなぁ。材料はあるし、藤真に作ってもらおう。来週の休み、遊びに行くよ。じゃあな」


ゆっくりと扉が閉まり切るまで固まっていた二人だったが、仙道が先に不思議なその場の呪縛から解けた。
「牧さん…起きた早々に何で花形さんの胸倉掴んだんですか? ボタン鍋の材料って、そんなもんうちにないっすよ…?」
「仙道…。来週の土曜、二人で一泊旅行にでも行こうか…」
「俺はいいけど…逃げたら藤真さんと花形さん…後が怖いんじゃないの?あ、ちょっと、寝るなら家に帰ってからにしましょうよ」
ベッドに倒れこんでまた布団にもぐろうとした牧を慌てて仙道が引っつかむ。
「絶対花形、怒ってる…。怖い、怖過ぎる…。仙道、助けてくれよ〜」
「そりゃ助けたいけど…。俺、実は藤真さんにまだ借りがあって…。花形さんと藤真さんって、どっちが怖いのかなぁ…」
「どっちもだろ…。下手すりゃ花形の方が…」
「どっちもっすね…。……旅行…行きましょーか。あちらに比べると、俺らって割とカヨワイ夫婦だよねぇ…」



車中、運転席の仙道を横目で見ながら、牧はボソリと訊ねた。
「……お前にまた心配かけたな。腹立ってるか?」
前を見たまま、仙道は困ったように顔だけで笑ってみせた。
いつも俺は迷惑をかけて、後で気づく。そしていつもこんなふうに笑ってこいつは俺を許す…。多分俺は、外に対しては冷静であろうとするがあまり、一番近くにいてくれる者にはどっぷり甘えて、自己中で尊大で傲慢な男になっているのだろう。こんなままじゃ、いつまでたっても俺は成長できないどころか、こいつにいつか愛想をつかされてしまう…。
昔、仙道は俺を、俺は仙道を。互いしか見れていない時期があった。甘えあってその心地よさに歩を止めていた時期があった。それを改めようとして少しの距離と時間を置いて、それぞれが自分の足で歩いていけるようになったはずなのに。
確かに今は周囲は見れるようになってはいる。でも俺は…こいつの優しさに守られた状態で我武者羅に走っていただけなんだ。
人は同じ過ちを犯すというけど、それでもいくらかは違っていたいと思っていたのに、結局は…。

自己嫌悪の波が車の振動と上手い具合に重なりすぎて、牧を泥のように暗く淀んだ深みへと落とす。
そこから救い上げるような仙道の優しい声がかけられた。
「あんたが元気で頑張っていてくれるなら、俺はそれでいいんです。でもね、元気じゃなくなられるとね…。そうなっちゃう前に回避させられない自分の力のなさに腹が立つっちゃー、立ちますけども」
赤信号を見ながらへへへと笑い声を零す。
「でも、もうちょい待ってて下さい。俺も真正の馬鹿じゃねぇし。いつかそうなる前のタイミング掴んでみせますよ。んで、あんたがやりたいこと、最後まで元気で頑張れるようにサポートできる男になるから。 …今はあんたの来週の試験まで、栄養のあるもん作るくらいしかできねーけどさ」
でも最近牧さん忙しくてなかなか帰宅しないから、沢山作っても結局俺が一人で食うんだよね。いっそ弁当箱にでも詰め込んでみよっかな…と、続けている仙道の言葉に牧は黙って頭を左右にふってみせた。

咽がぎゅっと熱い塊に封じられる。目を開けていられない。ここで泣いたら本当にただの甘ったれのどうしようもない奴になってしまう。
こんなに自分勝手な俺を。似たような過ちを踏んでいることを人に指摘されないと気づかない愚かな俺を。また、許すのか。そしてこんな俺に待ってろだなんて、いってくれるのか…。

「…俺こそ…待っていて欲しい。お前の隣に…これからもいさせて欲しいんだ…」
必死で搾り出した声は小さく、仙道には間近の車が鳴らしたクラクションで届かなかったかもしれない。
それでも黙って俺の膝の上にある拳を一度、強く握ってくれたから。伝わったと思わせてもらう。もう、声は涙を連れてきてしまうから。

閉じた目蓋の中では流れる影のようなものだけが感じられる。今度こそ時間は正しい速度を取り戻したように感じた。

多分このまま俺は眠ってしまうのだろう。自分が後悔の渦に沈んでいくような振動を、お前があまりにも心地よいものに変えてくれたから。

だんだんと耳には何も届かなくなってきた。
何も考えられなくなってくる…。

ただ胸にひとつだけしっかりと灯っている言葉を、起きたら忘れないうちに仙道に伝えよう。
心地よい、この胸に満ちる言いようの無い感謝を込めて。



「…牧さん? 着いたよ…。ベッドでゆっくり寝るためにも、ここは頑張って起きて…」
マンションの駐車場についたので、起こしたくなかったけれど風邪をひかせてはまずいため、驚かさないようそっと仙道は声をかけた。
久々に見る穏やかな寝顔は、やはり起こすのに忍びなくて、柔らかい日差しをうけて明るく輝く柔らかなブラウンの髪をそっと撫でた。
─── 『他の奴等も今、沢山やっかいごと抱えていてな。俺がやらんと誰がやる、ってな』
そう言って、疲れた顔で無理に俺に心配かけさせまいと笑った顔が思い出されて、胸を切なくさせた。痩せてしまって、さらに深く影を落とすようになってしまった牧の頬へと指を滑らせる。
本当は。本当は大事に家にしまっておきたい。俺の目の届かない場所で無理をさせたくない。ただ、真綿のような幸せでくるみたい。ただ、穏やかに笑って過ごしていて欲しい…。そんな夢物語みたいなことを、無意識で願っていた時期があった。あり得ないことなのに。自分が閉じ込められたら、窒息しそうに苦しんで、笑顔なんて出来なくなるくせに。
今はもう、そんなこと願ったりしていないって思ってた。でも、こんだけ俺にまで大変な状況を隠していたってことは…。
やっぱ、辛いって俺に言ったら、閉じ込められちゃうって覚られているからなのかな…なんて。似合わない自己嫌悪めいたものが、少し口に苦い。

ピクリと牧の閉じていた目蓋が震えた。指を離し、声をかける。
「着いたよ。起きて、家に入ろう。…ね?」
ゆっくりと眩しそうに目蓋を開けると、光を含んだ琥珀色の瞳がひたと仙道を見つめてきた。
「…どうしたの?体、辛い?」
軽く小さく頭を振って答えると、牧はそっと仙道の頬へと右手を添えた。
「ありがとう…」
そのまま仙道の後頭部に回った手は仙道を引き寄せ、左手は仙道の広い背を抱いた。牧の唇が仙道の耳たぶに羽根のようなキスを贈る。
そして吹き込まれた、愛しさに満ちた三文字の、音のない言葉。
急に眼から溢れ出した水が牧の頬に零れて伝った。慌てて仙道が顔を離そうとしたが、背に回された腕はそれを止めた。
「そのまま泣いてくれ。せめて、それをぬぐうくらいは、俺にさせてくれたっていいだろう? 俺にだって、お前にしてやれることがあると思いたいんだ」

不安にさせて、ごめん。淋しくさせて、ごめん。心配かけて、ごめん。
花形の言うとおり、俺は傲慢で、冷たい奴だ。だからほら、指や唇で掬うと、こいつの涙がこれほど熱いと感じるんだ。回した腕に伝わるこいつの体温が火傷しそうなほどに熱くて、誰にも渡せるもんかって思うんだ。こいつに焼かれるのは、俺だけでいさせてほしいんだ。
自分勝手な調子のいい我がままを、今、言わせてもらっていいかな。駄目な男ついでにさ。
「…もっと、大事にさせてくれ。大事にされるだけじゃ、俺は天井知らずで鈍い駄目な奴になる。お前が教えてくれな。これからも傍にいて、俺だけに教えてくれ。聞き漏らさないように、するから」


目が覚めて、少し寒く感じていた車内は、今はもう、こんなにあたたかい。
鼻をすすりながら照れくさそうに笑ったお前の笑顔で、もう俺はこれほどに満ち足りてあたたかい。冷たい男だった俺は、いまはいない。
帰ろう。今日は久しぶりに俺がドアを開けてやるから。お前が鍵を閉めてくれ。

一緒に帰ろう。上手く謝れない代わりに、せめて今夜くらいは、淋しかったお前を芯からあたためさせてほしいから。







*end*




周囲の愛情(?)に気づかずやみくもに突っ走って恥をかいてしまった牧の話でした。
いえね、牧は皆に愛されてるんだよと花形に言わせたかったのv 試験の日程調べてないので、時期は嘘八百です。

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