不思議な果実・2


朝早くから玄関でガタガタしてしまったため、家人を起こしてしまったようだ。
牧が振り向くと六つ下の弟が玄関にのっそりと眠そうに現れた。
「すまん、起こしたか」
「兄ちゃんサーフィン行くの?だったら俺も連れてってよ。最近ちっとも誘っても一緒に行かないじゃん…」
目元をこすりながら牧のTシャツの裾を捕んできた。
「…お前の準備待っていたらせっかく早起きした意味がなくなる。小一時間しかやらんですぐ帰るから。お前の好きなラテ、買ってきてやるよ」
恭二は口元を尖らせたが、牧は小さく手刀をきると背を向けて玄関を出ようとした。その背に面白くなさそうな声音で恭二の文句が届いたが、聞こえない振りをして牧はドアを閉めた。

免許を取って間もないため、朝のこうした車の少ない車道を走るのは気楽で、牧はカーステレオのボリュームを少し上げた。しかし音楽よりも出掛けにかけられた恭二の言葉が牧の脳内で繰り返されていた。

『朝から一人で練習モードな顔してさ…。この頃ちっとも休みの日いないし。彼女にサーフィンでいいトコ見せたいからなの?』

サーフィンは、元はといえば恭二が女の子にモテたいといってやり始めたことで、親に危ないから牧も一緒についてやれと言われ、付き合わされるうちに見ているだけよりはと自分もやり始め…何事も中途半端が嫌いなために気づけば結構ハマっていたといった感じだった。
それでも牧はサーフィンよりもずっと前からバスケに真剣にのめり込んでいたため、サーフィン一筋の恭二ほど目覚しくは上達はしてはいなかった。
恭二と二人で休みの日は必ずといっていいほど海へ行っていた最初の二年間。その後は本格的にバスケに時間を割かれ、サーフィンはあまりできなくなった。それでも恭二に言わせれば通う回数のわりには上手いらしく、中級クラスだといわれていた。
今でもたまに気分が乗ると恭二の誘いにのって海へは出ていたが、一人で朝から練習するほど、また力を入れてしまっているのは…。
─── …格好良いとこ、見せるってタンカきっちまったんだよなぁ。

見えてきた輝く青い水平線、白い波飛沫のストライプ。海岸沿いのいつもの駐車場に車を止め、牧は苦笑を漏らした。


* * *


最後に濡れたウェットスーツをしまってトランクを閉めた。まだ濡れたままの髪を高くなってきた太陽と海風で少し乾かそうと、砂浜に続くコンクリートでできた短い階段へ腰を下ろした。海岸には先ほどよりは人が増えてきていた。

今日のライディングはけっこう決まった気がする。ただ、パワーのない波だったから、もうちょっとトリミングが上手くできていれば失速をもっと防げたはず。やっぱり海岸から見ている分には、スピードに乗ってるとこの方が…。
そこまで考えて、牧は自分が初めて本気でサーフィンで格好良いところを人に…仙道に見せたいと思っていることに改めて気づいた。
彼女がいた頃にもせがまれてサーフィンをしている自分を見せたことがある。でもその時はこんな気負いはなかった。バスケをしている俺が格好良いとよく言われていたから、サーフィンでは別にいいか…なんて、今思えば手抜きな自分がいた。
そんな俺の態度が長く付き合うことで馴れ合いに変わって不安にさせたんだろうな…。悪い事をした、と、今なら思う。相手の一途さに流されてはじめる付き合いってのは、俺には向かないのだろう。二回も駄目にしてりゃ、恋愛の機微に鈍い俺でも嫌でも学習する。
忙しい日々だからこそ、自分から興味を持って、自分から動こうとしてしまうほど引き寄せられる相手とじゃないと、恋愛をする資格は俺にはないんだ。恋愛よりもバスケやサーフィン、友達との気楽な時間の方を優先させたいと、楽なほうへ流れたがる自分だから…。

白い雲に仙道の陽光を浴びて白く輝いて見える笑顔を重ねる。今すぐ会いたくて胸が痛む。

いいとこばかり見せたい。やっと俺に興味を抱いてくれたお前に。バスケが本当は一番俺は得意なんだけど、仙道にバスケでいいとこ見せるにゃ…試合の俺を見せるしかない。それだと二人っきりという俺が望む状況は無理だ。
二人っきりで、あいつといたい。釣りには興味はないが、二人で並んで座っていられる時間のために、俺は早起きして電車に乗る。二人っきりで、いいとこ見せるために、朝早くからこっそりサーフィンを練習もする。
らしくない自分も許せるほど、いつから、どうして、こんなにも好きになったのだろう。しかも男のあいつを。
高三のインハイ予選で湘北に負けた陵南を見て、あいつを全国で見たかったと強く思った…。あれがもう既に自分らしくない、普通のプレイヤーに向けるものではない感情だったようにも思えるけれど、ならばその前に奴に俺は惹かれていなければおかしい。
では、いつ俺は、たった数回しか会っていない、会話も数えるほどしか交わしていないあいつに興味を抱いたのだろう…。
何度も繰り返してきた自問。はっきり論理的に過程も理由も未だに説明できない、感情だけが揺さぶられて形作られる自答は“仙道が好きだ”という、堂々巡りなものだけで。

胸いっぱいに潮風を吸い込む。大きくそれを強く吐き出す。

─── 好きなものは好き。 それで、いいさ。

理由を明確に述べられなくたって、こうして自分から動いてしまうほど好きになれた奴が出来た。それが嬉しいから。
ずっと苦手だと思っていた恋愛というものを、自然と望んで優先してしまう自分に変われたのが、照れくさいが、悪くないと思えるんだ。
俺だって人を本気で好きになれるんだって、そんな当たり前のようでいて俺には出来ていなかったことを、今俺は体験している真っ最中なのだから。

砂を払い落として車に乗り込む。カーステレオから気持ちのいい音楽が流れ出す。
牧は小さく曲にあわせ鼻歌をうたいながらハンドルを握った。


* * *


家へ戻ると牧は小声で「ただいま〜…」と様子を伺うように呟きながらドアを開けた。居間の奥から恭二の「遅い!」という返事が飛んできた。
二階の自室へ真っ直ぐ行くのをやめて、牧は居間へと長身を少し丸めるようにして入っていった。

食卓テーブルの上には食べ終わったあとの皿と、牧の分らしい朝食が置かれていた。今朝はトーストとベーコンと卵と…
「飯ばっか見てないで、今日の波はどうだったかくらい言えよ〜」
「ん。良かったぞ。肩くらいかな。父さん達は?」
「兄ちゃんとタッチの差で出たよ。今日は二人とも遅いんだって。なぁ、カフェラテは?手ぶらに見えるんだけど?」
「…あ。すまん、忘れてた」
「なんだもよもう〜。最近兄ちゃん、冷てぇってば。スポーツしてる時以外はボケてんの昔からだけど、最近の酷さは何だよ。恋愛ボケしてまーすってな顔しちゃってさ。あ、零すよ、危ないって」
牛乳をコップに入れている時に自分の方へ顔だけを向けてきた兄へ慌てて恭二は指をさす。が、言った矢先に牛乳はコップから溢れてトーストに零れた。
「ナイスキャッチ」
「違うって兄ちゃん!!パン牛乳浸しにして何言ってんだよっ。うへ〜、それ食うの?もう一枚焼いてやろっか?」
「皿から零れてないからいいじゃないか。どうせ腹に両方入れるんだ。新しいの焼かなくていい」
牧は箸でびしょびしょでふにゃっているトーストをつまんで口に入れた。流石に冷めたトーストに溶け切らないバターと冷たい牛乳浸しは美味しくないらしく、ちょっと眉間に皺を寄せながら咀嚼していた。

兄が不味そうに朝食を食べ終えた頃、弟はまた居間へ戻ってきた。白いポロシャツから伸びる自分より細い腕を見て、牧は声をかけた。
「また黒くなったか?それと、痩せたか?」
「体重変わってないよ。日焼けはねー、そりゃするさ。兄ちゃん大会終わるまで白くなってたよね。最近戻ったけど」
「…お前だけだ、そんなこと言うの。最近なんて部活の奴等に『焦げてる』って言われてる」
かなり不満げな声音とは違い、牧の表情はそれほどでもなかった。昔から言われ慣れているのだろう。恭二は軽く笑うと、兄のシャツから出ている、引き締まった筋肉に覆われている逞しい腕を触った。
「すっげー腕。兄ちゃん、また筋肉ついたんじゃない? いいなぁ〜」
「くすぐったい。やめろ」
手を軽くはらって牧は立ち上がるとキッチンへ皿をさげにいってしまった。
「兄ちゃんさぁ、何もサーフィンでカッコイイとこ見せなくたっていーじゃん。海で二人で泳ぐだけで十分だと思うよ?そのマッスルボディでイチコロ楽勝じゃんか。弟の俺が言うのもなんだけど、サーファー仲間ん中で兄ちゃんほどいい体、なかなかいないよ?すっげーセックスアピールで、これに参らない女なんていないって。今までだってそーじゃん。最強の武器だよねーそのマッチョボディ」
キッチンから戻った牧は困ったような顔をしていた。何故そこで困るのかと、不思議そうに恭二は首をかしげてみせた。
「…マッチョって言うな、馬鹿。それに今回は体は武器にはならないんだ」
「なんで? あ、もしかして今度の彼女はビジュアル系が好きとか?」
「まだそんな関係じゃないし、そういったことじゃない」
牧の返事に恭二は一瞬固まった。それからゆっくりと両腕をあげ、兄よりも明るい頭髪に両手を乗せた。
「じゃ、どんなこと?まさか兄ちゃん、自分から惚れたとか言わないよね? えっ?ええっ??何その苦虫を噛み潰したような顔。嘘だろ、えー?でもそんなら一人で練習してるのも頷けるけど…って、ええええ〜??」
「煩い。ほっとけ。ほら、もう出ないと遅刻するぞ」

大仰に一人で騒いでいる弟をその場に残して牧は自室へ戻ろうと背を向けた。その広い背に15cmほど背の低い恭二がしがみつく。
「お兄様〜車で学校まで送って〜。お兄様の恋に俺、超絶協力してあげるからさ〜」
「協力無用。甘ったれるな」
胴震いをしてあっさりと恭二から離れると牧は階段を昇っていった。階下から弟の情けない声が飛ぶ。
「だって今からならノンストップで走らないと間に合わないって!」
「走れ。脚に筋肉足せるぞ」
「…カフェラテ、買ってきてくんなかったくせに〜」
ムスッとした声に牧の足が止まる。もう一声だとばかりに恭二は少々演技くさげに続ける。
「こないだだって誘っても友達と会うからって一人で出かけちゃうしさ。二人しかいない兄弟なのに、冷てぇよなー」
母の口癖である『二人しかいない兄弟』を持ち出されると弱い牧を知っていて恭二はわざとそこにアクセントをつけた。
牧は仕方がなさそうに口元を少しだけ曲げると階段を下りてきた。恭二は嬉しそうに万歳のポーズをとってみせた。


* * *


中学校へ恭二を送り届けたあと、まだ二講目が始まるには早かったが牧はそのまま大学へと車をまわした。家に一度帰っても間に合うが、免許取立ての身としてはゆったり無理のない運転をすることを優先したのだ。
何事もバスケ同様に反復練習が必要だ。そうしてしっかり良い意味で慣れてから…。
そこまで考えて少し頬が熱くなるのを感じてクーラーをちょっと強めにかける。

いつか隣に仙道を乗せて、二つのボードを積んで、ちょっと遠くまで一緒に行きたい。波がなかったらを考えて、釣りの道具を積んでもいいな。

夢をみるのは自由だ。だからあいつが俺に抱いた興味が、例え純粋に友達としての興味であっても、勝手に俺の求める興味であることを今だけは夢みよう。この車で二人で遠出して、長い時間を過ごす夢だってみるのは自由。あいつの白い頬を俺の両手で包むのも、その唇に触れることを夢みるのも…。

想像しただけで胸が甘く痛む。日曜日が楽しみで楽しみで、じっとしていられないような感覚。今夜もしっかり天気予報図と波情報をネットで調べよう。明日も波があるようなら、乗ってから学校へ行こう。
本当は朝にライディングしてから講義をうけて、その後に部活をすると体力的には流石にキツイのだけれど。海で頭を冷やしたり、体をしっかり疲れさせて速攻で眠りにつかないといけないから。
…いくらみるのは自由な夢であっても、みすぎるとどんな顔をして会っていいやらで困るからな。


駐車場で数回ハンドルをきってようやく綺麗にとめた。まだ駐車は得意じゃないから時間がかかって少し疲れる。
車から出ると朝よりも雲が増えていた。夜には一雨きそうか…と思った時、何故か理由もないのにふいに不安な気持ちが少し胸に影を落とした。
車の鍵をポケットに突っ込んだまま、牧は不安げに少し下唇を噛んだ。

─── 会いたい、お前に早く。日曜日、頼むから他の予定なんて入れてくれるなよ。







*end*




勝手なオリキャラの弟登場。本当はオリキャラって嫌いなんだけど、牧って弟とかいそうだなーと思って。
牧が運転してくれるなら、私は免許取りたてでもかまわないから助手席に乗りたいです!!(笑)

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