Sanctuary


玄関を出た牧を待ち構えていたのは仙道だった。いつかはこうして来るだろうと思っていた牧は驚きもせずに仙道の前を通り過ぎた。
当然のごとく仙道はその行く手を阻むように前へと回り込んで狭い道を塞ぐ。
牧は顔を上げないまま仙道の隣を無理に通り過ぎようと手で少し仙道の体を避けるような仕種をした。もちろんそんなことで仙道は動かない。
「…どいてくれ。通れない」
「通らせないつもりです。あんたが俺の目を見て返事をくれない限りは」
「返事は、あのままだ。変わりない。どいてくれ」
「嘘の返事でいつまでも我慢していられるほど俺は暇人でも呑気でもないんです。本当の返事、目を見て言って下さいよ。じゃなきゃ、よけない」
牧は頑なに仙道の目を見ないまま立ち尽くしていたが、黙したまま家へと戻る道へ歩き出した。その腕を苛立たしげに仙道が強い力で掴み止める。
「ズリィよ、あんた…。なんでだよ。なんで『無理だ』なんて…何が『友達のままでいさせてくれ』だよ。ふざけんのも大概にしてくれよ」
抑えていた怒りがいつもより何オクターブも低い声に満ちている。そして怒りの倍以上の苦しみが溢れていた。
本気で振りほどく気もないのか、牧はゆるく掴まれた左腕を振る。疲れ切った仕種。
「ふざけてない。こんなところで話を蒸し返す気も…。いや、場所は関係ないか。もうあの話を繰り返す気はない。俺の返事は変わらない」
「だからそれがふざけてるって」
ゆっくりと向けられた牧の表情に仙道の言葉は止まった。初めて見る、生気の欠けた牧の顔に。心なしか頬に落ちる影すら深く感じられた。どこを映しているのかも分からない淀んだ瞳のまま、牧は小さく呟いた。
「殴りたいなら、殴れ。そしたら帰ってくれ。話しがしたいなら、ここじゃないところでしよう。ここは…寒い」
まるで病人と話しているようなほど、力のない声。本気で仙道が今の状態の牧を殴ったとしたら、そのまま立ち上がれなくなるようにも思えた。もちろん殴りたいわけでわざわざ牧の家の前まで来て立っていたわけではない。
「あんたのとこにあげてくれる気ないんなら、俺んとこ、来ますか?それとも喫茶店?人に聞かれたくないなら…どっかあんたが決めてよ」
くっ…と牧が口の端だけで笑った。仙道の眉間に皺が刻まれる。
「人に聞かれたくない話になるなら、俺だって聞きたくなんかないな」
「…挑発して俺にあんたを殴らせて終わらせようだなんて、くだらねぇ手にゃ乗ってやれる余裕はねっす」
「駄目か」
「駄目です」
仕方がなさそうに首で先を促すと牧は歩き出した。先ほど行こうとしていた道を。今度は仙道も大人しく牧の後をついていくように足を向けた。


三週間前に仙道は牧に告白した。最初はただのバスケでの知人。仙道が高校二年のインハイ予選から互いに相手を意識するようになったのがきっかけ。ただそれは純粋にバスケの好敵手というだけでだったが、気づけば『自分の隣にいるのはこの男』と思うほどにまで近しい間柄となっていた。
数年の年月、高校も違えば大学も違うというのに、忙しい日々の中で作れた時間はほぼ全てに近いほど一緒に過ごしてきた。今更告白などしなくとも、仙道は牧は自分を拒まないと確信してはいた。しかし同じ男として、いや、男だからこそ言わなければいけないと思ったのだ。本気の恋だと信じたから。
先輩後輩ということを踏まえながらも友達と親友のステップは気づかぬうちに二人は軽々と踏んできた。
しかし恋人という次の段階は…仙道の予想を遥かに裏切る形で今現在に至る。牧がはっきりと先ほど繰り返した言葉と一言一句違わない言葉を残して帰って以来、連絡を取らせてくれなかったからだ。


住宅街を抜け随分歩いた先に、公園とも呼べない、朽ちかけたベンチが一つだけある場所が見えた。仙道は一度も来たこともないその淋しげな場所を何故かふと懐かしく感じた。誰もいない場所。まるでそこは自分が牧と並んで歩ける仲になるまで一人でいた場所のような…。
右手では濃い常緑樹が冷たい風にざわざわと鳴っている。左手の遠くには大きな廃屋が一軒。正面の遠くには線路とパチンコ屋の駐車場。どれもがこのベンチからは遠く、誰の声も届かない。代わりに自分達の声も届かない。話をしたくないと言ってはいたが、やはり牧もまた話をすることを前提でこの場所を選んだのだろう。ならば、もう遠慮はいらない。
二人はベンチへと腰を下ろした。

薄曇の空が寒々しい。春の少し冷たい風がふきっさらす。牧の住む一人暮らしのマンション前などよりもっと寒かった。牧は自分の体を両手でさすりながら、また小さく「寒い」と言った。それでも仙道は牧が切り出すのを根気良く待った。それほど冷たすぎる風でもなければ、牧の服装も仙道と大差がなく特別薄着というものでもない。だから仙道は待った。
とうとう根負けして牧が口を開く。
「お前が望むような答えなんて、俺は探せなかった。男同士で付き合うなんて…無理だ。今まで通りで、いい」
スッと牧は立ち上がり、片手を軽く上げて
「話は終わりだ。寒いから帰る。こっからなら駅までそう遠くないから一人で道、分かるだろ」
と、話を切って去ろうとした。その背に仙道が叫ぶ。
「さっきよりもっと寒い場所を自分で選んでおきながら、んなつまんねー理由で逃げんのかよ!!寒いのなんてあんた一人だけだ!!」
言うなり牧を背後から抱きしめ、そのまま強引にベンチへと座らせた。
「触れよ、俺の頬に。俺が寝たフリこいてる時に触った時のように。俺の熱でその冷え切ってがらんどうな体、あっためたらいいんだ。そのままじゃどこへ行ったってあんたは寒いままだ。分かってないんすか?寒い理由なんて一つしかないってこと」
驚いたように牧の目が一瞬見開かれたが、すぐにそれはそらされた。そのまま視線は膝の間に組んだ手の上に落ちる。
「別にあれは、ただ頬にゴミがついてたから取ってやっただけだ」
「嘘まで下手になったね。つか、もともと下手だよね。何回俺は頬にゴミつけて寝たフリこいたっての?」
眉間に皺を刻んだまま牧は疲れたように瞳を閉じてため息だけを返した。

厚くたれこめている雲は流れているのかいないかも分からない。だからどれほどの間、そのまま二人は黙していたかも分からない。
けれどまた一つ寒そうに身震いをした牧を見て、仙道は観念して語り始めた。
「あんたが返した『無理だ』って、らしくない言葉はね。すっげぇ残酷だと思わねぇ?嫌いとか気色悪いとかの方がよっぽどマシだよ。無理だって言葉の足りない部分、俺が補足してやるよ」
「…してくれなくていい」
「そういう時だけ返事しねーでくんねっすか。いいから、聞いて。補足はこうだよ。『仙道と恋人同士にはなれるけど、周囲が許さないし、仕事上でもバレたらコトだ。隠し通せないから、無理だ』っていう、あんたの得意なつもりの詭弁。大人のフリさ」
軽く肩をあげて馬鹿にするように棘を含ませた言葉を投げつける。しかし牧は先ほどと同じようなゆっくりとしたペースで口を動かす。
「27歳が子供と言い逃れできる年か…。一つ下とはいえ、お前だっていいかげん子供のままで」
「違うね。俺は子供なんかじゃない」
少し強い口調で牧の台詞をねじ伏せるように続きを奪う。
「少なくとも俺はあんたより大人だよ。自分で大事なものを選択して、それを得ようと動ける。それがあんたはどうさ。子供だよ。好きな子をこうして答えを無意味に伸ばして苛めてるんだ。んで、好きなのに周りの人に付き合うと怒られるからって泣きながら手放すだけの無力なガキさ。そしてトラウマになんだよ。いつまでも忘れられないでその幻影だけを空しく抱いてくんだ。年数たったらたったでそれが大人の判断だとか思い込んで一人悲劇のヒーロー気取り。カッコ悪いね」
フンと鼻でせせら笑ってみせた。これに乗って彼が自分の心中を激昂にまかせて吐露してくれと願って。

しかし牧は全く反応らしいものは見せなかった。こんなもので心中を暴露する楽な男ではないことが、普段は頼もしい限りではあるが、こういう時は難しく大変でこちらが困るばかりだ。続けたくもない用意してきた批判の台詞を続ざるをえなくなる。
「今までみたいにずっと友達ってスタンス保って何がいいんだよ。ねぇ。あんたの腹は何さ」
「……恋愛はいつかは終わる。友達なら…ずっと一緒に笑っていられるだろ」
「あんた、バカ?ひょっとして少年漫画オタク?ありえねぇ。友達って永遠だとか言ってる少年漫画をマジ読みしてんの?そのうち『ボールは友達だ!』とか言ってバスケットボールに話しかけたり?」
睨まれるかと思ったのに、向けてきた牧の瞳は暗いだけだった。哀しみで仙道の胸がきしんだ音をたてる。いつまでこんな瞳の牧を見ていなければならないのか。隣に自分がいるというのに。
「恋人、夫婦、友達。全部永遠に続くものなんてないし、全部壊れるもんでもないんだよ…?」
隠していた哀しみが声にとうとう混ざってしまい、そんな自分が悔しくて仙道は下唇を噛んだ。けれどその哀しみが仙道の意図と反して牧の瞳の色を変えた。暗さの中に困惑と動揺が揺れはじめたのだ。
「今、俺を無理やり捨てて…今までと同じような友達関係続けれるなんて、ホントはあんただってできないこと、知ってるんでしょ。それでも夢みてるの?牧さんや俺がこの先なんとか空っぽな胸を隠して作り笑顔でつるんで、お互い潮時ってことで女と結婚して。そんで妻って名称の女を抱きながら頭の中で俺はあんたを、あんたは俺を…」
仙道よりも薄い色素の瞳に涙が浮かんだ。零れて頬は伝わなかったが、仙道の言葉を止めるには十分すぎるものであった。
「そうだ。そして子供を作って、良いパパと呼ばれて、たまにお前と家族を交えて晩飯食ったりするんだ…よ」

両手で牧は自分の顔を覆ってしまった。泣いているわけではないのか、ただ静かに両膝に両肘を乗せて俯くように顔を覆っている。
逃げ場もなにもない…。もう牧は形ばかりのポーカーフェイスを保つこともできない自分を仙道から隠した。隠すしか、なかった。
その肩にそっと仙道は手をかけて、静かにさすってきた。冷え切った牧の体には仙道の手から伝わる熱だけがすがれるもののように感じていた。そしてそれは叶えてはいけないことなのだと苦しいほど求める自分を律していた。
「…寝言は寝てからいいなよ。あんたがそんな器用なことできるわきゃないじゃん。夢と現実の区別もつかない、動く事も忘れた呆けたガキが、いくら年数経ったってそんな器用にも鉛の心臓にもなれるわけないって。考えてもみなよ。そうなったら傷つけてるのは自分だけじゃなくなるんだよ?その女達だって、産まれたらその子にだって、心で裏切ってくんだ…負い目は増える一方さ。…耐えられるわけない。それこそ、マトモじゃない。俺ですら無理だって分かるよ…」
キツイ内容の言葉なのに、撫でる掌の優しさと同じほどやさしい仙道の声音が、なじられるよりも牧の心を締め付ける。
「随分好き放題言ってくれるな…。お前の言ってることだって、思い込みの激しいガキととどう違うんだ?」
「思い込みじゃねぇし、俺のはただの夢物語じゃないから。だってあんたは俺が好きで、俺はあんたが好き。なのに親兄弟を哀しませるし許してもらえないとか、世間に知られて後ろ指さされるからだとか、周りばっか考えて、耐えるのが大人だって思ってるの、それこそが間違った思い込みじゃん?」
「…俺はお前が好きだなんて、一言も言ってない」
グイッと仙道は牧の肩に置いた腕を引いて強引に自分へと顔を向けさせた。褐色の頬にはやはり涙の痕などはなかった。あったのはただ、困惑と疲労と…そして救いを求めている悲哀が宿った、見たこともない牧の弱々しい瞳だった。
「あんなふうに俺の頬を撫でておいて、よく言うよ。愛もなくあんたが男の頬をあんなふうになぞれるほど、あんたは酔狂でも暇人でもない。あんたに触れてほしくて俺は何度もあんたより寝付きがいいフリをしてきた。眠りが深いフリをしてその手に擦り寄った。覚えているだろ?自分がしてきた行為を。洗いざらしのぼさぼさの俺の髪を何度も愛しそうに撫でたのかも」
牧の頬に初めて仄かに血が上った。その様子にやっと仙道は胸で安堵の息を吐く。生気のなさ過ぎる弱りきった牧が哀し過ぎて怖かったのだ。
「…汚ねぇぞ。人を騙してたのかよ」
「ああ。俺は汚い大人だから。あんたに触れてもらえるんなら、騙すのなんざお手の物さ。良心の呵責なんて、あんたの指が奏でる愛の動きに速攻吹っ飛ぶからね。俺は好きな人が与えてくれるものを素直に手を伸ばして感謝して受け取れる大人なんだ」
肩を掴んでいた仙道の手をそっと外す。そして今日、初めて牧は微笑んでみせた。──とても儚く、今にも消え入るほどに淋しく。
「なら、大人のまま…そのまま騙し続けてくれ。俺も……騙され続けたいから」

限界だった。抑えていた激情が一気に仙道の全身を焼き尽くすように覆う。両腕で牧を痛いほどに抱きしめる。
「最初は俺も思ったさ。これ以上望んだらバチがあたるってさ。そのバチってのはあんたが今なおビビッてることと似たようなもんかもしんねぇ。けど、それじゃ俺がもう限界なんだ。触れてもらえるだけじゃ耐えられない。俺からももっと触れたい。抱き合いたい。布越しなんかじゃ耐えられない。欲しいんだよ。分かるだろ?あんただって同じになるよ、すぐに!!胸が裂けちまうんじゃねぇかってくらい、強く!!無理強いしたくないから、告ったんだよ。あんたがこれほど大事じゃなかったら、俺なんてろくでなしなんだから、無理やり押し倒して体だけとっくに奪ってるさ!!」
きつく回された腕も、包まれたあたたかい胸も、肩に当たる仙道の頬も震えていた。それでも牧はその背に己の腕を回せない。
この胸が叫ぶ強さで仙道に腕を回せば、仙道の将来まで抱き潰してしまうはずだから。この、燃えるほど痛い腕がこいつを焼き尽くしてしまう気がするから。
そんな牧の胸中をよそに仙道の必死な言葉は止まらない。
「言わせないでくれよ、俺に!!あんたが本当は俺よりも親兄弟、世間体を大事に思ってるだなんて情けないことを!!あんたが寒いのは、あんたの胸がからっぽになったからだろ。俺がいなくなった胸を抱えて生きて、何が豊かな人生なもんか。そんな目をして。そんな顔して笑って…。あんたは俺だけは捨てちゃ駄目なんだ。分かってくれよ…早く…」
漏れそうになる嗚咽と涙を痛みとともに飲み下して、仙道は目をつぶった。
「これ以上…俺の口から牧さんを責めさせないで…下さい」

最後のほうは疲れたように声が小さくなっていた。そのままずるずると仙道の両腕が下ろされて、また牧は寒さを感じる。
「仙道…。俺は…馬鹿なガキだから…。一番好きな奴を好きと主張して、それ以下ではあっても好きの範疇にある人達を傷つけて、その挙句そういった周囲…ひいては社会から一番好きな奴がさらに傷つけられるような気がして怖いんだ。社会的な立場上の不利益ってのは、想像よりも甘いもんじゃない。俺が我慢したら…時が経てば一番好きな奴はもっと楽で幸せな道が得られるかもと思ってしまうんだよ。お前が思ってくれるほど、俺は強くないから…守りきれないかもしれないだろ…」
「何言ってんの。強いよ。俺なしでそんな辛そうな状態で年数経つのを待とうなんて思えるほど強いよ。俺なんてね、弱いからあんたなしでこの先一秒たりとも生きていけるなんて思っちゃいない。あんたなしのからっぽな状態の自分なんて、自分じゃねぇし。それにね、弱くて何が悪いの?傷つけられたらどうして駄目なの?傷ついたって治せばいいじゃん。痕が残ったっていいじゃんか。つか、傷つかないようにしていけるように二人なら頑張っていけんじゃねぇの?弱いって分かってるから強くなろうともがけるんだろ。あんただって、産まれてすぐに帝王とか言われたわけじゃないでしょうが。牧さんも俺も、血の滲むような努力が今の地位にいさせているんだ。違う?」
「…何でもバスケと一緒にしないでくれ」
「うん。バスケとは違うよ。だから二人一緒に、二人で強くタッグ組んでいかなきゃ、それこそ敵はコートの上っていうルールの範疇のもんじゃないし、その手強さたるや、さしものJBL二枚看板の帝王と天才もビビらすもんなんだから。そうだろ?」
くすりと牧が笑った。困ったようにではあるが、ようやく淋しさは消えていた。
「勝負はやってみなきゃ分からない。案外、取り越し苦労で終わるくらいあっさり上手くいっちゃうかもよ? ね。勿体ないじゃん。努力も苦労もする前から投げ出すの、俺もあんたも向いてないと思わねぇ?何もしないで捨てちまえるほど、俺も牧さんも安いもんじゃないぜ?」
仙道が不敵に笑ってみせる。それは試合前にコートで対峙する時に見せる、牧が一番好きな笑み。これに牧はいつも口元でこれまた不敵に笑って返すのが、二人の勝負前の暗黙のお約束。
「さぁ、俺は闘う準備はいつでもO.Kっすよ。ウォーミングアップの時間はもう何年も二人でとってきたし。これからはダブルチームでいくんだから。笑って。いつもの試合前のあの顔を見せて下さい」


重く垂れ込めていた雲間の数箇所から細く光が射して来ている空を、牧は何度も瞬きを繰り返しながら見上げた。
あきらめることが守る事だと思っていた。我慢することが愛することだと思っていた。自分の弱さに酔っていたような気がした。
石橋を叩いて渡る。俺はその石橋ごと叩き割ったというのに、こいつは泳いで俺を捕まえにきやがった。そして俺を河に引っ張り込むんだ。その熱い掌を差し出して一緒に泳いで昇ろうと笑うのか。一緒ならどんな激流も越えられるという可能性をかざして。

何度も褐色の咽が上下しているのを仙道は黙って強い瞳で見つめる。
その動きが止まってようやく牧は仙道へとしっかりした瞳を向けてきた。涙で潤んだ、美しくも強い仙道と同じ瞳を。

「もう一度、三週間前の台詞。覚えているなら…言ってくれないか」
「…『一緒に、なろ。俺の恋人になって。んで、将来は生涯のパートナーになって下さい』」
「『無理だ』」
「二回もプロポーズさせといて、同じ否定されたら、流石に凹みますよ…」
「続けてくれ」
「…『そんな返事はいりません。はい・うん・YESのどれでもいいですけど』」
ふわりと仙道の頬に牧の指が触れてきた。そしてゆっくりと優しく数回撫で上げる。いつも寝たフリの時にだけにもらえる愛しさに満ちた動き。
いつもはそのまま静かに離れていくのに、今はそのまま頬に指は添えられている。そうして初めて触れてくる、唇。


涙が仙道の頬を静かに伝った。その涙を牧の舌がそっとぬぐうようになぞる。
「お前、相変わらず変な奴だよな。普通はふられた時に泣くもんだろ。前は泣かなかったくせに」
鼻をすすりあげてから仙道は唇をとがらせてふて腐れる。
「…前のはふられたんじゃないもん。恥ずかしがって返事焦らされただけだから、腹がたっただけ。牧さんこそ、ふった人が泣いてるのがおかしいよ。それよか、返事まだもらってないっすよ」
「俺は泣いちゃいない。…まだ返事にこだわるか」
「こだわります。ここで言葉で確約とっとかないと、また何かと焦らされそうでヤですからね」
とがらせていた仙道の唇に牧は再び唇をそっと触れさせ、唇の形で答えた。触れた唇の動きが紡いだ短い返事が歓喜の涙をまた仙道の瞳に溢れさせる。
「…これでもまだ、駄目か?」
試合前のあの不敵で鮮やかな笑みが牧の口の端に浮かんでいる。久しく見ていなかった、仙道が大好きなその強気な笑みに、また涙が滲む。
「ま…牧さぁん〜。俺、やっと嫁さんできた!!苦節8年?もっと??いや〜長かったぁー!!」
「誰が嫁さんだってんだ、バカヤロウ。しかもそんなに前から尻に敷かれたかったのかよ」
「うんうん。牧さんになら尻だろーがなんだろーが、昔っから敷かれたいし、敷きまくりたいし。ああもう、なんだっていいや!!」

暫くの間、仙道は牧の顔中にキスの雨を降らせ、牧もまた恥ずかしそうにそれを返してきた。
そしてやっと仙道の涙が乾いてから二人は立ち上がった。
「…あ。あっちの方に晴れ間が出てきましたね」
「ああ。そうだな。風もやんだ」
「もう寒くないですか?」
「寒くない。…お前が胸に戻ってきて、熱いくらいだ」
一瞬ぽかんとした表情で突っ立っていたが、次の瞬間には仙道の顔は燃えるような熱におかされてしまった。
「ま、牧さん!!どんな顔して今の台詞言ってくれたの??見てなかったよ俺。もう一回プリーズ!!」
「誰が二度言うか。帰るぞ」
早歩きで一人歩き出した牧を慌てて仙道が追って背後から抱きしめて足を止めさせる。
「ズリィよ〜俺には二回もプロポーズさせたくせに〜」
「俺は子供だから我がままなんだ」
「あ。まだ根に持ってる。そういうの年寄り臭いって言うんですよ」
「煩い。年寄りでも子供でも大人でもどうでもいい。帰るのか、帰らんのかはっきりしろ」
「牧さんの部屋になら、帰ります。当然、牧さんの家ですよね?」
照れ隠しなのか本当に困っているのか、牧はまだ赤みの残る頬をカリカリとかいた。
二人っきりで室内に篭れば、結論が出たばかりの二人のしそうなことは、いくら恋愛ごとに鈍い牧にも軽く予想はついた。…この場合は、誘ったのは俺になるのだろうか?
「牧さん。返事は、はい・うん・YESのどれかしかないんだから、さっさと言って下さい。じゃないとここで押し倒」
「それ以上言うな!!分かったっ、分かったから。うんうんうんうん、はいはいはいはいはい。さ、帰るぞ!!」
「いひひ〜。やっぱ最初っから青…痛ぇ!!」
「もういいっ!!お前は一人でずっとそこにいろ!!俺は帰るっ」
みぞおちに肘鉄をくらわして、耳まで赤く染めた牧は仙道の腕がずるりと外れるなり振り返りもせず走り出した。


本当はそれほど痛くもなかったけれど、わざと仙道はその場に倒れるように転がった。
雑草が頬にあたる。土と草の香り。春が、来たのだ。やっとやっと来たのだ。今年は桜も見ることもなく、ただ牧のことを思って耐えただけの日々だった。それは仙道にとっては春とはカウントされるものではなかったから。
じわりとまた嬉しさがこみ上げてきて視界が歪む。その頬に日差しを感じて仙道は大の字に仰向けになって空を見上げた。
雲の切れ間から太陽が覗き、その光が自分にもかかっていた。
昔、福田がこの光が射す様子を『天国への階段』といった。それを皆でロマンチストだと言いたいのを堪えたことを思い出す。
でも今なら分かる。これは愛する人の心がある場所へ向かう階段。牧さんの心にある特別な場所へ俺が再び迎えられた証。
気障だろうがロマンチストだろうがなんだっていい。今、再び開かれたんだ。あとはもう、駆け登って牧さんとそこでイチャコラしながら幸せに過ごすだけなんだ。大手を振って牧さんを守れるんだ。
空を──── 愛する者を抱きしめるつもりで両腕を伸ばし、叫んだ。
「俺は今日から世界一の幸せ者だー!!」


恥ずかしさのあまり仙道を置いてきてしまったが、大人気ないと判断して牧は足を止めて振り返った。
少しだけ坂になっている先ほどのベンチのある場所に仙道の姿が見えない。隠れる場所などなにもないところなのにと、牧は慌てて引き返した。真っ黒い、最近はほとんどみかけなくなった昔ながらのコールタールで塗り固められた小さなベンチが雲間から差し込んだ光に照らされはじめたのが見える。
雲間からこうして細く射す光を『天国への階段』と呼ぶと何かで読んだような気がする。死者の魂が昇って行くといった内容だった気がする。けれど遠目のせいか俺には幸せのスポットライトのように映る。だって光線の具合で黒光りして、あんなボロベンチが特別豪華な天国の椅子のように思わせるんだから。
それともそう感じてしまうのは、今までは辛い事や苛立たしい事があって、家でではなく外で一人になりたい時にだけ足を向けたあのボロボロのベンチが、今日からは特別な幸せの記憶を刻んだ場所に変わったせいだろうか。
もう俺は独りであの場所に行く事はない。そんな確信が胸に満ちる。行く時はいつでも、仙道が隣にいる気がするから。

早歩きだった歩調だったのに、いつしか牧は走り出していた。近づくにつれ草むらからにょっきりと伸ばされた仙道の長い腕が見え始めた。声をかけようと息を吸い込んだとき、仙道の恥ずかしい叫び声が聞こえてきた。
やっとおさまった頬の熱がまたぶり返す。
「…あんのバカヤロウ。そんなことを叫ばれて、のこのこ迎えに行けるか」
呟いてから遮断機の近くでしゃがみこむ。そしてまた両手で、今度は燃えるように熱い顔を隠しながら牧は呟いた。
「俺が今日から世界一の幸せ者なんだ。だからお前は、世界で二番目なんだよ…」



誰の心にも特別な場所がある。分厚く黒い扉が幾重にも覆う、弱い自分を守るため作り上げた場所が。
そこへ招き入れたいと願う人に気づき、入っていきたいと自分が切に願うのならば。
立ち上がり、靴を履いて、己の力で幾重にも重なるドアを開け。力尽きたらその日は休んでもいい。
けれどまた立ち上がり、そして次の扉を目指して走れ。
辿り着ける最後の部屋の中では、光が満ちる中で自分を座らせるための椅子を用意して待っている者がいる。

自分が信じた光──── 愛する者が手を伸ばして待つ聖なる場所。

走れ。 光が射す方へ。







*end*




B'zなんだかミスチルなんだか、自分でももうわけわかんないです(汗) たまには仙道も焦らされて
苦しめ〜と思って書きました。でも結局幸せ者(笑) このタイトルで花流バージョンもいつか書きたいにゃー。

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