It cannot lose.


練習は三時間前に終わり、自主トレをしていた他の数人も、今日は早く切り上げていった。
人がいなくなり広さと静けさだけが残る体育館に、守衛が鍵を閉めると言いにくるまで牧と仙道は壁に背を預け座っていた。

汗はとうに引き、冷えてしまった体を温めるためにシャワーを使った。体は温まったけれど二人の心に残る冷たいものは流せるはずもなく。
白々とした蛍光灯の一本がジジジ…とたてている小さな音と衣擦れの音だけがやけに耳につく。
「…行きますか」
「…ん」
牧がバッグからロッカー室の鍵を取り出し、閉める。二人以外誰もいない廊下。鍵を回す金属音が冷たく響いた。



一時間ほど前、自主トレをしていた数人が帰っていった後、スーツ姿の小池が休憩を入れていた牧の傍にやってきて、云った。
「今、監督に休み…もらってきました。あの…監督に、俺、牧さんに世話になってたのだから一言いっておけっていわれまして…」
他人行儀な、どこか頼りなげな瞳で放たれた小池の言葉に、牧は静かに小さく頷いてみせる。
「今はゆっくり休んだらいい。思い出せたら、すぐ報告してくれ。思い出せなくても…戻る気がおきたら、いつでも」
「はい。ありがとうございます…。あの、連絡先教えてもらえますか?」
仙道がゆっくり近づいてきた。にこりと小さく笑いながら。
「牧さんの連絡先も、俺の連絡先も、小池の携帯に入ってるよ」



時折やってくる車のライトが背後から照らすたび、仙道は強く牧の手を握った。いつもなら夜ですら外で手を握るといったことをさせない牧も、黙って握り返した。夜気だけじゃない寒さで二人の手は既に冷え切っていた。車道からなるべく離れるようにしながら歩道を歩く。いつしか肩が重なるほど寄り添って歩いていた。
握り合った手はいつもと違いなかなか温まらない。仙道は牧の手を握ったまま、己のポケットに手を突っ込んだ。牧は視線を寄越してはきたが、何も言わなかった。
いつも分かれなくてはならなくなる交差点。牧は迷わず仙道の歩く方向に足を向けた。


小池は二週間前、交通事故に巻き込まれた。外傷などは軽度ですんでいたが、頭部を強打したらしく、記憶障害になってしまっていた。
一週間ほど検査入院などをしていたが、今週になって職場復帰をできるまでになった。午前中数時間の仕事の方は、もともと大した仕事を与えられているわけではないためそれほど支障はでなかったが、肝心のバスケの方は…惨憺たるものだった。記憶が高校時代くらいまでしかないらしく、それ以降がすっぽり抜けているため、チームメイトの名も分からなければ、バスケのスキルすら高校時代とまでは言わないが、かなり低レベルまで落ちていた。
小池は牧と同期入社でもあり、明るい反面少し落ち込みやすい性格だったため、なにかと牧に相談などを持ちかけてきていた。仙道が入社してくるまでは、同じ新入社員同士ということもあり、よくつるんでもいた。そんなことももちろん彼の記憶からは綺麗に消えている。
学生の部活などとはわけが違う。戦力外となればスタメン落ちはもちろん、こんな状態では練習参加すら足手まといで。記憶が戻るのが先か、体がバスケを忘れるのが先か。答えは誰にも、本人にすらも分からなかった。どちらにしても、今は休部届けを出すしか小池には選択肢がないだろう。そしてそれが長引けば…バスケの腕を買われて入社した職場。まだ若い彼の居場所は…なくなるのは目に見えていた。


仙道は部屋に入るなり牧を抱きしめた。牧もまたすぐにその背に腕を回して強く抱きしめる。すがりつくかのように。
「…泣いて、いいんですよ」
牧は仙道の肩に顔を埋め、頭を少し振った。
「泣いていいのは俺じゃない。家族や恋人…と、小池自身だろ」
「そんな決め付ける必要ないよ。あんただって俺だって。失くされてしまった思い出があるんだ」
じんわりと牧の肩口が湿っていく。その温もりに押されて、牧もまた仙道の肩を湿らせてしまう。
「怖い…ものだな」
震えているような牧の声音に黙って仙道は頷く。

怖かった。今までずっと意識せずに積み重なってきた日々が、意図せぬことで抜け落ちる。それによって失うものの大きさ。
記憶を失くした方も、失くされた方も。深く関わってきた間柄であればあるほど、その苦しみは計り知れない。何を失ったかも気づけない怖さ。取り戻せるかも分からない不安。悲しみと不安と恐怖だけが胸を凍らせながら締め付けていく。

少し濡れている目元もぬぐわずに牧が面を上げ、仙道の頬にある涙の跡に口付けた。そのまま、互いの唇にともるわずかな熱を貪りあうように二人は唇を重ね合う。
忘れられてしまった寂しさではなく、今はもう、ただ不安と恐怖だけが二人の頬に新たな涙を伝わらせた。
子供の頃、理由もわからない漠然とした恐怖に布団の中で泣いた夜があった。今の二人はまるで無力に怯えるただの子供だった。

忘れないで 忘れない 忘れたくない 忘れさせないで
叫びだしたくなるほどの不安。例え互いに忘れないと叫んだとしても、誓ったとしても。どうしようもないことが起こり得るという恐怖。
思ってもいなかっただろう。思いつきもしなかっただろう。そんな悲劇が己の身に降りかかるだなんて。
予測もできない恐怖と、記憶を持っていられるという平凡で、それだからこそとてつもない幸せに叩きのめされてこの腕を解けない。

「抱きたい。抱かせて。お願いです」
嗚咽を耐えているような声。冷え切った体も心も悲鳴をあげている。
『抱いてくれ。離さないでくれ。頼むから』
牧の返事は咽に詰まったまま、声にはならなかった。それでも腕に込めた力が仙道に伝えていた。


何もかもなかった。記憶にも体にも刻み付けたくて。刻み付けられたくて。
それすら失くしてしまうとしても。刻み付け合える今があること。それだけを今、心を埋め尽くしている闇に灯す小さな灯火にしたいから。
求める相手を得られたことも丸ごと、刻みつけなければ。戸惑ってる暇なんて、ない。




牧は目蓋をこすりながら呟いた。
「…もうお前に抱かれるの、避けない。変わるのが怖いだとかくだらないことを考えるのは止めた。ぐだぐだ考えるのは元々性に合わんし」
仙道は静かな笑顔を牧に向けた。
「うん。そうして下さい。俺もじっくりいこーかって思ってたけど、人生、いつ何が起きるか分かんねぇ。できる時にできる事しておかなきゃ」
ゴロリと体を半回転させて、仙道は長い腕を牧の体に巻きつける。
「俺はあんたが記憶をなくしたら、俺はあんたの恋人だってこと、思い出させるために何でもするよ。仮に思い出さなくても、絶対俺に惚れさせる」
「凄い自信だな…」
「そうじゃなくて」
「いや、分かってる…。すまんが、宜しく頼む」
真顔で頭を下げられて、仙道もつられて頭を下げてしまって苦笑した。

「そのかわり、約束して。もし俺が記憶をなくしたら、同じようにして。絶対牧さんは『このまま俺が耐えれば、こいつは真っ当な人生を…』って勝手に思っちまいそうなんだもん。どう? 当たってるでしょ?」
こういう時の牧は本当に嘘がつけない男で、目が困ったように少し泳いでいた。
「同性同士でこうなってるのが世間的にゃ普通の幸せじゃないようだけど。違うでしょ。俺の幸せも牧さんの幸せも。俺たちの幸せは二人でこうしていられることなんだ。あんたが俺を想って、俺があんたを想って、そうして生きていけることなんだ。片方じゃもう駄目なんだよ。あんたもそれが分かったから、もう拒まないって言ってくれたんだよね…」
諭すように穏やかな声音が、牧の涙腺を直撃した。再び溢れそうになる涙を見せまいと、慌てて牧は仙道の腕から逃れようとする。もちろんそんなことを仙道が許すはずもない。強い力でより深く引き寄せられた。
「いいってば、涙くらいみせてよ。それより、約束して。思い出させようと頑張るって。頼んますよ」
「………おう」
照れてしまってバツが悪そうな牧に、仙道はいつものような軽い笑顔を向けた。
「まぁね〜、どうせ俺なんて、放っといたって勝手にまたあんたに恋しちゃうんだけど。そん時は焦らさないでOKして下さいよ。緊急時なんだから」
仙道は片眉を上げて少しおどけてみせた。牧もまた同じように片眉を上げ、困ったように笑った。


何度でも、恋に落ちてくれ。
何度でも、恋に落とすから。
何度でも、奪ってくれ。
何度でも、奪いにいくから。
今、この腕の中にいる君だけを。




数日後の昼休み。特別な日でもないのに仙道からプレゼントを渡された。今開けてみてというので、牧は大人しくそれの包みを開いた。
「…洒落た名刺ケースだな。ありがとう、使わせてもらうよ。…? なんだこれは?」
30枚ほど中にはピンク色の名刺らしきものが入っていた。引き出してみると、仙道の顔写真が印刷されたカード。そこには赤い太文字で『牧紳一専用緊急連絡先』と書かれたあとに仙道の住所と携帯番号。
「何って、緊急連絡先カード。こーいうのはアナログじゃないとね。これなら記憶なくしてもあちこちに入れておけば、絶対俺に速攻連絡するでしょ。こんなの見たらただならぬ関係だってすぐ気づくと思ってさ」
俺も色々考えたんすよあれから。なんかいい方法ないかなーって、などといいながらへらへらと仙道は笑った。牧は真っ赤になると、一枚を名刺ホルダーに残すと、残り全部をいきなりゴミ箱に捨てた。
「あーっ!!何すんですかっ。特注で作ったのに!! 高かったんすよ!! これって特殊加工されてんのにー」
仙道は慌ててゴミ箱に手をつっこんでカードを取り出しはじめる。
「勝手に変なもん作んな! こんなもん恥ずかしくて持ち歩けるかっ。なんだよ、特殊加工って……あっ」
一枚だけ残していたカードを取り出して、心底嫌そうにマジマジと見ていた牧は、その一枚もまたゴミ箱に捨てた。またまた慌てて仙道も拾って牧に押し付ける。

暫くの間、二人はカードを押し付けあってすったもんだとしていたが、結局は仙道が『無理強いするなら、嫌うぞ』という牧の一言に引っ込むはめになった。
「おい…まさかお前、自分用も作ってないだろうな」
牧は振り向き、恐る恐るしゃがんでいた仙道を見下ろす。すっくと立ち上がると仙道は得意げに自分の名刺入れを出した。予想通り色違いの揃いの革タイプ。取り出したのは同じピンクの紙。
「はい。一枚あげます。モデル料に」
「このバカヤロウ…。あー…俺、頭痛くなってきた」
どこで撮ったものかは知らないが、そのカードにはキリリと真面目な表情の牧の顔写真がばっちり印刷されていた……。


後日。牧の財布の中、一番取り出しにくい場所に一枚だけ。
光に透かすと相合傘マークが浮き出る特殊加工を施されたピンクのカード(もちろんツンツンととがった髪型の男の写真付き)を入れていたことは、仙道には内緒である。


それから更に二週間後。牧の携帯に小池の明るい声と、仙道と牧が写っているピンボケしたビックリする写真が届いたのだが…。それはまた、別のお話。








*end*




よくある記憶喪失ネタをやってみたかったんですが、なんか変な感じになっちゃった。ありりー?
梅園は最近恐ろしいほど物忘れ酷いです。もしや寝てる間に毎日記憶喪失に!?…わ、笑えない(汗)

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