隠さないで


『ミスった…』
壁際に追い込まれ、牧は下唇を噛んだ。

仙道の唇がゆっくりと首筋を辿って下降していく。先月抱かれた時に知った、自分の性感帯の一つである鎖骨に、仙道の柔らかで淫らな舌が到達する前に。理性が勝っているうちに。
「仙道、もう寝よう。明日は、ほら、その…」
「明日は日曜。何も予定はないです」
牧の着ているパジャマのシャツは既に第三ボタンまで外されてしまっていた。仙道は顔を埋めやすいように、さらにその襟元を大きく開いた。
「あー…。いや、俺、なんか急に眠たくなってきた」
「何言ってるんですか」
べろりと仙道は牧の鎖骨を舐め上げる。途端、牧の体がビクリと跳ね上がった。薄い皮膚の下、電撃のような痺れが牧の脳へと直結する。
「…眠たい人の反応じゃないっすよ」
少し瞳を細めて口の端で笑ってみせられ、悔しそうに牧は顔をそむけた。そのまま仙道の肩を掴み、ぐいと離す。

「…また…駄目なんすか?」
振り向かなくても分かる。仙道はきっと仕方なさそうに笑ってくれているだろう。傷ついている自分を隠して。
だから嫌だったんだ。泊まりたくなかった。牧は返事の代わりにパジャマのボタンをのろのろとかけだした。今着ているこのパジャマも、仙道の物なんだよな…などと思いながら。

告白されてすぐに、牧は仙道に抱かれた。それ以来、牧はなるべく仙道の部屋に泊まらないで済むように気を使っていた。
泊まった日の夜は、先に仙道にシャワーを浴びさせ、その間に寝てしまってやり過ごす。狸寝入りをする時もある。牧から泊まらなくてはならなくて上がりこんだ夜は、仙道に買い物などをさせて帰らせ、待っていたら寝てしまったという形を取る。もちろんまだ自宅へは仙道を泊めたことは、ない。仕事の忙しさなどもあるし、まだ一ヶ月。上手く隠せてきている…と、思う。
男として相手からセックスを拒まれるのは、大きな苦痛。分かるからこそ、避けているということを悟らせまいと、これでも牧なりに気を遣っていたのだ。

ベッドの横に敷いた布団に牧は潜り込んだ。せめて何かこの気まずい雰囲気を少しでも和らげる話題はないかと頭をフル回転させながら。
でも結局は「明日はどこか日帰りで…ドライブでもしよう。おやすみ」というつまらない台詞しか探せなかった。

今晩の俺の予定では、仙道はもっと遅くに帰ってくるはずだった。いつものような『今から帰ります』という電話が入らなかったせいで油断したのだ。携帯のバッテリーが壊れたといって、いきなり帰って来られるなんて予測がつくはずもない。まして、『牧さんが待っててくれてるから、俺、二次会抜けて帰ってきちゃった』なんて嬉しそうに言われたら、こっちだってついガードもゆるくなるってもんだ。
けれど、ゆるくしていいところと悪いところがある。傷つけると分かっていながら隙をみせた自分が情けない。すまん、仙道。本当にすまない。

心の中で懺悔をしている牧の頑なな背に、仙道はそっと布団越しに触れた。
「…牧さん、俺に抱かれるの、嫌なんじゃない?避けてる…よね、夜、さ」
淋しそうな仙道の声音に、牧の体が硬直する。
「…やっぱり…」
「違う。別にそんなことはない」
「慣れるまで辛くても、回数こなせば楽になって、仕事にも支障が出なくなりますよ。俺も男同士って初めてだったから下手だったと思うけど、もっと勉強してもっと優しくするようにします。だから、一回でこりないで…俺を避けないで下さい…」
ズキンと牧の胃の辺りに痛みが走った。そう思わせたくなくて、下手な画策をしてきたのだというのに。結局傷つけてしまっている。実際、仙道は下手なんかじゃない。寧ろ初めてと思えないほど、俺は仙道のいいように翻弄されていた。そんな理由で避けてたわけじゃない。
「お前は、下手なんかじゃない。…俺の反応見てたら分かるだろ」
「今まではそう思ってたけど…。なんかこうも避けられちゃうと、『演技』してくれてたのかなーって。牧さん、優しいからさ」

痛い。ズキンで済まされないほど痛い。ズッキンズッキンと痛みが俺の胃を連打している。あまりの痛みに体が縮こまる。避けてる本当の理由を言えたら、どんなに楽か。仙道だって無意味な悩みを抱かずにすむのに。分かってるんだ俺が悪いのは。
牧は痛みを堪えるため、手足を小さく折りたたんで、すっかり小さく丸く(といっても、実際は大型ジープのタイヤサイズ近くはあるのだが)なってしまっていた。
しかし仙道はそれを己を拒否する姿であるとしか捉えられない。涙混じりのような声音で呟いた。
「困らせて、ごめん。駄目だね、俺。やっと両想いになれた嬉しさで、強引に抱いちゃっていい気になってたみたい。あんたの言うように、もっと手順を踏んでからにすりゃ良かった」

痛みがどんどん酷くなる。仙道、もう言わないでくれ、何も。俺が悪いんだ、俺が!!分かってる、分かってるから頼むからそれ以上自分を責めないでくれ!!
脂汗が額からつーっと枕へと降りていった。ヤバイ。この痛みはなんだか真面目にヤバイ気がする。
「お前のせいじゃない。それに、演技できるほど俺は器用じゃない」
「そんな震えた声で気遣ってくんなくていいっすよ。…こんなに好きな人に無理させて、俺ってホント駄目だよなぁ」


「せ…仙道…」
「はい」
「すまんが、救急車呼んでくれ」
「はい?」



そこからの記憶はプッツリ途切れ、気づけば俺は病院のベッドの上だった。目の前に仙道の泣きそうな顔があった。
「牧さん!!大丈夫ですかっ?今、ナースコールで医者呼んだから」
「…?あれ?俺、どうして…えーと…」
「昨夜ね、牧さんあれからいきなり大量に血を吐いたんすよ。『胃潰瘍』って奴で、もうちょっとで胃壁を突き破って…えっと、『穿孔』っていうらしんすけど。とにかく、それに近い、かなり悪い状態だったんですよ。前から胃痛の症状とかなかったんすか?」
牧は呆気にとられて自分の胃の辺りに手を置いてポカンとしていた。
ほどなくして医者が入ってきて、昨夜、内視鏡で緊急止血を行ったことと今後の治療方針などを語っていった。仙道も一緒になって真面目な顔で話を聞いていた。


抱かれるのが嫌だったのは、体のことじゃない。本当は、怖かったんだ。抱かれて初めて、仙道と恋人同士になれたことを本当に認識した。それまではどこか都合の良い嘘のような気がしていたから、実感がなかったといってもいい。
しっかり認識して実感してしまうと、俺は自分の欲の深さまで知ってしまった。
『こいつと離れたくない』『こいつを俺だけのものにしたい』
そんな欲が俺の思考をいつしか、『俺を想いながらも、こいつは他の女を抱いてこれた。ならば、いつか逆のことが起こったら…』というくだらない疑心暗鬼を生み出した。
男が男をずっと愛していけるかどうかなんて知らない。男の体は女の体と違う。抱かれるようにはできていないから…いつしか飽きられ、仙道が俺を抱きながら、隠れて他の女も抱くようになったら。
『そうなったら、俺は正気を保っていられるのか?』

一回抱かれただけで劇的に自分を変えられてしまった。だからこそ体を重ねるごとに変わってしまうのではないかと不安が消せない。
ずっと好きだった。だから恋人になれたのは幸せだ。嘘じゃない。けれど、こんな風にバカな憶測で怯えるようになるなんて、あまりに情けない。
胸の中だけでこっそりと仙道を好きでいられただけの、平穏な淋しい幸せ。それに慣れてしまっていた俺には、今の幸せ過ぎる現状と、それが崩れるかもしれないという不安があまりに急激過ぎて…抱かれる体に心がついていけない。俺が俺でいられない。
28にもなって、しかも周囲には老け顔のせいでオヤジ扱いをうけるようなこの俺が…。誰に言えるか、そんな恥ずかしいこと。まして愛した男になんて。

ふと、好きでもないアントニオ猪木が言った『勝負をする前から負けることを考える奴がいるか』という台詞を思い出す。
ちくしょう。それでも怖いもんは怖いんだ。試合やなんかとワケが違うんだぞ。恋愛なんて勝負じゃない分、性質が悪い。弱気にならないでいられるほど、こちとら場数は踏んでないんだ。恋愛の場数から言ったら、俺は絶対仙道に負けている。俺はもう数年前からこいつ以外想えないんだ。仕方ないじゃないか、もう。勝負なんて俺から仕掛ける気もなかったんだ。言ってくれなかったら俺はきっと、今もこれからも一人で想い続けていただろう。
あぁ…こんなことをぐるぐる考えている俺は、本当に駄目だ。それほど経ってもいないっていうのに、片思いだった頃が懐かしいくらいだ…。


「牧さん、大丈夫?麻酔切れたから痛いんじゃないの?もう部屋戻って横になろっか?」
仙道の声で牧は我に返った。気づけばペットボトルのミネラルウォーターも温くなっており、ディールームには牧と仙道以外、老人が二名ほどいるだけになっていた。
ついぼんやりと記憶が途切れる前のことを思い出そうとして、昨夜の話の続きに思考が流れてしまっていたのだ。
「あぁ、心配いらない。すまなかったな、面倒かけて」
「…胃潰瘍ってストレスからくることが多いんだって。牧さんがよく胃の辺りをこう、押さえるようになったのって、俺が告ってからじゃないっすか?」
牧は驚きに目をみはった。自分でも気づいていないそんな仕種まで、仙道は見ていたのだ。こんなに目端の利く奴が、俺の下手な芝居を気づかないわけもない。気づいていて、それでも俺が避けるのを己のせいだと誤解したまま、我慢してくれていたんだ。
なのに俺は…自分が傷つく事ばかり考えていたんじゃないだろうか。恥ずかしい自分を隠そうとカッコつけて。言わないでいることで、自衛ばかりしていたんじゃないのか。

牧は視線を一度、テーブルに落とした。そして意を決したように面を上げて仙道にしっかりと視線を固定した。
「くだらない戯言だけど…聞いてくれるか?」


* * * * *



「病人に…こんなこと言いたくないけど…」
「この際だ、なんでも言ってくれ」
「く…」
「く?」
仙道は握っていた缶コーヒーをベコンと凹ませながら額をテーブル落とした。鈍いゴンという音が人のいなくなったディールームに響く。
「くだらねぇ…。俺がどんだけあんたを好きか、俺の胃に胃カメラ突っ込んで見せてやりてぇよ」
「仙道…。別に胃を見たからって分からないぞ、そんなことは」
ガバッと顔を上げて、仙道は涙目で睨みつけてきた。
「実はね、俺の胃はここ一ヶ月でポリープだらけなんすよ!」
「えぇっ!?ど、どうしたんだよ、大丈夫か?」
「もうね〜、俺のセックスが下手だから嫌われたとばっかり思って悩んでたんですよ。長さでは俺が勝ってるけど、太さじゃ」
真っ赤になりながら、慌てて牧が手を伸ばして仙道の口を塞いだ。
「バカヤロウ!!そんな話をここでするな!それより、ポリープの話はどうした。病院へは行ったのか?」
仙道はそっと牧の手を己の口元から離すと、優しく握ってから離した。
「先週末かな。咳き込んでたら血が混ざった胃液吐いちゃって。悪いタイミングでさぁ、母親が来てた時でね。病院行けってうっせーから。あ、でもね、ホント大丈夫なんすよ。ポリープって自覚症状ないけど、大概の人はできてるんだって。まぁ、俺のはけっこう凄かったらしいけど」

今じゃもう、全然平気っすと、ヘラヘラとした仙道のいつも通りの笑顔。冗談めかして言っているが、きっと本当に悩んだのだろう。確かに自分のくだらない取り越し苦労のせいで、己のみならず相手までここまで無駄に苦しめてしまったのだ。
言わぬが華。沈黙は金。そう思って生きてきただけに、話せば分かるという簡単な図式に到達できなかった。
「今回の件については詫びようがない。すまなかった」
「いいんすよ〜。俺が先走ったせいなんすから。いや、でもマジで言ってもらえて良かったっす。今後のためにも」
「…幻滅、したか?俺に」
仙道は小さく首を振ってから頬杖をついた。不安げに眉間に皺を寄せている牧が愛しくて、自然と笑顔が零れる。
「嬉しいもんすね」
「は?」
「いもしない相手に焼きもち焼いてくれるくらい、俺を想ってくれてるってことがですよ。しかも胃に穴あけちまうくらい」
「違…。くそぅ…こんなこと、やっぱり言うんじゃなかった。お前だって誤解でポリープ作ってるくせに、人のこと言えるかよ」
ずいっと仙道は身を乗り出して顔を近づけて、真剣な瞳に変わった。牧も瞬間的につられて真面目な顔になる。
「お互い、言わなきゃいけないことを言わないからこうなったんす。これからはさ、なるべくお互い、なんでも話し合おうよ。こんな台詞知ってる?『危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。言えば分かるさ』ってやつ」
「…それは猪木の言葉だ。しかも間違ってるぞ。『行けば分かるさ』だ」
「細かいことはどーでもいーんすよ。要するに、色々一人で考えてねぇで、話し合いましょってことを言いたいいの、俺は。You copy?」
ピストルのように人差し指を向けられた。牧は小さくため息をついてホールドアップしてみせるしかなかった。
「I copy. でも、ゆっくりな、これからは」





三日間の入院を終え、牧が無事に帰宅したその日の夜。赤木と魚住が見舞いが間に合わなかったからと、家に押しかけてきた。
仙道は別件の用事で来れないか、もしくは遅れてくると聞いていたため、魚住が用意した「胃に優しい弁当」を広げて先に食べることにした。
三段がさねの重箱は二セットもあったが、一セット開けただけで小さなテーブルの上には乗り切らず、結局床に広げて食べた。
「こうしていると、まるで家の中で花見でもやってるようだな」
赤木がテーブルの上に飾られた、社の同課の女性社員一同より退院時にもらった花籠を見上げて言った。牧も頷きながら魚住に言う。
「美味いが、こんなに食いきれないよ…。気持ちは嬉しいが、もう一セットは持って帰ってくれ。俺はこの余った分だけで明日も困らんから」
「なに、もともともう一つの御重は仙道とお前の分だ。明日でも二人で食えよ。この重とは中身違うから。お?電話だ」
マナーモードにしてあった携帯を手にし、魚住はなにやら話し込みだした。
『何故俺と仙道の分なんだろう…。俺、明日も会うとかそんな話、魚住にしていたかなぁ?』と、少し疑問も浮かんだが、あえて牧は流すことにした。

牧は今は飲めないからと、せっせと赤木に酒を飲ませてやっていた。牧が仕事を休んでいた時、赤木が同じ課ということもあり仕事を全面的に引き受けていてくれたのだ。おかげで牧は退院後もそれほど仕事が山積みでなくすんでいた。
「助かったよ、赤木。本当にありがたい。どんどん飲んでくれよ、せめてもの礼だ。俺の胃が治ったら、今度は皆で街で飲もう」
もう一本、とっておきの日本酒があるぞ、と牧が立ち上がった時、すっかり酔いが回ってご機嫌な赤木は
「いいってことよ、仕事なんて。お前等の相談を早く受けてやれなかった俺達も悪いんだから」と笑った。
牧の足がピタリと止まる。
「……『お前等』って何のことだ?…『俺達』って、赤木と誰のことだ?」
「決まってるじゃないか。お前と仙道の恋愛相談を俺と魚住が上手い事のっていてやれば、二人とも胃に穴あけなくて良かったってことだ。お前等は器用そうでいて、どこか危ういとこがあるよな。似たもの夫婦…いや、まだ夫婦じゃないか。ん?男同士だから夫婦にゃなれんのか?とにかく。全く、『腹割って話す』前にお前等は胃を割ってるんだから世話ないよな。これからはさっさと俺達に相談しろよ」

ガッハッハと自分のオヤジジョークに受けてご機嫌に笑っている赤木は、ふと立っている牧の後姿が動かないことに気づいて声をかけた。
「おい、牧、どうした?」
「……痛……う…ぐ……」
小さなうめきを上げた牧は、膝から崩れるようにフローリングに両手をついて吐血した。
驚いて近寄ってきた魚住と赤木の叫び声を、どこか遠くに感じながら、牧は痛みに体を丸くし呻いていた。
『どういうことだ?何故俺達の関係が…何時から……理由まで知ってるってことは…仙道め。あの野郎、許さん』と、心で唸りながら。






それからまた一ヶ月間。牧の胃が落ち着くまで、仙道は牧を抱かせてもらえなかったことは言うまでもない。チーン☆








*end*




ここでの二人はシリーズの中で一番デリケートかも(笑) たった三日の入院で花籠をもらうほど
モテモテな自覚は、もちろん牧にはなし。猪木の台詞、知らない人がいたらすみません。

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