琥珀色の月


社内の暖房が切られたせいか、だんだん寒く感じられてきた。仙道は残業組みの森本の「ノロケばっか言ってんなら帰りやがれ」という罵声を浴びて立ち上がり、壁掛け時計を眺める。数人しか残っていないフロアは半分の電気が消されており、時刻は分かったが時計の秒針はよく見えなかった。

彼女いない暦を38年更新中の森本に話していたのは、もちろん牧のことを“彼女”ということにしてだ。だからノロケというよりはふざけの意味合いの強い話を聞かせていただけなのだが。
「ひがまれちゃったようだし、そろそろ彼女も帰ってる頃だから。ラブコールしなきゃなんねぇし、お言葉に甘えて色男は帰りますかね」
ついでに、なんならここで俺のするラブコールも一緒に聞きたい?、とおどけてみせる。向けられた森本の心底嫌そうな顔に、にっかりと白い歯を見せてから、仙道はゆっくりと帰り支度をはじめた。

今日は牧さんは赤木さんと飲みに行くと言っていた。終わる頃に牧さんに電話して…連絡がつくようなら合流しようと密かに思っていたけれど。運悪く森本に捕まって仕事の手伝いをさせられて…気付けばこんな時間。もう牧さんは自宅に帰ってしまったかな…。
明日は土曜日。予定では今頃はほろ酔いで少し素直になってる牧さんを、送り狼・彰君が俺の自宅に連れ込んで、優しく介抱しているはずなのに…。予定ハズレになっちまった悔しさにため息がまた出てしまった。その勢いで仙道は森本に言った。
「…これでホント、こないだの借りはチャラだかんね。あーあ、予定狂ってつまんねー夜になっちまった」
「なんだよ、テメー後半なんざほとんど『長年の片思いが成就した』っつー話ばっかで仕事やってねーじゃねーかよ。しかも相手の女性紹介しねーしよー。彼女の友達が俺の彼女になる可能性とかさぁ…」
また先ほどしていた会話と同じようなことを繰り返しそうになっていた時、仙道の携帯が鳴った。
「…はい。……赤木さんは今どこに…はい、はい。俺、今会社なんで…そこならタクシーで15分くらいか、な。はい、行きます、すんませんが、宜しく」
仙道の表情が会話をしている間に刻々と変化した。それも格段に嬉しそうな表情に。森本は苦笑いをしながら言ってやった。
「行ってこいや。美人でナイスバディな彼女が待ってるんだろ」
返事もそこそこに仙道は頷いて小さく手を上げると走り出していた。


なかなかタクシーが拾えなくて少々焦ってしまったが、どうやら間に合ったようだ。目当ての店の前にある立て看板ごしに、牧さんの背中が見えた。
渡ろうとした信号が赤になってしまい足を止められる。仙道はイライラとしながら、ダークブルーのスーツの背中をひたと見つめていた。
「ん?誰だあれ…?」
明らかに赤木には見えない、牧と同じくらいの身長の茶系のスーツの男が牧の両肩に手を乗せた。
顔がここからでは半分しか見えない…。馴れ馴れしく牧さんの肩に手を置いてんじゃねーよと文句を言いたくなりながらも、信号をまたちらりと見る。まだ赤かよ。
また視線を戻した時、俺は信じられない光景を見てしまった。その男は牧さんに、俺の牧さんにっ、キスをしたのだ!!
速攻で反対側の歩行者信号を見ると、もう行けるとばかりに信号待ちの人達の中で一番早く駆け出した。

「テメェ!!俺の牧さんに何…っ!?」
走りながら仙道が叫んだ矢先。それも最後まで叫び終わらないうちに、男は牧の背に隠れるようにずり落ちていった。そして落ちきらないで牧の体にすがった状態になったところに、牧の容赦ない拳が風を切る音と共に振り下ろされた。しかしその拳は男が足を滑らせたために空振りに終わる。
「気色悪いことすんじゃねぇ!!」
牧の怒号が夜の空気を切り裂いた。もう一度殴ろうと、よろける足を牧はしっかり大地に踏みしめなおすと拳を再度振り上げた。
死ぬ。あいつ、あの状態で牧さんの本気の拳をくらったら、確実にあの世行きだ。となると、牧さんは犯罪者に!?
仙道は必死で走りながらも、振り上げた牧の拳を止められないこの瞬間がスローモーションのように感じて、止める言葉も発せられなかった。
駄目だ、タックルしても届かない…っ!!と、仙道が思ったその時。店の扉から赤木が勢い良く出てきて牧にぶつかり、またも拳は空を切る形で終わった。その勢いで牧にすがる形だった男は地面に膝から崩れるように倒れた。

「お、すまん、牧。大丈夫か?あれ?井澤は? おお、仙道。遅かったな」
赤木さんがキョロキョロしながら俺にも声をかけてきた。俺もようやく追いついて、荒い息で声が出ないため指で下の男を指す。

良かった…牧さんが殺人犯にならなくて本当に良かった…。俺はようやく訪れた安堵感に、両膝を両手で掴みながら息を整えようとした。その横で赤木さんが慌てて井澤と呼んだ男を起こす。上半身を起こされるなり、そいつは目を開けると、生のお好み焼きを路面に作り上げた…。
嫌なもんを見ちまった…と、仙道は顔を上げると、月明かりを背に浴びながらぼんやりと立っている牧の姿が目に入った。
牧の頬には、一筋の涙がつくった跡が光っていた。仙道は慌てて上体を起こし牧の前に立つと、二人の視線がようやく重なった。
左後ろから射す月光が、牧の瞳を琥珀色に光らせる。その中に、仙道だけが映っていた。かける言葉も瞳の中に吸い取られて動けない、時の感覚を忘れさせる一瞬だった。

動けない仙道に牧の腕が真っ直ぐに伸ばされる。仙道のネクタイを牧は凄い勢いで掴むと、グイッとばかりに引き寄せて仙道の唇に己の唇を重ねた。

───その間、たっぷり10秒はあったかと思われるほどの熱烈なキスだった…。

された時と同様、唐突に仙道は牧から解放された。不思議な感覚から一気に現実へと引き戻されて、あっ気にとられ言葉もない仙道に、涙の跡もそのままにニッコリと牧は笑って一言。
「口直し」
と言うなり、笑顔のままで牧は仙道の腕に全体重を預けて倒れこんできた。仙道は足を踏ん張って受けとめると、ゆっくりと首だけで後方を振り返る。
案の定、赤木が青いような赤いような判別のつけがたい顔色で井澤を腕に二人を見上げていた。腕の中の牧はどうやら眠ってしまったらしくピクリともしないで身を預けている。
「あ…の…赤木、さん…」
仙道もなんと言っていいやらな状態ではあったが、ひきつる口元を必死で動かして声を発した。その声に赤木もやっと正気に戻ったのか、慌てて顔をそらして投げやりに叫んだ。
「お、俺は何も見てないぞ、仙道。見てない、聞いてない、ほんっとーに見てないからな!!」
きっと俺も今、赤木さんのような顔色をしているのだろうか。同じように冷や汗を額に浮かべながら…。


仙道は眠ってしまっている牧をガードレールに座らせ、腕を回して牧の体を支えながら、赤木が井澤を介抱するのをぼんやりと見ていた。
「店にいるときからな、井澤が『真希』という名前の彼女に振られたことをくどいておったんだ…。苗字の読みが同じだろ、酔いが進むにつれて牧にからみだしてな。そのうち牧も酔ってきて、俺がちょっと席を外していたら…酒瓶が増えていてな」
井澤が腹を抱えてうめいているため、赤木は話しながら井澤のYシャツを少し捲り上げて腹の具合を見た。そこにはクッキリと牧の膝蹴りをくらった跡が無残に残されていた。酔っ払って足の力が弱まっていなければ…素面の牧に本気の膝蹴りをくらわされていれば…。
赤木と仙道は目を見合わせると、同時に泣き笑いのような表情を浮かべた。

濡れたタオルと新聞紙をもらって赤木が戻ってきた。井澤の腹にタオルをあててやると、黙々と嘔吐物を片付けだした。
「…赤木さん、すんません…。手伝いたいけど…その…」
「ああ、気にせんでいい。手を離したら今度は牧が面倒だ。お前はもういいからタクシーが来たら牧を連れて帰ってくれ。牧の家、解るか?」
「はい。…赤木さん、なんで俺に電話くれたんすか?」
「……俺一人でこいつらを送るのは面倒だと考えた時、牧がお前との約束があったのをキャンセルしてこっちに来たという話をしていたのを思い出してな。それだけだ」
心なしか少しだけ赤木さんの眉間の皺が深くなった気がした。先ほどの光景を思い出してしまったのだろうか。申し訳なくて俺はこんな言葉しか出てこなかった。
「赤木さん…。今度、ウナギ奢りますから」
「……特上二人前な」



タクシーに揺られながら窓の向こうに飛ぶように流れる色とりどりのネオンをぼんやりと仙道は見ていた。肩には牧の頭の重み。体には牧の寄りかかる重みとぬくもりを感じながら。
頬が今頃になってとても熱くて、せっかくの穏やかな寝顔を楽しむ余裕ももてないまま。

両想いでなかったら、あれを俺は食らっていたのかという恐怖もさることながら。初めて見た牧さんの涙を。月光を纏い、一瞬で俺の全てを捕らえてみせたあの時のあんたを。

きっと俺は、一生忘れない。




数週間後、牧さんは、「最近赤木が俺と目線が合うのを避けているような気がするんだ…。俺、何かしたのかなぁ」と、俺に淋しげに打ち明けてきた。
俺は「気のせいなんじゃないっすか? 体調でも悪かったのかも」と言ったあと、後でこっそり財布の中身を確認して、それから今日にでも赤木さんに連絡をつけようと思った。







*end*




どうも乙女牧すぎて恥ずかしくなり、今回はバイオレンス風味を出させてみました。
でもこういう話、前も書いたような。まぁ、ワンパターンですが許してね。

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