こんなに天気がいいのにつまらない講義なんて聞きたくねぇなぁと思っていた矢先、次の講義が休講になったことをすれ違った井田に知らされた。降って湧いたラッキーに、飲み物でも買ってから外で昼寝でもしようと仙道は足早にもと来た道を引き返すことにした。
あまり人気のない気持ち良さそうな木陰はないかとうろうろとしていたところ、牧のいる学部のテリトリーまで来てしまっていた。
医学は西、体育は南地区になっており、広いキャンパス内ではいくらか近い方ではあったが、偶然出会うということは滅多になかった。
だから今、木にもたれて座っている小さな人影が牧であると認識できた仙道はラッキーの連続に顔を輝かせ、走り出した。
声が届く距離になるのももどかしく駆けていると、牧が仙道と逆方向にいる人に声をかけられて何か話をしだした。格好からいって牧と同じ学部の者であることは間違いない。仙道は仕方なく走るのをやめた。
話の内容まではハッキリ聞こえない程度の距離で仙道は足を止めると校舎の壁にもたれ、二人が話し終えるのを待つことにする。
ぼんやりと二人の白衣が木漏れ日で白とグレーに光って見えるのを見つめていると、ほどなくして相手の男が立ち上がりタバコを吸い出した。
すると牧の腕が伸ばされ、男からタバコとライターを受け取り、自分も吸い始めた。
ライターを牧から受け取ると男はそのまま片手を小さく上げて奥にある校舎に向かって歩き出した。牧は見送るわけでもなく空を見上げるとゆっくりと煙をくゆらせていた。
ショック…だった。牧さんがタバコを吸う人だとは全く予想もしていなかった。吸っている姿がとても様になっていて、それは昨日今日吸い始めたという感じではないことも、何故か淋しく感じさせた。斜めの角度で見る少し眉をひそめて片目を軽く細めたその表情は…俺の知らない男の顔だった。
タバコくらい今時吸っていない男の方が少ないくらいだ。俺の周囲は体育関係の奴等ばっかだから、吸っていない奴が多いけれど。
別段驚くほどのことじゃないと頭では思っているのに、いつものようにふざけて走りよって抱きつけなくなっている自分に気付いて、軽く唇を噛む。
胸が少しだけキリッと音をたてた気がした…。
牧は最後に勢い良く白い煙を口から出すと、タバコを左手に置いてあったらしい空き缶に丁寧に押し付けて入れた。
その様子を見届けてから、ゆっくりと仙道は近づき静かに声をかけた。
「こんちは、牧さん。隣、いい?」
「おお、どうした?珍しいなこんなとこに来るなんて」
牧さんはいつもの俺が知っている柔らかい笑顔を浮かべて見上げてきた。
「急に休講になったから。天気もいいし、散歩がてらにね。牧さんは?」
「俺はこの時間は講義入ってないから。レポート提出もすんだし、一休み。 …ん?やっぱり何か変だぞ。何かあったのか?」
俺は「え?別に」と答えていつも通り笑ってみせた。…みせた、つもりだったんだけど。それはあまり上手くできなかったようで、牧さんはじっと俺の顔を見つめていた。でもそれ以上は訊き出そうとはしない。俺が自発的に喋ろうとしないことは、牧さんはそれ以上は踏み込んでくることはいつも、ない。
別にやましい事があるわけでもないのに、俺は視線をはぐらかすように思いついた言葉をかけた。
「今日さ、俺んち来ません?美佳子さんがリンゴやら色々食い物送ってきて。少しもらってほしいんすけど」
「美佳子さんって?」
「あぁ、俺の母親。俺んとこ、小学生に上がってからは両親とも名前で呼ぶようになってて」
「ふぅん…。 リンゴってふじ?」
「うん。牧さんの好きなふじリンゴだよ」
少し考える風にしていたが、牧は「シャワー借りてていいんなら…。どうせお前の方が遅いんだろ、帰宅」と返事を返してきた。
仙道は頷いて鍵を出そうとポケットを探ろうとしたが、牧が照れくさそうにそれを止めた。
俺は先日渡した合鍵を、もう持ち歩いてくれていたことが嬉しくて、笑った。今度はいつも通り笑えた。
牧は携帯を取り出すと寮母にであろう、晩飯と風呂のキャンセルしたい旨を申し訳なさそうに伝え出した。すんなり話はすんだらしく、すぐに電源を切る。ホッとしたような小さい吐息を漏らした後で牧は仙道に照れくさそうに言った。
「寮はこういうのがあるってのが、ちょっと面倒だよな。お前みたいに一人暮らしはそういう点では気楽でいい」
「飯が出てくるのは羨ましいと思うけど、俺は不便でもいいから気楽が一番なんで」
お前ならそうだろうなと言いながら牧は軽く笑って空を見上げた。木漏れ日が揺れその横顔をまだらに照らしている。その様子を少し目を細めて仙道は見ていたが、牧の視線の先を一緒に見るかのように同じ方向に顔を向けた。
そうしてしばらく二人、心地よい風をあびながらぼんやりと座ってゆっくり流れる白い雲を見ていた。
「牧さんさぁ…いつからタバコ吸ってんすか?」
仙道の唐突な言葉に牧は驚いたように振り向くと「見てたのか?」と呟いた。仙道はただ小さく頷いた。
「…四ヶ月くらい前から…かな」
「会ってる時、牧さん一回も吸わないし、部屋に灰皿も置いてないし知らなかった」
「滅多に吸わないからな。気晴らしに一本ってなくらいだから、吸ってるといえるほどではないよ」
仙道はそうなんだ…と口の中で呟き、先ほどより早く流れるようになっていた雲を再び見上げた。他に何か言う気もなかったから。
牧はかるく周囲を見渡すと、仙道の頬にそっと唇で触れて、すぐに離れた。
外での接触を極端に嫌う牧とは思えないその行動に仙道は驚いて振り向く。少し照れながら牧は優しく言った。
「んな泣きそうな面してんなよ。そんなにお前がタバコ嫌いなら、やめるから」
「いや、別にタバコ嫌いとかじゃなくて…。健康を損なわねぇ程度なら、別にかまわねーと思うし…」
仙道の後頭部をポンポンと牧の手が優しく叩いた。
「いいよ、無理すんな。顔に『吸うのやめろ』って書いてあるぞ。俺も別にのめり込んじゃいないから、気にするな」
牧さんの手があまりに優しいから。苦笑交じりに言う声があったかいから。俺は不覚にも目頭が熱くなってしまって、少し困った。
その日の夜、リンゴをかじる牧さんの背中に俺はべったりはりついて一緒にTVを見ていた。
今夜は牧さんに抱いてもらおうって思いながら。
*end*
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