ゴールデンウィーク。晴天の中輝く新緑と心地よい風が仙道を殊更に有頂天にさせる。牧の顔を見るのは四月の初めに引越しを手伝って以来だった。電話やメールで連絡をとりあってはいたが、直接会える喜びはやはり何物にも替え難い喜びがある。
電車を降りて通いなれていたはずの道を歩きながら、もう懐かしいとすら思えてしまう細い路地を抜ける。待ち合わせの時間にはまだ早いのに、自然と早くなる足取りを押さえられず、仙道は牧の実家の門にたどり着いてしまった。
「ちょっと早く来すぎたかな…」
照れくささを含んで呟いた後、やはり約束の時間まで近くのコンビニでも入っていようかと思った矢先、低音だけれど爽やかな、大好きな声が頭上から降ってきた。
「仙道ー、早かったんだな。あがれよ。鍵、開いてるから。ついでに鍵閉めて来い」
見上げると牧の笑顔が窓からのぞいている。日差しを浴びて眩しそうに細めた瞳が可愛い。
牧以外の家人は外出中と聞いてはいたが、お邪魔しますと一応呟いてから玄関にあがり、まっすぐ二階の牧の部屋に駆け上がる。
「よお、お疲れ…うわ☆」
扉を開けて迎えてくれた牧に抱きつき、速攻で唇を奪う。何度か背中を叩かれてもめげずに唇を離さない仙道に根負けし、一分後には牧も拳を開きその広い背中を抱きしめ受けとめた。数分間、久々に得られた互いの唇や体温と感触を存分に味わう。
それでも明るい日差しが顔に当たり、牧は昼日中から…と理性を取り戻した。
「…いいかげん、離せよ。お前は外人式の挨拶しかできないのか?」
「はい。牧さんにだけはね♪ 会えて嬉しいですよ。何時に帰ってきたの?」
顔を覗き込むと牧は赤らんでしまった頬を隠すように体を離そうとしながら、そっけなく返事を返してくる。これ以上無理に抱いていては牧の機嫌を損ねかねないため、仙道もあっさりと腕を解いた。
「帰ってきたのは昨日の昼。親にガレージのペンキ塗りを頼まれてな」
「なんだぁ。昨日電話で話したときに実家にいるって教えてくれたらいいのに。そうしたら午前中から俺、来たのにさ」
手伝いたかったなーと、ちょっと残念そうに言いながら、荷物を寮に移して殺風景になった部屋を軽く見回す。物が極端に少なくなったせいか、黒いデスクとベッドだけが異様に存在感を主張して見えた。
「昨日教えていたら、お前は午前の練習サボって来るからな」
仙道は痛いところをつかれてしまいニィッと笑うと、牧はフンッと鼻で笑って返した。そのまま仙道を残し階下へ飲み物を取りに降りていった。
何気ない会話もこうして一ヶ月ぶりに顔をあわせて行うと…特別嬉しいもんだよな、なんてニヤニヤと眉毛が下がってしまう。
ベッドを背に床に座っていたが、コテッと頭を床に落とす。天井を見上げて数ヶ月前までよく泊まりにきていた部屋の天井を眺めて転がっていると、ベッドの下に黒いビニール袋があるのを発見した。袋のはしからチラリと本らしきものがのぞいている。 …こんな場所に隠されている本なんて…やっぱアレしかないのでは!? 仙道の胸は奇妙に高鳴った。
見ていいものか。 見てはいけないものか。
これが越野や植草の部屋だったら速攻迷いもなく腕を伸ばして見てるんだけど…。牧さんのだと思うと、手を出すのにも何故か罪悪感のようなものさえ感じてしまう。
…牧さんの好みの女性とかって話、一回もしたことないかもしんねぇ。最初にフラれた場面に出くわした日以来、女の話なんてしなかった。外見はどんな感じが好きなんだろう?巨乳?美乳?可愛い系?美人系? し…知りてぇかもしんない、俺。でも知ってどうするって気もする…。
俺以外の人間を頬を赤らめながらうろたえつつ語る牧さんを見るのは、嬉しくもなんともないような。いや…嬉しいような。けど怒られて今日一日を台無しにするのは避けたい。
というよりだ。見て、さっさとしまってしまえばいいわけだ。バレなければそんな話もしないですむし、俺の好奇心も一応満たされる。
「う…く…くそっ…も、もうちょい…」
埃っぽく狭い場所に手を精一杯伸ばす。届きそうで届かない。早くしないと…早く…。
「おーい、仙道。コーヒーおとしたやつとポカリとどっちがいいー?」
階下からいきなり叫ばれて、仙道はビックーンと起き上がってベッドから離れる。心臓が飛び上がるかと思いながら返事を叫ぶ。
「こ、コーヒーで!!俺、アイスがいいなっ」
「アイスか…。少し時間かかるぞ?」
「そりゃ好都…は、はい!!時間、気にしませんっ。咽渇いてないんで!!」
焦って咽がカラカラになってしまったというのに、つい口から出た言葉。こんなに焦った以上は、もう意地でも見たい!!いや、見なくちゃ!!
部屋をぐるりと見渡して、机の上のボールペンをひっつかむ。もう一度伏せた状態になり、今度はボールペンの先で袋を引っ掛けてみようとする。
「あ…回っちゃった…と、届かな…い…」
汗がじわりと額に浮かぶのもおかまいなしに、仙道は必死になって袋を引き寄せようとした。やっとどうにか袋に引っ掛かった。
「取れそうか?」
「はい。もう少し」
「俺が取ろうか?」
「いえ、大丈夫………え!?」
片手をベッド下に突っ込んだ不自然な状態で首だけを回して上を見ると、牧が面白そうにその様子を見ていた。
「うわぁ!!ま、牧さん!!」
仙道は慌てて腕を引き抜いて青い顔をして正座をした。
「プ…ブ…ブァハハハハ!!!お前、すっげぇマヌケ面してるぞ」
牧は盛大に笑いながらベッドに近づき、「よっ」といいながら布団とマットレスをずらし、ベッドの板の隙間から難なく袋を取り出した。
埃にまみれて半分真っ白なビニール袋を捨て、中の本を取り出すと牧はそれを仙道の膝の上に乗せた。黄ばみきったボロボロの表紙には大昔のアイドル…というより、アイドルとも言えない顔の、ただ若いお姉ちゃんが笑っていた。『密天』というタイトルの下に『昭和40年8月5日発行』と書かれていた。
仙道は本を開いていいのかどうかと目線で牧に訊ねてみた。
「見てもいいが、あまり大きく開くなよ。見ての通り古い本なんだ、あまり開くとバラバラになるからな」
「…牧さん、これって俺達が生まれるよりずっと古い本ですよね」
「あぁ。これは海南大附属高校篭球部主将に代々伝わるエロ本だ。お前がひっぱり出そうとしなかったら忘れたままになるところだった。明日にでも神と連絡とって渡さなきゃいかんなぁ」
苦笑いを浮かべている牧を見て、仙道はようやく本を開いてみた。色あせたカラーページには表紙の女性が時代を感じさせる水着を着て変なポーズをとっていた。化粧がやけにケバいのもまた…げんなりとした気分を増幅させてくれる。
「何で海南はこんな古い、美人でもないモデルの本を継いでいるんすか?」
「海南は元は男子校だったんだ。その当時は女性との付き合い方を主将に相談に来る者が多くいたらしい。それように、ほら」
牧はパラパラと仙道の膝の上の本をめくり、『デートの仕方。女性への気遣いと食事のマナー』というページを開いてみせた。
「…こんな古いの、もう役に立たねぇんじゃないっすか?違う本に変更して引き継がないと意味ないじゃん」
「男女共学になってからも、バスケに一途すぎて女性に交際を申し込まれてから大いに慌てたり。そういうことでの悩みの相談を主将が受けた場合、『俺は知らないから』では頼りにならない。そこで、だ」
牧は少し苦々しい顔をしながら、さらにページを進め、止めた。そのページの上で仙道の眉が嫌そうに歪められる。
「こんなふうに…2ページだけ、その…局部がボカシなしで写っている。こういう知識を主将は知っておいて、相談事にもきちんと応えてやれということなんだ。場合によっては部員に見せて、下に書いてある方法を説明しろ、ということで代々継がれているんだ」
そこには無表情で真面目な顔をした女性が開脚している姿があった。隠されていたり透かして見えそうで見えないというのが男の想像力をかきたててくれるそれが、そのまま写っている。仙道も牧も顔を見合わせると、心底げっそりとした顔でため息を同時に漏らした。
「見なきゃ良かった…」
「俺も初めて前の主将に『海南主将の伝統』と言って引継ぎ説明をうけてから見せられた時は、凹んだもんだよ」
別の綺麗なビニール袋に本をしまいながら牧は意地悪そうに付け加えた。
「まぁ、幸い俺はそういった恋愛ごとの相談も受けなかったから、この存在自体をもう忘れていた。お前が思い出させてくれて助かったよ」
「ひでぇー。俺、海南部員すら見てねぇもんを見せられたー」
渡されたアイスコーヒーを苦々しげに一気に飲み干す。香り良く冷えた苦い液体がげんなりした気持ちを流してくれないものかと願いながら。
「ありがたく思うんだな」
そんな仙道の様子を見て楽しそうに高笑いをすると、牧はまた一人階下に降りていった。
両手にケーキの乗った皿を持ち、牧が戻ってきた。大きくカットされたチョコケーキ。甘い香りが部屋の中にふわりと漂う。牧はその皿を手渡そうとしたが、仙道は手を出してこない。
「昨日もらったケーキだけど、冷蔵庫に入れておいたから大丈夫だぞ?甘さは控えめだから、お前でも大丈夫なはずだが」
「いえ、そんなんじゃなくて…。さっきので胸焼けがして、とても今はケーキなんて食えないっすよ」
胃の辺りに手をあてて、まだげっそりとした表情の仙道。牧はフッと口の端で笑うと、そのままかがんで仙道の頬に軽いキスをした。
「四股かけてた男が、何を可愛いこと言ってんだ。らしくねぇぞ」
「そんな昔のこと持ち出さんで下さいよ。今はもう牧さん一筋の俺だって、知ってるくせに」
片眉をあげてちょっとふくれっつらの仙道には返事を返さず、牧はベッドに腰掛けるとケーキを黙って口に運んだ。
会った時に触れた柔らかな唇が軽く開かれる。そこに甘い香りのケーキが入っていく様子に仙道はいつしか魅入っていた。その視線に気付いて牧も手を止めた。
「…なんだよ。お前も見ていたら食いたくなったのか?」
「はい」
言葉を作ろうとした牧の唇を仙道の唇がふさいだ。そのまま舌を差し入れ、牧の口腔内を侵す。甘いチョコの味を味わいつくすように丹念に。
左手は皿を、右手は仙道の服につかないようにとケーキを覆っているため、牧は思うような抵抗ができない。いつしかチョコの味が消え、香りだけが仄かに残るようになった頃、牧の手からケーキの皿はとりあげられ、仙道に覆われるように牧の体はベッドへと倒されていた。牧は困ったように見上げ、乱されかけた息を悟られないように平静を装いながら訊ねる。
「…胸焼けはどうしたんだ?」
「早く治すには、上等なお口直しをいただいたほうが早いっすから。今すぐ、食べさせて…」
久々に見る、仙道のほんのり赤く染まった目元も、挑戦的な表情も。悔しいほど牧の胸を焦がす。こうなってしまった仙道に抗える理性は、先ほどの濃厚な口付けで奪われてしまっていた。牧は観念するように目蓋を閉じ、仙道の耳元に囁く。
「せめてカーテンくらい閉めてくれ…」
今日会えた喜び。明日からまた会えない寂しさ。それをこれから何度繰り返してゆくのだろう。
喜びだけで日々は作られるものではないと知らないほど子供ではないけれど、寂しさを楽しめるほど大人にはまだまだなれそうにないから。
せめて会えた時の喜びを、会えない長い時間を乗り越える糧にできるように。
丹念に、温もりも感触も香りも熱も、吐息までも、味わいつくそう。
今日はここで。
明るく強い日差しがカーテンを透かす、淡いブルーグリーンの部屋の中で。
*end*
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