Breakfast


街並みも風も木々も出会う人も、これからの自分が住むところまでも、全てが一変するというのは初めてで。牧は多くはない荷物を運び入れ終えた部屋の中でため息を一つついた。
今まで一度だけ住む家が変わったことがあった(それも小学生の頃)が、転勤のない勤めについている父親のおかげで牧は今まで一度も神奈川…自分の生活圏が変わるという経験がなかった。高校も家が近かったので寮生活の必要もなく、一人暮らしを
するというのはこれが初めてでもあった。
何もかもが一度に体験する初めてのこと。あまり物事に動じない方である彼ではあったが、流石にこれからの大学生活や寮生活を思い、少しばかりの緊張をしていたらしく、新しい自分の生活の場である寮の一室に一人になってどっと疲れが出たようだった。

室内に備え付けのベッドは牧の身長には少し小さい。ダンボールでも足元に設置しようか…と、ベッドに座りながらぼんやりしていた時にドアをノックして仙道が戻ってきた。
「やっと一段落しましたね。コンビニがこの先に一軒と、酒屋が逆のあっちに一軒ありましたよ」
はい、どうぞと冷えたコーラを差し出された。お礼を言って一気に三分の一ほど飲み、牧は一度目をぎゅっとつぶってから苦笑いをこぼした。
「炭酸飲んだの…久々で、沁みた」
「疲れたけど酒飲めないって時は代用にどうぞ」
おどけた口調の返事がいつもと変わらないことが牧のどこか不安が残っていた心に、今飲んだ炭酸のように沁みわたった。

良く晴れた金曜日の午後。少ない生活道具を詰めたダンボールを業者が運び入れるのを確認することと、寮長と寮母さんに挨拶をして説明を聞くこと。それくらいしかないから手伝いの必要はない、と何度も『一緒に行きます。手伝いたいんす』と言う仙道に断りを入れていたが…。
こうしてそれらも終わり殺風景な一部屋の中ベッドに腰掛けていると…。ちらりと牧は仙道の横顔に視線を向けて、すぐ戻した。隣に同じように座っている仙道の存在をありがたく感じて、少々気恥ずかしくなってしまったのだ。そんな気持ちを悟られぬように言葉を急ぎかける。
「すまなかったな。春休みとはいえ、練習が終日休みの貴重な日を潰させてしまって」
「ぜんっぜん。俺が来たかったんだからいーんです。それに、明日は午後からだし。牧さんの新居が見たかったしね」
「新居…ねぇ…」
七畳一間の部屋を首を回して見渡す。壁を張り替えたと寮母がいうだけあって壁だけは白かったが、一つだけある窓枠は一目見ただけで開けにくそうな古い木枠と、出入りの時に嫌な音をたてるドア…。備え付けのベッドや机、小さな1ドア冷蔵庫もシンプルといえば言葉が良すぎるような、簡素で年代を感じるものだった。ずっと一軒家に住んでいた牧の、小奇麗な六畳の部屋とはかなり様相が違っていた。天井から下がっている照明までもなんだか古くて物寂しさを感じさせている。
「ま、まぁね。寮なんだしさ。俺の知ってる寮住まいの奴等んとこよりはここ、格段にマシっすよ」
「飯が美味いと評判らしいし、けっこう格安だったからここにしたんだ。下見の時に会った寮母さんが俺の母親と意気投合したというのもあるが…」
「飯が美味いってのは一番ですよ。それにスポンサーの親が薦めるトコに住んでおきゃ後々楽だし。うん、いいトコ選びましたよ」
「そいつはどうも…」
「い、いいえぇ…」
天気が傾いてきたせいもあるが、どこかどんよりとした空気が室内に漂っているような気がして、この状況を打破すべく仙道はことさら明るく言った。
「ね。荷ほどきは、んな時間くわねぇだろうから、これから買い物に行きませんか?」
「荷ほどきは別に明日でもいいし…。そうだな、少し出るか」
やっと軽い笑顔をみせた牧に心底ホッとしながらその腕をとって立ち上がらせると、仙道は勢いよく部屋の扉を開けた。途端。
ギィギィィャギィ……。
立て付けの悪いドアが開く音に、二人は顔を見合わせて苦笑いをした。


とっぷりと日が暮れ、昼間と様相が変わってしまい、慣れない通りを仙道のカンを頼りになんとか無事寮にたどり着けた。
廊下で偶然会った寮長が牧に話しかけてきた。
「牧君は明日から寮食なんだろ?部屋に戻る前に寮母さんの所に行って、明日の朝は二人分宜しくって言えばその…」
「あ、俺、牧さんの後輩で親友の仙道といいます。宜しくお願いします」
にっこりと爽やかな笑顔を自分より15cmは低い20代後半らしき男にむけた。実のところかなり高い身長の二人、特に浅黒い威圧感のある寮生に見下ろされる形で説明をしていて落ち着かない気分だった彼は、変わった髪形の男の笑顔にかなり安堵させられた。
「俺は寮長の飯田、大学七年生だ。宜しく。ええと、友達や親が泊まるとかで二名分までなら食事の前日予約ができるから。食事料金は後日まとめて請求が来るようになってる。三名以上は予約を一週間前に入れること。でも別に特別料理とかにはならないけど」
「ありがとうございます。でも今日はこいつ帰」
ぐいっと牧の腕をひっぱって仙道は牧の言葉を止めて割り込む。
「はいっ。早速言ってきます。俺、寮って憧れだったんで、朝飯便乗できて嬉しいっす」
「そうかい。まぁ、ここは男子大学生専用だから規則があってないようなもんだし。気楽にいつでも来たらいいよ」
「ありがとうございますっ。本当にしょっちゅう来させてもらいます」
飯田の手を掴んで仙道は必殺・無邪気スマイルをお見舞いした。これを初対面でくらった人は老若男女関係なく仙道に好意的感情になることを牧は最近になって気付いたのだ。もう飯田寮長は仙道の存在をよしとしたことは確実だ…。牧は複雑な心境で二人のその後の会話をぼんやり聞いていた。

「寮母さんもいい人でしたねー。これはけっこう寮生活も楽かもしれないですよ。良かった良かった」
上機嫌でドアの蝶番に買ってきた機械油を差し込みながら言っている仙道に、牧はただ軽く一度頷くだけで返事をすませた。
思いがけずいきなり初日から人を泊めることになり、正直なところ牧は少し恥ずかしく思っていた。初めての寮生活で淋しいから友達を泊めたと思われやしないかと、寮母に言いに行く時も足取りが重く感じられていたのだ。
そんな牧の気持ちもなんのそのな仙道は、寮母に会うなり必殺スマイルをこれでもかと浴びせかけ、速攻で仙道の虜にしていた。
『牧君は初めての寮生活だってお母様から伺っているのよ。仙道君もちょくちょく泊まりに来てあげてね』などと言われ、二つ返事を返していた光景を思い出す。そこでも仙道は『もちろんです!!俺、牧さんの大親友なんですよー。大好きなんです』と、ハラハラするような台詞を口にしていた。しかしそこで自分がムキになって否定すれば、かえって二人がかりで攻撃されそうな雰囲気を感じ取り…今もこうして苦虫を噛んでいる顔をするしかないのであった。

寮母さんが貸してくれた客用布団を敷き終わってドアの方に目をやったとき、丁度ドアの調子を直し終えた仙道と目が合った。
「もうこれで音、しませんよ。これからここで特別なことなかったら…牧さんは六年間暮すんだよね」
ぐるりと部屋を見渡して、仙道はまた言葉を続けた。
「うんっと居心地よくしちゃいましょう。俺が来るたびにどこか一箇所ずつ改造して…その箇所をあんたが俺のいないときに見て…俺を思い出すように…」
最後の語尾は消え入りそうに小さくなっていた。淋しそうな笑顔を見せた仙道に牧はハッとした。
「お前…油買ったり、寮長や寮母にべらべら喋っていたのは…ひょっとして…」
「へへへ。今日、変えれる部分はそんくらい。次ん時はせめて照明くらい買い換えたいけどさ」
あいにく持ち合わせが今日はあまりなくてね、などと言って仙道はベッドに腰を下ろした。

俺は第一印象でよく人に怖がられてしまうところがある。多分、人見知りというものでもないが…俺自身、打ち解けるまでつい敬語を頑なに使ってしまうきらいがある。
一日でも早く周囲の人が俺に慣れてくれるようにと気遣ってくれたのだろう。余計なお喋りをと思ったけれど、本当は人とのコミュニケーションというのはそういうものから始まるもので。それをこいつは気遣ったのだろう。蝶番も、俺の出入りが楽になるようにと。
今頃気づいた自分が恥ずかしかった。一つ年下のこいつは、きっと俺よりも色々なところで様々な苦労をしてきているのかもしれない。また…こいつに守られていたんだ、俺は。

牧は静かに仙道の隣に腰掛けると、ゆっくりと仙道を抱きしめた。
「牧さん…。俺、一年後には必ずここに来るから。同じ寮は無理だろうけど。それまではできる限り…押しかけさせてよ」
「ああ」
「毎日俺を思ってなんて言わないから。一週間に一回くらいは俺を思い出してよ。んで、連絡とか、下さい。俺もいっぱいするけどさ…」
少しだけ頬を赤く染めて仙道はうつむいた。新生活のことで頭がいっぱいだった牧は、普段と変わらなく見せていた仙道の隠していた気持ち…これからは今までよりもっと遠距離の付き合いになってしまうことへの不安に気付いていなかったのだ。やっと恋を自覚したというのに…自分の鈍感さに牧は苛立ちを感じた。
「仙道。俺は恥ずかしながら…かなり、鈍い部分があるようだ。すまない」
「え…? ど、どうしたんすか、急に」
腕を解き、そのまま仙道を小さなベッドに押し倒した。きょとんとした瞳で牧を見上げている仙道を上から優しく見つめ、静かに言葉を降らせる。
「お前は数ヶ月前、俺が苦しんでいた時に『断った理由』をくれた。だから今度は俺がお前に『不安を断ち切れる理由』を、やる」

数ヶ月前の出来事は覚えているが、牧の言っている言葉の真意が読み込めず、仙道は不思議そうに黙っている。
その頬に、額に、鼻梁に。牧は静かに優しく唇で触れていった。
「今夜は…俺に抱かれろ、仙道」
驚いた瞳と意志を含んだ瞳が交差した。そのまま、驚いた瞳は幸せそうな瞳に変わる。
「あんたから…そう言ってもらえる日が来るなんて。俺、このまま死んでもいいかも」
「不安は断ち切ってもらいたいが、お前の命まで切らなくていい。大げさだぞ」
二人は瞳だけで笑いあった。細めた瞳の中に映るものは、大切な人だけで。ただ、それだけで。
ぎこちなく仙道のシャツのボタンを外していく牧の指は、にじんでゆく視界の中で揺れていた。

小さなベッドは二人の体重と動きに悲鳴をあげるため、すぐに下に敷いてあった布団で抱き合った。角部屋とはいえ、片方の隣室の者に聞かれないように二人、必死で声を殺す。
それでも漏れてしまいそうな時は互いの唇で唇をふさぐ。
吐息と汗がからみあう密室。今の自分達に似合いの、決して立派ではない小さな場所。
けれど、ここが。今日からはここが。二人にとって大切で特別な場所になる。
「ま…き…さん、俺…この部屋、好きだ…よ」
小さな小さな、消え入りそうな声で牧の耳元に唇を寄せて熱っぽく囁く。その言葉が牧の胸をさらに熱くさせる。
「俺もだ、仙道…」


淡いイエローグリーンのカーテンを透かして朝日が二人の顔に届いた。
時計を見ると、食堂の朝食利用時間が残り一時間というところだった。慌てて起き、隣で寝ている仙道を起こす。
「せっかく朝食頼んだんだ。辛いだろうが、起きろ。ほら、頑張れよ」
うーうーと唸りながら、朝が苦手な仙道は牧に支えられてなんとか起き上がる。床に投げ捨てていた自分のジーンズに足をのろのろと通す。
仙道は大体三回に一度の割合で寝起きがかなり悪い朝がくる。そのサイクルを最近になって知った牧は『今日がその日か…勘弁してくれよ』と朝からため息が出そうになってしまう。それでも手早く着替えなどを済ませる。

牧はタオルを握って一度部屋から出、ほどなくして戻ってくると濡らして絞ってあるタオルを仙道の手に渡す。
「俺は洗面所で洗ってきた。時間がない、お前はこれで顔を拭け。拭いたら飯にいくぞ」
「髪型…直してねぇよ、俺…」
仙道の手にあるタオルを牧は奪い、がしがしと手荒く仙道の顔を拭いた。されるがままにゆらゆらと揺れる仙道の体を支えながら。
「髪なんてどうだっていい! 後から直せるから。行くぞ!」
「牧さぁん…」
「何だっ!?」
「ケツ痛ぇ…」
「!!」
牧は真っ赤になってドアノブに手をかけたまま硬直した。昨夜の情事がぐるぐると脳裏に鮮明によみがえっては牧の顔に熱を送り込んで汗を出させる。そんな牧の様子も寝ぼけている朝の仙道にはまだ夢の出来事のようなもので。半開きだった目はまた閉じていた。
「…解った。お前はまだ寝てろ。俺が食堂の人にお願いしてお前の分を部屋に運んでくる。食事を無駄にしてはいけないからな」
「牧さぁん。えへへ、愛してますー。おやすみなさぁい…」
「うるさいっ!!寝ながら反省しろっ」
正式には今日からが寮生活のスタート。牧は最初からこれか…と、泣き笑いのような微妙な表情を浮かべ、朝日が入る廊下を早歩きしながら食堂に向かった。


それから数日間、食堂のおばさん達の間で牧の綺麗な箸さばきと見事な早喰いっぷりや、もう一食分を自室に持ち込んで食べたという朝からの大喰らいっぷりが噂になっていたのを、牧も仙道も知らない。




*end*




寮生活って経験がないんですが、友達の話を聞くと色々大変そうです。
さぁ、遠距離恋愛のスタート♪仙道、頑張れよー。←といって、大学生編を何回書くつもりか?(笑)



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