二ヶ月


喫茶店の中で深く広がる珈琲の香りにこうしてずっと二人で包まれていたかった。けれど時計の針はこれからの自分のしなくてはいけないことを早く切り出せとそれとなく告げる。牧は重い口を開いた。
「二ヶ月と少し、悪いが会わない。電話やメールも…特別な用事がなければしないで欲しい。勝手ですまん…」
「仕方ないっすよ。外部受験決めたの急だもん」
二人を第三者が見ていたならば、何か大きな不幸でもあったかのように見えたかもしれない。そんな表情で二人はしばし見詰め合っていた。

牧がどこを受験するのかを、仙道得意の軽い口調で訊いてしまえない雰囲気がそこにはあった。
悲しそうな微笑を牧が先に作った。今は言えなくてすまないという思いを瞳が語っている。
淋しそうな微笑を仙道が作った。気にしないでという強がりな気遣いの、いつもの笑顔を作れなかったから。

喫茶店を出ると冷たい夜が降りていた。街路灯の白々しい光が頼りなく点々と続く。人気のない静か過ぎる道だった。
何も言わずに牧が仙道の手を握った。極端に外での接触を嫌う彼がこうして自分から握ってきたのは初めてだった。それだけに喜びと寂しさが仙道を支配し、言葉を…せめて笑顔をと思うのに、何もリアクションを起こせないでいた。自分が相手を思うあまりにこんなにナーバスになる奴だったのかと驚きも同時に感じていた。きっとたった数ヶ月の間に、牧さんに変えられてしまっていたのかもしれない。

二人をつなぐ指がぬくもりを生む。その指をあと数メートル行ったらほどかなくてはいけない。牧は小さな声で呟いた。
「落ち着いたら…一番に会いに行く」
指にもう一度強く力を込めた。やっと自分が仙道に恋をしているのだと認めた途端にこれだ。会いたい・触れてみたい・その声と笑顔で満たされてみたいと願うことを覚えたばかりなのに。こんな時期に気付くのではなかった…辛いばかりだ。
こうして手を握るだけが今出来る精一杯で、それすらもうほどかなくてはならない。
「一番に…誰よりも先にですよ」
牧の想いが通じたかのように、仙道もまた同じ力を指に込めた。時期をわきまえずに突っ走った自分のせいだと理屈では解っているのに、それを口にして牧さんを楽にしてあげられない子供じみた感情。どうしようもないやるせなさに唇を噛む。
その唇にもう片方の牧の指が触れた。なぞるように動かされる指を、仙道は一度だけそっと食んでから離した。
「当たり前だ。 だから、待ってろ」
後はもう言葉も出せないまま…ほどかれた手を互いに冷たく感じながら、人気の多い道へと歩を進めるしかなかった。


たった二ヶ月という会わない期間を二人はそれぞれ必死に過ごした。
夢で会えた日の朝は、早く夢ごと忘れようとした。作り上げた自分の夢、偽りの相手を満足に思っていられるほど余裕なんて持てない。本当の存在が自分と同じ想いで待っているのだと。それだけを心に楔のように打ち込んで、優しい夢を振りほどく。
ただ、そんな夢にさえ意地をはってしまうほど…会えない辛さよりも、様子を知る事すらできないのが、辛かった。
交わす電話の声だけで今しなくてはいけないことを振り切ってしまうであろう自分達が解るだけに、こうするしかない不器用さをただ歯噛みして甘受するしかなかった。


三月に入り、春の淡い日差しが世界を満たしていた。───会えないでいる二人の心にだけは、春風すら届きはしなかったが。

いつものように仙道は一人で夜に体育館に戻ってきていた。通常の練習が終わって、福田が居残り練習をすませていなくなった頃に一人で戻る。そして守衛に帰宅するよう言われるまで我武者羅に練習をするのだ。足が彼の居場所を追わないように。
そうして疲れてくたくたになって、泥のように眠るために。指一本動かすのも億劫にしておかないと、携帯に手を伸ばしてしまいかねないから。

そんないつも通りの夜。学校を後にして、目も霞むような疲れに少し安堵しながら歩いていた時に、携帯が鳴った。
大切なたった一人の人専用の、紫の光がウィンドウに輝いていた。慌てて携帯を持ち直す。

『仙道? 俺だ。今、大丈夫か?』
「はいっ!! それより、終わったんすか!?」
『ああ。すまなかった。試験はとっくに終わってたんだが。どこにするか決定したのが今日なんだ』
「結果、訊いていいの?」
『なんだ、俺が落ちるとでも思ってたのか? 受けたところは全部大丈夫だった』
受話器の向こう側で牧の笑顔がある。笑うような声がそれを仙道に明確に伝えた。
「合格おめでとうございます!!」
『ありがとう。 なぁ、色々話したいんだ。お前の顔が見たい』
牧はずっと思っていた言葉を照れずに素直に言えたことが嬉しかった。それを喜んでいるのが解る仙道の明るい声がすぐに牧の耳に心地よく飛び込んでくる。
「俺も、俺もあんたに会いたい。今すぐ、すぐだよ!!来れないなら、俺が行きます!!」
『そう言うんじゃないかなと思って、な。 実はもう駅にいるんだ。あと15分くらいでお前のアパートに着くよ』
「嬉しいっす!! こんな時間に牧さんが会いに来てくれるなんて!!」
『言ったろ、一番にって』
「あ」
『俺、今日は携帯の電源切っていたんだ。他の予定が入らないように…』
「ありがとう、牧さん!!俺、今からちょっと走ります。じゃないと牧さんを待たせちまう。早く会って、直接話しましょう!!じゃっ」
『ああ。じゃあ、あとで』

素直な喜びの声。ずっと聞きたかった声を耳に響かせながら、牧は静かに電源を切った。
今までなら照れて言えなかった言葉がすんなり出たことにより、少し成長した気がした。言いたくても言えない辛さを学んだからだろう。

本当は二ヶ月ちょっとの間に…少しだけ、仙道の俺への気持ちが薄れているのではないかと思ったこともあった。俺よりも先に恋心というものを急速に高めていたらしいから、冷めるのは早いかもしれないなんて。そう思うどこかで自分と同じように強く求める気持ちに燃やされて苦しんでいるのではないかとも。
けれど、どちらに仙道の気持ちが傾いていようと、俺のとる行動はもう決まってしまったから。
想いが薄れているなら、再び燃えさせてみせよう。求めているのなら、与えよう。
もらった二ヶ月ちょっとの時間。その間に俺は決めたから。 もう迷わない。お前とこれから先も一緒にいることを選ぶ。この恋を、俺は信じる。


走りながら頬を伝うものが汗ではないことに口元が笑いの形をつくる。これほどまであんたの声が聴きたかった自分がいる。平静を装って、この恋情を押し隠す必要すらない。会わないで耐えたことで、あんたは俺の本気を少しは解ってくれただろうか。

本当は二ヶ月ちょっとの間で、牧さんが俺へ抱きはじめた恋心を忘れてしまっているかもと思ったこともあった。一度体を合わせただけの、俺だけが突っ走ってしまったような関係。それでもその後に見せるようになった瞳の優しさや、自分から握ってくれたあたたかな手を思い出すと、大丈夫だと思ってもいた。
けど、どっちにしたって俺は牧さんを離せない。二ヶ月ちょっとの会えない時間で、ただひたすらに相手を想って耐える苦しさが…これが恋ではなく愛になっていたことを教えたから。
存在を確認できない時間をもう耐えるしかできないのはごめんだ。逃がさない。手に入れる、あんたを必ず。そして離すまい、どんなことをしてでも。俺に捕まえられて幸せだと必ず思わせてみせる。


車のライトを背に受け黒々とした人影が、別の車のライトを正面から浴びた男へと走る。白光を放つようなその人物もまた、闇を纏ったまま駆けて来る男へと走り出す。
空気を裂いて、何もかも振り捨てるかのように。 ただ互いをまっすぐ見つめて。
光と闇が互いを引き寄せあうかのように。





*end*




たった二ヶ月連絡とりあわないだけで大げさ?? でもね。恋する二人には
二ヶ月という時間はすっごく長く感じると思うのよ。青春じゃのぅ…(笑)


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