正月も過ぎ短い冬休みも明日で終わる日。外部受験を受ける事に決めた牧は冬の選抜出場を辞退していた。
海南大に進むこともバスケの推薦で別の大学に進むことも考えなくはなかった。が、結局は推薦枠を設けていない東京の大学を受験するという、最初の結論にたどり着いていた。
珍しく自分にしては踏ん切りをつけるのが遅かったものだ…と、牧は時計を見てデスクスタンドのスイッチを切った。
まだ夕方だというのに、いつ降りだしてもおかしくない雨雲が空を覆っているせいで、一つ電気が減っただけで部屋の中は淋しいくらいに暗くなった。
休憩をとるべくベッドに横たわってみる。眼を閉じるとこのところいつも同じ人物の顔が浮かんでくるのがわかりきっているので、眼を閉じる事ができない。体を回転させてまたじっとする。静かな室内のせいで耳にまたあの声と言葉が聴こえてくる。
『あんたは俺が好き』
耳をふさいでも無駄なことを承知でふさいでしまうが、勝手に思い出しているのは自分なのだと思うと恥ずかしくてまた手を離してしまう。
『俺と熱を共有できるくらい』
声と一緒に蘇る、初めて受けた耳への、首筋への、胸への愛撫を体が思い出してしまう。じりじりと焦げていくような感覚に体が勝手に熱を抱く…。この火種を植えつけたやつの顔を思い出したくないのに、また眼を閉じてしまい、鮮明に浮かび上がらせる。それをまた消すために眼を開く。 馬鹿みたいな繰り返し。こんなんでは休憩の意味もない。
ため息をつき、休憩にならないならと机に向かう。 携帯が目にはいった。
正月で実家に帰省している仙道から何度も来た電話。その電話口で何度も叫んでしまいたかった。
俺の体を元に戻せと。この火種を消してくれと。
しかし、電話で聞こえてくるやつの声は悔しいくらいに日常モードで、俺だけがずっとあの夜に囚われていることを悟らすのをためらわせた。
携帯のウィンドウが緑色に明滅し、着信音が短く流れた。あの色は…部活の奴等用だ、確か。
仙道からの連絡は青色に明滅する。勝手にあいつが設定したのだ。
……俺は、今、何を考えた?
メールを見ると、神からだった。『今、牧さんの家の近くにいるので5分でいいから会えないですか。会えそうでしたらレス下さい。』
電話で聞けばいいのにと思いながら、特に用事もないので『今、出れる。』と返してコートをはおった。
玄関を出て左右の道に視線をはせると、左手から神らしき長身の男を見つけ、牧は片手を上げるとゆっくり歩き出した。
30分後、神と別れてまた自宅の自室に戻ってきた牧はコートも脱がずにベッドに伏した。
しばらくして起き上がると、財布をポケットに突っ込んで階段を駆け下りた。家人に「出かけてくる。遅くなるようなら連絡入れる」と言い残して。
駅のホームを出ると、雨が降り出していた。冬の冷たい空気を雨が凍らせていくように、牧の表情もまた凍りついたままだった。
売店でビニール傘を買う。こんな小さなもので強さを増した雨も寒さも防ぐ事はできないことを解っていたが、せめてこのマフラーだけは…と、開く。そして勝手な願掛けをする。もしマフラーが雨に濡れなかったら…仙道は家に一人でいる、と。
一度、ぎゅっと細い柄を握り締めて、牧は白い息を吐きながら暗い中へと走り出した。
街路灯が一本だけ点灯しては消える。そんなものにさえ不安を感じるのは、先ほど見た神の消え入りそうな笑顔のせいなのか。泣いてくれればいっそ良かったのかもしれない。そうしたら、俺は神の震える肩を引き寄せるくらいはできた…のか?
混乱した頭でする思考はなににも形づかない。こんな時に勉強したって集中できるはずもない。
胸の火種を広げないようにするので精一杯だった俺に、神の気持ちを慮る事はできやしない。あれ以上どうすることができた?
仙道の住むアパート。二階の窓をはしから祈るように数える。1…3…5。 電気はついていなかった。
マフラーにそっと触れる。あの日の帰りに『渡せなかったから、今頃ですけど』と照れながら仙道がくれたクリスマスプレゼント。俺が以前、彼女にクリスマスプレゼントを正月に渡した事を聞いていたあいつは…覚えていたのかな。
「…濡れていないのに…な」
ぽつりと口から出た無意識の言葉がことさらに痛みを訴える。
くだらない勝手な願掛けに口元だけで牧は笑った。帰宅するのを待つか、待たないか。電話を入れる気だけは何故か起こらなかった。
ふいに5つめの窓に光が宿った。黒い大きな影がカーテンを引いて、白かった光は水色に変わる。
駆け出していた。
「わぁ。どしたの牧さん。すっごい濡れてるよ。早くあがって」
玄関で帰ると言った牧の手をとった仙道は、その冷たさに振り向いた。口を開きかけたが何も言わず、今度は牧の肩に手をかけると強引にコートを脱がせてあがらせた。
仙道はベッドが濡れるのもかまわずに牧を座らせ、バスタオルを渡す。緩慢に拭いている様子に少し安心してキッチンに戻る。ミルクがなかなか沸かないことに苛立ちを覚える。早くあたためたいのに。
火を強めてしまったせいで、ちょっと泡だってしまったホットミルクを手荒くマグカップに入れて牧の手に握らせる。
飲もうとしないけれど、暖をとっているのか、じっと両手で持っていた。湯気が少し減ってきてやっと数口飲んでくれた。
外での彼は年齢よりも落ち着いているように見えもするというのに、今こうしている姿は傷ついた子供みたいに思えた。
「…理由は言わなくていいですよ。でも、泣けるんだったら、今泣いた方がいい」
甘える事が苦手な牧さんには無理な申し出だったかもしれないけれど、言わずにはいられなかった。
牧の手から湯気のでなくなっていたマグカップをとってテーブルに戻し、仙道はゆっくりと牧の頭を胸に抱えた。
「…仲間だから。そんな理由しか言えなかった」
「うん」
「でもお前を思えば…同性…ライバルだから…そんな理由はおかしくて」
「うん」
「あんな顔をさせない方法くらい、あったはず…」
仙道の胸の辺りからくぐもった牧の声が小さく途切れ途切れに零れていく。きっと自分に厳しいこの人のことだから、あいまいにしか話せないでいることに対してまで苦しんでいるのではないだろうか。
だとしたら。多分無意識で泣き場所を俺に求めてくれたのだとしたら。
「今まで牧さんは沢山の人に告白されてきたはず。でもね。断ってこんだけ傷ついたのはそんなにないでしょ。多分ね…その相手はそれだけで嬉しかったと思うよ」
ぴくりと牧の肩が震えた。その肩ごと引き寄せて胸に収めながら囁く。
「相手を嫌いじゃないのに、断らせたのはね、俺ですよ。だから…あんたが傷つくことはないんです」
「…お前のせいにしたくて来たんじゃない」
「解ってる。あんたは俺に告げにきてくれたんだ。牧さんは俺が好きだってね」
腕の中の重みが先ほどより自分の体に感じられるのは、それを肯定してくれたのだと思わせてもらう。
「断った理由がまだ足りなくて辛いでしょう? いつもの顔でその人にまた会うためにも、あんたはもっと俺に愛されていることを知る必要があります」
濡れてしまったベッドの布団を床に落として。スプリングのきしむ音と衣擦れの音。涙の代わりに互いの肌を伝う汗。荒い息づかいの中に混じる切なげな吐息。苦しげにゆがむ表情の中に時折浮かぶ妖艶な薄紅色。
互いの名前を呼ぶこと以外に唇は言葉を話す機能は忘れたよう。
くすぶりつづけた火種は業火と化して互いを包む。二人で燃えて落ちることに、畏れはもうなかった。
炎が駆け抜けていくその瞬間、全てに後悔はなく、全てが自然であることを、知る。
何度もこれからこの炎に二人、身を投じていくことになるだろう。
そしてその度に新しく生まれ変われることを、確信する。
最後に牧の唇が模った言葉は───音をもたなかった。
「…辛かったですか?大丈夫?」
心配そうに牧の髪を仙道の指が梳く。
「もう辛くない。…体は、少々辛いけどな」
「少し、寝たらいいですよ。明日にはもうあんたも、俺も。今日傷ついた人も、いつもの笑い方を思い出せるようになるから」
「仙道…俺は……」
「さっき言ってくれてたから、ここで。もう解ってるからいいですよ。 今度の時、笑顔でまた聞かせて下さいね」
ゆっくりと仙道は牧の目蓋に指をのせて閉じさせる。目を閉じて牧は自分の腕を仙道の腰に回して引き寄せた。
幼い頃、母の胸で泣いた。そして今、俺はこいつの胸で啼いた。
自分の弱さをみせられたということ。許されるということ。許すということ。
神、お前にあんな淋しげな笑顔を作らせた俺に願う資格はないかもしれないけれど。
早くお前だけのあたたかな胸が用意されることを、祈らせてくれ。
ありがとう、神。 俺に弱さを教えてくれて。
ありがとう、仙道。 俺にお前の胸を与えてくれて。
牧の脱いだコートの上にいつの間にか落ちてしまったマフラーは、室温でぬるまったコートの雨水を含み、濃いボルドーへと変わっていた。
*end*
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