あと数日で年も変わろうかという忙しい日々の合間をぬって設けられたささやかな飲み会。大人数の海南大附属高校バスケット部員の中でも半年間継続してベンチ入りを許されたものだけが集まる、大半のバスケ部員にとっては憧れの「半年間お疲れさん会」が今日だ。
そんなものがあるのかと牧さんから初めて聞いたときには驚いたものだけど、陵南で言えばスタメンのいつものメンバーでよく魚住さんの所(魚住さんの家は寿司屋兼居酒屋を経営しているのだ)でやる飲み会のようなものだと内容をよく聞いていて納得した。
練習が厳しいとか居残り練習する奴がいるとかそういう理由だけではなく、海南は半分の生徒が寮生であるから飲み会などはほとんどしないらしい。それだけに半年に一度の少数メンバーで飲み会は監督黙認でもあるためかなりの盛り上がりをみせるようだった。
『だから…俺が酒が弱いこととか笑い上戸癖があるとかは、ほとんどの部員は知らないんだ。お前も言いふらすなよ』と恥ずかしそうに俺を睨んだ牧さんの顔を思い出し、俺の口元は笑いにゆがんだ。
師走に手伝って土曜日ということで、当然街はごったがえし人込も相当なものだった。こんな時に用事もないのにのこのこと街に出るのはバカのすることだと思っていたけど…。
月にニ回ほど土曜の午後から会い1on1をするようになって二ヶ月ちょっと。その度に俺はあの手この手で『今日は飲まないで帰る!』と会うと必ず言う牧さんに酒を飲ませて俺の部屋に泊まらせていた。会った回数こそ少ないかもしれないけど、ヨッパライになって通常より素直で饒舌になってくれるから確実に会う度に俺への警戒心というか…距離のようなものはなくなっていったように思える。
だからこそ今日会えない理由も詳しくこうして…二次会の店まで聞き出せたんであって。こんなに涙ぐましい努力をしている俺は呼ばれてもいないのにカラオケBOXのトイレに一時間もぼんやり篭っているけれど、バカじゃあない。これも立派な用事なんだ。酔っ払った牧さんを家(できれば俺の部屋)に無事送るためなんだ……って……やっぱとてつもないバカだよなぁ。
恋は人をバカに変えるのか。 ん?でも俺、牧さんに恋する前から越野に毎日バカ呼ばわりされてるよなー。あれー?
あまりの退屈さに誰もいないトイレで鏡に向かって一人百面相をしていた時、廊下から声が聞こえてきて仙道は個室にまた戻った。
扉が開いて三人ほどの声がする。牧さんと神と…誰だ? 牧さんの笑い声と一緒に水音が聞こえる。
「神。吐くなら個室で吐けよ。洗面台使うな、片付けめんどうだ。牧も笑ってないで手伝えよ」
「こいつが変な冗談するから自業自得だ。あっはっは」
「…だ、い、じょうぶです…。顔洗ったら痛みも少しは…」
「神、もう帰れよ。牧のパンチは後から響くぞ。お前の家の方向の奴は……武藤か。俺、武藤に言ってくる」
扉が閉まる音の後、少しの静寂。それから牧さんが「俺じゃなくて武藤の手でも握って帰れよ。もう一度殴られたいか?」と面白そうな声音で言っているのが聞こえて、俺は背伸びをして個室の上の隙間からその様子を見ようとした。
神奈川合同合宿の時に隣に立っていた神が離れた位置にいた牧さんを見つめていた。その目と以前に部員の話の最中、神のことを鎌かけた時に言葉を止めた牧さんの困惑した目が俺の感覚をざわつかせる。今日こんな場所に来てしまった本当の理由をはっきりと自覚せざるをえなかった。
「や…だなぁ、今のはふらついたからですよ。もう一回あんたのパンチくらったら歩けなくなることくらい解ってます」
「はっはっは。俺の拳の味は何度も体験済みだもんな」
どうやら何事もおきそうにないと思ったので、俺は隙間から覗こうと体を不安定な状態に伸ばしていたが、やめた。
それから数人の声が入ってきて聞き分けができなくなって数分後、扉の閉まる音と一緒に急に静かになった。
「仙道ー、出てこいよ」
いきなり呼ばれて俺はびっくりして身構えた。
「大丈夫だ。俺しかいないから。いつまで個室に篭ってんだよ。便所の彰さんか。あははは」
俺は初めて名前を呼んでもらったのがトイレの花子さんと同レベルというのが悲しくてうらめしそうに鍵を開けた。
「いつから俺がいるって知ってたんすか?他の奴等は?」
「他の奴等は三次会と帰る奴とに別れて出てった。俺はいつも三次会はパス組だ。お前は…」
いきなり牧さんは体を二つ折りにして大爆笑しだした。このヨッパライさんはもうー。
「おっお前のその変なツンツン頭が個室の隙間から揺れてて、俺、笑いをこらえるのに必死で…」
また盛大に大爆笑された。途中で変な草が揺れてるみたいだっただのと失礼なことを言ってはウケていた。
「だってしゃーないじゃん。神に牧さんが襲われたら俺が助けなきゃいけねーですもん」
「バカだな、お前。俺は身長は負けててもお前等に当たり負けするようには鍛えてねぇんだよ」
グッと握り拳を目の前にあげてにやりとされた。確かにこれをまともにくらったら俺でもダウンをとられるだろう。
「牧さんはさ。手を握られたりしたら殴り倒すんすか?いつも?」
「おう。俺はその手のジョークは嫌いだからな。昔は我慢も少々したが、最近はもう面倒で速攻倒すことにしている」
楽しそうな可愛い笑顔で恐ろしい事を口にしている。きっと海南のメンバーの中に数人は牧さん狙いの奴がいるのかもしれない。しかしどうやら牧さんは全てをジョークと取り違えたまま拳でねじ伏せてきたらしい。色々な意味で凄い人だ…。
そこまで話していて俺は急に不思議になって訊いた。
「じゃあ、何で俺があんたを抱きしめたりキスしたりしても殴んないんすか?」
鳩が豆鉄砲をくらった時の顔、という表現はこういうときに使うという表情をして牧さんは固まった。俺は一応牧さんが拳を振り上げたら速攻避けれるように少しだけ身構えた。
しかしいつまでたっても拳は振り上げられず、牧さんは急にくるりと俺に背を向けて小さな声で言った。
「お前のは…『冗談じゃない』って最初から…言ってた…から…かな…」
鏡に半分だけ映っている牧さんの床を見つめるかのように伏せた目蓋が赤く染まって震えていた。言ったあとに唇を噛んで眉をひそめるその表情に俺は釘付けになって言葉を出せなかった。
背後からゆっくりと抱きしめた。高い体温が腕に直接流れ込んできたことによりやっと声が咽から出てくれた。
「そうですよ…俺がこうしてあんたを抱きしめるのも…」
牧さんの頬にそっと唇で触れる。腕の中にある体が少し固くなったのがわかる。
「こうして触れてしまうのも。全てあんたを本気で好きだからですよ」
耳まで赤く染めながら牧さんは瞳を閉じて頭を垂れた。露になった褐色の項に唇を寄せるとむずがるように体をゆすらせた。
「牧さ」
俺の言葉は途中からいきなり頭をそらし真っ赤になって爆笑する牧さんに驚いてまたも止められてしまった。
「べ、便所で何を甘い言葉をささやいてんだお前はーっ!!こっぱずかしーんだよ!!」
離れろ、こんなとこで何する気なんだなどと言いながら俺の腕から体をはずすと牧さんは笑いながらトイレを出て行ってしまった。
泣く子と何には勝てないって言うんだっけ? 俺が勝てないのは何よりもこのヨッパライ牧さんかもしんねー…。
一応トイレから顔を出して廊下を見たが誰もいないようなので出て、一度も使っていない室料を支払い店を出た。
外は流石に人数も減り、街頭の光が寒い空気をさらに冷たく照らしてるように見えた。先に出て行ってしまっていた牧さんを追おうと左右の夜道に目を走らそうとした瞬間。
後ろからどつかれてよろめいた。慌てて振り向くと店の明かりを背に黒いダッフルコートを着た牧さんが腕組みをして立っていた。
「遅い。寒い。酔いも冷めちまったじゃねぇか」
そっけない台詞をいつものポーカーフェイスで言おうと頑張っているのがありありとわかる牧さんの表情に気付かないようにするのに苦労した。
「すんません。酒が残ってないとこの寒さは辛いっすよね。じゃあ、早いとこ帰りましょうか」
自分の話す息が牧さんの回りを白くぼやけさせる。その顔が少し困ったように見えた。
「……俺の家より、こっからならお前の家の方が近いよな」
信じられないような言葉。本当は俺の家の方が少し遠い。変な展開でまだ俺は牧さんを誘う言葉を作っていなかったのに…。
「そうっす。さ、早く帰ってあったまりましょう」
手を差し伸べるとパンっと手を軽く叩かれた。やっぱりそうは上手くはいかないよね。
牧さんは寒いのかいつもより早い足取りで駅の方向へとさっさと歩き出した。俺はにやけた顔を隠す必要もないのでそのまま後をついていった。
駅に近づくにつれてまた先ほどよりは人も増えネオンがキラキラと賑やかになってきた時。牧さんは隣に追いついた俺の顔を見上げた。
「お前の笑った面は…あったまる」
小さく、俺にだけ聞こえるように苦笑交じりに言ってくれたその一言で、牧さんを見つめて笑った形のままだった俺の表情筋は硬直し血が昇った。多分盛大に赤くなっているであろうことは牧さんの驚いた顔でわかる。カッコ悪くてついつい余計な一言が出てしまった。
「俺の胸ん中はもっとあったかいから。今日はここで寝ませんか?」
これ以上照れた顔を見られないようにぎゅっと牧さんを抱きしめた。
次の瞬間、眩しかった店頭のネオンも街頭も全てが激痛と共にブラックアウトした。
「往来でふざけるな!!」という牧さんの怒鳴り声が頭上に。眼前には牧さんの靴があった。すきっぱらに響く強烈な拳を初めて経験してしまった俺は、胃液が咽に溢れそうになるのをこらえながら一瞬だけ神を哀れに思った。酒が入った腹にこんなのくらったら…間違いなく路上に生のもんじゃやきを作り出していただろうことは楽に想像がつくってもんだ。
しっかり油断していてガードもなにもしてなかった俺の体は…三日たった今でも三箇所にある紫色のアザが消えない。
*end*
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