夕暮れが近い事を感じさせる薄くなった光。先ほどまではなかった風が街路樹の葉を揺らしていた。コンクリートの打ちっぱなしの粗末なコートに二人の影が長く伸びている。
何回目かもう解らないリングを通るボールのたてる音を聞いて仙道は盛大に息を吐き出した。
「もうやめましょーか。風が冷たくなってきた気、しません?このまま続けて風邪ひいちゃ意味ねーですし」
風が吹いてもあまり揺れない仙道のツンツンと逆立ててある髪を見ながら牧も細く息を吐いた。
「そうだ、な。汗がすぐに冷えそうだ…。もう秋なんだなぁ」
時間を忘れて熱中していた二人にとって初めての1on1。二人で名残惜しそうに空を見上げる。オレンジ色の光が徐々に水色の空を染めようとしていた。仙道は転がっていったボールを拾い上げ、無造作に放り出してあるドラムバックに押し込んだ。牧も自分のデイバックからタオルを取り出して汗をぬぐう。ニ本タオルを用意してきた方が良かったなと小さく無意識で呟いていたのを仙道が耳ざとく拾った。
「これから一回俺んトコ来ませんか?シャワー浴びてさっぱりしてから飯食いに行きません?」
「…いきなり初めてやって来た息子の知人がいきなりシャワー借りるってのは…」
「? 俺、一人暮らしっす。狭いとこですけど、一応ユニットバスついてるんすよ」
仙道は言いながら自分のTシャツをひっぱりあげ鼻元に近づけ、顔をしかめた。牧も自分のTシャツの胸を見下ろし汗で色が変わっているのを見てから仙道の方を見やり、頷いた。
簡易バスケットコート──そう呼んでいいのかどうか定かではないゴールが一つしかない空き地の一角──から仙道の住んでいるアパートまでは距離があった。のんびりとちょっと気だるい感じで歩きながら、特にどうということもない話をポツポツ話しているうちに部員の話になっていた。
「じゃあ、一番疲れる相手ってーのは、元気すぎる信長君になるんすかね」
「いや…あれはうるさいけど思考が単純で指導しやすいよ」
「なるほどねー。…神君って…思考複雑そうですよね」
伺うように牧を見ると図星なのか牧はちょっと驚いた顔をして、そのまま黙ってしまった。丁度仙道のアパートに到着したのでその会話はそのまま宙ぶらりんのまま終わった。
一人暮らしの友人の部屋は色々見てきたが、仙道の部屋はお世辞ではなく綺麗に片付いている部類に映った。
「お前ってけっこう小奇麗に暮らしてんのな」
「あー、よく言われるんすよね。ほら、俺ってちゃらんぽらんなとこあるから、部屋もそうかと思われるみてーで」
8畳一部屋と通路兼台所といった作り。台所と背中合わせにある扉を指差して仙道は言った。
「そこがユニットバス。狭いんで気をつけて。あるもん好きに使って下さい。あ、バスタオルは…出しておきますから」
まさかシャワーを借りると思ってもいなかったので替えの下着の用意もなかったが、浴びないよりは浴びた方がスッキリはする…と、何も用意するものもない牧はそのまま手ぶらで中に入る。
洗面台とトイレと小さい湯船が一緒の狭い空間。吸盤で貼り付けられた二つの棚には髭剃り・ムース・歯ブラシにボディーソープ・シャンプー・リンス。他、…無駄なものが全くないのが本当にビジネスホテルのようだった。
最初は人の家の風呂と思い緊張していた牧であったが、あまりに簡潔なそこはホテルの風呂を使っている時のように錯覚させられ気付かぬうちにリラックスをして自由に使ってしまっていた。
その頃、仙道は湯上り用にとオレンジジュースにビールを注ぎ、怪しげなビールベースのカクテルを作っていた。まだ味の好みも知らないが、大体の友達や女の子はこれを出すと喜んでいたから、きっと牧も喜ぶであろうと思ったのだ。
牧と1on1の約束をしてから仙道はこの日を自分でも驚くほど楽しみにしていた。何とか上手いこと部屋まで引っ張り込めないかとばかり算段していたので、今日の流れは計画通りで自画自賛したい気分でいっぱいだった。思わず鼻歌の一つでも歌いそうになったとき、バスルームから小さな歌声が流れてきて驚いた。思わず両手で口元を覆う。
『こっ、これはもしや牧さんの歌声じゃねーの!? すっげリラックスしてねぇ?? …うはー…可愛いぜ』
もともとちょっと下がり気味の眉毛を盛大に下げながら仙道は今度はガッツポーズをかました。この調子ならばいい流れを作りさえすればキス以上…最後までやっちまえるかもしんねぇ、と、急いで最後のための用意をしだした。
「おいー、バスタオル貸してくれよ」
牧は扉から腕だけを出して声をかけた。色々と違う用意をしていたためにバスタオルを失念していた仙道は慌ててクローゼットから引っ張り出すと渡しに戻った。牧の濡れた腕をバスルームの黄色っぽい光が照らしていて、仙道の胸はドキリと鳴った。
渡すと「サンキュ」と言ってすぐ引っ込んでしまったが、仙道の動悸は簡単には引っ込んではくれなかった。
綿パンだけを履いて出てきた牧の見事な褐色の上半身はまだ汗が伝っており、仄かに柔らかな湯気があがっていた。上気した頬がまたいい感じだった。
『…う…美味そうだ…っ』と、仙道は瞳を輝かせててっぺんからつま先まで見てしまったが、牧は初めての部屋が珍しいのか気付かずにキョロキョロとしながら髪を拭いていた。無防備な牧さんをこんな眼で見ちゃう俺は、やっぱ先日のあのときからホモになっちまったんだな…などと今週何度も思っていたことを再確認。
「これでも飲んでゆっくりしてて下さい。部屋にあるもんは何でも使っていーっすよ。あ、これどうぞ。んじゃ俺も入ってきますから」
仙道から渡されたのは新品の、まだ値札のついたままのTシャツだった。1,980円…。細やかな気遣いのような、どこか抜けているような仙道の行動が押し付けがましくなくありがたい。値札をとって牧は小さく「ありがとう」と言って素直に着させていただくことにした。
片づけが上手いとかいうのではなく、ただ物が極端に少ないんだな…と、部屋をぼんやり見回しながら冷えたジュースをもらう。
「う…美味い…」
思わず口に出してしまうほど美味しかった。湯上りだからというのを差し引いても美味い。オレンジジュースなのに何か違う。牧の家にもある麦茶入れのプラスチックの入れ物とそっくりなそれになみなみとジュースは入っていた。これはお代わりをしろということなのだろう。だが、一応声だけはかけてみる。
「仙道ー、このジュース、飲んじまっていいのかー?」
シャワーの音が止まり、「いいっすよー。全部飲んじゃって」と笑い声と一緒に返された。
仙道が部屋に戻ると牧は心なしか湯上りの時より赤い顔をしてベッドに腰掛けていた。ソファのない部屋なのでベッドしか座るものはないのだから当然なのだが…その横顔がなんだかいつもと違う感じがした。小さいテーブルの上にはオレンジジュースが少し残った入れ物と空のコップがあった。
「Tシャツ、サイズちょうどいいみてーっすね。それ、今日の記念にあげますよ」
隣に腰を下ろすと牧がくるりと仙道の方に向いた。
「何の記念なんだ?」
「え? …初めての1on1の記念とか。もしくは二回目のデートの記念とか」
一瞬きょとんとした牧は、いきなり仙道の顔に指をつきつけて笑い出した。
「あははは!!そーか、二つも記念とはこれはめでたいな!!あはははは」
仙道はあっけにとられてポカンと牧を見つめた。牧は自分の言葉にもウケたのか更に笑い転げてベッドにつっぷした。
「ま、牧さん?大丈夫ですか?? ひょっとして…あのジュースで酔ったとか言わないですよね」
「ああ、あのジュース美味いな。今度俺も買いたい。どこのメーカーだ?」
「あれは俺が作ったんすよ。100%オレンジジュースとレモンとはちみつと軽めのビールでできますよ」
「あーっはっは。凄いなお前、ジュースも作れるのか!!ジュース屋仙道か。あははははっ」
…ヨッパライだった。今俺の目の前にいるのは笑いすぎて赤い顔になっちゃった、酒のまわった陽気な男だった。そんなにアルコール度数も強くない、俺にしたらただのジュースみたいなもんだったのに。この人、見かけによらず酒弱いんだ…。
ベッドにでれんと横たわってくっくとまだ笑っている牧を仙道は上から覗き込んだ。すると、牧も仙道を見上げてきた。瞳がうるんでいる。その瞳をみたとたん、あっけにとられて忘れてしまっていた当初の予定を思い出した。ヨッパライ相手にどこまで実行できるか定かではないが、とりあえず訊くだけ訊いてみることにした。
「…ねぇ、牧さん。俺ね、前も言ったけどあんたに本気になっちゃったんすよ。だからさ、キス、させてくれない?」
「キス? お前と俺が?」
「うん。美味しいの、しようよ」
「あははは。美味しいやつか。そうか。じゃ、美味しいの頼む」
ムードも何もへったくれもない、笑い上戸のヨッパライは解ってるんだかないんだかでまた笑っている。それでも了解は得たから酔いがさめても俺を叱り飛ばせないだろう…と仙道は決心すると、テーブルにあった少しのジュースを口に含んでゆっくり飲み干す。
そのまま笑う牧の顔を両手で包み、ゆっくりと唇を重ねた。柔らかな唇を舌で割ると深く深く重ねて舌を絡ませる。初めて触れた唇や舌。オレンジジュースの香りと重なって牧の吐息がかすかに漏れる。想像以上の優しく甘美な感覚に酔いしれる。
抵抗をされなかったのをいいことに、仙道は牧の息が上がってしまうまで続けてしまった。
唇を惜しみながらも離すと、牧の小さいため息が聞こえた。ゆっくりと開かれた目蓋の淵は頬よりも赤く染まっていた。
「…美味しかったでしょ?」
「…ん…そう…かもしれん…が、」
言うなり、牧は上体を起こすと仙道に覆いかぶさってきた。体勢を変えられ、今度は仙道が下になる。
「俺は、されるよりするほうが好きなんだ」
いきなり顎を上向かせられると、牧は仙道に唇を落としてきた。濃厚なキス。まさか最初からこんなに飛ばしていいだなんて思ってもいなかった仙道は計算外の大ラッキーに牧の背に腕を回しながら応えた。俺だってキスは上手いんですよといわんばかりに応えると、牧も角度を変えてくる。痺れるような甘さが全身を駆け巡る。いつしか仙道の下半身はこれからくる歓喜の時を予想して高まっていった。
急に牧が上体を仙道の上からはずした。いきなりなことだったため、仙道は口は半開き、腕は宙ぶらりんのままで牧を見つめる。と、
「…お前、なに考えてんだ。硬くしてんじゃねーよ」
言うなり牧は仙道の股間に膝を押し当ててグリッと回した。一瞬にして仙道の血の気は引き、声も出せないままうずくまった。牧はそんな哀れな仙道を満足そうに見下ろすと、また楽しそうに笑って隣につっぷして眼を閉じた。そしてにこやかな笑顔のまま…寝てしまったようだった。
同じ痛みを知る男同士、手加減をしてはくれていたのだろうが、それでもあまりに酷い仕打ちに仙道は恨みがましい眼で隣にある穏やかな寝顔を睨みつけた。…が、その薄く開いた赤い唇を見てしまっては、もう睨むことすらできなくなって苦笑いを零すしかなかった。
一時間ほど経った頃、牧はTVの小さな音で眼を覚ました。ぼんやり室内を見渡す。知らない部屋に仙道がいた。
「水、飲みます?それともさっきのジュースがいいですか?」
ふざけた口調で言われてようやく牧は先ほどまでのことを全て思い出して青くなった。
「顔色変わったところを見ると、酔いも冷めたみたいですね。ちょっと心配だったんですよ」
ニコニコと水を差し出しながら言われて、赤くなるやら青くなるやらで牧は複雑怪奇な表情のままベッドに正座をした。
「すまん…。俺はお前の冗談にのっかってとんでもないことをした。どうか犬に噛まれた…いや、その表現も適切ではないだろうが。とにかくそうとでも思って水に流してくれないか」
深々と頭を下げる牧を仙道はコップをテーブルに戻すとゆっくり抱きしめた。
「水になんて流せないですよ、もったいない。それに俺、冗談なんて言ってない。こんな嬉しい事をどうして忘れる必要あるんです?」
「俺は…あの時、お前の気持ちだとか自分の気持ちだとかそんなものは全く頭になかった。ただの酔っ払いだったんだぞ」
「いいですよそんなの。ジュース…いや、酒飲ませたのは俺だし。最後の膝さえなきゃ最高でしたよ」
仙道はあれは痛かった…と苦笑いしてみせると、牧はすまなそうに眼を泳がせた。
とりあえず時間も時間なので食事に出かけることにした。
外は暗く、少ない星が雲にまぎれてまたたいていた。洗いっぱなしで寝てしまったため、寝癖がついてしまった髪を風が揺らしてゆく。仙道の髪は牧が寝ている間にセットしなおしたのか、いつもと変わらぬ風にもあまりなびかない髪型に戻っていた。
そういえば仙道が髪を降ろしたのは初めて見た気がする…のに、残念にもあまり記憶に残ってはいなかった。顔ばかり見ていたような気がする。
そこまで思って牧はまた先ほどの失態を思い出してしまい耳が熱くなってしまった。
酔っていたとはいえ、好きでもない人…しかも男とキスをするなんてあり得ない。部活での飲み会でもその手の冗談をふっかけられても鉄拳一発で黙らせてきた牧である。この手の冗談は嫌いであるにも関わらず…あまつさえ自分から押し倒していたなんて…。冷静になった頭にぐるぐると答えを出すのが怖い判断材料だけが渦を巻く。
そんな牧の状況を全く気にしない仙道はちょうしっぱずれな歌を歌いだした。
「♪今のまま感じたまま 自信満々のまんまで そのまま勝手気ままにやる気満々でいてよー 僕のために oh 僕のために yeah」
トゥルルル…トゥルルル…yeah yeah…
「…何の歌だ?自作か?」
「いーえぇー。タイトル知らないけど、俺の作ったんじゃないすよ。いい歌でしょ、俺、好きなんす。MD貸しますから聴きません?」
「……うん」
中華屋の明かりが見えてきた。どうやらあれが仙道オススメの手作りもちもち皮の餃子がある店らしい。
ぼんやりしていた牧に仙道は言った。
「牧さんって色々考えすぎだと思うな。こないだも思ったけど、もっと勝手気ままでいいんじゃないすか?俺は酒が入って勝手気ままな牧さん好きですよ。考えてる牧さんももちろん好きだけど、俺といるときは“帝王”じゃなくていーじゃないすか」
へらへらと笑うその顔を見ているとキスぐらいで真剣に考えている自分がちょっと恥ずかしくなった。
「バスケん時だけでいーじゃない、ね。美味いギョーザ食って一杯ビール飲んで、帰ったらさっきの歌入ってるMD一緒に聴きましょ」
「…俺、泊まるつもりないから歯ブラシもねーぞ。それに、酒はもういらん」
「大丈夫。コンビニが一本向こうにあるから。牧さんは酒、もうちょっと強くなったほうが俺的に安心なんだけどなー。何事も練習っすよ」
「う…」
自分でも酒に弱い、しかも笑い上戸癖があるとは部員達から知らされてはいたし、自覚も悲しいかな…ある。大学生になったら今以上に酒を飲む機会も増えるだろう。仙道の言う『何事も練習』という言葉がずっしりと牧の肩に降りた。
店の近くにくると風に乗って中華の美味そうな香ばしいごま油の香りが白い湯気と一緒にただよってきた。思わずお腹に手をやってしまってから牧は苦笑いをそっと零した。
たまには予定外のこともいいかもしれない。考えるより感覚でいくのもいいかもしれない。今日くらいはもう、恥かきついでにもう一杯くらい酒飲んで歯ブラシ買って笑っちまおうかな、こいつと。
そんな俺の考えを見抜いたのか、仙道は店の扉を押しながら言った。
「そうそう。そのふっきった顔も好きですよ」
仙道は店員に言う。
「ギョーザ3人前とホイコーローとチンジャオルーニーとエビチリとライス大盛り二つ、それとジョッキ生二つね」
牧はコップで一杯だけのつもりだったので驚いたが…仙道の笑顔に何も言えなくなり、ジョッキを飲むはめになった。
キンキンに冷えたビールも熱々の餃子もプリプリのエビも濃いテンメンジャンも噛み応えのある厚切り牛肉も、ついでに言うなら仙道のくだらない話も。なにもかも美味しかったし楽しかった。俺は散々笑いながら飯を死ぬほど食った。途中仙道が「酒の練習相手は俺専属にして下さいね」と言ってジョッキをまた二つ追加したのを覚えている。
その夜の俺の失態は……仙道だけが知っている。
*end*
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