Dreamlike magic never end. vol.04
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スクリーンアウトの練習を終えてドリンクを取りに行きざま、牧は仙道とすれ違った。言葉も視線も交わしていないのに、たったそれだけで昼休みに二人だけで話せた会話が牧の頭を占める。休憩の合間にも他校の奴らのプレイを見ることで盗めるものがあるかもしれないのに、困ったものだと牧は自分に溜息を零した。 もともと仙道の夢については、また見れたらと思いはしても、行動に移すことなど考えてはいなかった。毎晩の電話がわりに晩飯でも一緒に食えれば御の字だと。しかし昼間に仙道の夢をみることができて一気に欲が出た。 加えて、仙道から夢を見られた時の目覚めの状態を聞かされてほんの少し……夢を覗き見る罪悪感が薄まる気までしてしまった。秘密を見られた代償が一度きりの心地よい目覚めと後の爽快感では、全く割に合わないのを承知の上で。 起きている仙道とはこの先、いい口実を見つけられれば会える。しかし眠る仙道の瞼に触れられる機会はもうないに違いない。 (この合宿を逃せばチャンスはないのだから、強引だろうと仙道と同室にならなければ) もう自分の甘さを─── 仙道がみている夢をもっと見たい気持ちを止められない。 (どうかこの三日間だけでいいから、オレをあいつの夢に出してくれ……。いや、慣れない神頼みよりも、あいつに俺を沢山意識させる方がよっぽど確率は上がるか) 欲に火がついてしまった以上は、一日だって無駄にしたくはない。 スポーツドリンクのほとんどが汗となり額や顎を伝った。牧は荒々しく手の甲でぬぐうと、周囲の反応など知るものかと頬の内側の肉を噛んだ。 普段の部活では体力増強のため地味な反復練習やラントレにけっこうな時間が割かれている。しかしここでは他校生同士でやれる利点を優先すべく、ファイブメンやハーフコートなどの実践練習が多い。特に今年は実践練習後すぐその場で意見交換など、新しい取り組みのおかげで練習ラストのオールコート7分の試合でも疲労で動きが散漫になるどころか、集中力や目的意識が向上したのが肌で感じられた。 一日の大半が頭を使う系の練習に占められる合宿という状況は、仙道のことを考える時間がそうないため、牧は久しぶりに開放感めいたものを感じてもいた。 しかも今年は最上級生なので雑事や食事・洗濯などはない。監督やコーチからの伝達や指示出しなど軽いものしかないため、過去の合宿より格段に時間・体力ともに余裕もある。これなら数時間の寝不足が続いたとしてもバスケに支障は出ないはずだと、牧は改めて結論付けた。 片付けや掃除を終えた一二年の選手たちも食堂に集まりだしたため、牧は仙道と同室の伊藤の姿を探した。 「隣り、いいかな」と牧はつげるなり、伊藤の返事も待たずに大盛りだらけのトレイをテーブルに置いた。口に肉じゃがを入れたばかりの伊藤は口を閉じたままコクコクと何度も頷く。 「なあ、伊藤。唐突で悪いが頼みがあるんだ。その、俺と部屋を代わってほしいんだ」 牧の申し出に伊藤の向かいに座っていた藤真と花形が興味深そうな視線を注いでくる。 伊藤は一瞬向かいの二人へ助け舟を求めるような視線を向けた後、急いで咀嚼して口を開いた。 「俺はいいですよ。けど……勝手に替えたら監督に何か言われませんか」 「大丈夫だ。例年けっこうあるんだよ、いびきで寝れないとかあまりに馬が合わないとかで。監督側も部屋の人数が増減せず、騒ぎさえしなければ大目にみているんだ」 「……もしかして牧さんの同室者はひどいいびきで有名な人なんですか?」 「いや、そういった理由じゃないから安心してくれ。同室は湘北の流川なんだが静かな奴だよ。いびきをかくかは知らんが、多分大丈夫だろ。伊藤がいいなら流川に許可を得て……あ。おーい流川!」 おかわりのトレイを手にした流川が気付き、牧のもとへやってくる。 「あのな。今夜から翔陽の伊藤と同室になってほしいんだ。伊藤の部屋は今の一つ下の階で」 ちらりと牧が伊藤へ助け舟を視線で促すと、伊藤は背筋を伸ばした。 「207号室です」 「だそうだ。急で勝手な頼みだがきいてくれないか?」 「了解っす」 「部屋割りの件で監督になにか言われることはないから、安心してくれ」 流川はこくりと頷くと、話は終わったとばかりに踵を返そうとした。 「待て、流川。伊藤、すまんが今夜から流川がそっちに行くから宜しくな」 「は、はい」 「俺の勝手をのませた詫びに、お前らには今度外で飯でも奢らせてくれ。連絡するから、お前らの連絡先を教えてくれないか」 牧がポケットから携帯を出そうとすると、伊藤は大慌てでそれを止めた。 「そんな! 部屋替えくらい全然問題ないんでやめてください」 伊藤の後ろで流川はひとつ頷くと珍しく口を開いた。 「どこで寝ても変わんねーすから」 「そうか……。じゃあ借りということにしといてもらうか。なにかあったら頼ってくれ」 「はいっ」 「うす」 食堂にいる全員の視線が集中していても泰然としている牧と、冷や汗で大変な伊藤。その横の通路を通りしな、流川が伊藤へ「す」と小さな会釈をした。今夜から宜しくということなのだろう。伊藤もつられて頭をぺこりと下げた。 これでよしと思ったところで、向かいの席で黙って聞いていた藤真が牧へ話しかけてきた。 「なんでそこまでして仙道と同室になりたいんだ?」 牧は誰かに訊かれるだろうと予想していた質問の答えを、少し考える素振りをしてから口にする。 「……よく知らんが、俺のライバルと言われているそうだから? ちょっと話を聞いても面白いかなと思ったんだ。今年を逃したら暫くは顔を合わせる機会もなさそうだろ。学年も違うしな」 牧の呑気な返答に藤真は口先をひんまげた。 「あのなあ! 双璧と呼ばれてきた俺の立場をなくすようなことを平然と言ってんじゃねーよ」 「そういうつもりじゃない。それにライバルなんて一人とは限らんだろ」 「まあそうだけど。ってそんなんで納得するかよ。あ、仙道」 少し遅れて食堂に入ってきた仙道へ一斉に視線が集まる。誰かが口笛まで吹いた。 「なんすか。何事すか?」 「お前と今夜から牧が同室で過ごしたいんだってよ」 藤真がふざけたように言うと、周囲が悪ふざけな空気で軽く揺れた。 「……マジすか?」 仙道がほんのり困惑気味に牧へ視線を寄越すと、牧は鷹揚に頷いた。 「伊藤や流川には話をつけた。今夜から俺の部屋に来いよ。三階の一番奥の315号室だ。ゆっくり話でもしよう」 のんびりとした口調にまた周囲の空気がざわつく。とうとう清田が食べかけのスプーンを放りだして奥のテーブルから牧へと駆け寄ってきた。 「牧さん! その言い方はちょっとビミョーす、誤解を招きます! つか仙道、牧さんに誘われたからっていー気になってんじゃねえぞ!」 「随分と光栄だな仙道。神奈川の帝王が直々にお前を今夜口説きにかかるそうだぞ?」 「おい藤真、口説くとはなんだ。俺はバスケの話を」 「なあ、牧ばっか自由にさせてずるくね? なら俺達だってチェンジしていいよなぁ」 「だから藤真よ人の話を聞け。あ、部屋替えしたい奴は同室者と移動先の奴と話をつけたならチェンジしても大丈夫だぞ。あの部屋割りは仮組みみたいなものだって高頭監督が言ってたしな」 「なら俺、牧さんと同室になりたいっす!」 「同校同士は部屋割りの趣旨から逸れるからダメだろ。それに俺が嫌だ。お前とは目新しさがない」 「そんなあ〜。合宿先の大部屋で雑魚寝が二回あっただけじゃないすかあ」 「清田……そんなに俺と同室は嫌だったのか……」 「げっ! 違います、違いますって魚住さん! そーいうんじゃないんす! 牧さんは別腹というか! あ、違うか、特別っつか特例? えっと、」 「バカだねえ信長は。部屋替えしたいなら俺とする? 俺の同室は赤木さんだよ」 「イヤイヤイヤイヤ遠慮させていただきまっす! 魚住さんやさしーんで! 昼間、飴もらったし!」 「俺だって優しいぞ。なあ宮城」 「ダンナ無茶振りしないで……」 「へえ、フルーツおかわりしたんだ。俺もしようかな。あ、部屋替えの話、花形も聞いてたよな?」 「聞いていたが、俺は今のままで問題ない」 「なんだよ、俺と一緒になりたくねーのかよ。二人部屋の合宿で同室になったことねーのに」 「俺達は同校同士だろ。それに同学年でもあるから言うに及ばない。面倒は避けたい」 食堂内は悪ノリで会話に参加してきた者たちの声に溢れ、先程までの静かで硬かった空気は消え、明るく軽い雰囲気になっていた。 仙道はもう一度牧へ視線をやると先程同様に頷かれたため「まいったな……」と。それほどまいってるようには見えない顔で、自分の頬をかいた。 小さなノック音に牧が「はい」と返すと、カチャリと控えめに扉が開きひょっこりと男が顔を覗かせた。一瞬見知らぬ者かと片眉をあげた牧だったが、続く「戻りました〜」というゆるい言葉と長身に前髪を全部おろした仙道だと気付き、口元をほころばせた。 湯上がりの上気した頬と下ろされた前髪のせいで少し幼く見える男がにやりと片方の口角を上げた。 「さっき一瞬、俺のこと誰かわからなかったでしょ」 「印象違いすぎだろ。前髪下ろすとかわ。乾かせよ、風邪ひくぞ」 滑りかけた口を牧は急いで閉じて即言い直す。 「夏に風邪なんてひきませんよ〜。牧さんって風呂上がりドライヤー使う派? もうほぼ乾いてるみたいだけど」 言い直しで文脈がおかしかったが、仙道は何も感じなかったようでのんびりと。電話のときのように柔らかく、最低限の敬語のみで返してきた。たったそれだけのことなのに、牧は気が緩み同室になれた喜びをやっとじんわりと実感する。 「冬でも自然乾燥だ。今の髪型になってからは寝癖が酷い朝くらいしか使わん。風呂は混んでたか?」 今日の練習を書き留めていた持ち込みのノートパソコンを閉じることで、牧はこの合宿での主将の立場から完全オフモードに切り替える。 「思ってたよりは。サッカー部の合宿とかぶってるんすね。なんか会話がそんな感じだったような」 「へえ……。俺等三年の入浴時間帯はテニス部とだったよ。泊まりは少ないのか、人数はそういなかったから浴槽も混まなかったな」 「そりゃラッキーでしたね。海南大広いし施設充実してっから、同時にいくつかの部が合宿してても気づかんもんなんすねー」 髪の毛をタオルでガシガシと拭き上げながら、仙道が牧の向かい側のベッドへ腰をおろした。今がいいタイミングだろうかと牧は小さく頭を下げた。 「食堂ではすまなかった。もっと穏便というかサクッと話をつけるつもりだったんだが、変な感じに目立ってしまった。食堂だと伊藤も流川もお前もいるから、説明が一度ですむと横着したのが悪かった。あんなことになるなら、個々人に別の場所で話をつければよかった」 「いえ、俺はぜんっぜん。つかホントそれはいーんすけど。それよりあの……。もしかして昼間、俺が流川と替わりてーって本音言っちまったから、牧さんが話をつけてくれたのかな、なんて」 想像もしなかった仙道の疑問に、あやうく頬が緩みそうになってしまう。 「……別に。ただまあ、直接会って話せるいい機会かなと思ったんだ」 「そすか。合宿中電話できねーのつまんねーと思ってたから、牧さんの機転ありがてーす」 仄かに照れを含む笑みが、先ほど言わずにすませた言葉で牧を打ちのめしてくる。 (男に『かわいい』と感じる自分も、それを口に出しそうになってる自分も、全部が信用ならん! 俺はいったいどうしちまったんだ?) 牧は微妙に崩れてしまったであろう口元を片手で隠すと、仙道に尋ねられた。 「牧さんもう眠いの?」 己の不自然な様子があくびを噛み殺していると誤解させたようだ。しかし仙道のその一言のおかげで、牧は当初の目的を思い出した。 「今日は初日だし、けっこう走り回ったからな。お前は眠くないのか?」 「俺は昼寝しましたから。……あの、昼休みに俺の当番をしてくれたから昼寝できなくて眠い、とかじゃないすよね?」 「まさか。さっきから考えすぎだ。仮にお前の代わりをしてなくとも昼寝なんてしねーよ」 牧は笑いながら、今度は意図的にあくびをしてみせる。 「今朝早かったせいもあるんだ。あ〜……ダメだ、急に眠気がきた。悪いが先に寝る。俺は明かりや物音を気にしないから、お前も好きにして、眠くなったら寝たらいい」 自分のベッドに横になると薄い夏掛けを牧はお義理程度に自分の腹にかけた。 「えー? 消灯までまだあるし、せっかく同室になれたのに。もっと話しましょーよ」 目覚ましとは別に携帯にもタイマーセットしてから、牧はワイヤレスイヤホンを片耳にだけ装着して寝る体勢にはいった。 「そのつもりだったが、眠気には勝てん。誘っておいて悪いが、話は明日の夜にでもしよう。おやすみ」 「……おやすみなさい」 呆気にとられている仙道を置き去りに、普段から寝付きの良い牧はすぐに眠ってしまった。 目覚ましの音がするので牧は緩慢に腕を伸ばして止めた。それからいつものようにゆっくりと瞼を開け……見慣れない天井がカーテン越しの淡い緑色に染まっているのを見て牧は飛び起きた。 (もう朝じゃねえか! なんでスマホのタイマー鳴らなかったんだ?) 昨夜はなるべく仙道の夢を長く、複数回見たいがため、合宿の就寝時刻より早く寝た。そして仙道がしっかり眠りについていそうな午前二時にタイマーで俺だけ起きて、仙道の瞼にさわる計画だったのに。 急いで枕元の携帯を見ると、その横にはいつの間にか耳から外れていたワイヤレスイヤホンが転がっていた。 (原因はこれか。あ、でもまだ仙道は寝てるから) 上半身ごと捻るようにナイトテーブルを挟んだ隣のベッドへ顔をむけると、眠そうな仙道と目があった。 「……おはよ……ございます」 「おはよう……」 ゴシゴシと両手で顔を擦った仙道は、大あくびの後ゆるゆると起き上がり大きく伸びをした。 初日の計画は完全に失敗に終わった。 * * * * * * まだ昼休みまで軽く一時間以上はあるのに、リバウンドやファストブレイクの練習中、隙あらばあくびを噛み殺す仙道が牧は気にかかって仕方がなかった。 ようやく交代のタイミングが重なったところで、牧は仙道に近づき小声で尋ねた。 「随分眠そうだな。もしかして俺が煩くて眠れなかったか?」 「へ? 全然。すっげー静かでしたよ。寝息もほとんどないから、死んでんじゃねーかと最初心配になったくらい」 「あー……まあ似たようなことを仲間に言われたことがある。確かに眠りは深い方かもな」 「やっぱり? でも少し見てたら急に豪快な寝返り打ったから、生きてるなーって笑ったけど」 両手を腰にあてた仙道は悪戯っぽい眼差しで牧を覗き込むと、おどけるように肩をすくめてみせた。 (そんな楽しそうな顔で……近い近い近い、うわ、うわわ) 肩をすくめた分だけさらに近づいた仙道の顔にたじろいだ牧は、たまらず一歩後ろへ下がった。 「お、お前、今夜は早く寝たほうがいいんじゃないのか」 「昨日あんたが早く寝ちまったせいで話を」 仙道が話し終わらないうちにスクリーンプレイの練習開始をつげるコーチの声と笛が体育館内に響いた。 雑談もままならないが、同室のおかげで無駄に焦らずにすむ。牧は昨夜の部屋替え強硬策を決行して良かったと内心で胸を撫で下ろした。 昨夜のチームビルディングアクティビティの時も感じたが、夕食前よりも選手全員の距離感が確実に狭まっていた。例年よりも馴染みが早いように感じる。そのせいだろうか、今夜のビデオ分析では個々人の発言量も増え活気があり、予定時刻より20分オーバーで終了した。 牧と仙道は一階ロビーの自販機に寄ったため、戻る頃にはもう廊下に人影はなかった。 「時間オーバーなのに監督も止めねーし。あんなん今まで経験ねーすよ」 「面白い意見というか視点が多かったよな。でも終了時刻オーバーは俺も過去になかったと思う」 「じゃあこの三年間の中で、赤木さんと藤真さんが一番白熱した言い争いをしたってこと?」 「言い争いって。まあどっちも譲らないから盛り上がったよな」 「あ。悪い顔して笑って〜」 「それはお前だろうが。俺は笑ってねーよ」 人に聞かれてまずい話ではないのに、薄暗い階段や長い廊下に響かないよう肩を少し寄せて小声で会話し、目元だけで笑いあう。たわいない会話が夜毎の電話のようで楽しくもあり、電話では得られない些細な表情の交換が心を弾ませる。 「……流石合宿。少し疲れた」 「少しすか。俺はけっこう疲れましたよ。そういや食堂で流川が箸持ったまま船漕いでたの見ました?」 この時間を引き伸ばしたくて牧は歩調をいつもより一歩分だけ遅らせてみると、仙道も追い越そうとはせず合わせてくる。もっとゆっくり歩きたくなるが、これ以上は不自然になるのでガマンする。 「見てない。食い気より眠気なのかあいつ。本当に高校生男子か?」 「ははは。その感想、牧さんらしー」 「なんだよ、お前だってそうだろが。焼きそば二回も山盛りおかわりしてたの見たぞ」 「ここの食堂の飯すげー美味いんだもん。……で、あんたは今日の飯で何が一番美味かったんですか?」 まるで秘密を聴き出すように声を潜めるものだから、牧はとうとう声を出して笑ってしまった。 もう少し遠い自販機に行けばよかったと、牧は惜しい気持ちで自室のドアを開けた。 部屋は真っ暗ではなく、窓からの月明かりで藍色に染まっていた。足元に廊下の明かりがぼんやりと溶け込んで、まだ廊下の続きのように錯覚を抱かせる。 「……カーテン閉め忘れて出ちまいましたね」 こそっと告げるような仙道の声音に牧は口角を上げながら小さく返す。 「だな」 笑みを交わし終えた二人の指先が壁際のスイッチの上でぶつかる。 「あ、すんません」 「別に」 パチリと電気をつければ必要最低限の家具しかない簡素な部屋が素っ気なく照らし出されて、つい先程までの楽しかった空気や浮かれた気持ちを一瞬で消し飛ばしてしまった。 (こういう目覚めのときがある。楽しい夢が目覚ましで瞬時にかき消されてしまうような……余韻の一つも残させないのが) どこか物寂しくて足が止まっていたことに気付き、急いで部屋の奥へ向かう。そんな牧の後ろをゆっくりついてきた仙道は、廊下で話していた時と同じ小声で話しかけてきた。 「今のってさ、よく映画や漫画にあるやつだよね」 「今の?」 「電気のスイッチんときの。バスのブザーとか本棚の前でとかと同じでさ」 かなり大雑把な説明だが理解できたため、「ああ」と牧は返した。 「あれって恋が始まる前のお約束ですよね」 「恋というか相手を意識するきっかけ的に使われる古典的な手法だな」 「ね」 「うん?」 「俺達も恋が始まるんすかね」 突拍子もない発言に、牧は開いたばかりのノートパソコンをパタンと閉じて後ろを振り返ってしまった。ベッドに腰掛けて返事を促すように首を右へわずかに傾ける仙道と目が合う。 「ね?」 にこっと微笑まれ、牧の脳内は疑問の嵐で吹き荒れた。 (俺達も恋が始まる? 電気のスイッチを同時に押そうとしただけで? 俺とお前が? もう意識なんてとっくにしてるだろ? 待て、意識しあってたら恋なのか? あ、でも意識してんのは俺だけでは? でも俺の意識というのはお前がみていた夢にであって。ん? あんな夢をみてたってことはお前も俺を意識してたのか? あーでも夢は脳内の情報整理だから関係ねえのか。じゃあやっぱ意識してるのは俺だけ……ってちょっと待て今、武藤のバカの顔が浮かんだぞやめろ出てくんな今は呼んでねえ。つかこれからも自称准教授なんぞ呼ばねえ。待て待て待て……えーと、何がどう始まるんだ?) 「牧さん? おーい牧さん? え、瞬きくらいしてよ怖いから。牧さーん?」 硬直してしまった牧に焦った仙道は駆け寄ると、急いで牧の両肩に手を置いた。 「牧さんしっかりして? 俺ふざけすぎましたかね? ねえ牧さーん」 数回揺さぶられてやっと、牧の視覚は眼前に仙道の顔があることを認識した。その途端大きく肩が跳ね上がる。 「すんません驚かせて」 「お、おお…………なんだよいきなり触んな。びっくりさせんなよ」 「いや、先に驚かされたの俺の方だから。あんた急にトリップすんだもん。すげー焦ったから」 薄く整った唇を不満げに尖らせると飄々としたイケメンから急に可愛い年下の顔になる仙道に動揺した牧は視線を逸らした。─── ずるい。俺は一瞬わけのわからない嵐に脳内でもみくちゃにされたってのに。何がどうずるいと言えないが、とにかくその顔がずるくて不満が口をつく。 「口先尖らせんな。俺には通じないからなっ」 「何が通じないんすか」 「俺に可愛い顔をしたってダメだって言ってんだ」 自分の机に向き直った牧は机上のノートパソコンを見て少々我に返った。そうだった今夜のビデオ分析での面白い意見や見方を忘れないうちに書いておこうと思っていたのに、仙道が変なことを言い出すから。 「…………俺、可愛い顔してたんだ?」 背中に囁かれた疑問が牧の額に汗を滲ませる。何度か口にしそうになったがどうにか回避できていたのに、行き場のない不満があっさり口に出させたのを、よりによって本人に聞き返されて気付くなんて。 (こ、ここは無視だ。無視で乗り切ろう。そうだ、聞こえていなかったことにしよう) 牧は急いでパソコンを開き、フォルダもまだ開かないうちからキーボードをやみくもに打った。画面の隅っこにわけのわからない文字が大量に羅列される。 「あんた俺の顔、可愛いと思ってるんだね」 聞こえなかったことにさせる気がないのか、少し大きな声で念押しまでされてますます逃げ場がなくなってしまう。どんな顔で言ってやがると逆恨みで腹立たしくもなるが、今の自分がどんな酷い面をしているかわからないので振り向けない。 「…………かっ、可愛くねえ」 「口先尖らせたら可愛いんだっけ? ねー、それくらい何回だってするからさ〜、そんなのやめて話しよーよ。そのために同室になったんじゃないすかー。これじゃ電話より話せてないって〜」 廊下でいっぱい話しただろと返したいのに、敬語少なく甘えた仙道の口調が電話のときのこいつと重なって、それもできない。 いつも電話の時は無意識に仙道の表情を想像していた気がする。人が周りにいなくて電話の時にしか現れないこいつを今振り向けば見れるのに。俺は今とてももったいないことをしているのではと、見当違いな逃避思考に陥る。 「ふぁあああ……」 仙道の大きな欠伸が助け舟とばかりに、牧は何もまともに作業していないパソコンを閉じて勢いよく立ち上がった。 「仙道!」 「ふぁい」 欠伸を噛み殺した生返事にかまわず、牧はドアへと歩きながら一気に言い切る。 「お前は寝不足なんだからもう寝ろ。ビデオミーティング長引いたんだし仕方ねえ、まだ明日もある。あと十分で消灯だから明日の晩ゆっくり話そう。俺はトイレに行ってから寝る。じゃあ、おやすみ」 「え、待って牧さん」 慌てた仙道の声がドアを閉める瞬間聞こえてきたが、牧は振り返らなかった。 消灯五分前のアナウンスが薄暗い廊下に陰鬱に響いた。そろそろいいかと牧はなるべく音をたてないよう、ゆっくりと自室のドアを開けた。 思っていた通り室内は電気がついたままで、ベッドの上には仙道が沈没していた。牧は音のない声で『すまん』と詫びた。朝からずっと眠そうだったのだ。そんな状態でハードな合宿の一日の終りに静かな部屋に一人きりでは睡魔に勝てるわけがない。話をしたいと引っ張ってきといて、二日ともろくに話もせず勝手をされて。相手が同期や後輩であれば文句の一つでも言いたいところだろう。 (その上、俺はお前の夢を見せてもらうつもりでいる……本当にすまん) 心のなかでもう一度詫びつつ、せめて深く眠ってくれと仙道の体に牧はそっと夏掛けをかけてやった。 アラーム音が耳の中に直接響いて、牧は途中覚醒の辛さに耐えながら緩慢に起き上がった。 暗闇に馴染んでいる目は薄手のカーテン越しの月明かりでも室内を動き回るのに不便はない。見下ろした隣のベッドの上の白い寝顔は、今まで見てきた彼の寝顔の中で一番険しい表情をしていた。近づくと奥歯を食いしばって小さく唸っているのが聞こえてくる。 嫌な夢でもみているのだとしたら夢を覗くよりも、一度起こしてやった方がいいかもしれない。俺は夢を見る以外は何もできないのだから。まだ夜は長い。一度仙道を起こして、また寝てからだって夢は覗けるはずだ。その夢の方がオレが出ている確率も高いだろう。 「仙道。……仙道、起きろ」 床に膝をついて、驚かさないようにそっと声をかけてみたが反応はない。 「嫌な夢なら起きちまえ。大丈夫だ。起きれば解決する」 「……う…………ぐ………………」 声をかけながら、仰向けの状態で立てている仙道の膝をやんわりと押していく。俺の場合は悪夢の時に目を覚ますと立膝になっていることが多い。仙道が俺と同じかはわからないが、目が覚めないのならせめて膝だけでも伸ばして楽にしてやりたかった。しかし体が緊張しているのか膝はがっちり固定されたように動かない。 仙道の眉間のシワがまた一段と深まるのをみていられなくなり、どうにかしてやりたくて牧は仙道の頭をそろそろと撫でてみるとピクリと瞼が動いた。 「……起きろよ仙道。大丈夫。怖くないぞ、俺がいる。大丈夫だから目を覚ませ」 「んんん………………う…………」 低く唸りながらぎゅっと強く眉間を狭めた仙道が、頭を撫でる牧の手を掴んで胸のうちに引き込む。 「痛い。おい、痛いぞ仙道。起きてくれ」 それほど痛くはなかったが大げさに言ってみると、仙道は瞼を開くなり驚いた顔で牧の手を開放した。まだ寝ぼけているのか、幼い子供が状況を飲み込めず焦って放心しているような顔をしている。 「す、すんません? ……暗いけど、もう朝?」 「まだ夜中だ。うなされていたから起こしたんだ。大丈夫か?」 起き上がった仙道は両手で顔を覆って深く息を吐いた。 「…………煩くして起こしちまってすんません」 「俺はトイレに起きて、戻ってきたらお前がうなされていたんだ。だから気にするな」 嘘も方便と口にすれば、仙道はぽとりと両手を腿の上に落とすと夜の波に濡れるシーグラスのような瞳で見つめてきた。 「……なにか…………寝言を言ってましたか、俺」 硬い表情をひきつらせるように笑うのを見ていられなくて、牧は隣へ腰掛けると仙道の肩を抱いた。寝汗で湿っているTシャツの下の緊張した筋肉の硬さが哀しい。よほど怖い夢をみたのだろう。 「何も言ってない。唸り声しか聞いてない、本当だ。だから安心しろ」 夢を覗こうとした俺がどの口で言ってるのだともうひとりの自分に責められても、硬く縮こまっている肩から手が放せない。せめて俺の体温がこいつの血の気を戻すまではと。 仙道の頭がぐらりと傾いて牧の頬に髪が触れた。心配で顔を覗き込むと仙道の瞳はふせた長い睫毛で隠されてしまっていた。それでも預けてきた上半身の重みが、取り繕うことを放棄したのをつげており少しホッとさせる。 「…………本物はこんなに優しい」 うなされていた夢にオレが出ていたとしか思えない仙道の呟きだが、詳しく聞きたい気持ちをぐっと堪える。悪夢を思い出させるのは酷でしかない。 しかし返事も相槌もないことに焦れたのか、仙道から尋ねられてしまった。 「どんな夢をみてたのか聞かないの? 本物って、あんたのことだよ」 「……夢に出てきたオレが、なにかお前に酷いことでもしたんだろ。いいよ、無理に話さなくて」 「違うよ。俺が酷いことをして……あんたに……まじで嫌われて。たくさん……罵られて」 どんどん小さくなっていく声に被せて遮る。 「もういい。思い返すな。夢の中のことなど、現実の俺達には何も関係ないんだから」 口にした言葉全部が自分にブーメランで刺さって来る。辛い。 「そうだね…………夢は夢、だ」 「そうだ。現に俺はお前に何ひとつ酷いことなどされていない。だから怒る理由もない。勝手に現実の俺を怖がるなよ。顔が怖いのは自分でも認めてるけどな」 軽くふざけると、仙道は顔をあげて見つめてきた。拾ってしまいたくなる濡れた瞳で。 「俺はあんたの顔、怖いと思ったことなんて一度もないよ。男前だよ牧さんは」 「随分調子の良いこと言えるようになったな」 仙道は「違うってまじだから」と弱く微笑んだ。その笑みはどこか寂しそうで、腕の中におさめて背中をさすってやりたくさせる。だがこうして肩を抱いているだけでも真夜中のせいだと後で言い訳が必要……そうだ、軽口も返せていたのだし、もう大丈夫だろう。 肩から浮かした牧の手指を仙道の冷たい指先が素早く掴んできた。 「現実でも夢でもあんたを怖がっちゃいないよ。……それよりえっと……あのさ……恥かきついでにお願いがあるんだけど。その、いいかな……」 急に恥ずかしがられて調子が狂う。そんな状況でもないのに、意図的に手を掴まれたことを意識してしまうではないか。……暗いし色黒だから頬の熱はバレないだろうが。 「……何をしてほしいんだよ」 「このまま寝てもさっきの夢の続きをみちまいそうで。だから、ここで一緒に寝てくれませんか」 「ここって……俺のベッドと一メートルも離れてないのに?」 「あんたのおかげで怖い夢を追い払えたけど、あんたの手が離れたら……。俺が寝付くまででいいんで」 完全に俯いたまま零した願いは、夜の静寂の中ですら誰にも届くことなく消え入りそうに小さかった。 甘え上手そうな男といえど、この年で添い寝を頼むのは相当恥ずかしいのは理解できる。 (その勇気を断れる奴がいたらお目にかかりたいぜ) ひとつ溜息をついただけで牧の手指は開放された。諦めたのか仙道はベッドに横たわると顔を隠すようにうつ伏せた。 「おい。そんな寝方をされたら俺が横になれんだろ。シングルベッドに大男二人なんだ、横向きになれよ」 牧は自分の枕で仙道の枕をぐいぐい押した。 「い、いいの?」 「お前が寝付くまで隣にいるくらい、別に」 「…………やっぱ本物のあんたはすげー優しい」 「お前の脳が作ったオレと比べんな。ほら、もっとそっちいけって。俺が落ちる」 「うん。ねえ、そっち向いてもいい?」 「ダメだ。向き合って寝れるほど広くねえ。あ、それとも俺も逆向きになるか?」 「や、いーっす今ので。そのかわり万が一でもあんた落ちたらやばいから、こっちの腕は俺にのせて。俺を抱き枕だとでも思ってよ」 拒否の返答を牧の唇が形作るより早く、仙道は褐色の片腕を己の腹の上に引き寄せた。 正直、腕の置き場がなかったこともあり、仙道に乗せるとしっくりきた。これなら落ちる心配もない。しかし空調はきいているが重なっている部分はそのうち暑くなるだろうし、なにより重たいに違いない。 牧がどうしようか迷っている間に、仙道は「これいらねーっすよね」と薄掛けを足で床に落としてしまった。 「腕重いだろ。そんなんで寝れるのかよ」 「この重みが安心できていー感じなんで、余裕で寝れます。ありがとう牧さん」 明るくなった声が触れ合っている部分から響いてくるような気がして、少しくすぐったい。 「じゃあ……おやすみ」 「おやすみなさい。ありがと、牧さん。ムリ言ってごめんね」 「怖い夢は何故か続きをみやすいのは俺も経験済みだ。気にしないで寝ろ」 「牧さんもそうなんだ……。にしても、あんたまじ優しいよね」 「いいから寝ろ」 「うん。俺すぐ寝付くと思うから。ちょっとだけガマンよろしく」 「しつこい」 「ははは。ごめん。おやすみなさい」 「おやすみ」 人を抱きまくらにした経験はないし、狭くて身動きもとれやしない。仙道が眠って俺の腕を抜いて、それでも起きないようなら……こいつの夢を俺は見ていいのだろうか。先程自分で言ったじゃないか、夢の中のことなど現実の俺達には何も関係ないと。仙道が夢でオレとキスをしていたからといって、現実の俺達には何も関係ない。 それにもし夢でオレが仙道に酷いことをしていたのをみてしまったとして。今度はそれについてまた俺は一人でぐるぐる悩んだり挙動不審な奴に成り下がるかもしれない。 (母さんが昔言ってた通りだ。人の秘密を盗み見てもいいことなんて……あ) あった。いいことが。こいつと親しくなれて、毎晩の楽しみができた。今もこうして……不自由でいるのに、おだやかな腹式呼吸を感じている腕が仙道の体温と同じになってくのは悪くはなく。仙道の汗に混ざる整髪料の仄かな香りに包まれて過ごす真夜中が、こんなにやさしくも心地良いと知る。なによりも、俺の腕一本がこいつの悪夢を退けられる誇らしさは………… 何かが頬に触れた感触で目を覚ますと、真っ白い光に晒されている人物に見下ろされていた。輪郭が白く霞んできれいだ……と夢現で眺めていると、光の中でそいつは白い歯をみせた。 「おはようございます、牧さん。そろそろ起きてもいい時間ですよ」 爽やかな挨拶に、髪を下ろしている仙道だと認識した牧はゆっくりと伸びをした。 「……ん。おはよう」 「昨日はありがとうございました。おかげで怖い夢の続きは見ないですみましたよ」 礼を言われて牧は真夜中のことを思い出した。そして自分がベッドのど真ん中に仰向けで寝ていたことに気づく。 「……俺、お前を押しつぶして追い出したのか。すまん」 「違いますよ。途中で腹がスースーすして目が覚めたら牧さんが落ちかけてて。急いで真ん中に転がしたんです。それで牧さんのベッドで寝かせてもらったんですけど、夢もみずにぐっすり寝ました」 すげー助かりましたよ、ありがとうございますと続く仙道の言葉を聞き流して立ち上がった視線の先。ナイトテーブルの上のスマホとイヤフォンに牧は目を見張った。 「あ。それ、牧さんの枕元にあったやつ。そこに置いときましたから」 向けてきた仙道のいい笑顔が、チャンスをまたも逃したまぬけな自分には眩しすぎる。あんな不自由な状態で眠れるわけがないと思っていたのに、まさかの爆睡だなんて。 「ありがとう……」 「いーえ。じゃ、お先に顔洗ってきまーす」 「おー」 扉が閉まった音と同時に、牧は力なく再びベッドへ沈んだ。 *To be continued……
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