To the light. vol.05
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朝からドリンク剤を一本空け疲れが残る体に喝を入れての出社。仕事にプライベートは持ち込まないのが己の鉄則の牧は、仕事中何度かふいに訪れる疲労の波を濃いブラックコーヒーで乗り切っていた。 あと一時間ほど残業すれば帰宅出来るという気の緩みが、コーヒーなどでは誤魔化せない眠気の混ざった倦怠感に襲わせる隙をつくってしまった。ノートパソコンのモニターの灯りがチラチラと目に痛い。入力している書類の文字もぶれて重なって見え出す始末。顔でも洗ってシャッキリしようと、牧は席を立った。 首を回しながら廊下を歩いていると給湯室から男の談笑が聞こえてきた。 「やっぱ肉は厚みがなきゃ食い応えないやね。あのミッシリとした噛みごたえっつの?」 「そうそう。雷門の焼肉とかな。あ〜、たまんね〜食いてぇ〜。あのタレの味がいいんだよなー」 そんなたわいもない会話に一瞬牧の足は止まった。疲労で霞んだ脳がひろった単語がやけにとどまっては頭に回る。 回りながら脳内に昨夜の仙道とのやりとりが引っ張られるようにぼんやり浮かんで……。 ただ呆けたて立ち尽くしている自分に気付き、牧は慌てて歩を早めてトイレへ入った。 洗面台に両手をついて鏡を見る。充血した目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。心なしか頬の辺りにいつもとは違う、げっそりした影が色濃く落ちている気もする。とにかく疲労感たっぷりのくたびれた酷い顔なのは間違いない。 「……もうやめて帰るかな。さっきからご入力ばかりだし。あぁ、目の縁まで赤……」 目元を指で触れようとして呟いた己の言葉に牧は固まった。 ───『牧さん、目の縁が赤くなってて色っぽい。エッチな顔が凄く、いい』 俺の乳首を舐め上げながら仙道が艶っぽい低音で囁いた声が脳内に映像と共に甦る。長く節ばった器用な指先がもう片方を丹念に弄んでいるのも。 苦しく上がる息をなんとか抑えて睨みつけてやれば、かえって仙道は嬉しそうに微笑んでみせては綺麗な白い歯で尖らせた先端を甘噛みしてくる。そうしてわざと俺の腰へ直接沁みこむ色気のある声で呟いたのだ。 ───『こうしてあんたの感触を俺の全部で味わってみたかった……』 昨夜の仙道の欲情に濡れた瞳まで思い出してしまい、体がいきなり熱を帯びだした。 誰もいない静かなトイレで牧は一人顔を赤らめうろたえる。 「嘘だろ……?」 ずくんと下半身が疼き出すのを抑えられない。やけに耳も熱い。意識しだすと体はどんどん妖しく脈打ちだすようで、牧は強く頭を振った。 自分の体が信じられない。十五やそこらの盛りのついた小僧でもあるまいに。いや、その頃ですらこんなに簡単に反応を示すようなことはなかったように思う。まして結婚までしたことのある、いい年した男が……こんな、殺風景な職場のトイレなんぞで、こんな─── よろける足を叱咤しなんとか個室へ入り便座へ腰かけた。厚手のスーツ生地の上からでも隠し様のないほど昂っている自身に焦りを覚えて、頭の中で何度も強く念じる。 (収まれ、収まれ、収まれよ……! こんなとこで抜くなんて絶対したくないぞ!) そう強く思えば思うほど、耳元で聞こえた昨夜の仙道の艶のある囁きや混ざり合う荒い吐息が。初めて知る甘ったるい感覚や強い快感が。次から次へと甦ってきて脈動を高めていく。 (こんなの、俺じゃねぇ。……畜生……畜生が……!) 牧は泣きたいほど情けない思いに駆られて、意地でも触れずになんとか己を静めようと立ち上がって両手で自分の頬を強く叩いた。 痛みで少し目が覚めてきたのを幸いに、牧は勢いよく扉を開けると洗面台へ走り寄り冷たい水で顔を洗い出した。 * * * * * * 電話をもらった時間から、そろそろ着くだろうと仙道は玄関の重たい扉を開けた。今まさにドアチャイムを鳴らそうとした牧が驚きで僅かに唇を開いた。仙道は嬉しくてすぐに抱きつきたい気持ちを堪え、平日の夜半に訪れてくれた愛しい人へ満面の笑顔を向けた。 「いらっしゃい! 明日も仕事あるのに、こんな時間に来てくれるなんて思いもしないサプライズだよ。ありがとう牧さん」 手放しで喜ぶ仙道とは対照的に、何故か扉の前に立つ牧は苦々しい表情を浮かべている。少し不貞腐れているような様子で牧が小さく吐き捨てる。 「……来たくて来たわけじゃない」 自ら来ておいてあまりな言い草ではあるが、仙道は全く気分を害することなく牧のスーツの袖を掴んで引き入れた。 事前に牧から連絡をもらえたおかげで、仙道は室内をいくらか片付けることが出来た。とはいえ脱いだものを床のあちこちではなく、洗うものは洗濯機へ。それ以外は部屋の片隅に押しやる程度ではあったが。それでも自分にしては上出来な方といえた。 「ほぅ……? やれば出来るじゃないか」 先ほどの声音よりも僅かに機嫌が浮上した気がしてホッとしながら仙道はソファへ牧を座らせる。 「少し片付けてみたんです。なんたって俺は綺麗好きな牧さんの彼氏だからね。ね、それより何か飲みます? 腹減ってませんか?」 『?彼氏』という言葉に微妙に頬を引きつらせた牧に慌てて話題を変えてみたが、何もいらないと言って黙してしまったため心配になってくる。 「どうしたの……? 何かあったんすか? 電話じゃ言えないようなことだから、俺んとこ来てくれたんですよね?」 牧の真意を知りたいため、いつもと様子の違う瞳を強引に覗き込んでみる。嫌がられることも覚悟の上だっただけに、静かに見返されて内心少々戸惑ってしまった。だがそこは得意のポーカーフェイスで隠しきって遠慮なく観察する。 牧の精悍な顔にはくっきりとした疲労が影を落としていた。昨夜無理をさせた自覚がしっかりある自分には、それについては平謝りを要求されてもかまわないのだが……それとはどうも違うような。 ふいに牧が深い溜息を吐き出してから瞳を逸らした。 「別に何も……。俺が……変なだけなんだ」 どこか捨て鉢な言葉は小さくかすれていた。視線を逸らす瞬間に見えた琥珀色の妖艶なゆらめきに、仙道は牧が疲れを押して平日のこんな夜半に来た意味を唐突に理解する。 我知らず鳴ってしまった咽音が彼に伝わってしまったのだろうか。下唇をキュッと噛んで俯かれただけで胸が苦しいほど高鳴る。 「……何が変だっていうの? そんなに色っぽく視線を逸らされて、そんなに熱っぽい溜息交じりの声で……俺が正気じゃいられないですよ」 ゆっくりとまた牧が顔を上げてきた。 「俺はもう、とっくに正気じゃないんだ……」 妖しく揺らぐ琥珀の瞳に浮かぶ熱情をもう隠す気はないようで、しっかりと向けてくる。自分の推測を確信に変えられて仙道の肌は歓喜で粟立つ。 「牧さん……。帰れなくしてしまうけど、いいの?」 返事をしたくないのか、それとも返事の代わりなのか。牧は長い褐色の指を仙道の頬に添えてきた。いつもより熱い、震える硬い指先。 その指先を仙道の少し冷たい手がそっと上から包み取って唇に寄せる。 「……シャワーはまだですよね。洗ってあげる……」 昨夜初めて知った彼の強い性感帯の一部である耳に毒のようにねっとりと甘く囁いてやった。思った通りそれだけで身体を硬くさせるのが可愛くてたまらない。 逸る気持ちを堪えつつ手首を掴んで促すと、牧は熱に浮かされたようにゆらりと立ち上がり連れられるがまま歩き出した。 スーツのパンツもワイシャツも、アンダーシャツまでも自分で脱がせず、仙道はわざと衣服の上から手を滑らせるように剥いでいった。 ボクサーパンツと靴下だけを身につけ立ち尽くす牧を仙道は目を細めて角度を変えながら視線を這わせる。 学生時代ほどの運動量はないが、それでも社会人バスケットに所属して週三回鍛えている彼の肉体は筋肉の滑らかな隆起に包まれて美しい。むしろあの頃よりも筋肉量が減った分、適度に引き締まった身体は艶かしさが香り立つようで、目にする度に仙道は魅入ってしまい暫し動けなくなる。 「……いつまで俺だけこんな格好のまま放っておく気だ」 仙道の視線だけで欲情の兆しを見せはじめている自身に腹が立つのか、牧の声は恥ずかしさを押し隠すように苛立たしげだ。 しかしそんな牧の声音まで嬉しく感じる仙道はうっとりと呟く。 「ずっとこの中途半端なままのいやらしい牧さんを愛でているのもいいよね……視姦プレイっての? してみたくなるよ」 わざと熱い吐息が牧の耳にかかるように話す意地の悪さに漸く気付いたのか、牧が少し離れて舌打ちをする。 「この変態が」 「俺を変態にさせんのはあんただって自覚して欲しいな。ね、俺の服は脱がしてくんないんすか? 昨日みたいに、さ」 「手を離してくれれば言われなくたって……」 忌々しげな言葉とは裏腹に自分から振りほどかないところが、いつもの彼らしくない。困った表情のまま俯いて手が解かれるのを大人しく待っている。そんな様子もまたそそるけれど、何か思うことでもあるのかと気にかかる。 しかし追求せずに仙道は手を離すなり自らトレーナーと靴下を乱暴に脱ぎ捨てると、再び牧の手をとり自分のジーンズのファスナーへと導いた。 ジジジジジ……ジ……と、ゆっくりとした金属音がやけに脱衣所内にいやらしく響く。開かれた部分からは窮屈さから開放された欲望が盛り上がってくる。 自分と既に同じ状態になっている相手の反応に安堵したのか、牧が不安とも期待とも判別できない熱い吐息をひっそりと一つ漏らした。 * * * * * * テーブルの上に置いた自分の腕時計を見るなり牧は大きな欠伸をした。 「いかん……時間を知って眠気と疲労が倍増した。くらっとする」 本当にくらくらときてしまったようで、頭をローテーブルへ落とした牧を仙道は苦笑交じりに起こして敷いた客用布団へと促した。 「シーツ替えといたから、少しはさっぱりしてるといーけど。平気そう?」 布団に倒れこんだまま返事どころかピクリとも動かないため寝たのかと思ったが、身じろぎもしないまま牧がぼそりと呟いた。 「明日も仕事あるのに……突然すまなかった」 「全然。まさかまだ連日は牧さんが無理だろうと思ってただけで。そりゃもう嬉しいサプライズに感謝感激しかなかったよ。それよか腰、大丈夫?」 「……自業自得だから、いいんだ」 そうは言われても冷静さを取り戻した今は、伏せる姿を前に申し訳なさでいたたまれない。 昨夜は男同士は初めての彼を一度目は手だけで。二度目は一応合意で抱かせてもらい、三度目は抱きたがった彼を強引に拝み倒して抱かせてもらうという……最初から勝手に飛ばし過ぎてしまった情交だった。それなのに今夜もとは……。当初は彼の身体を考えて、風呂場でかきっこのみですますつもりだったのに。彼のむやみやたらに強烈な色香で速攻理性はノックアウト。そこからは弁解の余地もなく……結局は続けて二回なんて無茶までさせてしまった。情けなくて目も当てられないとはこのことだ。 思い返すほどドツボにはまってしまい、どう謝ればいいものかとベッドで唸り声をあげるしかない仙道へ、渋々というような声がかけられた。 「その……さっき言っていたのは……。もう暫く勘弁してくれ」 「さっきって? 俺何か言いました?」 「じ、自分で夢だとか言ってたくせしやがって。忘れてんならいい」 苛立たしげに首だけひねって顔を背けられ、遅まきながら気付いて驚いてしまった。まさかあんなくだらない話にきちんと返事をくれるなど思ってもいなかったからだ。そんな真面目さも可愛く感じて脂下がってしまう。 「忘れてませんよ〜。うん。ありがとう。大丈夫、嬉しい予定は待つ間も楽しいからね。あのね、それとは別にちょっとした疑問なんすけど。いい?」 「何だ」 「馬鹿にしてるとかじゃないっすよ? ただ素朴に疑問なんだけど。牧さんだって結婚中は風呂場でもしたでしょ? 何でもう暫く勘弁とかそんなに可愛いこと言うの? 俺の場合は牧さんを好き過ぎるから、まだ風呂場のライトの下ってのは興奮し過ぎて抑えがきかなそーで無理ってのがあるけど」 理由は分からないが瞬時に真っ赤になってしまった彼はいきなり毛布を頭まで被って沈黙してしまった。 ベッドを降りて「怒らないで〜」と何度も謝りながら背を擦るとやっと、ぶっきらぼうではあるが「怒ってない」と返されてホッとする。少し安心した仙道が頬を肩口に埋め擦り付けていると、もそもそと毛布からくぐもった声で語り始めた。 「……腰骨の辺りに日和子には火傷の痕があるんだ。子供の頃、風呂上りに居間を走っていたら転んでストーブに激突したと言っていた。あまり恥ずかしがるから風呂も一緒には一度しか入らなかったし、夜も電気はつけないでするのが暗黙の約束だった。そのせいか、どうも未だに俺まで明るいのは苦手らしい」 意外な告白に驚きつつも今時珍しい純情な妻や優しい夫の夫婦生活が垣間見え、そんな二人でも関係が崩れるということに何ともいえない気持ちになる。 どんな表情で話しているのか窺えないため、仙道はあえて軽く返した。 「女の子って小さい頃はオテンバだっていうもんね」 「……そう本人が言ってただけだ。そんなことでつくような痕じゃなかったが……、まぁ無理に聞くのもな」 濁す言葉の中にいじめや虐待などという苦い物が感じられた。それと同時に、語らせることで閉じた傷跡を開かせまいと思いやり、深く聞かなかった優しすぎた男と心配させまいと隠しはするが本当は傷跡に触れてほしかっただろう強がりな女の姿がぼんやりと浮かぶ。 優しすぎて、相手を大事にし過ぎて。それでいつしか距離がうまれ壊れてしまうしかなかったことを、彼らがどう感じているかなんて推し量ることなど出来ない。彼を得られない苦しさで周囲も自分も傷つけてきた自己中な俺には。 抱えている傷跡をいつか話してくれるまで待とうとして、結局教えてもらえずに終わってしまった寂しさをきっと今も忘れられないでいる優し過ぎるあんたに。あんたたちほど優しくはない俺が出来ることを伝えようか。 仙道はしっかりと毛布の上から腕を回し広い背を抱きしめる。 「もう俺はあんたに何も隠さないよ。だから知りたいことがあったら何でも聞いて。みっともないことも恥ずかしいことも何だって話すから。遠慮はいらないよ」 俺はもう隠さない。あんたを好きなことを隠し続けた日々は結局自分だけではなくあんたをも苦しめていた。回り道で沢山傷つけことを忘れない。もう良かれと勝手に黙してあんたを傷つけたり寂しい思いはさせないと約束する。 ぷはっと息を吐きながら牧は毛布から顔をだした。 「唐突すぎて何を言いたいのか分からんが、むやみに隠し事をしないというのは良い心がけだ。じゃあ、早速聞くが」 「はい。もうじゃんじゃん聞いて下さい」 逞しい褐色の腕が伸びて仙道の脇腹にそっと触れる。 「お前のこの痣、どうしたんだ? 昔はなかったと思うが」 ぎくりとして思わず片眉が跳ね上がってしまった。叶わぬ恋に絶望して荒れていた頃、遊びで付き合っていた顔も思い出せない、やけに嫉妬深い男の毛深く太い腕だけが脳裏をよぎった。 (寝言であんたの名前ばっか言う俺に、仕舞いにキレてSM道具持ち出されてつけられたアザでーす……なんて、まだそのまんまを今は言えねぇよな。かえって心配かけちまいそうだ) 「……牧さんへの愛でついたアザです」 にっこり可愛コぶってみたけれど今度は通じず、大仰にため息をつかれてしまった。 「あぁ〜、そんな目で見ないで下さいよ〜。ホントなんだから〜」 「いいよいいよ、どうせそうやって茶化して誤魔化すんだお前なんて」 「いや、マジなんですって。ねぇ〜拗ねないで下さいよー。まいったなぁ」 格好つけて大見得を切った手前、なんとも決まらずに後頭部をかく仙道に牧がくすりと笑った。 「冗談だ。言いたくないならかまわんよ。隠し事のない奴なんていないさ。その痣がお前に辛い記憶として残っているわけじゃないならそれでいい」 暖かく厚い掌がポンポンと軽く仙道の後頭部を叩くように撫でた。 「いつか詳細を教えたげます。そん時はバカ過ぎだろって笑ってね」 撫でられ目を細めて微笑む仙道に牧は軽く『なんだそれ』と笑い流した。 触れるだけのキスをどちらからともなく交わす。 それから漸くそれぞれの布団へ、僅かな休息を得るためにもぐりこんだ。 ─── 数週間後 ─── 昼休み直前に受付から来客をつげる内線が入り、その珍しい名前を聞くなり牧はロビーへと急いだ。 受付前に所に立っているヒョロリとした小柄な若い男─── 日和子の年の離れた弟である秀治は牧の足音に気付くと、振り返って懐っこい笑顔を向けてきた。 「お義理兄さん、お久しぶりです。突然すいません」 「久しぶりだなぁ。どうしたんだい急に」 雨が降ってはいたが職場の隣にある華やかなカフェではなく、牧は少し離れた小さな喫茶店へ秀治を案内した。秀治は所用で神奈川のホテルに二日前から滞在していることを手短に話した。 「電話さえくれればうちに泊まってくれても良かったのに。布団だってレンタルするぞ?」 「いえ、いいんです。それより、あの。姉からこれ預かってまして。お義兄さんに渡すようにって」 鞄から取り出したのはピンクのラッピングが可愛い袋だった。受け取ると微かに焼き菓子のような甘い香りがした。新婚当時、家に帰るとたまに同じような香りがしていた記憶が甦る。 「……マドレーヌかな」 秀治は牧の言葉に軽い笑みを零した。 「姉さん、来年くらいに再婚するんです。先月から相手のとこで同棲してて、今までのアパートはもう引き払っちゃったんですよね」 「そうなのか! 知らなかったよ……俺は連絡不精だから。それは良かった」 驚きの表情がすぐに柔らかな微笑みに変わった牧を見て、秀治は小さくはにかんだ。 運ばれてきた定食を二人は暫し黙々と食べた。会話の糸口を探そうと共通の話題を牧が考えていたところで秀治がふいに顔をあげた。 「ええと……。あの、そんなわけで先月分の振り込んでもらった家賃はお義理兄さんの口座に戻したって言ってました」 「え? そんなの返さなくてもいいのに。引っ越しで入り用だっただろうに律儀だなぁ、相変わらず」 不満気に眉間を寄せた牧に秀治は苦笑した。 「お義理兄さんが律儀すぎて困るって姉もよく言ってましたよ」 「そうかぁ? ……やっぱり似たもの同士だったのかなぁ」 牧は考え込みながら味噌汁をすすった。味噌の薄さに少々がっかりしながらも顔には出さない。 「……姉も言ってましたよ、お義理兄さんと自分は変なところが似ていたって。あの頃僕は仕事で飛び回ってたんであまり姉と会う機会がなくて。話すこともそうなかったんです。けど最近所属が変わって実家に帰ることが増えたせいか姉ともよく話すようになって……最近じゃ色々お義理兄さんのことも聞かせてくれるんですよ」 「見た目より情けない奴だとか結構ドジだとか言われてそうだなぁ」 秀治は白い歯をみせながら片手を軽く左右に振って否定した。 「よく分からないけど、姉さんきっと今が幸せだから……昔を振り返るような感覚でお義理兄さんのことを思い返せる余裕が出たのかなって。話してくれる内容は、僕がもっとお義理兄さんと親しくなれていたら……僕だけでも気軽に遊びに行けるくらい。そんな風に残念に思うようなことばかりです」 嘘やお世辞ではないのが照れながら苦笑する様子から伝わってくる。 「そんな……。別に遊びに来てくれるのはかまわないよ、俺は。……あのさ」 「はい?」 「聞いていいかな……。日和子の付き合っている人は、その、いい感じの人なのかい?」 秀治は少々眉を八の字にして曖昧に頷いた。 「姉いわく、お義理兄さんのようには格好良くもなければ仕事の出来る男でもないけど、??ケンカできる優しさを持った人?≠ナ??私を一番に愛してくれてる人?≠セって……。僕としては冴えないモサイオヤジだなーって思うんですけどね。なんか妙に親しげで煩いほど喋ってくるというか。ケンカできる優しさってのも僕にはよく分からないんですけど」 僕は正直お義理兄さんの方が良かったなぁ……と小さく続けた秀治の言葉は牧には届いてはいなかった。 日和子が選んだ男が自分よりもずっと彼女にふさわしいと。素晴らしい相手を見つけたと手放しで褒めたくなるほど嬉しかった。自分が彼女に出来なかったことをしてくれる人を選べたことは、彼女にとって自分との生活が無駄ではなかったことを教えてくれているような気がした。 牧の頬に嬉しそうな微笑が浮かんでいるのを、秀治は冷めかけのから揚げを咀嚼しながら見つめていた。 緊張がほぐれたのか、秀治は食後のコーヒーを手に軽い感じで話し始めた。 「言うなって姉さんには釘を刺されてるけど……。内緒で教えちゃいます。姉さんには黙ってて下さいね」 「うん?」 「一度僕、お義理兄さんが不在中に仕事の途中で姉さんのとこに用があって寄ったんです。そしたらお義理兄さんが一度戻って来たみたいで。僕挨拶しようと思ったんですけど、すぐにまた出かけられてできなかったんです。その時、姉にふざけ半分で言ったんですよ。浮気相手が来ているとか勘違いされたんじゃないのって」 一瞬固まってしまった牧を見て秀治は「あ……やっぱり」と小さく苦笑した。 「でもね、姉さんは別にいいのよって言ったんです……お義理兄さんもしてるんだからって」 これには更に驚愕させられ、牧は慌ててコーヒーカップを皿へ戻した。 「確かに秀治君だとは気付かなかったから、誤解したのは悪かった。でも俺は、誓って浮気はしていなかったよ」 「……『仙道』さんって」 いきなり仙道の名前を秀治の口から挙げられて牧は訝しげに訊ねた。 「……仙道は友達だが。彼がなにか?」 「僕も何度聞いても理解できなかったんですけど……今もだけど。姉は結婚前から言ってました。お義理兄さんの心の中心には仙道さんがいるって。だから僕はお義理兄さんが隠れゲイで姉とは偽装結婚なのかと聞いたんですけど、そうじゃないって。深い信頼と情を寄せているだけだって」 牧は言葉を失っていたが、秀治は牧の表情が表面的には何も変化がないことで滔々と話し続ける。 「姉は自分が仙道さんのいる座をいつかは奪えると思っていたんだけど、逆に自分一人が嫉妬の独り相撲でくたびれ果てたって。僕からしたら我が姉ながらバカだと思うんですよね。男の友情と男女の愛情をごっちゃにしてるのは姉さんだけなんだから。お義理兄さんもいい迷惑ですよね。濡れ衣もいいとこですよ。勝手な疑心暗鬼で仕舞には浮気呼ばわりだなんて、お義兄さんが可哀相です」 自分が叱られてでもいるかのように口元を歪めて怒っている秀治に牧は頭を下げた。 「わ。どうしたんですか?」 「……いや。すまなかった。誤解でも何でも、最初から日和子には淋しい思いをさせていたんだと……しみじみ思ってな」 慌てた秀治は「やめて下さい」と前のめりで牧に面を上げるように促した。 「なんでそこまで姉をかばうんですか。お義兄さんだって俺を間男と誤解して苦しんだんですよね? 僕からみれば姉の方がよっぽど酷いですよ。自分のプライドでその誤解をお義兄さんに伝えようともしなかったんだから。百歩譲ってもお互いさまっすよ。喧嘩両成敗っていうか」 全てを彼女の弟に話すことも出来たが、あえてそれはやめることにした。 日和子は初めから俺が無意識のうちに仙道を求めていることに気付いていながら結婚を選んだ。妻となればいつかは夫になった男の心全てを得られると信じて。結果的には仙道に傾いたままの夫の心を変えられず、彼女自身も傷つき疲れ切って離別を選んだ。二人でいることで幸せな時間は少ないといえただろう。けれどどれも彼女にとっては悔いが残る選択ではなかったのだ。変えられるはずだと当時の自分が結婚を選んだのも、別れを選んだことも、新たな男を選び共に歩むことも。だから弟に語る前夫のことは良い部分ばかりなのだろう。 「振り込み返そうとかしないでと言ってました。あの口座も解約したし携帯もパソコンも変えたって。だからもう……お義理兄さんから姉へ直接連絡は……」 言いにくそうに口ごもった秀治に牧は苦笑した。 「するつもりはないから、安心してくれ。お互いに振り返る必要なんてないんだから。幸せになってくれと言っていたとだけ、伝えてくれないか」 「はい。絶対伝えますから。あと……ええと……」 「ん?」 「姉が……『早く仙道さんと幸せになってね』って」 口にしたコーヒーを吹き出しそうになって牧はむせた。その向かいで秀治がペコペコと頭を下げる。 「すいません、すいません! でも、絶対伝えてって言われてまして。本当、変な姉ですいません! 俺も誤解を解いてあげられなくてすいませんっ」 少しだけ日和子と似た笑顔を残して秀治が去ってから、牧は暫し一人で感慨に耽っていたが昼休みが終わる時間が近づき会計をすませて店を出た。 店先で傘を開こうとしたが、雨の気配が消えていることに気付いて顔を上げると眩しい日差しに目を細めた。先ほどまでの重たい雨雲は去り、頭上には燦然と輝く太陽と真っ青な空。洗い流されたように澄んだ空気。足元にある水溜りまでもが青空を映して輝いていた。 周囲のあまりの眩しさに、ふと仙道が以前話していた言葉を思い出す。 ───『結局は日の当たらない場所に引きずり込むことになるけど……』 ゆっくりと牧は自分の口元を手で覆った。唇がどうしても笑みの形を作るのを抑えられないから。 日が当たらないと決め付けているあいつに教えたい。お前と一緒になれてからは、心にはいつも明るい、今のような青空が広がっているということを。 外で手を繋ぐようなこともなく、人に教えられるでもないことなど、全く俺には関係ないんだ。いつもお前の笑顔が傍で照らしてくれていることが眩しいほどに幸せなんだ。 冷たい月をいつまでも浮かべているしかなかった暗闇は、今の俺の心には欠片もない。 今すぐ抱きしめて教えてやりたい。 人は自分が望んだ道を望んだ形で歩める事はとても少ない。例え歩けても道に難儀し、迷いもする。間違えて引き返しもする。それですら望んだ道に戻れるとも限らない。そんな道をいつでも手探りで選択して歩を進めるしかない。生きていくとはその連続に過ぎない。 そんな中で自分と共に歩んでくれるたった一人─── 互いを唯一無二と感じあえる存在に出会えたということは。 それだけでとても眩しい、奇跡のようなことじゃないだろうか。しかもそれが誰に強いられたのでもない、自分が選択した道の延長上であるのはより一層素晴らしいことではないか。 今、強く願う。 日和子と俺の知らない男がずっと幸せであってくれるようにと。 俺が今、仙道と一緒に歩めていることが、眩しいまでに幸せな道程だと感じているように。 *end* |
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これを書いた2007年当時は今より同性愛に偏見が強い時代でした。まあ今もね、
変わってない部分も多々ありそうだけれども。いつの時代であっても牧&仙道よ幸せであれ。 さてさて。もうちょっとエッチがどんなものだったか覗いてみたかったわんという 大人な乙女ちゃんで鍵をお持ちの方は裏でお楽しみくださーい♪ |