冷蔵庫の奥に苺のヨーグルトを見つけた。けっこう前に安さにつられて買ったはいいが、食べることを忘れていた。
賞味期限から一週間以上過ぎているヨーグルトの蓋を、牧はゆっくりと開封した。表面に水がたっぷり浮いており、苺の色味がよろしくない。
─── 食うべきか食わざるべきか。
実家の妹がもしこれを見たら『お兄ちゃん、まさか食べるつもりじゃないでしょうねえ』と、迷っている今の段階ですでに冷たい視線を浴びせてくることだろう。
賞味期限とは美味しく食べられると企業が判断した期限であり、期日を過ぎたら食べない方が良いとされる消費期限とは違う。
賞味期限を重視するあまり、食べられる物までも廃棄される食品ロス問題を心苦しく思っている俺は、 賞味期限にはこだわらず、消費期限に達したかどうかは自分の五感で判断することにしている。
─── しかし流石にこれは迷う。匂いは問題ない……でも苺がなぁ。プレーンだったら迷わず食うのだが。
迷っていたら、仙道が猫のように足音もなく隣に立ち、俺の手元を覗き込んでいた。
「なにそれ、ヨーグルト? 食後のデザート?」
少し驚いたけれど、仙道が気配を消すのが上手いのはいつものことなので牧はとりあわずに答える。
「苺ヨーグルトだ」
「へえ〜珍しいね苺だなんて。テーブルに置いてあるのは俺の分?」
「そうだが、賞味期限をけっこう過ぎているんだ。あ」
喋っている間に未開封の方を一個とった仙道は開封すると、俺の手からスプーンを奪った。
「水浮いてるけど、ま、ヨーグルトなんて賞味期限内だって水は浮くもんだし?」
一抹の躊躇もなく手早くかき混ぜると、仙道は大きくすくってパクリと食べた。
「美味いよ。牧さんも食いなよ」
言われて改めて手の中のヨーグルトへ視線を落とす。……よく見ると苺の果肉は膿んだ傷口の治りかけみたいな薄黒いゼリー状の膿みのようだ。
しかし仙道がパクパクと食べているため、一口も食わないわけにもいかない気がする。
牧はしっかり混ぜてから、恐る恐る一匙を口に運んでみた。
─── 食えなくはない、というレベルだ。腹は壊さんだろうが、気分的なもののせいか美味くはないような。
「ごっそーさんでした。あ、ヤベ。テレビとブルーレイの電源入れっぱだった」
もう食べ終えてしまった仙道はスプーンとヨーグルトの容器をシンクへ置くと、慌ててキッチンを出て行ってしまった。
─── おやつ系の食品は忘れないように冷蔵庫の手前に入れよう。
牧は自戒のつもりで残りを一気に胃袋へと流し込んだ。
スプーンと容器を洗っていると仙道が戻ってきた。
「あれ? ヨーグルトの容器、もう洗って捨ててくれたんだ。ありがとー」
「おう」
食器拭き用の布巾を手に並び立った仙道は、洗いかごからスプーンを取り出して拭いて仕舞った。
「デザートありがと。美味しかった」
ニコニコと機嫌よく言われて、思わず俺は眉をひそめた。
「美味かったかあ?」
語尾をあげられた仙道はきょとんとして首を傾げる。
「俺は美味しかったけど? え、牧さんは美味くなかったの?」
「あれは美味いとは程遠いだろ。なんとか食えるという程度だ」
「そう? 酸味がきいててさっぱりしたけど」
「…………」
『酸味』と言葉で表現されたせいだろう、食ったことを今更ながら後悔してしまった。
「楽しいね」
仙道の弾んだ声音に、渋い顔で食器用洗剤を詰め替えしていた牧は面を上げた。
声同様に楽し気で口角を上むけている仙道が牧を見返してきて、もう一度言う。
「感じ方が違うって楽しいよね」
牧はまじまじと仙道の顔を、それこそ穴が開くほどに見つめてしまった。
漆黒の綺麗な瞳は陰りなくきらきらと澄んで輝き、薄めに整った唇は綺麗な笑みをつくり上げている。
美味いと感じるのも不味いと感じるのも、それは個人の好みの問題。どちらの受け取り方が正しいかのジャッジは必要ない。人の好みは十人十色。それにあわせて多種多様な食べ物がうまれているからこそ、豊かな食文化が構築されているのだ。不味いものを食べたとしても味覚の違いとして楽しめれば、それは経験や思い出のひとつになる。その積み重ねを自然にできるような奴はきっと、豊かで楽しい人生にきまってる。
─── 何事も根本は同じなのに、忘れてたな。
牧はうつし鏡のように琥珀の瞳を柔らかく輝かせて、ふっくらとした唇で綺麗な上向きのカーブを描いて返した。
「そうだな、面白いな」
居間へ向かう途中で仙道の背へ言葉を投げる。
「お前が好きだよ」
振り向いた仙道は長い睫毛を二度ほど瞬かせた。
「なになに? どーしたの、いきなり改まって」
「別に。そう思ったから言っただけ」
ソファへ腰を下ろすと、隣に座ってきた仙道はTVのリモコンを手にして歌うように言った。
「同じって嬉しいね。俺もあんたのこと、すげー好きだよ」
「さっきは『違って楽しい』って言ってたじゃねぇか」
「言ったねぇ。けどさっきのは味覚の話でしょ。今のはラブの話だから。やっぱ好きは同じくらい強い方が嬉しい……よね?」
目を細めて白い歯を輝かせる仙道の眩しさたるや。
「……調子のいい奴だ」
牧は全面降伏の白旗を振る気持ちで仙道の襟首をつかみ上げて深いキスをした。
* * * * * *
翌朝。窓の磨りガラスから差す明るい日差しとは対象的に、どんよりと暗い顔で便座に腰掛けている牧が腹に手をやり深い溜め息を吐いた。
「………なんで俺だけ」
牧が苦い顔でトイレから漸く出てきたところ、少し離れた廊下奥に立っていた仙道が心配そうに近寄ってきた。
「大丈夫? 腹でも冷やした? それともなんか悪いもんでも食ったとか。でも昨日は朝から俺と同じもんしか食ってないのにね」
牧の額にピキッと血管が浮き出たが、気付かない仙道は言葉を重ねる。
「昔婆ちゃんが、水でも毒だと思って飲んだら腹が下るって言ってたけど。ホントなんだなぁ。プラシーボ効果でしたっけ?」
「……お前嫌い」
地を這うような低い捨て台詞を残すと、牧は踵を返して足音荒くその場をあとにする。
「ええっ?! なんで急にそんなヒドイこと言うの?!」
廊下には仙道の心外そうな文句が数秒続いたが、それに耳を傾ける人の姿はなかった。
その後。仙道は牧に口をきいてもらえず不貞腐れ、牧は複数回のトイレ往復に疲弊し、散々な日曜日を過ごしたのであった。
*end*
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