スローモーション |
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下校時刻ラッシュもとうに過ぎた電車内は人影もまばらで静かだった。長身をまるめるようにシートに腰を下ろしてじっとしていた仙道は、掌でしっとりと汗を吸ったメモ紙をまた開いた。細かくチョコチョコと沢山の注釈書きのされた地図。書いてくれた彦一の性格を表しているような詳細なそれは、多分一度も迷うことなく海南大附属高校までたどり着けるだろうことを予測させた。 何度ついても止まる事をしらないかのように出てくる仙道のため息は、静かな車内ではあるがガタゴトと鳴り続く音でことごとく消されてゆく。 自分らしくないのは解っていた。初対面の人と会うのだって全く気にしない、他称『必要以上にマイペースな男』であるのに。たった一人の人に会いに行くということだけで、どうしてこんなに心臓が鳴るんだろう。 “会いに行く”ってのが駄目なのもしれない。今までずっと来るもの拒まず、去るもの追わずの人間関係をしてきたせいか、自分からっていうのがこんなに不安になるなんて知らなかった。 幸い、午後から降り出した小雨も電車を降りる頃には止んでいた。 駅からけっこう歩いた気がするが、メモのおかげで全く迷うことなく海南校の正面入り口とやらにたどり着いた。 練習試合で一度だけ来た事があったが、それは一年も前でありその時はまさか一人でこうして来るなんて思ってもいなかったから…バスケ部専用の体育館がどこかなんてちらとも思い出せなかった。 既に月が天で輝いているこの時刻。下校する生徒もまばらで、体育館の場所を聞くタイミングをつかみそこねてしまった。 ぼんやりと校門の傍にあった大きい木に背を預けて待つ事にした。 一年の頃に二度、二年になって一度。海南と試合をした。一年の時は挨拶をするくらいで話らしい話はできなかった。それでも俺の中では、たった三回の直接試合と彦一が貸してくれた海南の試合のビデオという少ない材料の中で、牧という人物はどうしようもなく気になる存在となってしまっていた。もちろん神奈川の帝王と言われているだけはあって彼のプレイは上手さもパワーも何もかも備えているように思え興味を抱かせられた。しかし全国にはバスケが上手い奴は沢山いる。その全国に散らばる彼以外のバスケの上手い奴等全員に俺はこうして深い興味…会いに行こうと動かせられるようなことはなかった。これからだって…ないだろう。 何度も何度も同じ場面を思い出す。少ない、数えるほどしかない俺の大切な…彼との接触。 ずっと気になっていた彼に初めて個人として声をかけられた。三浦台と湘北の試合の時。自分の名前を覚えていてくれたことも驚いたが、話しかけてくれた内容から察するに、ウチと湘北の練習試合を耳に挟み覚えていてくれたことにも驚きを感じた。気さくに話しかけてくれた嬉しさを何故かその時表面に出せず、殊更に平静を装ったことを覚えている。 二度目は俺から声をかけた。静かな表情で言葉少なにゲームの予想を告げたその姿に胸がざわめいた。 三度目は……。 胸が熱くなった。あの時の試合を思い出すたびに、試合の高揚感だけじゃない、彼の様々な表情が鮮やかに蘇えり自分を捕らえて離さない。 知りたくて知りたくてたまらない。知っているほんの少しの彼だけを思っているだけでは我慢ができない。 もう一度闘いたいという気持ちでなのか、最後に俺に向けたあの力強い声を自分にまた向けてもらいたいだけなのか。 考えるのは得意じゃないから。会ってはっきりさせたい。これほどに会いたいのは、ただの憧れか尊敬、それとも別の…。 かなり長い事考え込んでいたらしく、腕時計を月明かりにかざすとけっこうな時間になっていた。 彦一に彼とさしで会ってみたいと告げて調べてもらった予定では…もっと早く監督と主将の二人で行われる月一回の特別ミーティングは終わっているはずだった。この玄関ではないところからもう帰ってしまったのかもしれない。 また出直すかとバッグを肩にかけた時、左手から声がかけられた。 「校門前にデカい変わった髪型のカッコイイ他校生が立ってるって、お前のことだったのか」 グランドを照らす照明を背にしているので表情は見えにくかったが、制服姿の牧本人であることに仙道は驚愕した。 「…牧さん…」 「よう。海南に用事でもあるのか?」 「うっ。や、その……通りすがりです…」 咄嗟に出たあまりな言葉に自分でも驚いたが、牧は相当驚いたようだ。口を開けてぽかんとしていた。 仙道が何とか自己フォローをしようと焦った次の瞬間、牧は豪快に笑い出した。そのあっけらかんとした笑い方に仙道は目を見張った。 ひとしきり笑い終えたのか、目元ににじんだ涙を指でぬぐいながら 「お前ってもっと口が上手い奴だって噂で聞いてたぞ。口先から生まれてきたような奴だって。嘘は下手なんだな」 「ひどいなぁ、牧さん。俺だって調子狂う時くらいありますよ」 目を見合わせてから二人は少し笑った。牧の口の端で軽く笑ってみせた表情や少し楽しそうな声音。全てが仙道に教えた。バスケ選手としての牧だけではなく、それ以外の牧を知りたかったのだと。何かが胸をサクッと切り開いて答えを見せ付けてくれたような気がした。 「何で調子狂ってんだよ」 「何でかな」 試合会場で出会う時の仙道とはかなり違う、どこか余裕を欠いたその表情は不思議と牧の興味を誘った。 「陵南のエースがこんなんじゃ、魚住も引退するのは不安だろうな」 その言葉を仙道は一度軽く肩をすくめるだけで流した。 「…牧さん。これからちょっと時間ありますか?」 「…1on1でも挑みに来たんなら、今日はもう遅い。それにこれ以上はオーバーワークだ」 「いえ、そうじゃなくて…」 仙道の次の言葉は牧の小さな腹の虫にさえぎられた。牧はバツが悪そうに少し赤くなって腹に手をやった。それを見て仙道は自分の腹部に手をあて、腹筋に力を入れはじめた。眉間に皺を寄せて怪訝そうにその様子を見ていた牧の耳に、今度は仙道の盛大な腹の虫の音が届いた。 「………」 「………」 「お前って……」 「へへへ。腹、減りましたね。どっかで座って温かいモンでも食いませんか?」 「…奢るほど今日は俺、金持ってきてねぇぞ」 後輩などに普段たかられているのか、牧は相手が他校生であっても年齢上、そんな言葉を返してきた。 そんな牧の硬さが仙道の笑いを誘う。小さく噴き出すと「笑うな」と軽くバッグを引っ張られた。 とりあえず腹ごなしをしなければとまとまった感じで、二人は学校を後にした。 「俺、ここら辺詳しくないんでメシ食えるとこ連れてって下さい」 「ああ。そういえば…昨日、清田が安くて量があるメシ屋がってメモを…」 暗がりの中歩きながら牧は財布を取り出した。財布からメモ紙を取り出したとき、千円札と他の紙きれがひっかかって一緒に飛び出してしまった。 『あっ!!』 二人同時に口にしたが、反応はそれぞれ早かった。仙道は千円札とは逆方向にひらひらと飛んだ紙を地面すれすれで拾い上げた。くるりと体を回転させ牧の方を向こうとした時、辺りに派手な水音が響いた。見ると牧はかがんだ姿勢で固まっていた。傍に駆け寄り牧を覗き込んで…仙道は息を呑んだ。地面スレスレで千円札を手に握ったポーズの牧は、足も手も顔も泥水で濡れていた。踏み込んだ右足の下には大きくて真っ黒な水溜り…。 ハッと我に返り、仙道は急いでバッグからスポーツタオルを出すと牧を立たせ、顔の泥を拭き取った。 「…俺、奢りますから」 笑い声を出さないように耐えながら仙道はブレザーに飛んでいる泥を拭こうとした。ようやく牧の頭も呆然とした状態から脱したようで、乱暴に仙道の手からタオルをひったくると「いい。自分で拭く!」と言うなり、赤くなりながら拭きだした。 この人は…バスケ関係以外での部分は帝王なんかじゃないんだ…。恥ずかしそうに耳まで赤くしながら必死に泥を拭いている。 あ、あ、それじゃ拭いてるんじゃなくて泥を伸ばしてるだけじゃないか。うわあ、それでもっかい顔拭いたら…あーあ…。 駄目だよ。反則だよ。…可愛い過ぎるよこの人…。 黙って傍に立たれていたのもまた恥ずかしさを増幅させたのか、牧はちょっと怒ったような口調でうつむきながら言った。 「…俺の家に来るか? 店より近いと思うぞ」 「え!?いいんですか?」 「…金…洗わないと使えなくなったから…」 消え入りそうな小さな声で告げると、拭いてもまだ汚れの落ちきらない掌に黒く汚れた紙幣を乗せて見せた。 仙道は泣き笑いのような表情を浮かべた。今日知った想像もしなかった牧の全ての表情も声も仕種もたまらなく愛しかった。甘やかな眩暈に似た感覚に襲われる。 奇妙な仙道の表情を見上げながら、牧は他校の、しかもライバルと称されている相手に無様な醜態をさらしてしまった恥ずかしさに唇を噛んだ。 「ありがとうございます。俺、もっと牧さんと話をしたいんです。夜分失礼ですけど、ぜひお邪魔させて下さい」 満面に今度は『嬉しい』とデカデカと書かれた笑顔を振りまかれた。バカにされても仕方ないような醜態にはそれ以上触れずに、ただ何度も小さく嬉しいなぁと呟いている仙道。さりげない優しさが、気恥ずかしく感じさせない…牧は不思議な感覚を覚えた。 「じゃあ、行くぞ」 スタスタと歩き出した牧の後ろから仙道が嬉しそうに返事を返しながらついて行った。 それから三日後、陵南高校バスケ部・仙道彰様宛てに海南大附属高校・牧紳一から新しいスポーツタオル(箱入り)が届き、一時期仙道の周囲は小さな騒ぎとなった。 *end* |
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出会いはースローモーションー♪って歌ありましたの知ってますか?
きっと牧にとって泥水に襲われた数秒間はまさにスローモーションだったことでしょう。 |