|
|
||||
雲一つないとまではいかないけれど、ほぼ晴天の土曜の午後。 清田信長の隣にはいつ見てもスラリと細高い優しい恋人―― 神宗一郎が冬の抜けるような青空をバックに立っている。地味目な私服を着ているだけなのに、雑誌の読者モデルよりよっぽど本物のモデルのようだ。絵になるとはこういうことを言うのだろうと、清田は隣で足を止めた神の静かな横顔を見つめる。 視線に気付いた神が長い首を捻って清田を優しげな瞳で見下ろした。 「何? あ、やっぱり持って欲しくなった?」 「え。いやいやいや! こんなスノボのひとつやふたつ、楽勝っすよ!」 「そう? あ、ここさっきも通った道じゃない? 本格的に迷っちゃったかな…」 つい久々のデートが嬉しくて恋人の横顔を少々ガン見し過ぎていたようだ。けど、うまく誤魔化せたようでホッとする。 「やっぱバスじゃなくて電車にした方が早かったすかね。すんません、調べ甘くて…」 「ノブのせいじゃないよ。俺が電車乗継よりバス一本の方が楽そうって言ったんだから」 「神さんは優しいなぁ…。あ、あっちのあの看板。あのスーパー前ならバス通りかもしんねっすよ。行ってみましょう!」 大型スーパーならば休憩所くらいはあるだろう。寒風に赤くなっている恋人の耳や頬や鼻を早く暖めたい。 清田は肩に食い込むスノーボードが入ったバックを抱えるようにして走り出した。 建物の裏手側に位置していた二人は表側に回ってはじめて、その大きさに少々驚いていた。様々な車でうまっている広い駐車場を横目で見ながら中へ入れば、活気ある雰囲気に満ちている。出入り口の壁には駅までの巡回バスの路線図や時刻案内の紙も貼られていた。
「なんか……思ってたより立派なトコすね。洒落た食べ物屋とか色々入ってるみてぇだし」 「うん。ノブ、ここ見て。東出口から出て3番から出てるバスに乗れば駅まで無料で行ける巡回バスがあるみたい。これに乗ろうよ」 「そっすね。次は……えーと。20分後か」 「けっこうあるね。中にある店でなにか温かいものでも飲もうか」 「そーしましょう! …と、その前に俺、ちょっとトイレいいすか」 「うん。あ、トイレあっちみたいだよ。俺はこの辺で待ってる」 「中入って店選んでてくれていーすよ。俺が神さん見つけますから。じゃ、すんませんけど」 「ノブ、荷物置いていけよ。俺持ってるから」 「へーきす!」
店内は土曜のせいか、それともいつもかは知らないけれどけっこうな人混みだった。清田は大荷物を抱えているため、すいすいと人を避けることができずモタついてしまう。しかも袋の中にはスノーボードにボードケース。それだけではなくバインディングやグローブ、ゴーグルまでも入っているのでけっこうな重量がある。重たいからこそ、自分が貰った物で恋人に迷惑など絶対かけたくはなかった。けれどこうも邪魔だと、かえって持っててもらった方が早く行って戻ってこられたかなと後悔が掠める。
邪魔な人達を飛び越えて、高身長のため周囲に埋もれず見えている神の背へすぐに駆け戻りたくてうずうずする。 と、恋人が何かを一心に見つめていることに気付きその視線の先を追えば、彼が見ている人物もまた人混みの中から頭一つ以上出ているせいですぐに誰かわかる。 ―― うわ、あれって牧さんだよな。こんなところで会えるなんて、すっげぇ偶然! 超ラッキー! 高校一年の頃に心底崇拝していた先輩の姿を視界に捉え、清田のテンションが一気に上がる。 神の元にも行きたいが牧の元へも行きたい。しかし人混みが邪魔過ぎてそのどちらも叶わず、また声をかけるにも人が多過ぎる。 苛々しながら牧を見ていると、彼は意外な人物―― もと陵南高校主将の仙道彰と並んで、親しげに談笑しながら出口方向へとゆっくりと進んでいるところだった。館内が賑やか過ぎるせいか、それとも秘密の話でもしているのか。時折仙道は牧の耳元に顔を寄せ何かを話して、牧もまた仙道を見て返事を… ―― んん? なんか牧さん楽しそう……つか、可愛い…いやいや、あの格好いい牧さんに俺はなんて失礼なことを感じてんだ。 視力は野人と仲間に言われるほど良い俺でも、流石にこの距離じゃ見間違いもする。 そう自分に言い聞かせた清田は、とにかく彼らが神に気付いてそこで自分が戻るまで待っていてくれと願いつつ、進まない人混みにイライラを更につのらせた。 牧と仙道が歩いている列の前方で何かのゆるキャラらしき着ぐるみが登場した。そのためさらに進みが遅くなったようで、牧が神に気付いて手を軽く上げたのと清田が神の背後に辿り着いたのは同時だった。 「牧さんっお久しぶりですっ!!」 「こんにちは、牧さん。と、仙道」 「おう。お前もいたのか」 「あ、ひでー。まるで俺が小さくて気付かなかったみたいに」 「ノブは一般的な平均身長より大きいよ」 「俺達からはちょうどあの吊り看板のせいで信長君に気付けなかっただけだよ」 仙道の気遣いにも、つい(神さんより高いお前にフォローされたくねえ)とささくれた気持ちになる。しかしそんな卑屈なことを言えば身長同様に小せぇ男になってしまう。清田は未だ神どころか牧の身長も抜けない悔しさを奥歯で噛み殺す。 返事をしない清田に肩を小さくすくめた神は話を変える。 「それにしてもこの店、凄い人気店なんですね…。入って驚きました」 「いや、今日は特別だ。いつもはこんなんじゃないから俺た……俺も人の多さに驚いたよ」 「何か子供がやけに多くないです?」 「そういや俺、あっちで変な着ぐるみ見ましたよ! きっと何かイベントやるんすよ」 会話をする間も出口に向かう人々の流れは止まらない。四人は人混みに流されながら進んでいった。 漸く出口から出られたと同時に全員が人混みから抜け出せた安堵の溜息をつく。そのシンクロ具合にまた同時に苦笑いを交わした。 店の外壁の並びに自販機を見つけた清田が「そういや俺、喉乾いてたんすよ〜」と情けない声をあげた。
自販機まで移動すると牧が「奢ってやる」と、清田には炭酸飲料。神にはホットの緑茶を。仙道には無糖のアイスコーヒー。そして自分には烏龍茶を購入した。清田がそれを配りながら牧へ笑顔を向ける。 「牧さん、俺らの好み覚えててくれたんすね。へへ……ゴチんなります!」 「ありがとうございます、すみません」 「あざっす。やあ、疲れましたね。どこからあんなに人がわいてくるんだか…」 「まったくだ。こんなことなら車でくれば良かった」 「牧さん歩きで買い出しに来てたんすか。つーことは牧さん家ってこの近く?」 牧の両腕に下がる白いビニール袋は買い出しと決め付けられるのも無理のない量だ。 「天気がいいから散歩がてらに買物の予定が、つい買い過ぎたんだ。俺の家は駅より向こう、海の方だ」 牧の指差す方向へ清田が向いた。その背にある大荷物を仙道の指がトンと軽く触れる。 「信長君。このでっかい荷物はサーフボード?」 「違っげーよ。これはスノーボード! サーフボードならもっとデケーだろ」 「この辺じゃスノボできるとこなんてないよね?」 「俺らの格好からスノボしに来たんじゃねーことくらいわかんだろ! これは部活の先輩が取りにきたらくれるっつーからもらいに来たんだよっ」 「清田、煩い」 「あ。すんません……」 「久々に牧さんに会えたからって、ノブ浮かれ過ぎ。ところで仙道も家、この辺? 大学かなり遠いよね?」 「あー。俺の爺ちゃん家がこの辺でね。一人暮らしだからたまに家族代表で様子みにいってんだ」 「さっき、ちょうどそこを歩いていた仙道を見かけて、俺が声をかけたんだ。暇だから荷物持ちをしてくれるっていうからさ…それで買い過ぎちまったのもある」 苦笑を零した牧に清田は元気よく挙手した。 「俺も! 俺達も牧さん家行きたいっす!」 「こら、ノブ。いきなりそういうこと言わない。迷惑だろ。牧さんの都合も考えろ」 神は慌てて清田の右手首をつかんで下ろした。その肩を牧が軽くポンと叩いて止める。 「かまわんよ。夕方には父が帰ってくるから、それまでなら問題はない」 「マジすか!?」 「あぁ」 頷いた牧の眼前で清田はガッツポーズをした後、荷物を背負ったままでジャンプをした。仙道がそのジャンプ力に瞬きをする。 「やったー! 牧さんの荷物、俺が持ちますよ! あ、菓子とか飲み物とか、今俺買ってきましょーか!」 「お前はスノボで手一杯だろが。食い物もいらん。似合わん気を遣うな」 はしゃぐ子供の横で困った父親がするような表情の神が深く頭を下げる。 「すみません……突然」 「別にいい。それにお前には借りがあるからな。といっても家に招いたくらいでは泊まらせてもらった俺には返すことにもならんが」 「いえ、それは全然。……じゃ、すみませんが少しだけお邪魔します」 まだ申し訳なさそうに項垂れ気味の神の横で仙道は買物袋を神へ渡そうとしながら言った。 「荷物持ちの人数が増えたみたいなんで、俺はここで」 「え。いや、俺達が」 戸惑いながら返す神の言葉に被せるような牧の力強い低音が静かに響く。 「お前も来い。変な遠慮はするな」 「そっすよ。あ、昔の海南スタメン三人に昔の陵南エース一人じゃいじめられるってか? しねーよそんなガキくせーこと」 「いや、別にんなこた考えもしてねーけど」 「…先に誘われてた方に帰られると後から参加した俺達の立場がないんだけど」 「神さんの言うとーり! 仙道…さん、だけハブったりしねーって。ね、神さん。俺ら大人っすから」 得意げに軽く背をそらす清田の姿に牧がプッと笑う。仙道も困ったように苦笑した。 「大人ねぇ……。うん、そうだね」 「っす!」 清田は神の嫌味には全く気付かず、それよりも神の微笑みに浮かれてますます調子付く。 「んじゃ、いきましょーか! 夕方までしか時間ねーんだから、ダッシュで行きましょー!」 元気よく腕を振り上げ、青空駐車場出入り口とは反対方向へ踏み出した清田は三人から同時に「そっちじゃない」と止められた。 牧の家までは駅を通り越してからはずっと緩やかな坂道が続き、途中からは傾斜がきつくなりだす。
大股早歩きの状態で30分以上歩き通しのせいもあり、神の息は上がり、清田の額からはいくすじもの汗が伝う。 「だから言ったろ。早歩きなんてやめとけって。荷物、俺のと交換してやるぞ?」 「いえいえ……ぜんっぜん、へーき、っすよ! 俺の体力…なめてもらっちゃ、困る、っす!」 「ノブ……俺が持ってやるよ」 「なっ!? 神さんまで、俺がヘバってきてるとでも!?」 「ヘバってるだろ……」 神のダメ押しの一言が悔しくて清田はふんっと鼻息も荒く二人から顔を背けた。すると牧と同様にそれほど息が上がっていない仙道の姿が目に入った。面白くない気分に拍車がかかる。自分も神も部活で相当に鍛えており体力には自信がある。牧にずば抜けた体力があるのは昔から知っているし、毎日この急な坂道を歩いていれば慣れもあるだろう。しかし仙道はこの辺に住んでいるわけでも慣れてもいないだろうに。自分は昔から身長が高い奴に負けるのはトコトン悔しい性質だ。 「ちっくしょ……! うおりゃあああああ!!」 清田はスノボを担ぎなおすと掛け声と共にダッシュで上りはじめた。 「おい、無茶すんな! まだ最後に砂利坂が残ってんだぞ! それにお前、道知らないだろが!」 声をかけても止まる様子のない清田に牧は舌打ちすると二人へ振り返った。 「バカを止めてくる。お前らはゆっくり来い」 言うなり牧はダッシュで上ると、あっという間に清田へ追いついた。遠くて聞こえないが清田を叱り頭を軽く一発叩いている。 「あんな荷物持ってんのに、かなわないな…。牧さん、相変わらず…いや、昔よりパワー…増してる」 「すげーよねあの瞬発力とパワー。…あ、また叩いた。牧さんってけっこう手が出るの早いよね」 「またノブが、余計なこと、言ったんで…しょ。牧さんは、ノブを可愛がってる、から」 上がる息で詳しくは説明しなかったが、仙道はわかっているというように頷いた。 「……仙道は、初めてじゃないんだね。牧さん家、行くの」 「うん。けっこう駅前とかで会ってね。家行くのは二回目」 「そう…。あ、立ち止まって、……待ってる。急ごう」 「…別に走んねーでもいんじゃね?」 仙道の気遣いが逆に神の癇にさわった。 無言で足を速めた神の後ろで仙道は小さく肩をすくめた。 「最後の難関、ってとこかな? ま、距離はそれほどないが」 牧が見上げた先―― 牧の家の玄関に通じるという、枯れ木のアーチに覆われた細い急勾配の砂利道が最後のトドメのように待ち構えている。 清田は目に入りそうになった汗を指先で払いのけながらボソリと呟いた。 「車はこんな細道…?」 「今来た道より少し遠回りになるが家の裏手につながる舗装された車道があるんだ」 「少し遠回り、すか」 「そっちを使うなら信号二つ分戻って左に曲がって、それから」 「いいっす! ちょっと聞いてみただけっす!」 牧の説明を振り切り、最後の力とばかりに清田が砂利道を駆け上っていく。 「ここまでもけっこうな早さできたのに。信長君は体力あるなー。俺が最初に来たときとは大違い」 「お前は。……お前も無駄口叩いてないで、これ持ってさっさと上れ」 「はぁい。ん? これ家の鍵すよね。俺が勝手に開けていーんすか」 「冷蔵庫に麦茶入ってるから、清田に飲ませてやってくれ。俺は神とここで少し休んでから」 「行きます」 「え。あ、おい。無茶すんな……」 二人を置いて神もまた砂利を蹴って走り出した。 「すっげー負けず嫌い……。海南出身って皆そーなんの?」 「なんだよその目は。俺は違うぞ」 「うっわ、自覚ない分タチ悪ぃ〜」 仙道はケラケラと笑いながら砂利に足をとられることなく、軽い足取りで上っていく。その背を見つめ上りながら、牧は先ほど言いかけてやめた言葉―― 初めて仙道を拾った日のことを思い返して口角を上向けていた。 家の玄関の前で神はしゃがんで俯いたまま息を整えていた。庭先を歩き回っていた清田は牧と仙道の姿を見るなり、家を指差してみせた。
「そうだ。それが俺の家だ」 「やっぱそうっすよね。ボロイし表札ねーから一瞬迷ったんすけど。けっこう古い普通の家すね〜。俺、牧さんはもっとこう、どーんと立派な豪邸に住んでると思ってましたよ〜」 神は顔を上げると清田をジロリと睨み付けた。面白いほど慌てた清田が急いで自己フォローをいれる。 「あ、いやいや。こういうオモムキ? 歴史のある家もいいっすねというか! そういや美術のセンセーが、朽ちる前のジョーチョが」 「ノブ! もう喋るなよ」 飛んできた神の叱責に清田がビクリと肩を竦めた。そのやりとりに牧と仙道が楽しそうに笑う。 「正直でいいじゃないか。確かにボロ屋だし。表札は先週の嵐で破損したから外したんだ」 「すんませんっした…俺、悪く言ったつもりなくって……」 「いいって言ったろ。ほら皆、あがれ。俺も喉が渇いた」 そう言いつつも牧は玄関の前で立ち止まる。 「…この玄関がまたボロでな」 一度振り向きにやりと片側の口角を軽くあげてみせると、次の瞬間力一杯引き戸を開けた。冬の乾いた静かな空気にガラガラと大きな物音が響き渡る。 「うっわすげー音! 俺の婆ちゃん家よりすげーすよ!」 「だろ。ある意味、防犯ブザーみたいなもんだ。裏にいても玄関開いたらすぐにわかる」 「なるほど! 道具もいらねーし便利っすね! 流行るかも? 特許申請したら儲かるかな」 「お前出しといてくれよ。申請通ったら権利はお前にやるから」 「っす! って、牧さん〜特許はちょっとした俺の高級な冗談なんすけどぉ」 「俺の返事も冗談だ。いいからさっさと入れ」 仙道は二人の後ろでくっくと喉で笑っている。もう神は清田には何を言ってもダメだとばかりに、突っ込むことさえ諦めて深いため息を零した。 無人と知る気軽さで清田は「おっじゃまっしまーす!」と大声で玄関の三和土にあがった。
「ふおお……。なんか、昭和ー! って感じしますね!」 「お邪魔します…。ノブ、さっきから興奮し過ぎ。煩いよ」 戒めながら靴を脱ぐ神の視線の先に清田もつられる。 「へぇー。牧さんもこういう靴、履くんすね。俺の兄キも似たのもってますよ」 牧が履くには少し意外なほどカジュアルなその靴はかかとが踏み潰されている。牧さんも家ではこんなふうに雑に履いたりするのかと親近感がわく。返事がすぐになかったため振り返れば、牧は何故か困ったような表情を浮かべていた。けれどそれも一瞬のことで、すぐにいつも落ち着いた表情で返してきた。 「それは親父のだ。あ、そっちの釣竿もな。触るなよ」 「うっす! なぁんだ、親父さんのか。俺も次はコレと似たの買おうと思ったのにー」 壁に立てかけられていた数本の釣竿の横を清田はすいっと通り抜ける。 「こっちが居間。適当に座ってろ。それと清田。勝手に戸棚とか開けるなよ」 「んなことしませんよ、失礼な!」 三人を居間へ通すと牧は笑いながら台所へと行ってしまった。 清田は興味津々の様子を隠すことなく、古そうな家具が配置されたあまり広くもない居間を見てまわりだした。もちろん全てに手は触れずに。 「なんか昔のドラマのセットみたいっすよね〜」 年季を感じる三人がけのソファに腰を下ろした神と仙道が同時に頷く。 「敷物は新しいっぽいけどね。……母親は長期旅行中って言ってたけど、それにしてもなんか……」 言い淀んだ神へ仙道が続きを促すように首を軽く傾ける。 「長期間の男所帯って牧さん言ってたけどさ。なんとなくだけど……年単位で不在なのかなって」 「どうして?」 「お前は感じない? 家具や家電の中には母親の趣味らしきものは感じるよ。けどそれらって相当古いし、使われてないっぽい…」 清田と仙道は神の視線の先に誘導される。部屋の隅のそこには編み物の道具が入っている籠や女性物のような小物等がまとめられている。近付くと埃をかぶっているのがわかる。それらとは対照的に使いやすい位置に置かれた男物の腕時計や手帳などからは古さは感じられず、埃などもついてない。 「流石神さん。深い、深いっすねそのドーサツ力! ミステリー系のこーんな分厚い小説読むからね神さんは!」 仙道の眼前に本の厚さを指先で示すと苦笑を返された。 「なんで信長君が俺に自慢すんの?」 言われて清田はギクリとした。 「なんでって。そりゃー…神さんに神さんの自慢したら変だろよ」 「まあそうだけど」 仙道はそれ以上深く追求してこなかった。清田は内心安堵しつつ飄々とした仙道を盗み見る。 自分がやけに仙道にライバル意識を燃やしてしまうのは何故だろう。身長か、それとも神さんや他の奴等が評するバスケセンスの良さにだろうか。けど俺だってバスケに関しては負けてるなんて思ってない。思ってないけど…昔、高頭監督がこいつを牧さんと互角みてーに言ってたから……。 このままでは認めたくない結論が出そうで思考を止める。清田は首を勢い良く神へと向けた。 「牧さんのお母さんがどこに旅行してんのか聞いてみましょーよ。神さんの推理が当たってるかどうかわかるかも」 「それはダメ。俺の推測はここだけの話。仙道も牧さんに言うなよ」 素直に頷いた仙道の横で立っていた清田は口先を尖らせる。 「別に旅行先聞くくらいいーじゃないすか。海外かもしんねーすよ?」 「場所の話じゃない。もしも長期旅行じゃなくて離婚調停中で家を出てるとかだったらどうすんだよ」 「うっわ危ねえ! そこまで考えるとは流石過ぎっす。神さん、明智光秀みたいっすね!」 「それを言うなら明智小五郎じゃない?」 「うぐっ……。そうとも言います……ね」 とうとう仙道は笑い声を殺せず吹きだした。 「あはははは! ……あ、牧さん」 「なんだ、楽しそうだな。なんの話をしてたんだ?」 「わ、牧さん。すみません、手伝いもしないで!」 「さーせん!! 俺らやります!!」 「いいよ。手伝ってもらうほどのことなどない。あ、おい本当にいいって……」 牧の手から袋菓子と飲物を奪うと神と清田が手早く開封してローテーブルにそれらを広げていく。困っている牧に仙道は座るよう掌を床に向けて促す。牧が床に腰を下ろすのと入れ替わるように仙道は立ち上がった。 「先輩にもてなされるのは落ち着かないもんすよ。あ、俺コップとってきます」 「あぁ。……そうだ、コップのある場所は」 「前に来た時に使ったんで覚えてます」 ニコリと小さな笑顔を向けられた牧は一瞬動きを止めた。 「…そうだったな。あ、清田そこ、後ろ狭いからもっとこっちに寄せろ」 テーブルを移動させようとしていた清田に牧が指示を出す。牧の一連の様子を神だけが手を止めずに視界に捉えていた。
全員にコップがわたったところで、「せっかくですから!」と清田は牧に乾杯の挨拶を迫った。海南では飲み会(もちろんノンアルコール)の前には何はともあれ誰かが挨拶というのが仕来りだ。「招待客を待たせないで下さいよ」との仙道の軽口に牧は渋々座りなおす。
「えー…。では、偶然の再会を祝して。乾杯!」 続く三人の「乾杯!」の唱和と共に四つのグラスが鳴る。 「牧さんの挨拶、相変わらず短くて硬いっすね〜。懐かしくなっちまいましたよー。武藤さんがここにいたら、絶対突っ込み三連発でしたね」 「煩ぇ。大体、あいつがおかしいんだ。挨拶に面白味を求めるほうが間違っている」 「武藤さんって、牧さんと同年の天パの人っすか?」 「そう。仙道…さん、知ってっか? 武藤さんはな、どっからどう見ても天パでありながら『これは洒落パーマだ! お前らのような運動バカの芋野郎どもとは違うんだ』て豪語してたんだ。格好良いだろ」 「…それ、格好良いか?」 「格好良いって言ってんのはノブだけだったけど。ね、牧さん」 ポッキーを二本齧りながら牧が頷く。それを見た清田はテーブルに身を乗り出した。 「えー!? だって牧さんが褒めていたから、俺もそう思うようになったんすよ!?」 「? 俺は一度もそんなことは言ってないぞ」 「だって、『立派なもんだ』って牧さんが!」 「あ。俺もそれ聞いてたかも。けどその前に牧さん、『強がりもそこまでくれば』みたいなこと言ってましたよね?」 神がその会話となった状況を補足説明する。 「……覚えていないが、今もそうは思っている。から、まあ言ったんだろ」 「信長君はどう立派だと理解して格好良いって思ったの?」 「それは……欠点をお洒落と言い切る…男気?」 「欠点なんだ」 「や、なんすか神さん、そこを拾わなくても。それじゃ俺、悪口言ったみてーじゃないすか」 「今度武藤と会ったら、己の欠点をあえて美点と言い張る男気を清田が賞賛していたと伝えておくよ」 「ま、牧さんまで!?」 「今の附属の主将は大変だな。俺の副主将はお前で良かったよ」 「バスケの実力は当時の俺より今のノブの方が上なんですがねぇ…」 「あ、哀れまれてる…? おいそこ、笑ってんじゃねぇ! 武藤さんはな、お調子者で人をネチネチといじるのがすげー好きな困った先輩なんだぞ! 知れたらお前、飲み会でどんだけ俺が大変な目にあうかわかってねーくせにっ」 「うんうん。信長君、ナイス追加墓穴」 「はあ!?」 「牧さんが伝える情報、また増えましたね」 「そうだな」 「ちょ、え、何? ……ああ?」 失言に気付いた清田に三人の笑い声が重なる。清田は思い切り顔をしかめて麦茶を一気飲みした。 ひとしきり笑った後、今度は三人がそれとなく清田を持ち上げる会話をはじめた。最初は警戒したような顔を崩さずにいた清田だったが、恋人兼先輩・尊敬する先輩・悔しいがバスケで格上の他校の年上という面子に褒められ話をふられれば浮上するなというほうが無理なことだ。失言をしないよう気をつけつつも少しずつ会話に参加すれば、すぐに清田は快活さを取り戻した。話の流れが現海南大付属高校篭球部の状況報告(合間に何度も清田は仙道に「スパイ容疑をかけられたくなかったら黙ってろよ」というようなことを言っては、牧や神にやんわりと窘められた)から大学バスケの話題に移る頃には、大学の練習に興味津々の清田に三人は質問攻めにあうこととなった。
会話が自然に途切れ、テーブルの上の袋菓子が全て四人の腹に収まった頃。清田は今がチャンスとばかりに「俺っ牧さんの部屋を見てみたいっす!」と挙手した。
牧はあまり気乗りしない顔で首を傾げる。 「別にいいが、面白いものなどないぞ? 狭いし」 「やったー! 昔から一度でいいから見てみたかったんすよ〜」 「前、俺がお邪魔したのも突然だったのに牧さんの部屋片付いてましたよね。俺なんて万年床で汚くしてるから尊敬しましたよ」 仙道ののんびりした声音に案内しようと腰を上げかけた牧の動きが止まる。 「……そういや今朝バタバタしてたんだった。ちょっと待っててくれ。少し片付けてくる」 牧がまだ高校に在籍していた頃、清田が一度だけちらりと玄関先から覗き見れた牧の寮室は三人部屋だった。その時も片付いていた記憶しかないため、素の牧に更に近付ける気がして一気にテンションが上がる。 「散らかってたってぜんっぜん気にしませんよ俺! むしろ散らかってる方が見たいっす!」 牧のあとについて行こうと勢い良く清田が立ち上がったその瞬間。 「ノブ。牧さんは待ってろと言ってなかった?」 神の言葉に清田・牧・仙道の表情が同時に固まる。その短い台詞に温度があるならば、摂氏0℃―― 水が凍りだすか。それとも氷が融けだすのか。どちらの結果に転ぶかは、さしずめ清田の返答しだいということが冷気と共に伝播する。 「……ここで待ってろ。すぐ呼んでやるから」 牧が小声で耳打ちしたが清田は立ったまま動かない。仙道もまた小声で囁く。 「信長君、座っときな……命をこんなことで捨てちゃダメだ」 「……っ、……ついて行く気なんて、俺……」 神の冷たい視線にすくんでしまっていると理解した牧は清田の両肩を優しく押しやる。加えられる力のまま、清田はその場にすとんと座った。 何事もなかったかのように神が清田に話しかける。 「どうしたのノブ、顔色悪いよ? 水でももらうかい?」 気遣ういつもの神の様子に牧と仙道は同時に息を吐いた。牧は「すぐ戻る」と仙道に言い残し席を外した。 清田は消え入りそうな小さな声で「水、いりません。なんにもいりませんっす。どうもしてません、すみません調子のってました…」と頭を下げている。 仙道はTVのリモコンをとるとボリュームを少し上げた。 数分もしないうちに二階から呼ばれた三人は階段を上り牧の部屋へあがった。
「へぇ……物、少ないですね。もっとバスケやサーフィン関連の物とか置いてると思ってました」 「あー。お前の部屋、物が多いよな。鉱物とか」 「神は石に興味あるんだ?」 「中学でバスケやりはじめてからはもう集めてない。仙道は趣味……あ、釣りだっけ?」 「何で知ってんの?」 「けっこう有名だよ、神奈川でバスケやってる奴等の間では。魚住さん顔広いよね」 「ソースはまたそこかぁ」 「『また』って?」 「いや別に。……ま、それほど本格的じゃないよ」 それよかお前、そろそろなんとかしろよ、と後半は小声で耳打ちした。仙道の視線の先には部屋の入り口付近で緊張状態のままの清田が俯いたまま立っている。 神は『なんのこと?』とでも言いたげに首を傾げただけで、動こうとしない。 見かねた牧が神に「やり過ぎだ」と眉間を寄せると、漸く神は清田の肩に手を乗せた。ビクリと清田の肩がはねる。 「……ノブ、肩に力入ってるよ? 大丈夫?」 柔らかな声音に清田がゆっくりと顔を上げた。突然の優しさに戸惑う清田の表情は牧の立ち位置からは見えていない。 「じ、神、さん……?」 「あんなに見たがってた牧さんの部屋に居るくせに、どうしたんだよ」 「俺……その。もう絶対調子乗らないんで。だから神さん、俺のこと、き、きら」 清田の話の途中で仙道はいきなり牧の手を掴むと、場にそぐわない少し大きめの声で言った。 「あの、トイレ借りたいんで場所教えて下さい。洗面所の方でしたっけ? 玄関横あたり?」 「トイレは洗面所のそばで…」 仙道に引っ張られ牧も一緒に階段を下りていく。二人分の体重にミシミシと鳴る階段の音はすぐに聞こえなくなった。 大柄な二人が部屋からいなくなると一気に室内が広く感じる。空気もどことなく冷たさを感じて清田はぶるりと一度身体を震わせた。
「……ごめんね、ノブ」 真剣な表情と心からの言葉が清田の胸を引き絞る。清田は強く頭を振った。 「なんで神さんが謝るんすか。神さんに嫌な思い何回もさせて。俺、穴があったら入り…?」 清田の言葉を遮るように神の長い腕がすいっと上がる。まだ緊張の残る清田の頬をそっと撫でる優しい指先。 「俺も牧さんに会えて、しかも家にまで上がれて嬉しいよ。だからノブが喜ぶのもわかるんだ」 「度を越して浮かれてすみませんでした……」 「謝らなくていいから、聞いて」 神は少し身をかがむようにして清田の耳元へ唇を寄せた。静かな室内でも清田だけに届く音量で告げる。 「ノブの気持ちをわかってて俺は……嫉妬を止められなかった。ノブが牧さんを慕うのも、牧さんがノブを可愛がるのも、昔となにも変わらないのに。俺だけが昔と違って……お前が俺以外の誰かを強く慕う姿を見るのが辛くて。そんなお前を俺だけが見ているならまだしも、他の奴も見てて。辛さで段々息苦しくなってきて……八つ当たりした。ごめん」 首をゆっくり神の方へ捻れば、至近距離に大好きな漆黒の大きな瞳。昔誰かが『神は鹿っぽい』と言っていた。俺はそれを聞いた途端、子供の頃に絵本で見たバンビがパッと浮かんで重なった。細い手足に軽やかな動き。そしてほら、今も濡れた大きな黒い瞳がふるふると長い睫の下で怯えているように揺れて……すっごく可愛くて、綺麗なんだ……。 「……ガキ過ぎてマジ呆れられて嫌われたと思いました」 「それは俺の方だよ。人前であんなふうに叱られて。もし俺だったら、そんな嫉妬深くて自分本位な奴なんて嫌いになる。なのにノブは……二人がいるのに俺に嫌わないでって言おうとしたでしょ。びっくりして止めることもできなかった……」 神さんが牧さんのような格好良い大人の男を好きならわかる。けど俺を好きになってくれて、焼きもちまで妬いてくれるなんて。神さんはとても頭がいいけどわかってない。俺の頭の中なんて神さんだけでパンパンなのに。 ―― ほら、その顔だって。白い頬や少し大きな耳が桃色ですっげー綺麗だ。賢くて強いけど、繊細な俺だけのバンビ……。 神の大きな瞳が涙で更に潤んでいく。その涙が零れないようにと清田は続ける。 「まわりに人がいるとか頭から飛んでました。つか、謝って神さんの気持ちを俺に戻せんなら、まわりに人とか関係ないす」 赤くなった神の目から瞬きのたびに細かい飛沫が散り、清田は焦り早口になる。 「俺ホントにいっつも神さんのことばっかなんすよ。確かに牧さんのことは好きだけど。けどそれは神さんに向ける気持ちとはあまりに別モンなんすよ。だから、その…、」 頬に添えられている男にしては白く長い指先を清田は捉えて唇で触れる。 「……こういうこと、誰にも。牧さんにだってしたいと思ったことなんて一度もないす」 「ノブ……」 指を離すと途端に羞恥に襲われる。俺は牧さんの家でなんて大胆なことを。 「は、早く帰りたくなっちゃいましたよ。そうだ、そっすよ。最初の予定では早く俺ん家戻って、久々だし…あの、その…つもりでした。母ちゃんと兄キ帰ってきちまうまでに。そりゃもちろん、神さんの都合あってのことですが! だけど牧さんに会って思い出して。神さん前、牧さんの家に行ってみたいって話してたのを。こんなチャンスもうないから、それは諦めたんです。俺なんて頭ん中、神さんのことばっかなんすよ。神さんみたいに推理とか難しいことちっとも考えらんねー」 恥ずかしさと喜びで清田の口は止まらない。 「神さんが俺に焼きもちを妬いてくれるなんてすっげえ嬉しっす。けど俺、神さん以外なんてマジ眼中にねーすから!」 カハハハハ! といつもの調子で清田は神の不安を払拭するように高らかに笑った。 神はやわらかく微笑んで清田に尋ねる。 「…お袋さんとお兄さんは何時に戻るの? 今からノブの家にすぐ向かえば、俺はノブとデキるのかな?」 「じ、神さん!? ……今からなら二時間……いや一時間半は……」 「よし。帰るよ、ノブ」 「へ? あ、そういや俺、まだ全然牧さんの部屋見てねぇす」 「3秒あげるから今見なよ。はい、1、2、3」 「わわ。あ、待って下さいよ!」 勢い良く階段から下りた神は居間から出てきた牧と仙道に「用事があったことを思い出しまして。急ですけど失礼させてもらいます」と告げた。その後ろで心なしか赤い顔の清田が「すんません!」と一度頭を下げる。 牧は二人の顔を交互に見てから、「そうか」と。理由も聞かず引き止めることもせず、ただ安心したように目元を少し細めた。 後ろからその様子を見ていた仙道が「じゃあそろそろ俺も…」と帰ろうとしたが清田が止めた。 「仙道さんはゆっくりさせてもらったらいっすよ。牧さんすんません、散々騒いだ上に勝手して」 「別に。また来たくなったら連絡してくるといい。仙道、お前はゆっくりしてけ。おい神、ちょっと待ってろ。車の鍵持ってくるから」 「車はいいです、俺ら歩きたいんで。それに俺ら送ったら仙道も居辛いですよ」 「や、だから俺も帰るって。そろそろいい時間だと俺も思ってたんだ」 「まだ大丈夫だろ。俺達の勝手に付き合わせんのは、俺らが困るんだよ」 玄関で大男三人が言い合う中に清田が割ってはいる。 「牧さんゴチんなりました! 今度来る時は食い物持参できます! 牧さん。と、仙道さん。今日はあざっした!」 清田は力強く言い切ると二人へ向かい深く一礼した。神もまた一礼して続く。 「牧さん今日は本当にありがとうございました。仙道も。お邪魔しました。また家にも遊びに来て下さい」 牧は「おう。またな」と鷹揚に頷いた。 仙道はそんな牧の横へ並ぶとただ軽い苦笑いを零した。 * * * * * 駅までの道は下り坂続き且つ信号が全て青だったことで、思っていたよりずっと早く着いた。 電車が来るまでの待ち時間。二人は空いたベンチに腰かけ自販機の紙パックで乾いた喉を潤した。 空の一部が橙色へ。白い雲のふちは淡い黄色味を帯びていく。普段ならランニングしている時間だと、神は空の色で感じる。 刻々と変化していく空を見上げながら頷いた清田は全く別の話題をふってきた。 「なんか牧さん、昔より明るくなりましたよね。や、昔も暗くはなかったけど。それに仙道とすげー仲いいし。いつからなんだろ。聞けばよかった」 神は驚き清田の横顔に視線を注いだ。 「俺も思ったよ……。仙道は駅前で牧さんと何度か会ったことはあるけど、家にあがるのは二回目だって言ってた」 「そうなんすか。もっとしょっちゅう会いに来てると思ったのになー」 スーパーで二人がレジで清算しているところから自分はずっと見ていた。あの時既に二人の親密さに戸惑っていた俺とは違い、ノブは最初から一貫して何も気付いていないようだったのに。いつ、なんのきっかけでそう思ったのか気になり質問を重ねてしまう。 「なんで仲がいいと思ったの? あんまり二人は会話してなかったよね。仙道なんて聞き役ばっかだったけど?」 清田は意外だといいたげな顔を神へ向けてきた。 「神さんはそう思わなかったすか? ……うーん。確かにそう言われると話はしてなかったすね…。そっすねぇ……野生のカンすかねぇ」 返答に神は思わず『またかよ』と口に出そうになるのを咄嗟に堪えた。 清田はよく“野生のカン”という言葉を使う。神はその度に理由になっていない、はぐらかされたという気持ちになることが多い。本人に以前そこを詳しくと問いただしたが、どうやら本当にただ感覚的にそう感じているだけのようだった。ならばその感覚の根拠をわかるように説明してもらいたいと粘っても、本人は困惑するばかり。こうなると聞くだけ無駄と知っているだけに、神にとっては歯痒くて苦手な返答であった。 清田には気付かれないようにそっとため息を吐き、聞きだすことを諦める。かわりに、勘だとしても親しいと気付いているのならばと神はもちかけた。 「ねぇ、ノブ」 「はい?」 「今日、牧さん家に行った事、誰にも言わないでおこうよ」 「いっすけど、何で?」 「んー…。なんとなく?」 「うっす。了解っす」 即座に頷かれて神は軽く面食らう。 「自分で頼んでおいてなんだけど。なんで今ので了解するの?」 質問ばっかして悪いんだけど、と一応付け足しながらも訊いてしまう。 「え? 神さんが頼んだからすけど?」 「うん。……けど、頼まれた理由が『なんとなく』で、ノブはいいの? 気にならないの?」 「ヤバそうな頼みなら気になりますけど、それ以外は理由とか別に。俺は神さんの頼みはなるべくなんだって叶えたいすから」 ……俺、神さんのカレシすからね。 最後だけ消え入りそうな小声で呟くと、清田は神の手から紙パックを奪い「ゴミ捨ててきます」と照れ隠しで席を立ってしまった。 人の気持ちは変わるものだと知ってはいた。けれどまさか、昔あれほど好きだった牧さんに嫉妬する日が来ようとは。それほど俺はいつの間にノブを好きになっていたのだろうと、嫉妬心に苛まされながらも己の変化に驚いていた。でも今日、照れ屋で感覚派の彼が一生懸命言葉を探して心情を教えてくれたことで、自分が変化していて当たり前だと納得した。こんなに大事に思われていて変わらないわけなどないんだ。もっと前から変わっていたから、牧さんを泊めた夜も彼に一度として触れようとしなかったんだ。 ノブの真っ直ぐな愛情にもっともっと応えていきたい。もっとノブにも愛されている自信を持ってもらいたい。俺がノブに今日沢山与えてもらったように。
戻ってきた清田へ神は感謝が安っぽくならないように、清田が好きだといってくれた笑顔を意識してむける。
「ノブは優しいよね。…ありがとう」 清田の頬がすぐに赤味を帯びる。照れ隠しなのか清田は大げさな手振りで返してくる。 「いや〜、神さんの方がずっと優しいっすよ! 今日もスノボ取りに行くの付き合ってくれたし! あ、けど二人で行って良かったすよね! 迷ったからあのスーパーに寄ったし、そこで牧さんに会えて、牧さん家にも行けちゃいましたから。やー、驚いたなあ色々と。食料品やトイレットペーパーを手に提げてる牧さんにもだけど、あんなボロ屋に住んでるなんて」 照れ隠しで言葉数が多くなる清田が可愛いくて、今度は自然に微笑みが浮かぶ。 「うん。日用品の買物するイメージがなかったよね。まあ、俺達が買物とかお袋任せ過ぎるのかもだけど」 「牧さんは金持ちで、すっげぇ豪邸に住んでるとばかり思ってたっす。お手伝いさんとか何人もいるような。だって愛知に牧さんと新幹線で行った時、牧さんが」 「愛知行った話は何百回も聞いたよ。桜木の新幹線往復代金と飯代を牧さんが払ったんだろ」 「そうそう。だから、今日はすっごい驚いたし、なんだか更に牧さんを身近に感じられて楽しかった。牧さんスノボも詳しいんだもんなー」 牧と交わした会話を思い出して興奮してきたのか、清田は「流石牧さん!」と小さく拳を握った。 ご機嫌な清田からは牧と仙道の間柄について深い疑問を抱いていないのが伝わってくる。神にしても確証があるわけではないため、いくら恋人の清田といえどまだ己の推測―― 二人が付き合っているか、もしくは同棲しているかもしれないということを伝えるのは早い気がした。 話をしている間に徐々に人が増えてきたため、二人は列に並んだ。そうして間もなく電車が入ってきた。 混雑した車内で立っていると、一般より高身長の二人は頭ひとつ分以上飛び出ている。それだけに会話をすると目立つため、二人は黙したまま電車に揺られ続けた。
その間、神は流れていく景色に目を向けつつも先ほどの会話の続き―― 牧と仙道の関係を考えてしまっていた。 初めて目にした二人の親密そうな買物姿は、とても数回会っただけの昔からのバスケの知人ではなかった。牧さんは基本、誰にでも親切で面倒見が良い。けれど自分が人に甘えることは極端に苦手な人だ。その彼が仙道には何度も甘い笑顔を……可愛いとすら表現したくなるような表情を無防備に晒していた。……もしも二年前にあんな表情を俺に一度でも彼が向けてくれたら、俺は理性の箍を食い千切っていただろうというような。 そしてあの靴。玄関にあった父親の靴にしてはデザインが俺達の年代向きの物だった。仙道の物だといわれた方がしっくりくるような。玄関にあった釣竿もそうだ。仙道の趣味から、彼の物であっても違和感はない。 他にもあの家はどこか不自然さがある。仙道にも言ったが、昔に女性がいた形跡はあるけれど現在は男が住んでる雰囲気しかしないのだ。それにしても何故、昭和とつい最近を感じさせる僅かな物しかないのだろう。“間”の年代がなさ過ぎる。牧さんが高校時代に寮いた三年間分がないのは理解できる。けれどたった三年分の欠落なんかじゃない。だからこその、ノブが言った『昭和のドラマ』のような不自然さなのだ。あの親しげな二人の様子を見てしまった先入観からか、最近になって彼らが二人で、長く空き家と化していたあの家に移り住んだと仮定した方が納得がいく。 全ては先入観がなす妄想に過ぎない。けれど四人でいる間も牧さんが仙道に向ける気兼ねない雰囲気や、落ち着いてそつがなさ過ぎる仙道が引っかかり考えさせられる。
本人達に聞くしか答えはでない。しかし聞く気など毛頭ない自分からすれば、最後まで犯人の明かされない推理ゲームのようなものだ。手持ち無沙汰ゆえにそんな不毛なことに没頭しているうちに目的の駅に到着した。
土曜の夕方だから人が多いのか、それとも平日のこの時間もこんな感じなのか。普段乗らない電車なのでわからないが、二人は駅から脱出するまで会話を交わすこともできなかった。 駅前を過ぎて人が一気に減り、清田が苦笑いを神に向けた。 「さっきの、帰宅ラッシュってやつすかね」 「土曜だから半分は遊びに出る人かもしれないけど。今日は人混みによくもまれる日だったなぁ」 「電車とかでっかいスーパーなんて久々で、なんか人の多さに驚いちまいましたよ……ははは」 神が頷くと清田はフーッと深いため息を吐いた。 急に訪れた静けさの中、ふと神の口から言うつもりのなかった言葉が転げ落ちた。 「牧さんが仙道と一緒にスーパーにいた方が、俺は驚いたけどね」 神は言ってしまってから唇を軽く噛む。電車内で考え過ぎたせいか、余計なことを蒸し返してしまった。 しかし清田は意外にもあっけらかんとした口調で返してきた。 「最初は俺も。けど、なんつーか…」 言いながら清田は神の耳元へ顔を寄せてくると、小声で呟いた。 「……牧さんと仙道がこれから俺達みたいになっても、俺は驚かないと思うんすよ」 「え」 神は長い睫を数回瞬たせる。清田はニヤリと口元で笑うと神から少し離れて、また普通に歩き出した。 「……それも野生のカン?」 「そっす」 「どこらへんにピピンときたの?」 「そっすねぇ。俺、牧さんが誰かに頼ってるとこ見たことないんすよ。や、別にさっきも仙道に頼ったりしてなかったか。えーと……宮さんとかに頼る感じとは違くて。……すんません、やっぱうまく説明できねっす」 「ううん、いいよ。なんとなくわかるから。あとは?」 「仙道っすね。相変わらずスカしてやがったけど、なんつーかこう。牧さんに馴れ馴れし……くはねぇな、何もしてなかったな。ん? じゃなんでだ? あれ? 俺に残ったお菓子をくれたのは関係ねーとして。あれあれ? うおー、わかんなくなってきた!」 真っ黒なザンバラ長髪を激しく乱して頭をふる清田に神は笑った。 「いいよ、別に」 「……伝わりました?」 「ううん、全然」 「すよねー。ま、ただのカンですから。これも俺と神さんの秘密でヨロシクっす」 いたずらっぽく口角を上げる清田からは先ほど神が持ちかけた秘密の共有を楽しんでいる感じが伺える。 「うん。そうだね。人のことを確たる根拠もなく軽々しく口にして、そのせいでその人達に何かあっても責任とれないしね」 「まったくっす。神さんは良いこと言いますねぇ」 自分に言い聞かせるため口にした言葉。それを素直に感心する清田に神の口元が緩む。必要以上に裏を読まない。真っ直ぐで素直というのは根底に自分をしっかり持っている揺るぎなさからくるのだろう。強くて可愛くて、鈍いわけではないのにほんの少し残念なところが好きだといつも思う。 「ノブ」 「はい?」 「もう少し早く歩こう。時間がもったいない」 ボッと炎が燃え上がる音が聞こえそうな勢いで清田の頭から首元までが赤く染まる。こういうトコも変に鈍くないのは大変、好ましい。 「だ、だけど俺、牧さん家までの坂道でけっこう汗かいちまったから、また汗かいたら…」 「塩味のノブは僕の好物だから平気だよ」 「!! や、は、…えう、……お」 清田の黒目が落ち着かない。全く言葉にもなっていないけれど、きっと本人も何と言えばいいのかわからないのだろう。 「早く帰ろ。ノブが喜ぶアレもしてあげたいからさ」 「う……ううう」 抱えたスノーボードに隠れるようにぎゅっと額を押し付けている清田へ神はあっさりと口にする。 「してほしくないなら、ゆっくり歩いてもいいよ?」 「し……う…………お願いします!!」 清田は大きな声で返事をするなり神を置いて駆け出して先を行ってしまった。 置いていかれた神はくすくすと笑いながら小声で呟く。 「ひねくれた僕には強くて素直なワンコが一番似合ってる」と。 *To be continued…… |
|||||
|
|||||
完結してからも「神の彼氏のことが気になる」というお言葉をちらほらいただいたので |