高校三年というのは高校生活の中で一番早く過ぎていくような気がする。部活を引退し体を酷使する日々から脳を酷使する日々へとシフトチェンジしたせいだろうか。もう秋も終わろうかという寒風に頬をはられて、今更ながら暑過ぎた高校最後の夏から三ヶ月も経っていることに驚かされる。
けれどそれよりももっと僕を驚かせたのは、教室掃除中に箒を持ったままボソリと零した牧の一言だった。
「なぁ宮……いつから意識しだしたのかなぁ」
無理に削った主語のせいですぐにわかった。仙道君がいつから牧を意識し出したかを知りたいようだ。
「えー…? まさかまだ知らなかったの? なんで今まで聞いてこなかったのさ?」
僕の驚嘆声に気を悪くした牧は口元を不愉快そうに歪めた。
「女子でもあるまいし、誰が聞けるかよ。“いつから俺のことが”だなんて」
「いやまぁ……そうだけど、性別関係なく気になるもんじゃない? 実際、気になってるけど聞けてないから、牧はいまいち自分に自信が持ちきれないままなんでしょ」
図星を言いあてられ、牧は口先を尖らせたまま、また緩慢に箒を動かしだした。
* * *
牧と仙道君が付き合うようになって、もう一年以上が経つ。お互いバスケ部の練習が忙しくてほとんど会えないままで、中途半端な遠距離恋愛にも似たまどろっこしい状況にいる。しかも二人して相手が大事過ぎて手を出せないらしく、やっと会えた時もキスだけという、まさに外見に似合わない初々しい関係らしいのだから驚きだ。一時期、牧には大学生の彼女が、仙道君には複数の彼女がいると噂がたったこともあるというのに。噂とはかくもあてにならないものか。
そんな清く正しい交際を続けていることを僕だけは知ってはいたけれど。まさか、未だに牧は仙道君がいつから、どういう経緯で牧を気にしだしたかを聞いていなかっただなんて。会える頻度の少なさからいって肉体関係にまで進んでいないのは驚かないけれど、電話やメールはびっくりするほどマメに交わしているから、てっきりそんなことはもう知っているものだとばかり思っていた。
実は僕も、たまに仙道君とメールをしあう仲だったりする。といっても僕からすることはほとんどない。仙道君が牧とデートをした翌日などに、『昨日、牧さんと飯食ってきました。牧さんはどこから見ても可愛いかったです。』とか『昨日、牧さんと映画観てきました。牧さんの横顔ばっか見てたので、内容は覚えてませんがいい映画でしたよ。』とか。あまりに馬鹿丸出しのメールに最初は呆れたけれど、きっとノロケを言える相手が僕くらいしかいないのだろう。あと、宜しくと頼んだ僕に報告をしてくれる気持ちからかもしれない。そう思えば返事をしてしまうのも致し方ないことだろう。
僅かなデート回数と同じ数だけしかメールをし合っていないから、メル友と言えるほどでもないけれど。そんな微妙な位置付けの彼へ、『仙道君はいつから牧が好きだったの?』と僕は直球メールを送ったことがある。確か去年三人で飯を食った翌日に。その日の夜に彼から電話がかかってきた。長く打つより話した方が早いから、と言う出だしだったような。
* * *
心ここにあらずといった牧の横顔へ、僕は静かに話しかけた。
「今度会えた時に聞いてみなよ。『いつから俺のことを?』って。もしかしたら、牧に聞かれるのを待っているのかもしれないよ。一年も経ってるから今更言い難くなっちゃってるのかも」
「……そーいうもん?」
ちょっと仙道君の喋り方がうつっているのがおかしくて、僕も真似して言った。
「そーいうもんかもしんねーすよ」
「ふーん……」
どこかムズムズしてるのを我慢してポーカーフェイスを作っているのが、なんだか微笑ましい。
「牧は言ったの?」
「聞かれもしないのに言うかよ」
「同じだよ、きっと。教えてあげなよ、牧もさ。自信持たせてあげたら?」
「あいつなんて、自信のカタマリみたいなもんだ」
「そんなの、年下のポーズだろ。そろそろ恋愛面でもリードしてあげたらどう、先輩」
「…………それこそ一生無理だ」
牧は珍しく不貞腐れた顔も露わに箒を掃除用具ロッカーへ放り入れた。
こんな今更なことを気にするほどに大事にされているのだろう。微笑ましいやら焦れったいやら。
もうこれ以上何か言うのも無粋な気がして、僕は黙ったままロッカーへ用具を突っ込んだ。
* * * * *
僕は牧のように子供時代に怖い思いをしたわけでもないのに、かなり幼少の頃から人間不信に近かった。恥ずかしいけど、誰もがちょっと気に食わないことがあれば僕をいじめよう狙っているようで怖かった。そんな臆病さを認めたくなくて、他人との関わりを避け、自分より頭が悪い奴らだと内心蔑むことで自分を保っていた。そんな僕こそが愚かなプライドと醜い被害妄想で作られた、“空気”を装う子供だった。
そんな僕が、自分に近い…もしかしたらもっと凄い奴かもしれないと、初めて興味を抱いたのが牧だった。しかし親しくなる前に父の突然の転勤で僕から離れる形になってしまった。
それが高校でまさかの再会となった。怖い体験を抱えた彼は、僕の想像とは全く違う形で、外見も中身も成長していた。どこか自分と近い部分を感じさせていた彼が深い恐怖を知ったため、外面はさておき、内面はきっと僕のように周囲と距離をおくようになっているはずと思っていた。
彼は恐怖を抱えたままでも前へ。空気としてではなく、個として生きるための歩みを止めていなかった。
それなのに僕は、他人と自分を比較して優劣つける奴が愚かだと…確かに今でもそうは思うけど。人は比較をせずに生きられない。だから自分を含めて相手も愚かと決めつけることで、憶病な自分を正当化したままでいた。外見と大差ないくらいに内面も成長が止まったままでいた……。
たった一日。否、半日程度の短い彼との接触は、考えることを重要視する僕の脳に“彼の傍を離れるな”と命令を下した。
僕は生れて初めて理屈ではなく、直感に従った。彼の傍にいるために何も考えずにバスケ部入部を決めた。
成長するための努力を面倒と思っていた。けど、違った。努力しても報われず変われなければ、巨大な失望感に襲われる。それが怖いから屁理屈を捏ねて、捏ねて、捏ねまくる意識が成長を望む潜在意識を抑え続けてきたんだ。
僕の本能は空気でいる息苦しさから脱して成長したがっていた。あの時の命令主は抑圧されながらも生きていた僕の本能だ。
牧が気にかけてくれている間は絶対にバスケ部を辞めないと決めた。牧がいる期間限定のチャンスを逃しはしない。どれだけ牧以外の人に邪魔者と扱われようとも彼を頼って、変わってやる。どれだけ頑張っても牧自身に負担をかけるだろうけれど、それでも自分のために利用させてもらう。変われた自分ならばきっといつか、この巨大な借りを返せると信じて。
罪悪感と生まれ変われるかもしれない期待感に押されるように我武者羅に日々を過ごした。最初は牧にくっついてる邪魔なだけのオマケ。それでも空気じゃないだけマシだった。必死に毎日を過ごすうちにいつの間にか、牧の仲間である武藤や高砂は僕の存在を受け入れていた。そこへ同期の奴らがいつしか加わって……そのうち部活の先輩達までが。僕という個人を認めてくれていった。出来は悪くとも僕個人を認識してくれていた。
そう気付けた時には、一億人いれば一億人が違う個性を持つ人間で。僕もまた理屈上ではなく、本当にその中の一人になっていた。
丁度良かったと、今になって思うよ。
最高のタイミングで牧を仙道君に奪われたって。
もしあのまま牧の秘密を僕だけが共有していたとしたら。牧の一番近くにいるのは自分だなんて、ちょっと自分に自信を持てるようになってきた僕は誤解したかもしれない。
やっとまともなスタート地点に立てたばかりだというのにね。
今もなお、何度でも鮮やかに蘇り胸を熱く奮い立たせる言葉が僕にはある。
─── 「宮。お前の三年間をぶつけてやれ !!」
─── 「海南のユニフォームとった男だぞ ナメんなよ」
─── 「宮城に外はない !! 抜かれることだけ注意しろ 宮 !!」
牧にコート上で肩を抱かれたあの瞬間が、至上の栄光。
闘う仲間の一人として指令をもらえたことが、最高の誇り。
あの瞬間を、牧からの言葉を今も誇ることができるのは。牧から精神的に自立できていたからこそだ。もう牧を利用していた僕ではなく、対等な存在だと自分自身が認めていたからなんだ。
走馬灯のように三年間を振り返っていた宮益は、卒業証書の入った筒を握りなおした。
校庭には宮益と同じ卒業生と、卒業を惜しむ在校生でごったがえしている。
宮益の周囲にもバスケ部のほとんどがかたまっていた。泣き顔、笑い顔、不安そうな顔、楽しそうな顔、いつもと変わらない顔。
顔、顔、顔。沢山の顔の一つ一つに名前があってそれぞれに個性がある仲間だ。
入学前まで、自分にこれほど沢山の仲間が出来ているなどと夢にも思わなかった。三年前の妙に冷めた子供に教えてやりたくなる。一人でくぐった校門を、今度は沢山の仲間と出て行けることも。
バスケ部の卒業生数名が周囲へ最後に大きく卒業証書を持った腕を上げた。校庭に残る在校生の一斉の別れの言葉を背に校門へ向う。
牧は宮益の肩を軽く叩くと、顎先で校門の隣を指した。
「あそこで俺は宮を見つけた。覚えているか?」
宮益は軽く目を瞠った。あまり感傷に浸らない男が珍しい、流石卒業式といったところか。
「当たり前だろ」
ニッと口だけで笑って牧を見上げた。
「宮にまた出会えて、三年間一緒にやれて良かった」
低く静かな声が胸を熱くする。
「………僕の台詞を取るなよ」
眼鏡を外した滲む視界の中でも、牧が白い歯を見せて破顔しているのがわかった。
これから先。卒業して道は違おうとも。
連絡は途切れがちになり、いつしか年賀状だけの付き合いになったとしても。
牧は一生、僕にとって言葉に尽くせない大切な存在だ。
*end*