LOVE LETTER


「白い病室の白いベッドも悪くない」と牧さんは笑って俺に言った。
秋の雨と風が殊更冷たいその日、俺は一人で家路をたどりながら、少し泣いた。


医師に教えられた牧さんの余命を、知らせまいか知らせるか迷っていた時もこんなふうに冷たい風雨が窓を叩いていた。
病名は既に知っていたけれど、まさかそれほど短い期間で別れの日を諭されるなんて信じられなかった。
お互いもう70代だから…あちこちガタがきているのは仕方がないことで。
それでも俺は…自分が牧さんにおいていかれることなんて考えもしなかったんだ。

牧さんが風邪で寝込んだ時など、あまりに俺が心配して不安がってしまうから。いつも
『そんな顔するな、たかが風邪だぞ。まったく。お前の方が心配だ…おいてなんていけるかよ。』
なんて言って、どんなに熱が出ていても俺の手をギュッと握ってくれたっけ。

自然の摂理から言えば、老いることも死も当然のこと。そして、生命が生まれるのも。理屈では解っているつもりだった。だから、精一杯愛した。精一杯愛された。今日自分が死んでも悔いはないと言えるけれど、どうしても駄目なんだ。あんたが先に俺の前からいなくなるなんて我慢がならないんだよ。
助けて 助けて 助けて 助けて。 彼を 牧さんを 俺を あの人なしで生きていけないであろう俺を。
神様でも悪魔でもなんでもいいから助けてほしい。 それができないなら…彼と一緒に俺を連れて行け。


日に日にやせ細る牧さんの姿を見るのは辛いけれど、会わないではいられない。
今日も病室に足を運んだ俺に牧さんは言った。
「お前、もう今日は帰れ。酷い顔色してるぞ。病人に心配されるようじゃ終わってる」
桃、持って帰って食えよと言いながら仙道の手を軽くぽんぽんと叩いた。本当に、軽く。
涙が咽をしめつけて、俺は返事すらできない。乾いた牧さんの手を両手で包んだ。優しい瞳が向けられる。
「今日は、帰れ。明日は元気な顔を見せてくれ。お前の元気を分けてもらいたいんだ」
仙道は牧の手の甲に口付けた。そのまま頬を一度、軽く重ねてようやく仙道は口をひらいた。
「また、明日、来ますね。…愛してます、牧さん」

病室から出るなり、仙道の涙は滝のように溢れてきた。でも隠す必要もないから、ただただ垂れ流していた。デカイジジイが突っ立ってみっともなくいつまでも泣いているなと牧さんに言われてしまうから、俺は泣きながら歩き出す。
明日も明後日も明々後日も…あんたに会いにいくために。


秋の柔らかい日差しを背に、仙道は見舞いといっていただいたフルーツ籠を手に病室に入った。食欲がほとんどない牧にはどれか一つ食べられたらいい方だけれど、これほど立派な籠を見せないのはもったいなかったから。
差出人達は、牧が現役で現場にいたときに診療し、復帰を果たした選手達からだった。
二人で昔話を交えて話をした。今は遠くで活躍する彼らの元気そうな様子が書かれた手紙に、牧はとても嬉しそうだった。

「俺は医者だったから…自分がいつ、お前をおいていかなきゃいけなくなるのか、知ってる」
リンゴをむいている仙道の手が止まった。唐突な牧の言葉に笑顔ごと凍りついた。
「悪かったな…。嘘を今までついてきて。お前に嘘をつかせてきて。余命三ヶ月だなんて大きな嘘つくの、辛かったろ…。俺も騙されているふりをしてきてすまなかった。」
リンゴにぽたぽたと滴が落ちた。
「先生に今日、外泊許可をもらった。やっぱり…お前と二人で暮したあの部屋に一度戻りたくなったんだ。連れて帰ってくれないか?」
リンゴは滴が落ちた場所だけが少し白く、他は黄色くなってしまっていた。


車椅子からベッドに移しただけで牧の顔色は悪くなっていた。それでも嬉しそうに明るい声を向けてくる。
「やっぱり自分のベッドはいいな。このちょっとくたびれたスプリングがいいよ」
「少し寝たらいいよ。今日は何でも好きなもの作るから、リクエストあったら言って。なかったら、きっと俺、山盛りに何でも作りそうだよ」
「じゃあ…あれがいいな。ほら、俺が寝込んだらお前がよく作る…変な雑炊」
「あんなもんでいいの? てかさ、『変な』は余計だよー。鶏と魚介のスープ仕立てのリゾットと言ってほしいなぁ」
「名前だけは立派だな」
二人は顔を見合わせて、笑った。

寝室に軽くノックをしてみた。起きていたら聞こえる、寝ていたら解らない程度の軽いノック。
ほどなく「どうした?」と返事が返ってきて、仙道はゆっくりドアを開いた。
「雑炊、できたけど。食べる?」
「いや…まだいい。水を飲みたい、ちょっとそこのとってくれ」
ストローを伸ばし、ゆっくりと飲んでいる顔色は、先ほどよりかなり良く感じられた。
「食べた方がいいんじゃない?薬の時間の都合もあると思うし…」
水をサイドボードに戻すと、牧はゆっくり腕を伸ばし、牧の顔を覗き込んでいた仙道の後頭部に手を添えた。
「もう、病院の薬は病院でいいだけ飲んだから、いいよ。今日は…違う薬が欲しいんだ」
「?」
「仙道、お前が欲しい。抱いてくれ。ガリガリのみっともない体ですまないが」
柔らかい瞳で見上げてくる牧に、信じられないといった瞳で仙道が訊ねる。
「今抱いたら…体冷やしたら…。医者っつっても、形成外科医だったからやっぱ自分の状況解ってないんじゃないの?」
不安で語尾がきつくなる仙道に牧は軽く笑って、少し腕に力をいれ引き寄せると耳元で囁いた。
「解っている。だから、抱いて欲しい。お前の肌のぬくもりを忘れたまま逝きたくないんだ」

パジャマを上だけ脱がせ、仙道自身も服を脱ぐと布団の中へと身を滑らせた。ゆっくりと腕の中に牧を抱き寄せる。
少し冷たかった牧の体がゆっくりと仙道の体温と同じになってゆく。
抱き合い、目を閉じたまま、互いの心音だけに暫く耳を傾けていた。
「お前、痩せたな。食ってるか、ちゃんと」
「牧さんに言われたかないよ」
そりゃそうか、と牧は苦笑した。仙道は少し抱く腕に力を入れた。
「…こうしていると…安心する。あんたの肌の香り、大好きだよ…変わらないね…」
「あぁ。不思議なもんだな…よくこうして寝ていたもんなのに、酷く懐かしい気さえするよ」
涙が枕を濡らした。牧の指が涙の上をたどるように動いて、仙道の目蓋に唇を寄せた。
「最高の、薬だった。ありがとう」
牧の顔に涙が落ちるのもかまわずに、仙道は上体を少し起こして唇を重ね、牧の体を強く抱きしめた。



冬が近づき、冷たすぎる強風が枯葉を全て落とした。
そうして俺は、嫌な時間に鳴り出した電話により、半身を失った事を知った。




牧さんが枯葉散る前に戻ってきた時に書いたらしい手紙を、俺はベッドサイドボードの引き出しを久々にあけた時に気付いた。
宛名が『仙道彰様』となっているのが牧さんらしい。
結局最後まで、俺はあんたにとって牧彰ではなく仙道彰だったんだと、少し口元に笑みを作る。
薄水色の封筒は糊もされてはいなくて、つい先ほど書いたもののようにも見えた。

仙道 彰 様
仙道、しっかり食っているか?しっかり寝ているか?しっかり笑えるようになっているか?
多分これをお前が読む頃、俺は側にいないだろう。だが、もしかしたら心配すぎてそこら辺を漂っているかもしれん。
そうさせないためにも、お前には一日も早く元気で健康な通常生活を送ってもらいたい。
自惚れている俺から言わせてもらうと、お前はきっと一日でも早く俺の側に来ようと、不摂生な生活に
磨きをかけているのではないかと思う。 そういう変な考えは捨てて、なるべく健康で長生きして欲しい。
先にいなくなっておいて何を言うかと思わないでくれ。腐っても医者な俺は、健康が一番好きなんだ。
健康なお前が一番好きだから、天寿を全うして欲しい。
死んでまで小言ばかり言うなと言われそうだ。俺は手紙を書くのが苦手なんだから、許せ。
最後に、照れてなかなか言えなかったことを記しておく。
仙道彰に出会えて、愛されて、愛して、俺は幸せだった。
様々なことを一緒に乗り越えてきた人生を、今は誇りに思う。
俺は人をこれほど愛することができる自分になれて良かった。おかげで心豊かな生活を送れた。
どれだけお前に感謝してもしきれない。 そんなお前を置いていって本当にすまない。
ありがとう、素晴らしい人生だった。 お前を誰よりも何よりも愛している。
お前の天寿が尽きる時、俺が一番好きなお前の笑顔であることを祈っている。
 
20××年10月×日   牧 紳一  



「やんなっちゃう…。何でも俺のことお見通しなんだから…」
涙でせっかくの手紙を濡らさないように、胸に抱きしめた。しっかりした読みやすい文字。彼の性格を表しているかのような真っ直ぐな文字と言葉たち。最後の最後まで俺のことを心配してくれた牧さんは、きっと手紙にあるように、俺の側から離れられずにいるのかもしれない。眉間に皺を寄せて、心配そうにへの字口で腕を組みながら。

飯も、食うよ。なるべく眠れるように努力もするよ。しっかり笑えってのは…ちょっと無理っぽいけど。
健康に天寿をなるべくなるべく全うしてから会いに行く。心配はもうしないで。 笑って遠くから見守っててよ。

『ラブレター? なんで俺がそんなもんを書かなきゃならんのだ』
『俺、牧さんから欲しいもん。ねぇねぇ、書いて下さいよー』
『絶対書かない!! 一緒に暮していて、そんなバカなことできるか。頭冷やせ』
『えぇー?いいじゃん、ケチ。』
『…別居したら書いてやらんこともないぞ』
『そんなの、一生もらえないってことじゃないっすか』
『その通りだ』

そんな会話をしたのはいつだったっけ。いきさつももう覚えてもいない昔。牧さんは覚えていてこの手紙をくれたのだろうか。それともすっかり忘れていてなのかな。
これはしっかり本人に聞いてみたいところだ。きっと真っ赤になってうろたえてくれるに違いないから。

せっかくだから、俺も返事を書くことにしよう。どうせ書くなら、牧さんがうんっと照れて困っちゃうようなのにしなくちゃね。便箋は…そうだ、ピンク色なんてどうだろう。封筒にハートのシールなんて貼ったら、あまりにベタで笑いもとれそうだ。うん、いいな。それでいこう。 善は急げだ、買いに行かなくちゃ。


柔らかな風、咲き誇る桜、新緑の芽吹き、小鳥の囀り、明るい日差し。
一週間ぶりに外に出た仙道は、季節が春に変わっていたことに驚き目を見はった。

自然の摂理から言えば、老いも死も当然のこと。そして、生命が生まれるのも。
今、それがようやく理解できた気がした。 神様も悪魔も、そんなもんは最初からないんだってことを思い知る。
全ては自然の中。神様も悪魔も、全ては自分の中。そして、今は牧さんも…俺の中にある。

牧さん。俺はもう少し、こっちであんたの言うとおり頑張ってみるから。
だからお願い。そっちに行ったときは『早すぎるんじゃないのか?』なんてつれないこと言わないで、会うなりいきなり抱きしめてよ。そしてまた、懐かしさなんて感じなくなるくらい愛し合おうよね。その日まで、昔、遠距離恋愛で培った忍耐を俺は駆使するからさ。


頬に伝った涙のあとを柔らかな春風が乾かしていく。まるで牧さんに拭いてもらってるみたいで、ちょっと照れくさい。

手紙の出だしは何にしようか。封筒に桜の花びらでも入れてみようか。





「センジーちゃん、寝ちゃ駄目だよ。僕、もう行くけど、寝るなら家帰って寝なよ」
「…ん? あぁ。日差しがあったかくてつい。うん、もう少ししたら帰るから、拓はもう塾行きな」
「来週塾休みなんだ。ボール持ってくるからさ、僕のドリブル見せてやるよ」
「うん。採点してやるよ。さ、もう行きな。本当に遅れるよ」
小学校からもう塾通いか…と、小走りに去っていく子供の背中を見送った仙道はちょっと苦笑した。

春は大福。夏はソフトクリーム。秋は焼き芋。冬は肉まん。
毎週土曜日は牧さんと二人でオヤツを買ってこの公園のベンチまで散歩に来ていた。大して立派な公園でもないけれど、この角度から見る噴水が牧さんは気に入っていたから。もともとあまり甘味が好きなわけでもない俺だけど、牧さんがあんまり美味しそうに食べるから自分も一緒に食べていた。


牧さんに手紙を書いてから俺は土曜日はいつもここに一人で来ることにした。
春、くせで寄ってしまった餅屋で一人分だけ大福を買って、ベンチで泣きながら食べた。塩大福みたいでちょっと美味しいと俺は笑った。
夏はソフトクリームを買って座って食べた。大昔、牧さんが風邪をひいた時に俺が自作した変なソフトクリームを思い出しながら。よくあんなもん食ってくれたよなって、今さらだけど笑ってしまった。むせて、涙が滲んだ。
秋。今は隣に座っていた牧さんの場所に拓という子供が座る。食べたいわけでもなく買った焼き芋を手にベンチに向かっていた時、拓が急に飛び出してきてぶつかった。落ちた焼き芋を拓が「まだ砂をはらったら食べられる部分があるよ」と言ってきて。それ以来何故か拓は俺を見かけると寄ってきてはあれこれと話をした。

噴水の水が秋の静かな日差しと高い空の下、キラキラと光る。今年の紅葉も綺麗だとTVはいうけれど、仙道には物寂しいだけで、それよりはただ噴水を眺めている方が良かった。来週辺りは寒くなっているかもしれない。そろそろ肉まんの季節かな。
目を閉じる。心の中で牧さんへと手紙を今日も書く。多分それで彼へは届いているだろうと不思議に確信しながら。


夕暮れ色の公園は、何故か早く帰らなきゃって焦ってしまう。拓はショルダーバッグをガチャガチャいわせながら公園を走りぬけようとした。
ふと、数メートル先に落ちていた薄水色の封筒に気を取られる。拾おうと方向を変えると、センジーちゃんの座っている後姿が目に入った。拾ってみるとやはりセンジーちゃんが毎度「これは俺が生涯でたった一度だけもらったラブレターだ」と言って絶対見せてくれない封筒だった。今日は持っているのを見なかったけれど、やっぱり持ち歩いていたのだ。
拓は仙道の背中に声をかけながら走り寄った。
「センジーちゃん!!僕、センジーちゃんのラブレター拾っちゃったよ!!中、見ちゃうぞー」
驚いて振り向くだろうと思ってワクワクしていたのに、センジーちゃんは振り向かなかった。いい夢でも見ながら寝ているみたいだった。
「起きなよー。ホントに手紙読んじゃうぞー?」
ゆすっても起きない仙道に拓はあきらめ、封筒を仙道の手の下に置くと、自分の小さなウィンドブレーカーを仙道にかけた。
「返すの、来週でいいからね。早く起きないと本当に風邪ひいちゃうよ…」
じゃあねと小さく呟いて、拓はまた夕暮れの中を走り出した。



走って、走って。その先に海南のユニフォームを着た牧さんが、いた。柔らかい笑顔で俺に軽く手を上げた。
「よお。お前にしちゃ頑張ったな。ちょっと早いけど、お帰り」
仙道は駆け寄って牧の顔にキスの雨を降らせる。くすぐったそうに笑いながら牧もキスを返す。
「会いたかったよー!! …何でユニフォーム着てるの?」
「ご褒美に、決着をつけてやろうと思ってな。お前もその気だったんだろ?その格好」
牧が指差した仙道の姿は、陵南のユニフォームに得意のツンツンヘアー。仙道もまた高校時代の自分に戻っていた。自分のユニフォームを軽くひっぱると、仙道は牧に向き直った。
「…俺ね、白衣の牧さんも好きだったけど。本当は、ユニフォームの牧さんが一番好きなんだ。今まで黙ってたけど」
「知ってたさ」
肩を少しすくめて笑った牧の姿が涙で少し滲んで見えた。
「さぁ、行こう、仙道。向こうに皆が待ってる」
牧が向いた方向に仙道が目をやると、あの夏の体育館のコートと歓声。そして陵南と海南のメンバーが立っていた。
「ウォームアップの時間はないぞ、いいのか?」
牧がいたずらっぽい目で言った。その言葉に仙道はにっこりと余裕の笑顔で返す。
「走ってきたから大丈夫っす。 さ、いこーか!!」








*end*




別に仙道が誰より長生きしたというのではありません(笑)
死は誰にでも。病気もほとんどの人に起こりうること。これは悲しい話ではなく、自然のお話なんです。

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