Take your time. 〜藤井side〜


 友達の晴子がインフルエンザで学校を休んでから今日で四日。急きょ彼女の代理としてまかされた湘北高校男子バスケット部のマネージャーの任に着いてからは二日目だ。湘北男バスの前マネである先輩の彩子さんがいてくれるから、どうにか大きなミスもせずに動けている……けれど。
「ここ……どこかな」
 この三連休は全日、神奈川の高校篭球部四強合同練習だ。そのため昨日も武里高校に来ているけれど、慣れない校内の複雑さにとうとう藤井は迷子になっていた。
 誰かに尋ねようにも日曜日のせいか人とすれ違うことすらない。湘北控室からどんどん遠ざかっているような気がして焦りが募るばかりだった。

 静かで似たような所をやみくもに歩いているのが怖くなり、藤井は廊下の十字路で立ちすくんだ。その時、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。
 藤井は上ってくる人影に向かって声と勇気を振り絞る。
「あっ、あのっ! すみません、ここはどこでしょうかっ」
 視線の先の男は面を上げると藤井を見上げてきた。日に焼けた浅黒い肌、茶色っぽい髪の30代らしき男は首をかしげながらも口を開いた。
「…ここは…………一階に出る階段?」
「あ、あ、あの。違うんです。えと、私は湘北高校バスケ部のマネージャー代理で。ええとっ」
 男性と話すのが昔からあまり得意ではない上に、全く知らない年上の人物を前にして、緊張と焦りで伝えたい言葉がまとまらない。焦りと恥ずかしさで赤面していく自分がわかる。
 もどかしさに息を呑む藤井の前で男は閃いたというように瞬きをした。
「あぁ、湘北の人か。もしかして湘北メンバーを探してるんですか?」
「そうっ、そうなんです! 湘北控室へ行きたいんですが、迷って……しまって……」
 階段を上りきり隣に立った男の身長の高さに驚き、藤井は数歩後ずさった。湘北を知っていること、高身長と服装や体つき、貫禄がある風貌からバスケットの関係者─── 監督かコーチかOBだと藤井は自分の中で結論付ける。
「場所はなんとなくわかるんで、案内しますよ」
「え。い、いいんですか。どこかへ向かわれる途中なんじゃないですか? 道順を教えて下されば自分で、」
「急ぎの用ではないし、途中までは方向が同じだから。あ、荷物持ちますよ」
 筋肉で覆われた長い褐色の腕が目の前に伸びてきて藤井は身を竦めた。
「いいです、だ、大丈夫です、だっだ、わ、」
 声が裏返ってしまった自分にますます焦ってしまい、また後ずさろうとしてよろけた彼女の肩と荷物を男は素早く支えた。
「すみません、驚かせて。大丈夫?」
「っ、はい! ありがとうございます。あ……すみません……ありがとうございます」
 肩から離れた大きな手が荷物を自然な動きで持ち去ったため、急に両腕が軽くなる。
「行きましょうか」
 口角をふわりと上げた男の表情は柔らかい。
「……はい。お願いします」
 肩の力が抜けた藤井は会釈を返しつつ隣に並んで歩き出した。


 静かな廊下に二人分の足音だけ。そんな沈黙に耐え兼ね、藤井は再び勇気を出して話しかけた。
「お、重たくないですか? やっぱりあの、自分で持てますから」
「小さいわりにずっしりしてますよね、これ。何だろう……飲み物とかかな?」
「スポドリとプロテインの粉末なんです。こっちの緑の箱は……何だったかな……」
「なるほど。あ」
 男が頷いた隙に藤井は一番上に乗っている青いファイルを奪った。
「せめてこれくらい持たせて下さい」
「俺はこれくらい全然重くはないんだけど……。どうも」
 微苦笑交じりで会釈をされて藤井は首を激しく左右に振る。その様子にまた男は先ほど見せた柔らかな笑みを零した。
 一見少々怖そうないかつい顔と筋骨たくましい大柄な体つきだけれど。話し方や笑い顔はとても優しい。
─── 男の人なのに怖くない……。良い人に出会えて良かった。
 藤井は顔を隠すように俯いて微笑みを浮かべた。


*  *  *  *  *


 かなり逆方向へ歩いていたようで、先ほども通った廊下を何ヵ所も通過する。
「案内していただけて助かります……。口頭で教えて頂いても、ここまできっと来れてないです」
「説明下手なんで、俺としても助かります」
「助かるって、そんな」
 謙虚な返答に藤井は男を見上げた。
「いや、本当に。さっきはすみません、怖がらせてしまった」
「私こそ失礼な態度に出てしまってごめんなさい……。背が大きい人に慣れていなくて」
「全然。普通怖いですよ、こんな大男に近付かれて手なんて伸ばされたら。俺は部活連中の間では特にデカイ方でもないんで、つい一般的な感覚を忘れがちで」
「バスケ部ですか?」
「そう。海南大附属です」
「海南大附属の選手たちは大きい方揃いなんですね」
「そうでもないですよ。バスケ部にしたら普通。高さでいったら今日の四校では陵南が一番かな」
「私から見れば男子バスケ部の皆さんは大き過ぎて…似てる感じで…。遠目じゃないと区別がつかないです。テンパっちゃうせいかもしれませんが」
「区別……。俺も君たち女子マネが集っていると近くても一瞬全員同じに見え……あ、失礼だなこんな言い方」
「全然。私もですから」
 そうか、と微笑まれた藤井もつられて微笑んだ。
 男の人と笑みを交わし合うなど初めてなのに、何故か温かい安心感が胸いっぱいに広がった。

 話す表情をもっとしっかり見たい。もっとよく顔を、声を。この人のことをもう少し知ってみたい……。
 藤井は我知らずつま先立ちになりかけている自分にはたと気付いた。
─── やだ。私ったら何を図々しいことを考えてんの?
 恥ずかしさに慌てて落とした視線の先。男の歩幅が長い足に似合わずとても狭いこと、つまり背の低い女のコンパスに歩調を合わせてくれているのだと今更知った。

 親切心や気遣い。そしてさりげない優しさに藤井は名前だけでも知りたくなってしまった。
「あの……私は湘北マネ代理要因の、藤井といいます」
「あ、あぁ。俺は牧。海南大附属のさ、あ?」
「『さ、あ』?」
 藤井が小さく口の中で牧の言葉尻を復唱したが、牧は聞こえなかったのか彼女のはるか頭上へ視線を真っすぐに向けている。
 視線を追って振り向くと、黄色地に黒い数字の4が目に飛び込んできた。慌てて一歩後ろへ下がって初めて、それは髪を逆立てた高身長の男が着ている簡易ユニフォームだと認識する。
「ちわす。牧さんこんなトコでなにしてんすか?」
「道案内だ。湘北の控室まで。あ、こちらは湘北のマネージャー代理のフジイさん。こいつは陵南の仙道」
「は、初めまして。今、その、道案内して頂いてます」
 藤井は緊張しながら仙道へ頭を下げる。
 湘北と陵南の練習試合を何度か見ていたため、仙道のことは知っていた。しかし話などしたことはない。藤井にとっては見知らぬ人と大差はなかった。
「ども。湘北の控室は確か、西館体育館の近くの教室すよね?」
「多分……、はい」
 スッキリとした仙道の額がぴくりと動いた気がした。表情にもどこか不機嫌さを感じ取った藤井は、自分の自信がない返答に苛つかれたのかもと身を固くする。
 仙道は丸めていた背中を伸ばすと牧へと首をかしげて見せた。
「西館体育館ならここよりあっちの通路通った方が早いと思うんすけど」
「『あっちの通路』ってどこだよ」
「音楽室前通りました?」
「あぁ」
「あの廊下の左手に中庭に通じる渡り廊下があったでしょ。それを通って、そんで右に曲がって」
「あったか? そんなの」
「ありますよ〜。それにさぁこっちから行くと体育館の裏手側に出ちまうから、表玄関側にある控室には」
 藤井の頭上で二人の会話が飛び交う。
 二人の表情があまり伺えないせいか、どことなく良い雰囲気ではない気がして、藤井はファイルに縋るように両腕に力をこめる。やけに磨かれている廊下に視線を落とし、早く二人の会話が終わって欲しいとばかり祈った。


 頭上での短い会話のやりとりが途絶えた。
 牧が小さな溜息とつくと仙道はポケットに入れていた両手を出して、乱れてもいない側頭部の髪を撫でつけるように後ろへ流した。
「説明聞いても良くわからんが、このままいくと遠回りというのだけはわかった」
 一瞬の気まずい沈黙を消し去る穏やかな牧の声音。その声だけで、自分は会話に参加してもいないのにガチガチになっていた藤井の肩からも力が抜ける。
「俺が彼女案内しますよ。海南の一年があんた探してたし?」
「はぁ? それを早く言え。あの、フジイさん?」
「は、はい?」
「こいつの方が道詳しいんで、案内させますから。俺はここで失礼します」
「ありがとうございました! お時間割かせてしまって、えと、色々とすみませんでした!」
 牧は藤井へ小さく頷くと、すぐに仙道へ顔を戻した。
「お前はこれ持て、彼女の荷物だ。丁寧に扱えよ。じゃ、湘北控室まで案内頼んだぞ」
「は〜い。了解す」
「あ、荷物は私がっ! あ、あの、……すみませんっ」
 仙道へ気を取られている間に素早く踵を返し走り出した牧へ、藤井は振り返ってもう一度「ありがとうございました!」と声をはり深くお辞儀をした。


*  *  *  *  *


 仙道の数歩後ろを藤井は黙ってついて行った。
─── なんとなく、この人怖い。やっぱり年が近い男子は特に苦手だ。
 そう感じる自分はいつもの自分らしくて納得がいく。しかし先ほどの牧さんは怖くはなかった。大人の男性だったからだろうか。人を安心させる柔らかな雰囲気があった。
 贅沢を言える立場ではないけれど。多少遠回りになったとしても、彼に最後まで案内してもらいたかった。

 見慣れたロビーに出たので藤井は思い切って声をかけた。
「ここ、知ってます。ここからはわかりますんで。案内して下さってありがとうございました!」
 仙道が足を止めて振り向く。
 長い首を動かしてゆっくりと顔を近付けてくるのは、牧の時もだが、藤井にキリンを思わせる。
「こっから一人でも大丈夫ってこと?」
「はい! 右の廊下を真っすぐ行って、二つ目の角を左に曲がって、」
「そっからは見えるもんね。あーでも最後まで案内するよ。控室までって命令されたし」
「大丈夫です本当に!」
「うん、まあ暇だから。すぐそこだし。行こ?」
 ニコッと軽く首をかしげられて藤井は驚いた。先ほど牧と話していた時とは別人のような爽やかさに。
 驚きに反応が鈍っている藤井へ仙道はもう一度、「行こ」と肩を軽く押して歩みを促した。

 控室の前で荷物を受け取って、もう何度目かになるお礼を口にする彼女へ仙道はひらひらと手を振ってみせた。
「いーんだって。お詫びのつもりもあったから」
「『お詫び』?」
 全く見当がつかずオウム返しをしたが、仙道は「じゃあね」とだけつげて引き返して行ってしまった。

 控室に入ると彩子が藤井へ走り寄り、その両肩へ手を置いた。
「藤井ちゃーん! 遅いから心配したのよ! 連絡入れてもバッグから着音するんだもん、焦った〜!」
「すみません遅くなって。迷子になって逆方向の東館に行ってました」
 藤井の手から荷物を受け取った彩子は眉根を寄せると、さらさらの黒髪をかき混ぜるようにぐりぐりと撫でた。
「重い荷物持って迷ってたなんて可哀想に〜。大変だったでしょ、ごめんねぇ」
「あ、それは全然。海南の牧さんという方と陵南の仙道選手が荷物持ちながら送って下さったので。とても助かりました」
「あらぁ、それは豪華なメンバーね。どっちも神奈川ベスト5に入ってる選手なのよ」
「え。牧さんって選手……なんですか」
「そうよぉ。三年で主将よ、すっごく強いの。海南のボスキャラみたいな感じ? あ、もう主将は引退したんだったかしら」
 彩子が続ける海南の強さについての話は藤井の耳には入っていなかった。藤井は己の頭の中に残る牧の残像を出来る限り詳細に思い浮かべる。
 彫りが深く怖そうな第一印象を覆す、優しく親切な対応。低さの中に気遣いが伝わってくる穏やかな声音。どれも高校生離れした貫禄や余裕を感じさせた。だから監督かコーチだと決めつけていて、海南の試合を見に行けばベンチにいるのを見られるかもしれないと思って……。
 勝手な淡い期待が崩れていく悲しさに唇が動いた。
「引退……」
 引退したということは選手としての彼の試合を観覧しにいくことも出来ないということだ。
 別に見に行ったとして、絶対に自分から話しかけることはないけれど。それでも、もう姿を見る機会もないのだと寂しさが胸の奥を重くする。

「……ちゃん、藤井ちゃん?」
 替えのタオルの準備を黙々としていた藤井は声の聞こえた方へぼんやりと視線を向けた。彩子がこちらをみている。
「……? あ、なんでしょう?」
「明日は湘北と海南の練習試合もあるから、それに牧も数分だろうけど出ると思うわよ。あと、冬の選抜に出るような噂も聞いてるけど」
「明日、ですか」
「うん、そう。祝日は松井ちゃんって聞いてたけど。私は藤井ちゃん続行でもかまわないし、松井ちゃんと藤井ちゃん二人でもいいけど? 手伝いは多い方が嬉しいから」
「明日も来ます。後で松井ちゃんにも電話します」
 キッパリとした、藤井には珍しい力強い返答に彩子はにやにやと目を細める。その様子に藤井は眉をひそめた。
「……彩子さんが思ってるような理由じゃないですから」
「はいはい。そっかぁ、藤井ちゃんはイケメンよりフケメン派なんだ〜」
「なんですかそれ。変なこと言わないで下さいっ」
 藤井は不機嫌さを装い顔を背けると、熱くなった頬を気取られないようにタオルを再び畳みだした。










* end *









イラストの廊下背景は安野譲様からお借りしましたv

タイトル訳は「焦らなくてもいいよ」という感じです。三人の身長差を描きたくて。
調べてもわからなかったので、藤井さんの身長は155cmにしてみました。
改めて男どもの高身長が際立ちますね♪ 着色中にお話が出来たので添えました。
藤井さんの気持ちは淡い初恋に成長しても、きっとそこ止まりな気がします。青春〜v
期間不定期掲載ですが拍手に仙道sideのお話と絵もあるので、そちらも合わせてどーぞv



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