インハイが終わって戻ってきてから海南大学附属高校篭球部では三日間の部活休みがあった。
牧紳一は短い夏休みだけはバスケを忘れ、サーフィン三昧で過ごそうと決めていた。部活仲間からの誘いをことごとく断り、牧は気に入りの浜辺へとひとり足を運んだ。
午前の波を乗り終え、水飲み場と砂場とベンチしかない海岸沿いの小さな公園で真水で顔と頭だけ軽く洗い流すべく向かえば先客が利用していた。順番を待つべく横へ並ぶと、「……あれ? あんたは海南の、牧さん?」と声をかけてきた先客の顔をよくよく見て驚いた。髪を下ろしていて気付かなかったが、それは陵南のエース仙道彰だったからだ。
バケツや釣り道具諸々を洗いながら「ぴっちりオールバックだからすぐ気付けなかったっすよ。水も滴るなんとやらだし?」とふにゃりと仙道は笑った。力の抜けきっている顔につられ、牧もまた「お前の方こそ、髪下ろすと別人じゃねぇか。変装の域だろ」と楽しげに口角を上げた。
そんな偶然の逢瀬は驚くことに三日間続いた。いや、正確にいえば初日以外は翌日立ち寄る予定の時間帯を互いに口に乗せていたから、偶然というのは適切ではない。しかし約束をしたわけではなく、天気が崩れれば行くこともなかったのだから……偶然と言えなくもなかった。
ともかく、お互い部活から離れた一個人として、どこか気の抜けた顔で会っていたせいであろうか。約束もしないのに会えていた不思議なたった三日間の数時間。二人はバスケ以外のとりとめもない話を日が暮れるまで、木陰のベンチに腰掛けてポツポツと続けた。それは暑く湿度の高い空気と相手の声の柔らかさが胸に残るような、やけに居心地のいい時間だった。
それからは連絡先を教えあい、どうということもない電話やメールを交わすようになり……。
今現在は二人は少々奇妙なほど連絡を取り合う親しい間柄となっている。
* * * * *
十月の第二土曜の本日は陵南と海南恒例の二軍メンバーでのみの練習試合が行われた。監督同士が“喧嘩するほど”仲が良く、二軍の意気を高め成長させる目的で、三月と十月の年二回どちらかの体育館で行うのが慣行している。
今日の会場は海南の第二体育館というを牧も当然知っていた。しかし一軍かつ三年で主将の座も退いている牧には関係のない事で、牧は通常の練習と日課の自主練を終えるといつものメンバーで家路をたどった。
途中で電車組みとわかれて徒歩組みとバス組の四名で夕暮れの静かな住宅街を歩いていると、その中の一人の武藤が足をとめた。
「……なあ、あれ。陵南の仙道じゃね?」
「だな。なんであいつこんなとこに。そういや主将になったんだよな?」
「そーそー。あ、だから二軍の試合の引率でも来てたのか」
武藤と高砂の視線の先を追えば、遠目でも飛びぬけた長身と特徴的な髪型の男はすぐに見つけられた。こちら側へ背をむけてはいるが、左右を見るため首を振る時に見える横顔から間違いない。
「それならなんで一人なんだよ。なんかキョロキョロして……迷子か?」
「でっけー迷子だなおい!」
「……すまん、俺、あいつに用があったの思い出した。じゃあな!」
「へ? あ、牧? え、なんで? ええ?」
仙道が二ブロックほど先の角を曲がって見えなくなった途端、試合中のダッシュを思わせる早さで牧はその場からいなくなった。
「……部活と体育以外で本気走りする牧なんて初めて見た」
宮益の驚きを隠さない呟きにとり残された残り二人は呆然とした顔で頷いた。
* * * * *
いくら長身といえど路地を何度か曲がられてしまっては住宅街では容易く見失う。ただでさえ日は沈みかけており、みるみるうちに辺りは薄暗くなっていく。
一度姿を見失ったが数メートル先の信号を挟んだ向こうに仙道を見つけた。牧は一瞬ためらったが声をはりあげた。
「仙道!」
声は届いたようで、歩みを止めた仙道は左右を見渡すとすぐさま牧を見つけ軽く手を上げた。
笑顔で引き返し信号を渡ってくる仙道へ片手をあげ返して牧は立ち止まった。そのまま民家の塀にもたれて息を整える。
小走りでやってきた仙道は軽く息を弾ませている牧を見て首を傾げた。
「あれ? なんかお疲れっすね。どうしたんすか? あ、フリスク食います? 残り少ないんで全部あげますよ」
牧が返事をしないうちに仙道は牧の手にフリスクを押し付けた。飲み物のかわりのつもりと捉え、「サンキュ」と受け取る。
「俺は別に。それより、陵南の他の奴等はどうした? お前、主将だから引率で来たんだろ?」
「あー…まぁ、そーなんすけど。あ、もちろんあいつらはとっくに先帰ってますよ」
「何でお前だけ別行動とってんだよ。どこに行くんだ?」
「どこって……」
急に口ごもった仙道は困ったように眉尻を下げた。
「……どこと言えば、ここ?」
「ここ?」
牧は見知った周囲を改めて見回す。ただの住宅街で店らしい店もなにもない。となれば、この辺の家に知り合いが住んでいて、そこへ寄る用事があるのかもしれないとふと思い至る。
――
なんだ……俺に会いに来たわけではなかったのか。
先ほどまでのやけに浮かれたような高揚感は一気に静まり、胸の奥に冷たい風が吹き込んできて牧を冷静にさせる。
考えてみれば何故、こいつが俺を探していると根拠もなく思い込んで猛ダッシュで追いかけたのだろう。そもそも俺に会いたかったのなら、昨夜の電話で何か言っていそうなものじゃないか。
「すまん。呼び止めちまって悪かったな」
「え」
「誰かの家に寄る用事の途中なんだろ?」
「そんな、牧さんの家に上がらせてもらおうとまでは考えてませんよ俺は」
急に慌てたように仙道は顔前で手を振りながら否定した。
「俺の家? ……俺の家はこの辺じゃないぞ?」
「あれ? ……あ、そ、そうなんすか。あはははははは」
作った笑いを口にのせている仙道の頬は夕暮れでもはっきりと赤く染まっていくのがわかる。
「お前……もしかして、俺に会いに?」
「う。…だって、なかなかこっち来ることないしさ。海南まで来てあんたに会えないとか、ねーでしょ」
すねたように口先を軽く尖らせた表情がやけに幼い。初めて見るその顔が可愛く思えてしまい牧の心臓が小さく跳ねる。
「…メールか電話で言ってくれりゃ、元主将の挨拶を装って休憩時間にでも陵南ベンチに顔出せたのに」
「携帯忘れたんで。それに、あんな人が沢山いるとこで会えたってねぇ…」
「人がいたら不都合なのか?」
「いえ、んな不都合ってほどの何かがあるわけじゃねーす。けど…」
再び口ごもってしまった仙道の続きの言葉を待っていると、仙道はフイと顔を逸らして僅かに俯いた。 「……部活と関係ない牧さんが俺だけの牧さんだと思ってっから……。って、何言ってんだかわかんないよね。俺も何言いたいのかわかんねーや、ゴメン」
苦笑いを零す横顔を何故か急に牧は見ていられなくなり、仙道へ背を向けるとよろけるように塀にもたれかかった。
はにかんだようにも見える苦笑いの横顔もまたやけに可愛くて、先ほどよりも動悸が強まり困惑する。しかも、
――『俺だけの牧さん』ってどういうことだ?
聞き流せない言葉が甘苦しい感覚となり、血流にのって全身を巡り指の先までドクドクと脈打たせる。 仮に仙道が言うそれが事実ならば。部活と関係のない時のこいつは……俺だけの仙道?
フリスクのケースが強く握られ過ぎてミキッと小さく嫌な音をたてた。
慌てて軽く握りなおせば背後から、夕暮れに溶けるような低く気恥ずかしそうな声が紡がれていく。
「……試合中の牧さんは格好良いよ。けど、そーじゃない時のあんたは…なんつーのかな。すげー可愛いから…他の奴等がいない時に会いたかったんだよ」
俺、けっこー欲張りなもんで。
最後の言葉だけは極々小さい。それはもしかしたら聞かせるつもりのない呟きだったのかもしれなかった。
しかし静かな住宅街に加え牧は無意識で耳をそばだてていたため、きっちりと聞き取ってしまう。牧の頬が瞬時に熱を帯びる。
背後でとんでもない台詞を言っている男に牧は正気に戻れと怒鳴りそうになるのを寸でで止めた。
俺よりも美形で何倍も格好良い上に試合では黄色い声援を常に浴びる男に格好良いと言われても。しかしそれでも一応、俺も試合中は野郎の地響きのような声援を向けられるから……まあ、試合中の俺が格好良いのは認めよう。
だが最後のはなんだ。『なんつーのかな』じゃねぇよ。あり得ないだろ。今すぐここで正座させて、可愛いのは俺に会いに来たと告げるお前の方じゃねえか間違えるな今すぐ鏡見やがれ、と叱り付けたい。
牧は眉間にぐっと力を入れ下唇を噛み締めた。そのまま背筋を伸ばして仙道の方へ向き直ろうとしたが、またすぐ元の体制へ戻ってしまう。
―― いかん。夕暮れのせいか、こいつの頬のあたりがやけに可愛く見えちまって、説教どころか直視もできん。
冷静になろうと、牧は仙道に悟られないように数回静かに深呼吸を繰り返した。
そこでふと、高砂の『世の女性が使う、“可愛い”という言葉をそのまま鵜呑みにしては危険だ』との言葉が頭をよぎった。
そうだ。あいつの使う『可愛い』というのは、女子が使ってるやつと同種に違いない。
“好き”や“可愛い”という言葉を女子達は教室で毎日のようにキャッキャと使っている。そして使う先の対象は必ずしも本当に見目良く可愛らしいものばかりではなかった。むしろ、なんでそんな奇妙な物体を? と首を傾げざるを得ないものに向けて言っていることの方が断然多かった。きっと仙道が使うのもそれらと同じ類の軽いものであり、差し詰め俺を奇妙だが好ましい物体と評価した、といったところだろう。
まったくもって危ないところだった。見たこともないやけに可愛い面を突然見せたり、言われたこともない言葉をかけてきたりするからすっかり動揺してしまい、余計なことを。俺だって部活中よりも部活から離れた時のお前の方がもっと好き(俺は女子とは違い辞書にあるような全うの意味合いで)だと、罠にはまって告白をかますところだった。しかもこんな道端で。
―― って、ちょっと待て俺。“告白をかます”とか“罠”だとかは何だ。
俺はこいつが好きだったのか? いつからだ? いや、それよりこいつが罠にかけたとかどうして俺はそんな被害妄想を?
いやいやいや……まてまてまてまってくれよ。確かにここ最近は寝る前に交わすこいつとの短い電話かメールを楽しみにしている。三日何も連絡がないとなんとなく物寂しくて、用事もないのに俺からメールを入れたりもする。それほどマメに連絡を取り合うような間柄の奴など仙道以外いやしない。だがそれがどうしてこういう結論に一足飛びに結びつく? おかしいだろおかしくないかおかしいよな? そうだよ、おかしいんだ。どれほど好ましいといえど、こいつは男なんだぞ? しっかりしろよ俺。こいつの股間には俺と同じものがぶら下がって……いたらどうだというのだ? むしろこれほどの美男子になかったらおかしいだろ。あってしかるべきだろうが。なかったらそれこそ驚くどろこじゃねぇだろが。ついてないこいつになど俺が惚れるわけがない。
―― っておいこらまたかよ。”惚れるわけがない”って、既に惚れてる前提じゃねぇか。どうなってんだ?
けっこうな時間を自分の迷走に費やしていた牧の肩へ仙道はポンと軽く手をのせた。牧の両肩が驚きにわずかに跳ね上がる。
「牧さん、俺の話聞いてました?」
「……ど、どうだろう」
「どうだろうってなんすか。ホント面白いよね牧さんは」
「ちっとも面白くなんかねぇよ…」
牧はロボットのようにぎこちない動きでもどうにか仙道の方へ向き直った。けれどまだ頭の中が混乱していて、まともに仙道と視線は合わせられない。しかし仙道もまた、牧から僅かに視線を外していたため牧のこわばった表情に気付けてはいなかった。
「えーと。だからね、何の用かと言われたら。もう俺、今あんたと二人で会えたから、用事はすんだんです」
「…へ?」
驚きというより肩透かしをくらったような感覚に襲われ、牧は無意識で仙道の瞳を覗き込んだ。
長い睫に縁取られた漆黒の瞳に映る街路灯の淡い光。その淡い煌きが瞬きのたびに揺れる。
牧の心を惹きつけ捉える仙道の瞳が柔らかく細められた。
「流石に腹も減ってきたし。牧さんもでしょ? 突然会いに来て驚かせてすんませんでした。また明日電話しますよ、いつもの時間くらいに」
前みたいに寝てないで下さいね。んじゃお疲れっした。
一方的に言い渡し背を向けられ、牧は咄嗟に仙道の腕を掴んでいた。
「待て。お前の用事はすんだのかは知らんが、俺の用事は終わっていない」
「用事?」
肩越しに向けてくるきょとんとした仙道の横顔を見て、自然と口が動いた。
「せっかくここにお前がいるのに、俺の家まで連れて行けないなんて。それこそ、"ねーだろ”」
「ま…きさん」
「お前、カレーは好きか?」
「カレー? もちろん好きですけど…?」
「決まりだな。行こう」
一人暮らしのこいつには門限などないだろう。親は今夜は不在だが、昨日大量に作っておいてくれたカレーと飯があるからどうにかなる。足りなければ留守番代として今朝もらった金でピザでもとればいい。とりあえずこんな場所では仙道が望んだ“二人きり”の状況とは言い切れない。現に人がたまに、立ち話をしている大男二人へちらりと視線を寄こしては立ち去っていっているではないか。
まずはとにもかくにも、俺に会いたくて、知らない場所で携帯もないのに俺を探していたこいつを俺の家に連れて行こう。わけのわからんことをぐだぐだと考えて立っていたって腹が減るだけなのだから。
「俺の家はあっちから行く方が近い」
牧は踵を返すと足早に歩き出した。
ずんずんと早歩きかのように大またで歩く牧の後ろを追う仙道が慌てたように尋ねてくる。
「お、親御さんは? 突然行って晩飯の量の配分とか困んねーすかね」
「両親は今夜いないから安心しろ。町内会で隣町の温泉に一泊なんだと。弟は合宿遠征。埼玉…だったかな?」
「だ、誰もいないんすか?」
「おう。気楽でいいだろ」
「…………ヤバ、棚ボタ過ぎ…」
薄く開いた仙道の口元から小さな呟きが漏れ聞こえて、先を行く牧が振り向く。
「車の音で聞こえなかった。七夕が過ぎてどうしたって?」
「いえいえ、なんでもないっす。ただの独り言です」
「そうか? あ、そういやお前さ、今夜泊まっていけよ。どうせ明日は午後練だろ」
「……これって罠? ヤバイどうしよ、これ以上ボロだせねぇ……つか、今日告る気はなかったのに…」
口の中での呟きを聞き取れない牧が軽く眉間に皺を寄せる。
「おい。だから、さっきからもう少し大きい声で話せって言ってんだよ。交通量が増えてきて聞こえにくいんだって」
「すんません!」
「そんなに大声出さなくても。極端だなぁ。で? 泊まれんのか?」
「泊まらせてもらいます〜。……すんません、そんじゃ両方ご馳走になります」
「両方ってなんだよ。あ、カレーと白飯か。両方たっぷりあるから遠慮はいらんぞ」
「はいっ」
「ははは。いい返事だな。そんなに腹減ってたのか。…そういや俺も減ったな。よし、俺も食うぞー」
その夜。家人のいない牧の家で、どちらが罠にかかった獲物であったのかは本人達のみぞ知る。
* END *
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