陵南バスケ部と海南バスケ部の休みが重なることは一年に片手ほどもない。
そんな貴重な休みだもの。映画やカラオケなんかで潰すのは絶対にごめんだ。
牧さんはいつも『せっかくの休みなのに、どこにも出かけなくていいのか?』なんて聞いてくるけれど。
俺にしてみれば邪魔の入らない俺のアパートにこもってベタベタくっついていられる方がずっと良かった。
今回も『貴重な夏休みの一日をまた部屋にこもるなんて……お前は意外にインドア派なんだな』なんて言われたけれど。
『牧さんは外に出たい? 家にこもってばっかじゃつまんねえ?』と問えば。
『俺は……そこに行くまで電車使ったりしてるから…平気だ』とわずかに口篭る。
電話だから表情は確認できないけれど、ほんのり頬を染めて照れくささを押し殺しているのがわかってしまう。
付き合ってもう一年は過ぎた。でも会える機会が少な過ぎるから、悲しいくらい俺はあんたに触れる時間に飢えている。 それはきっと、素直に欲望を口にも行動にも出せない彼だって同じはずなんだ。
『じゃ、決まりね。DVDは俺の独断で何枚かみつくろっておくよ。いつもの電車で来れるんだよね?』
『……おう』
数日前に交わした電話での彼の声音を思い出しながら部屋を適当に片付けていると、思いのほか早く玄関のベルが鳴った。
玄関を開ければ切ないほど真っ直ぐに見詰めてくる綺麗な琥珀の瞳に仙道は胸を射られた。
「いらっしゃい、早かったね!」
珍しく切羽詰った様子を隠さない性急な瞳の強さに動悸を早めながら玄関に通す。
「すまん。ダッシュで来ちまった。あ、これな」
差し出された2リットルのペットボトルが二本入った重たいビニール袋を受け取ると、牧さんは急いで靴をぬいだ。
そんなに俺に早く会いたかったんだ……と嬉しくてやに下がる。
いつもの遠慮がちに入ってくる様子も初々しくて好きだけれど、会いたさを隠さない様をみせられるのはたまらないものがある。
「走ってきてくれたなんて嬉しいよ……」 そっと抱きしめれば、午前中とはいえ暑い夏の日差しの下を走ってきた彼からうっすらとシャンプーと汗が混ざった官能的な香りが漂ってくる。
Tシャツからのぞく逞しくも艶かしい首筋へ唇が吸い寄せられていく……その途中で体を離された。
「違う。トイレを早く借りたくて走って来たんだ」
「は。……あ、どうぞ」
「おう、スマン」
牧さんは軽く手刀をきって玄関からすぐの狭いユニットバスの扉へと直行していった。
眼前で慌しく閉められた扉をみながら脱力感に襲われる。
「……なんだ、トイレかよ」
あんなに必死に求めて、急いで会いたかったのは俺じゃなくてトイレか。
トイレに負ける恋人の俺。
……いや、トイレは大事だ。うん。凹むな、俺。
なんともいえない気分で差し入れのペットボトルを冷蔵庫へ入れてから、二人分の麦茶を用意する。
まだ片付けの途中だったことを思い出して床に散らばっている雑多なものを片付けた。
「? ……遅くね?」
聞くつもりはなくとも聞こえてくる安アパートのトイレの水音は、彼が入ってまもなく聞こえていた。
あれからもう10分は経っている。腹でも壊していたのだろうか。それにしても無音なのはおかしい。
まさか体調が悪くてトイレの中でへばっていたら…と思い、ドアをノックしてみた。
「牧さーん。大丈夫〜?」
「大丈夫じゃないようだ……」
「え。具合悪いの?」
「違う、俺の具合じゃなくてファスナーの調子が悪くて……あっ!」
「ど、どしたの? 壊れたとか?」
「やっと少し動いたと思ったら、パンツ噛みやがった…。あーもうっ」
トイレに篭って何してるかと思えば。珍しくイライラしてる様子にもおかしくなる。
「あははは!」
「笑いごとじゃねぇよ……こちとら助けてくれって感じだぜ。せっかく急いで来たのに」
恨みがましい呟きの最後を拾って胸がドキリとひとつ大きく打った。 「…俺、手伝いましょうか」
「……格好悪いから嫌だ」
「んなこと俺は気にしませんよ。トイレにこのまま篭られてる方が俺は淋しいっす」
「笑うだろ」
「笑わないよ」
「……じゃあ……お願いします」
思わず仙道は笑いそうになるのを咄嗟に堪えた。『お願いします』という慎ましさがツボに入ったからだ。妙なトコロが可愛い人で困ってしまう。
仙道は軽くひとつ咳払いをしてドアノブに手をかける。
「…んじゃ、入ります〜」
ユニットバスの浴槽のふちに腰掛けた彼は苦々しい顔でジーンズの前たてをつかんでいる。
「ファスナーを上げようとしたら途中で全く上がらなくなって。一度下げきったら今度はそこから全く上がらんときた」
一進一退を繰り返してやっとそれでもここまで上がったのに、今度はパンツを噛みやがって……
などと牧さんはブツブツ言い訳のような説明をしていたけれど。
俺は浴室の黄色い照明の下で足を広げて半分ファスナーを下げている状態のいやらしさにクラクラしていた。
付き合って一年とはいえ、まだ俺達は二人きりで過ごせたのは数回。まだスキンシップとキスがせいぜいという清らかな関係で。それすらタイミングがなかなかはかれなくて、帰り際にちょっととかだから……。
―― ヤバイ。いきなり股間触っていいなんて、ラッキースケベにもほどがある。
「……仙道?」
ファスナーというよりもちらりとのぞくパンツと股間を凝視して固まっていた俺は名前を呼ばれて意識を引き戻した。
「う、うん。かなりしっかり噛んじまってるみたいだね。どれ……」
しゃがんでみると狭過ぎるユニットバスのせいで俺は彼の股間にやたら密着する体勢となってしまった。
牧さんも距離の近さに驚いたのだろう、腰を引こうとしたけれど。そうすると尻が浴槽内に落ちて危険なのを感じたようですぐにまたもとの位置に戻ってきた。
彼の太ももに触れないように、俺は両肘を必死で浮かせながらファスナーに手をかけた。
「仙道、それじゃ腕が疲れるだろう。俺の脚に乗せてやれよ」
「じゃあ…すんません」
「うん」
腕を太ももの上に乗せるととても安定した。しかし彼の体温や太ももの弾力感のせいで俺の股間は大変不安定になってしまう。……このままでは、大変ヤバイ。
「牧さん、あの。ちょっと」
「あ。手暗がりか? すまん、気付かなかった」
牧さんも慌てているのか、俺の話を半分も聞きもしないでいきなりTシャツをめくりあげた。
「どうだ、見えやすくなったか?」
「み、見えすぎます……」
もしもバランスを崩して少し身を乗り出せば鼻先で触れられるほどの至近距離に、滑らかな隆起を描いている見事な腹筋が。それはもう魅力的過ぎる褐色の肌が惜しげもなくこの距離で晒されているなんて。
こんな状態で冷静にファスナーと向き合えるわけがない。
「あの、もうちょっと広いとこに移りましょう。あんまり近くてかえってやりにくいっす」
「そうか、そうだな。けどどこに座る? 便座に座ってもかえって狭いだろ」
「誰もいないんだし部屋でしましょう」
仙道は牧に自分の股間の隆起を見られないようにさっと立ち上がると即座にユニットバスから飛び出した。
明るい日差しが入る部屋で。
「すまんが、頼む」
ベッドで恋人が足を自ら開き、上着をめくりあげて横たわりおねだりしてくる。
適度な距離から彼の股間に手を伸ばす俺は親切そうに言う。
「すべりを良くするためにオイルつけてもいい?」
「うん。…あ、でも下着は濡れていいが、ジーンズは困る」
「大丈夫、ファスナーにしかつけないから」
「助かる」
「じゃ、塗るね」
指先を機械オイルで少しだけ濡らす。その指でファスナーの上を何度も往復するように滑らせる。
このすぐ下に彼の大事な部分があると思うと、つい指先に不必要な力が入ってしまう。
「……う……っ。そ、そんなに何度も塗り込めなくても」
硬い金属の下が僅かに押し返してきた感触を指先はしっかりと感じ取る。
「ごめん。…もしかして感じちゃった?」
「バッ…バカ! こんなマヌケな状況でそんなわけあるか!」
牧さんにとってはマヌケな状況なのだろうけど。無意識でこんなに大盤振る舞いで誘われてる側としてはたまったもんじゃない。
もう忍耐もそろそろ限界だ。彼の太ももに手を置いて俺は軽く唇を舌で湿らせる。
「…俺はさっきからずっと、あんたの言う“マヌケな状況”を前に一人で盛り上がってますから」
「冗談だろ…?」
「無事ファスナーが直ったら、ご褒美に今日こそ襲わせてもらいます」
「!?」
「さて、本気で直しにかかるから。直るまでに覚悟決めといて下さいね」
恋人と外で過ごすなんてもったいない。家が一番いい。そう改めて思いながら、仙道はファスナーに意識を集中した。
* * * * *
楽しく幸せな時間が過ぎるのはあっという間過ぎる。短くて物足りなく感じてしまう分だけ別れが淋し過ぎて、いつも帰りは護衛と称して牧さんを駅まで送る。
牧さんは毎回『こんないかつい男を護衛とか、バカか』というけれど。苦笑いしながら今回も俺のしたいようにさせてくれている。
でも今夜はいつもとは違う照れくささが互いにあって、会話は弾まず、交わす言葉は微妙に噛み合わない。
それでも確実に二人の距離が近いのが影の位置でも分かった。
駅に入って牧さんが切符を買ってきた。
「じゃあな」
「うん。またね」
背を向けられて急に淋しさに襲われる。
せめてもう一回、苦笑いでもいいから見たくて馬鹿なことを言ってみた。
「今日は斬新なお誘いありがとうございます。おかげですげーいい日になったよ」
肩越しから牧が『何のことだ』と疑問の視線を仙道へよこしてくる。
「ファスナー壊れたってやつ」
「意図して誘うならもっと格好つく方法を考えてる」
「そこは嘘でもいいからそういうことにしといてよ。俺は嬉しかったんだから」
へらりと仙道が笑ってみせると牧は振り向いてじっと仙道の瞳を覗き込んできた。
低い呟きが駅構内のざわめきと重なる。
「……お前は勘ぐるところを間違えている」
「ん? ちょっとよく聞こえなかった。もう一回言って」
「ファスナーは本当だが、その前のは嘘だ」
「ごめん、聞こえたけど意味がよくわかんないんだけど」
牧は壁面の掲示板―― 電車の時刻表を指差した。
「いつもの電車から下りて駅から走ったとして。あの時間に着くか?」
仙道ははじけるように時刻表へ顔を向けた。
牧の家付近の駅から仙道のアパートへ一本でくる電車はとても少ない。その中で一番早い時間の電車を“いつもの電車”と呼んでいた。
しかしその電車ではどう考えてもこの駅からアパートまであの時刻に着くことは不可能だ。汗の感じから走ったことは事実だろうけれど、彼がとても早く自宅を出て乗り継ぎを必要とする別の電車を使ったことは時刻表が物語っている。
いつもの時間よりも随分早く着いてしまった照れくささ。その上、恋人の熱烈な歓待が気恥ずかしさを増幅させて彼はトイレへ逃げ込んだ……?
「じゃあ、またな」
掲示板に気をとられている隙に牧は改札を通ってしまっていた。その背へ届くように声をはる。
「次も今日と同じ時間で待っていていいですか?」
了解を示すように左手を軽く上げた牧は振り向かないまま階段を下りて行った。
駅構内の壁面に張られている沢山の旅行のポスターや遊覧施設の色とりどりのチラシやパンフレット。
―― 俺らは当分、家デートだから必要ないね。
立ち止まりそれらを手にするカップルの横を仙道は鼻歌交じりに颯爽と通り過ぎて行った。
* END *
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